クズ恋 ~クズな私でも、恋をしてもいいですか?~
液晶の中では、さっきから派手な女が歌って踊って、これでもかというくらい光を撒き散らしている。赤だの金だの、いかにも期待してくださいと言わんばかりの演出を見せておいて、そのたびに最後の最後で平然と外すのだから性格が悪い。機械に性格も何もないのは分かっているが、朝から財布の中身を吸い込まれ続けている身としては、そうとでも考えなければやっていられなかった。
ハンドルを握る右手はすっかり汗ばんでいた。冷房は嫌になるほど効いているのに、ノースリーブ姿の背中にはじっとり汗が浮いている。何時間ここに座っているのか、正確なところはもう覚えていない。昼飯も食っていないし、途中で買ったペットボトルのコーヒーもとうに空だ。にもかかわらず席を立てなかったのは、次こそ当たる気がしていたからだ。いや、正しく言えば、今やめたら今日使った金が本当に全部なくなる気がしたからだった。
財布に入っていた最後の一万円札を崩したのは、たしか四十分ほど前だ。そこからいくら使ったかについては考えないことにしている。金額を正確に数えた瞬間、現実になる。まだ打っている間は投資だ。当たって戻ってくれば負けではない。そういう理屈で私は二十九年間の人生をだいたい乗り切ってきた。
そのとき、画面の縁を赤い光が走った。続けて、隣の台にまで聞こえそうな大げさな効果音が鳴る。見慣れたはずの演出なのに、私は背もたれから体を起こし、知らず知らず前のめりになった。
これはある。いや、絶対ある。これで外れたら詐欺だろ。
液晶の中で数字が揃いかける。煽るように音が高くなり、一瞬だけ間が生まれた。私は息を止める代わりに、ハンドルを握る指へ力を込める。頭の中ではすでに大当たり後の計算が始まっていた。ここから連チャンすれば今日の負けを取り返せる。運がよければプラスまで持っていける。そうしたら煙草をカートンで買って、帰りに焼肉でも食って――
次の瞬間、数字は無情にもずれた。軽薄な終了音が鳴る。
「……は?」
数秒、画面を見つめた。見間違いかと思ったが、もちろん見間違いではない。通常画面へ戻った台は、何事もなかったように次の玉を飲み込み始めている。
「はぁ!? また外れ!? どんだけ飲ませりゃ気が済むんだよ、このクソ台!」
腹の底から出た声と同時に、手のひらが筐体の上部へ飛んだ。一発では収まらず、二度、三度と叩く。今日ここまで私から奪った金を考えれば、この程度で壊れるほうが悪いと本気で思っていた。
「お客様、台を叩くのはおやめください」
すぐ横から声がした。
顔を上げると、制服姿の店員が立っていた。若い男だった。多分、二十代前半。名札まできっちりつけて、いかにも自分は仕事をしていますという顔をしている。その落ち着き払った態度が、このときの私にはことさら腹立たしかった。
「叩いてねぇよ!」
「今、何度か叩かれていましたので」
「軽く触っただけだろ!」
「ほかのお客様のご迷惑にもなりますので、お控えください」
言われて周囲を見れば、何人かがこちらをちらちら見ていた。だったら見なきゃいい。私だって好きで騒いでいるわけではない。朝から散々煽られて一度もまともに出ないほうに問題がある。
「つーか、こっちが迷惑かけられてんだけど。朝からいくら使ったと思ってんの?」
「大変申し訳ありませんが、出玉については――」
「なんかやってんじゃねぇの?」
店員の表情がわずかに固まった。
「どういった意味でしょうか」
「分かるだろ。遠隔とかさ。さっきからおかしいじゃん。こんだけ回して一回も来ねぇんだぞ」
「そのようなことは行っておりません」
「じゃあ当てろよ!」
「それは私どもでは操作できませんので」
「できねぇなら、なんで分かんだよ!」
自分で言っておいて、後から考えれば何を言っているのかさっぱり分からない。ただ、その場の私は自分が完全に正しいと思っていた。店員の説明を聞く気など最初からなく、使った金をどこかの誰かのせいにしたかっただけなのだろう。
店員が一人増えた。続いて、少し年上らしい責任者も現れた。私は負けを認めるのが嫌で、途中から台ではなく店そのものに怒り始めた。気づけば周囲の客は完全に見物人になっており、それでも声を落とすどころか、むしろ引っ込みがつかなくなっていった。
その結果、三十分後の私はパチンコ台ではなく、警察官二人を前にして立っていた。
人生というものは、ほんの一時間で景色が変わるらしい。少し前まで私は大当たりを夢見ていた。今は財布の中身を失ったうえに、年下らしき警察官から「もう少し冷静になってください」と諭されている。
身分証を確認され、事情を聞かれ、最後に店側から今後の入店を断られた。要するに出禁だった。台を壊してはいなかったこともあり、最終的には厳重注意で済んだが、帰る頃にはさすがに疲れていた。
「二度と来るか、こんな店」
出口で吐き捨てると、責任者の男がうんざりした顔で頭を下げた。
「今後はご来店にならないようお願いいたします」
分かってるよ。
そういう意味で言ったんだよ。
たぶん。
自動ドアの向こうへ出た途端、夏の熱気がまとわりついてきた。冷房に冷えた肌へ日差しが刺さり、剥き出しの肩がじりじり焼かれる。店内の騒音が遠ざかると同時に、さっきまで勢いで誤魔化していた現実が急に輪郭を取り戻した。
財布を開くと、中には紙幣が一枚もない。小銭入れの底に、百円玉と十円玉がいくつか転がっているだけだ。
「……マジかよ」
給料日はまだ先だ。家賃は払ってあるし、公共料金も今月分は何とかなっている。食事は職場のコンビニで安く済ませられるとしても、煙草代と酒代はどうする。そもそも今日使った額を考えれば、煙草がどうこう言っている場合ではない気もするが、そこを削る発想はなかった。
「宝くじ当たんねぇかな……」
真面目に働いて増やすという選択肢より先にそれが出てくるあたり、我ながら終わっている。
バッグを探って煙草の箱を取り出すと、中には一本だけ残っていた。軽く絶望しつつ、火をつける。すぐ近くに禁煙を示す表示があった気がしたが、見なかったことにした。細く煙を吐き出すと、ようやく苛立ちが少しだけ遠のく。
人間、怒っているときは煙草に限る。医者が聞けば怒るかもしれないが、医者と付き合いはないので問題ない。
歩道を進んでいると、自動販売機が目に入った。冷たい飲み物が並んだ明るいパネルの下、その返却口へ自然と視線が落ちる。
周囲を確認すると、誰も見ていない。しゃがみ込んで指を入れてみると何もなかった。
「ちっ、空かよ」
立ち上がるついでに側面を軽く蹴った。その拍子にポケットのスマホが太腿へ当たり、何となく画面を確認する。
十三時五十二分。私のバイトは十四時からだった。
頭の中で時間と距離を計算する。普通に歩けば十五分。走れば、多分八分。着替えもある。
「……あっ、やっべ!」
吸いかけの煙草を慌てて消した。その瞬間まで、今日バイトがあることをきれいに忘れていた。
私は清美、二十九歳。清らかで美しい女になりますように、と願ってつけられた名前だ。
両親には悪いが、現在の私はパチンコ屋を出禁になった直後、路上喫煙をして、自販機の返却口に指を突っ込み、アルバイトへ遅刻しかけている。
名前というのは、願っただけではどうにもならないものらしい。
***
「清美さん、三分遅刻です」
「三分なら誤差だろ」
「店長に言いますよ」
「それだけは勘弁して」
バックヤードで制服のボタンを留めながら、同じシフトに入っていた大学生へ頼み込んだ。年齢は十も下なのに、この店では向こうのほうがよほどしっかりしている。私が遅刻するたびに時計を確認し、廃棄品の処理を忘れれば教え、レジの釣り銭が足りなければ真っ先に気づく。
こんな私でも、勤務に入ればそれなりに仕事はする。三年続けているからレジも品出しも発注の補助も一通りできるし、客に向かって普段の言葉遣いをそのまま出すほど馬鹿ではない。愛想が特別いいとは思わないが、接客で大きなクレームを受けたこともなかった。
パチンコ店では警察まで呼ばれる女が、制服を着れば「いらっしゃいませ」と頭を下げるのだから、人間とは便利な生き物だ。
夕方になると、仕事帰りの客が増えてきた。弁当、酒、煙草、菓子、明日の朝食。似たような商品を次々に通しているうちに、客の顔などほとんど記憶に残らなくなる。
そんな中で、一人だけ妙に目につく男がいた。
白いシャツに濃い色のスラックス。派手な時計やアクセサリーをつけているわけでもないのに、全体がきちんとして見える。髪にも清潔感があり、爪も短い。顔立ちは、認めたくないほど整っていた。
こういう男は、私とは違う世界で生きている。
朝はきっと決まった時間に起き、シャワーを浴び、朝飯を食べ、時間通りに会社へ行く。給料日前に小銭を探したりしないし、パチンコ屋から追い出された経験もないだろう。勝手な想像だが、顔を見るだけでそう思わせるものがあった。
「お弁当、温めますか?」
「あ、お願いします」
「はい」
レンジへ入れ、ほかの商品を袋へ詰める。会計を終えると、男は少し緊張したような表情で「ありがとうございます」と言った。
「ありがとうございましたー」
私はそれだけ返して、次の客へ意識を移す。
まさかその男が、私の人生で初めての彼氏になる相手だなんて、そのときは考えもしなかった。
***
数日後、夜の勤務を終えて店を出ると、少し離れた街灯の下に人影があった。
こちらに気づいたのか、人影がこちらを向く。明かりに照らされたのは、見覚えのある顔だった。例の、やたら身なりの整った男だ。
一瞬、身構えた。
夜道で男が待っているという状況は、相手がどれだけ爽やかな顔をしていても警戒する。何かクレームでもあるのかと思い、バッグの中のスマホへ手を伸ばしかけた。
「あの、突然すみません」
「……はい」
私より少し年上だろうか。店内で見たときより緊張していて、肩に力が入っている。
「少しだけ、いいですか」
「なんすか」
箸でも入れ忘れたか。ストローなら何度かやっている。
私が過去の小さな接客ミスを頭の中で並べていると、男は意を決したように息を吸った。
「好きです」
「…………」
すぐには意味を理解できなかった。
「前から気になってました。突然こんなこと言ってすみません。もしよかったら……連絡してください」
差し出された小さな紙を、反射的に受け取った。
祐二。
その下に電話番号とメッセージアプリのIDが書かれている。字まできれいだった。
「えっ」
「はい」
「……私?」
「そうです」
念のため後ろを振り返ったが、誰もいない。冗談を言っているようにも見えないし、誰かにやらされている様子もない。もう一度祐二へ顔を戻すと、さっきより緊張した面持ちで私の返事を待っていた。
「……本当に?」
「はい」
祐二は真面目に答えた。
そこで改めて、相手を頭から靴まで見た。顔よし、服よし、清潔感あり。声も落ち着いている。靴まで汚れていない。
何だ、この清楚系イケメン。
男に清楚系という言葉を使っていいのか知らないが、ほかに思いつかなかった。そして、こんな男が本気で私を好きだと言っているらしい。理解した途端、さっきまで気にもしていなかった自分の言葉遣いが急に気になった。
「……なんで?」
聞いてから、もう少し可愛げのある聞き方があったんじゃないかと思った。だが、今さら言い直すのもおかしい。
「前から、素敵な人だと思っていて」
素敵? 私が?
今日までの人生を頭の中でざっと振り返った。
パチンコ。煙草。酒。遅刻。自販機。出禁。素敵という単語との接点が見当たらない。
「なんかの勧誘……じゃないよね?」
「違います」
「変な壺とか、売ったりしない?」
「売りません」
祐二が困ったように笑う。その顔まで格好いい。
まずい。そう思った瞬間、今度は自分の姿が気になり始めた。仕事帰りで化粧は崩れているし、着ているのは何度も洗って色の薄くなったTシャツとジーンズ。バッグの中には煙草と安いライター。財布の所持金については、できれば一生知られたくない。
人生初の告白を受ける格好としては、あまりにも準備不足だった。
「あの、嫌だったら捨ててもらって大丈夫なので」
「捨てない!」
思った以上に大きな声が出た。祐二が驚いたように瞬きをする。
しまった。もうちょっと何かあるだろ、私。
「……連絡する」
そこまで言ってから、これじゃさっきまでと何も変わっていないことに気づいた。
「本当ですか?」
「うん。する……します」
最後だけ慌てて直すと、祐二は一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
私の胸の中で、何かが変な音を立てた。
二十九歳。彼氏いない歴、二十九年。
学生時代に片想いくらいはしたことがあるが、付き合った経験はない。男から好意を告げられたのも、これが初めてだった。
しかも相手はイケメンだ。これは来た。ついに私にも春が来た。今が何月だろうと関係ない。今日から春でいい。春にしよう。
帰りの足取りは、我ながら笑えるくらい軽かった。仕事終わりの疲れを引きずっていたはずなのに、今なら家まで歩いて帰れと言われても平気な気がする。手の中には祐二から渡された小さな紙がある。それが気になって仕方なくて、何度もバッグへしまおうとしては、結局また取り出して眺めた。
***
部屋へ戻るなり、冷蔵庫から缶ビールを出した。
プルタブを開ける音が、妙に景気よく響く。コンビニで買った唐揚げをテーブルへ置き、座る前にもう一口飲んだ。それから、さっき渡された紙を改めて広げる。
祐二。
何度見ても同じ名前が書いてある。
「好きです、だって」
一人で口にしてみると、急に恥ずかしくなった。
にやける。自分でも分かるくらい頬が緩んでいる。
「気持ちわる、私」
そう言いながら、また連絡先へ目を落とした。
すぐ連絡したら必死だと思われるだろうか。かといって何時間も空けたら興味がないと思われるかもしれない。そもそも向こうから告白してきたのだから、こちらが焦らす必要などない気もする。始まってもいないのに、恋愛というものは面倒くさい。
散々迷った末、私は紙に書かれた番号へ『清美です。今日はありがとうございました』とだけ送った。これくらいなら必死にも見えないし、冷たくもない。多分。
「煙草吸お」
いつもの調子を取り戻そうと箱へ手を伸ばした。
軽い。逆さにして振る。何も出ない。
「……切れてんじゃん」
買いに出るのも面倒だし、金も惜しい。灰皿へ視線を落とすと、比較的長く残った吸い殻が一本あった。
「まあ、これでいいか」
火をつけ、一口吸ったところでスマホが鳴った。表示された番号は、さっきメッセージを送った祐二のものだった。
「来た!」
慌てて吸い殻を灰皿へ押しつけ、そのまま通話ボタンを押しかけたところで指が止まった。
待て、このままいつもの声で出ていいのか。さっきまで「連絡します」なんて柄にもないことを言ったばかりなのに、電話に出た途端いつもの調子へ戻ったら、せっかく取り繕ったものが全部台無しになる気がした。
私は一度咳払いをして、自分でも馬鹿らしくなるほど柔らかい声を作った。
「……もしもし?」
『あ、祐二です。さっきは突然すみませんでした』
「ううん、全然」
自分の口から「ううん」なんて言葉が出たことに驚いた。普段なら「別に」だ。
『迷惑じゃなかったですか?』
「そんなことないよ」
『よかった』
電話の向こうから、明らかに安心した声が返ってくる。その反応を聞いた瞬間、告白されたときの恥ずかしさとは違う、妙なくすぐったさが胸に広がった。
『今度、もしよかったら食事に行きませんか』
「行きたい」
今度は考える前に答えていた。
『本当ですか?』
「うん」
そこで会話が一瞬止まり、私は自分がさっきから短い返事ばかり言っていることに気づいた。気の利いたことを言おうにも、経験値がなさすぎて何も出てこない。
普段なら客にも同僚にも平気で口が回るのに、恋愛となった途端に語彙が死ぬらしい。
それでも電話は楽しかった。
切った後、私はしばらく画面を見つめていた。煙草の吸い殻をもう一度拾う気には、なぜかなれなかった。
***
初デートの前日、私は人生で初めて服装について本気で悩んだ。
普段なら、着られて汚れていなければだいたい何でもいい。夏は腕の出る服に適当なパンツ。近所ならサンダル。コンビニへ行くだけなら眉毛すらまともに描かない日もある。
しかし今回は相手が違う。清楚系イケメンである。ならば向こうが好きなのも清楚な女に決まっている。
もちろん、そんなものに根拠はない。それでも祐二のきちんとした服装や穏やかな話し方を思い返すと、私みたいな女より、清楚で品のある女のほうが似合う気がしてならなかった。
では、その清楚というものをどう作ればいいのか。考えてみたところで、これまでの人生で縁がなさすぎて何も浮かばない。こういうときに頼れるものは一つしかなく、私はベッドに寝転がったままスマホを開いた。
『二十九歳 初デート 服』
『男ウケ 清楚』
『初デート メイク』
『喫煙者 初デート 隠す』
『恋愛経験なし 男 引く』
『初デート パチンコ あり』
最後については、検索結果を見て黙って画面を閉じた。どうやら、初回からパチンコへ誘うのは一般的ではないらしい。ほかの記事や動画もひと通り漁り、服装から化粧まで、自分にできそうなものだけ頭に入れておく。
そして翌日、鏡の前には見慣れない女が立っていた。
淡い色のワンピースに、普段ならまず選ばない小さめのバッグ。髪もいつもより丁寧に整え、化粧には昨夜見つけた動画を何度も止めたり戻したりしながら、普段の倍以上の時間をかけた。
「……誰だよ」
思わず呟いた。
悪くはない。むしろ、自分で言うのもなんだが結構いけている。
名前にだけ存在していた「清らかで美しい清美」を、二十九年かけてようやく表面だけ完成させた気分だった。
待ち合わせ場所へ着くと、祐二はすでに来ていた。時計を確認すると、約束の時間まではまだ十五分もある。遅刻常習犯の私にしては珍しく、今日はかなり余裕を持って出てきたつもりだったのに、向こうはそれより早く着いていたらしい。どんだけ早く来てんだよ。
「清美さん」
こちらへ気づいた彼が笑った。
「今日、すごく似合ってます」
「ありがとう」
落ち着いて笑い返したが、頭の中では、よっしゃああああ、と叫んでいた。
食事をする店は、祐二があらかじめ予約してくれていた。高級すぎて身構えるほどではないものの、私が普段一人で入るようなところでもなかった。料理はどれもおいしく、祐二は注文を取る店員にも終始丁寧に接していた。会話の途中でスマホばかり見ることもなく、こちらの話をちゃんと聞いてくれる。
話してみれば会社員で、私より二つ年上。仕事は忙しいらしいが、愚痴ばかり言うわけでもない。休日には本を読んだり、たまに映画へ行ったりするという。
生活がまともすぎる。私も何か人間らしい趣味を言わなければと焦った。
「清美さんは休みの日、何してるんですか?」
来た。
ここで「朝からパチンコ」と正直に答える勇気はなかった。
「買い物したり……かな」
嘘ではない。パチンコの帰りに煙草を買うことも買い物に含まれるはずだ。
「映画とか見ます?」
「見るよ」
これも嘘ではない。テレビでやっている映画も含まれているはずだ。
私は人生でここまで慎重に言葉を選んだことがなかった。
普段なら何も考えず口から出すところを、一度頭の中で検閲し、清楚な女として問題がないか確認してから表へ出す。それだけで想像以上に疲れる。
しかも、時間が経つにつれて別の問題が発生した。
煙草が吸いたい。
家を出る前に一本吸ってから、もう三時間近く経っている。食後は特に欲しくなる。店を出て歩き始めた頃には、街並みより喫煙所の表示ばかり探していた。
「今日は来てくれて、本当にありがとうございます」
隣を歩く祐二が笑う。
「清美さんとゆっくり話せてよかったです」
「私も楽しかった」
私はできる限り柔らかく微笑んだ。
だがその内側では、あー、ヤニ切れた。吸いてぇ。めちゃくちゃ吸いてぇ。としか考えていなかった。
せっかくのイケメンスマイルを前にして、脳内を占領しているのがニコチンなのだから我ながら情けない。それでもここで煙草を出すわけにはいかない。清楚な女は初デートの途中で「ちょっと一本吸ってくるわ」とは言わないはずだ。私は自分にそう言い聞かせていた。
「清美さん」
「ん?」
「さっきから、少し落ち着かないですけど」
「そんなことないよ」
「煙草、我慢してません?」
祐二の言葉を聞いた瞬間、反射的に足が止まった。今まで必死に隠していたものを、あまりにも自然な調子で口にされたせいで、何を言われたのか理解するまで一拍遅れる。煙草。間違いなく、今こいつは煙草と言った。
「…………え?」
驚いたせいで、意識して作っていた柔らかい声が完全に消えた。
「近くに喫煙所ありましたよ。よかったら寄ります?」
「ちょっと待って」
「はい」
「なんで知ってんの?」
「何をですか?」
「私が煙草吸うこと」
祐二は、どうして私がそこまで驚いているのか分からないらしく、わずかに首を傾げた。その顔を見ているうちに、嫌な予感がしてくる。もし偶然勘づいただけなら、もう少し探るような言い方をするはずだ。それなのに祐二の口調には、最初から知っていることを確認するような響きしかなかった。
「知ってますよ」
「いつから?」
「最初からです」
「なんで?」
「前に一度、吸ってるところを見たことがあって」
頭の中が一瞬、真っ白になった。
告白されてから、私は何をしていたのだろう。
男ウケする服を調べて、清楚に見えるメイクまで検索して、初デートで煙草を吸う女がどう見られるのかまで確認した。今日はずっと我慢して、食後も平気な顔をしながら喫煙所の場所ばかり気にしていた。その全部が、最初から必要なかったことになる。
祐二は、私が煙草を吸うと知ったうえで告白してきた。それなら、私は一体誰に向かって清楚な女を演じていたんだ。
「……引かないの?」
「煙草を吸うことですか?」
「うん」
「別に、それだけで嫌いにはならないですよ」
あまりにも普通に返されて、今度こそ言葉が出なかった。私の中では、知られたら一発で印象が悪くなるくらいの重大事項だったのに、祐二にとってはそこまで大したことではないらしい。
気が抜けると同時に、急に煙草が吸いたくなった。いや、さっきからずっと吸いたかった。
我慢する理由がなくなった途端、今まで抑えていた分まで一気に欲しくなった気がする。私は数秒黙ったあと、もう取り繕うことも忘れてバッグを開いた。
「じゃあ吸ってくる」
「どうぞ」
「五分待ってて」
「急がなくて大丈夫ですよ」
近くの喫煙所へ入り、バッグから煙草を取り出して火をつける。最初の煙を肺へ入れた瞬間、ようやく人心地ついた。祐二と話している間は妙に背筋を伸ばし、言葉を選び、普段なら気にも留めない仕草まで意識していたのに、一本吸っただけでさっきまでの緊張が馬鹿らしくなってくる。
「うっま……」
思わず声が漏れた。
ここまで必死に作り上げてきた清楚な女は、たった一言であっさり死んだ。なのに、不思議と落ち込む気にはならなかった。
少なくとも、もう祐二の前で煙草を吸いたいのを必死に隠す必要はないらしい。
一本吸い終えて祐二の元へ戻ると、そのまま二人で駅へ向かった。一つ一つの言葉や仕草を気にしなくなったせいか、帰り道はそれまでよりずっと楽だった。
駅へ着く少し前、祐二がふいに足を緩めた。
「清美さん」
「ん?」
「改めて、俺と付き合ってもらえませんか」
今度は、意味を理解するのに時間はかからなかった。ついさっきまで煙草を隠していた女でも、まだいいらしい。
「……うん」
「本当ですか?」
「うん。いいよ」
返事をした途端、今さら照れくさくなった。もっとちゃんとした返し方があった気もするが、何を言えば正解なのか分からないし、ここから取り繕うのも変だ。
祐二はそんな私を気にした様子もなく、嬉しそうに笑っていた。
***
それから何度か会ううちに、私は少しずつ猫を被るのをやめていった。
最初に隠さなくなったのは煙草だった。最初から知られていたのだから、その後まで無理に我慢する意味もない。とはいえ、だからといっていきなり目の前で好き放題吸うほど開き直れたわけでもなく、しばらくは食事が終わるたびに「ちょっと吸ってきていい?」と妙に遠慮していた。
普段の私なら誰かに許可を取るようなことではないのに、祐二が相手になると、何かするたびに『これで嫌われないか』と考えてしまう。そのたびに、自分でも面倒くさい女になったものだと思った。
祐二は、そんな私の気遣いを特別ありがたがるでもなく、嫌そうにするでもなかった。喫煙所の近くで待っているときはスマホを見たり、店のメニューを眺めたりしている。戻れば「じゃあ、そろそろ行きましょうか」と、何事もなかったように普通に話を続ける。その自然さに、私は次第に祐二の前で構えずにいられるようになった。煙草を吸う女を好きになる男も世の中にはいるらしい、と理解するまでに、なぜか何度も確認が必要だった。
酒については、もっとあっさりバレた。
付き合って二度目の食事で、私は最初こそ可愛らしくカクテルを頼んだものの、甘すぎて二杯目からビールに変えた。三杯目を注文したところで、祐二が「結構飲めるんですね」と驚いたように言った。
「まあ、そこそこ」
私はそう誤魔化したが、普段なら家で缶を二、三本空けることもある。酒癖が悪いわけではないと思っているし、人に絡むほど酔うことも滅多にない。ただ、好きか嫌いかで言えば間違いなく好きだった。
その日、会計を済ませて外へ出たときには、ほどよく酔いが回っていた。そのせいで言葉遣いへの注意まで緩み、祐二が道を間違えた瞬間「そっちじゃねぇって」と反射的に言ってしまった。
言ったあとで止まった。祐二も止まった。
私は頭の中で、今のは聞かなかったことにならないかと願ったが、なるわけがない。
「……今の、素ですか?」
「違う」
「じゃあ何です?」
「酒」
「酒のせいにするんですね」
笑われた。
私は恥ずかしさを誤魔化すために顔を背けたが、祐二は嫌な顔をしていなかった。それどころか、どこか面白そうにしている。その反応を見て、言葉遣いが一度崩れたくらいで関係が終わるわけではないのだと、そこで初めて分かった。
そこからは早かった。
ゲームセンターで景品が取れなければ「ふざけんな、今の絶対取れただろ」と漏らし、電車が目の前で発車すれば「待てよクソ」と言いかける。さすがに人前では途中で飲み込むこともあったが、祐二の前だけは、言い直す回数も目に見えて減っていった。
猫というのは、一度尻尾を出すと隠すのが面倒になる。それでもパチンコだけは、しばらく黙っていた。
煙草や酒とは、事情が違う。たまの娯楽です、と胸を張れる程度ならまだしも、私は給料日前に所持金を心配するところまで使うことがあるし、何より少し前には店で騒いで出禁になったばかりだ。さすがの私でも、それを付き合いたての彼氏へ積極的に知らせたいとは思わなかった。
だから休日について聞かれると「買い物」とか「家でゆっくり」とか、完全な嘘ではない範囲で言葉を濁した。実際、パチンコへ行った帰りにコンビニで買い物はするし、負けた日は家でぐったりする。嘘というより説明を省略しただけだ、と自分には言い聞かせていた。
けれど、そういう小細工をいつまでも続けられるほど、私は器用でもなかった。
ある日の夕方、祐二とファミレスで遅い昼食を取っていたときだった。前日が私の休みだったことを覚えていたらしく、何気ない調子で聞かれた。
「昨日、休みだったんですよね。何してたんですか?」
「パチ――」
考える前に口が動いた。途中で止めたが、もう遅い。
「パチ?」
祐二が首を傾げる。
「……パチンコ」
観念して答えると、彼は一度だけ瞬きをした。私はその短い間に、軽蔑、呆れ、価値観の違い、別れ話まで一気に想像した。
「よく行くんですか?」
「……たまに」
反射的に出た。
たまに、の定義は人それぞれだ。週に何度なら「たまに」なのかは、今は議論しないことにする。
「そうなんですね」
祐二の返事は、それだけだった。
「……引いた?」
「いえ」
「本当に?」
「趣味は人それぞれでしょうし。ただ、生活に困るほど使わなければ」
「使いすぎないよ!」
私は即答した。昨日いくら使ったかについては黙っていた。出禁になった店が一軒あることも、まだ言わなかった。
世の中には段階というものがある。恋人だからといって、初手で前科でも告白するみたいに全部さらけ出す必要はない。出禁は前科ではないけれど。それでも、秘密が一つ減っただけでずいぶん楽になった。
もちろん、私だけが素を知られていったわけではない。
会う回数が増えるほど、祐二についても最初の印象では分からなかった部分が見えてきた。
待ち合わせにはほとんど遅れない。連絡も丁寧で、店の予約や時間の確認も先にしてくれる。私が何気なく「この店のプリンうまそう」と言ったことを覚えていて、次に近くへ行ったとき寄ろうとする。そういうところだけ見れば、最初に想像した通りの「きちんとした人」だった。けれど、そのきちんとさは余裕から来ているわけではないらしかった。
ある平日の夜、仕事終わりに会ったとき、祐二はいつもより疲れて見えた。聞けば朝から会議続きだったらしい。
それなのに私が「疲れてんじゃん」と言うと、すぐに「大丈夫です」と笑う。別の日には、翌朝が早いのに私の帰宅時間を気にして駅まで送ろうとした。私が断っても「近いから」と言い張るので、結局二人で歩いた。
そういうことが何度か続くうちに、私は気づいた。
こいつ、真面目というより、無理してでもちゃんとしようとする人間なんじゃないか。
人に心配される前に「大丈夫」と言い、頼れる場面でも自分で抱え込もうとする。仕事で疲れていても機嫌の悪さを周囲へ出さない代わりに、自分の中へ押し込む。見た目が整っているぶん、最初は何でも器用にこなせる人だと思っていたが、実際にはそう見えるように頑張っているところがあった。
それが分かってから、祐二を見る目が変わり始めた。
始まりは単純だった。顔がいい。清潔感がある。私なんかを好きだと言ってくれる。そんな条件だけで舞い上がっていた。けれど付き合ってみれば、格好いいところだけではなく、面倒なところもある。無理しているのに認めない。頼ればいい場面でも遠慮する。私が「疲れてるなら今日は帰れ」と言っても、「せっかく会えたから」と平気な顔をする。
なのに、そういうところを知っても気持ちは冷めなかった。
むしろ、祐二から連絡がない時間が普段より長いと、仕事が忙しいのかと気になる。いつもより返事が短ければ、何かあったのかと文章を読み返す。自分でも鬱陶しいくらい、祐二のことを考える時間が増えていた。
これが恋なのだと認めるには、少し時間がかかった。何しろ初めてだった。
それまでの私は、恋愛というのはもっと分かりやすいものだと思っていた。会いたくて眠れないとか、胸が苦しいとか、そういうドラマみたいな感情が突然降ってくるものだと勝手に決めていた。
実際はもっと地味だった。
今日もちゃんと飯を食ったかなとか、風邪ひいてないかなとか、次に会ったらあの話をしようとか、どうでもよさそうなことが、いつの間にか日常の中へ入り込んでくる。
その積み重ねの先で、気づけば祐二が「イケメンの彼氏」ではなく、祐二という一人の人間になっていた。
***
付き合い始めて二か月ほど経ったある日、夕食のあとに二人で公園を歩いていた。
昼間の暑さが舗装にまだ残っていて、風が吹いても完全には涼しくならない。仕事帰りの会社員や犬の散歩をしている人が時々通る程度で、遊具のある一角にはもう子どもの姿はなかった。街灯の明かりが等間隔に続き、その下を歩く祐二の横顔は、いつもより穏やかに見えた。
食事だけで帰るつもりだったのに、駅へ向かう途中で祐二が「少し歩きませんか」と言い出した。私は翌日が昼からの勤務だったし、急ぐ理由もなかったので付き合った。
何か特別な話をしていたわけではない。コンビニの新商品がどうとか、祐二の会社の近くにうまいラーメン屋があるとか、その程度だった。
途中で、祐二が一つのベンチを見て足を止めた。
「清美さん、ここ覚えてません?」
「ここ?」
聞かれて、私は改めて辺りを見た。
木があって、自販機があって、塗装の褪せたベンチがある。公園としてはどこにでもありそうで、記憶に引っかかるような特徴はない。
「知らん」
「即答ですね」
「来たことあんの?」
「あります。清美さんと」
「私と?」
私は記憶を探った。祐二と付き合い始めてから来た覚えはない。そもそもこんな場所で二人で座ったことすらないはずだ。
「付き合う前です」
「……ナンパした?」
「してません」
祐二が苦笑する。
「一度、ここで会ってるんですよ」
「……いつ?」
「三か月くらい前です。俺が仕事で失敗して、そこのベンチに座ってたときで」
「三か月前……?」
言われても、まったく覚えがない。三か月前に何をしていたかなんて、昨日の夕飯すら怪しい私が思い出せるはずもなかった。
「私、いた?」
「いました」
話が見えない。
私が眉を寄せていると、祐二は何か懐かしむようにベンチへ目を向け、そのまま腰を下ろした。立ったまま聞く話でもなさそうなので、私も隣へ座る。座面は昼間の熱をほとんど失っていて、服越しにわずかな冷たさが伝わった。
「前に仕事で大きめのミスをしたことがあって。今よりもっと、何でも自分で完璧にやらなきゃって思ってた頃です」
「今も結構そうじゃん」
「当時はもっと酷かったんですよ」
そう言って祐二は笑ったが、その笑い方は普段とはどこか違った。そのときのことを思い返しているのか、祐二の視線は私ではなく、少し先の地面へ落ちている。
「上司にもかなり注意されて、自分が情けなくなって。仕事が終わったあとにまっすぐ家に帰る気にもなれなくて、ここで一人で座ってたんです」
「へえ」
「そこへ清美さんが来ました」
「私が?」
「煙草吸いながら」
「……あ」
そこで、初デートのときに祐二が「前に一度、吸ってるところを見た」と言っていたのを思い出した。
「もしかして、あのとき言ってたのってここ?」
「そうです」
それでも肝心の出来事は何も思い出せない。誰かに声をかけた程度のことなら、その日のうちに忘れていても不思議ではなかった。
「俺は清美さんのこと、知ってたんです。コンビニで何度か見てたから。でも清美さんは俺のこと知らなかったみたいで」
「客の顔なんか全部覚えてらんないし」
「でしょうね」
「で?」
「顔色悪いけど大丈夫か、って声をかけられました」
私は首を傾げた。自分から見ず知らずの相手へ声をかけるなんて、普段なら面倒でしない。余程ひどい顔をしていたのか、あるいはその日の私が相当機嫌よかったのか。
「仕事で失敗したって話したら、清美さん、なんて言ったと思います?」
「知らん」
「『会社潰した?』って」
「……言いそう」
「『人死んだ?』とも」
「それも言いそう」
「どっちも違うって答えたら、『じゃあ明日謝って、できることやりゃいいじゃん。一回失敗したくらいで人生終わったみたいな顔すんなよ』って言うんですよ」
祐二が話しているのは、確かに私が言いそうな言葉だった。慰めるならもっと言い方があるだろうとも思うが、その場で会った相手ならその程度だろう。
ただ、私にはその時の記憶がない。祐二の中には残っているのに、私のほうには何もない。その差がどうにも落ち着かなくて、膝の上に置いたバッグの持ち手を指でいじった。
「そのあと、缶コーヒーを一本くれたんです」
「私が知らねぇ男に?」
「はい」
「なんで?」
「『今日勝ったから』って」
そこだけはすんなり納得できた。
「……パチンコで?」
「そう言ってました」
そこまで聞いて、ようやく記憶を探る気になった。知らない男に声をかけた覚えはまるでないが、パチンコで勝った日のことなら何か引っかかるかもしれない。
「私、いくら勝ったって言ってた?」
「そこまでは覚えてないです」
「じゃあ無理だわ」
「何がですか?」
「思い出せねぇ」
祐二が笑った。
「やっぱり」
「悪いけど、マジで覚えてない」
ここで格好をつけて『何となく思い出した』とでも言ってもよかったのかもしれない。しかし、祐二が大事そうに話しているからこそ、適当に合わせるほうが嫌だった。
自分にとって大したことではなかった行動が、誰かにとって特別だった。それだけのことなのだろう。
「いいんです。それで」
祐二はそう言って、前を向いた。
「俺は覚えてますから」
声は穏やかだった。責めるでもなく、寂しがるでもない。その言い方が妙に胸に残った。
祐二はそこから、当時のことをさらに話してくれた。あの日のあと、礼を言おうと思って、それまで以上にコンビニへ寄るようになったこと。けれど仕事中の私にはなかなか声をかけられず、何度か店へ通ううちに私がそれほど愛想のいい店員ではないことも、その一方で、困っている客にはぶつぶつ言いながら手を貸すことも知ったらしい。
「新人の子がレジで詰まってたとき、清美さんが代わってましたよね」
「それ仕事だから」
「そのあと『次から同じミスすんなよ』って言いながら、やり方もう一回教えてました」
「見すぎじゃね?」
「結構見てました」
「怖いわ」
「すみません」
謝りながら笑っている。
私はそれ以上何も言わず、バッグから煙草を出した。公園の端に喫煙可能な場所があるのを確認して立ち上がろうとすると、祐二も一緒に移動した。
火をつけ、煙を吸い込む。
いつもならそれだけで頭の中が切り替わるのに、その日は祐二の話が残ったままだった。
「それで好きになったんです」
隣から静かに言われた。私は煙を吐いてから横を見る。
「……私を?」
「はい」
「パチンコ帰りに煙草吸ってる女だぞ」
「知ってます」
「知らん男に缶コーヒー渡すような女だぞ」
「それも知ってます」
「清楚でもなんでもないし」
「それも、最近よく分かってきました」
「おい」
思わず睨むと、祐二は笑った。腹は立つ。けれど、それ以上におかしかった。
付き合い始めてから私が嫌われないよう気にしていた部分は、そもそも祐二が惹かれた理由とはあまり関係なかったらしい。
初デートで煙草を三時間我慢したことも、休日を「買い物」と言い換えたことも、口調を直すたび舌を噛みそうになったことも、全部私が勝手に始めた努力だった。
もちろん、祐二に好かれたいと思ったこと自体が無駄だったとは思わない。ただ『本当の私を見せたら終わる』と決めつけていたのは私のほうだった。
今まで男と付き合ったことがなかったせいで、恋人というものは条件を満たした人間だけがなれる役職みたいに思っていたのかもしれない。清楚で、愛想がよくて、煙草なんて吸わなくて、休日には映画やカフェへ行く。そんな女なら祐二の隣にいてもおかしくない、と勝手に考えた。
でも、祐二が好きになったのは、私が清楚な女を演じ始めるよりずっと前の私だった。パチンコ帰りで機嫌がよくて、煙草を吸いながら知らない男へ適当な励ましを投げ、そのあともコンビニでいつも通り働いていた私だ。褒められているのかどうかは判断しかねたが、思っていた以上に気が楽になった。
「……私、何のために猫被ってたんだろ」
「猫被ってたんですか?」
「気づいてなかったの?」
「多少は」
「どっちだよ」
また笑われた。
私は煙草を灰皿へ押しつけながら、もうちょっと素の自分でいても大丈夫なのかもしれないと思った。
全部を好きになれとは言わない。私だって、自分のだらしないところまで肯定しているわけではない。でも、嫌われないためだけに別人になる必要はないのだ。その程度のことを理解するのに、二十九年かかったらしい。
***
それからしばらくして、祐二の仕事が急に立て込んだ。もともと忙しいとは聞いていたが、今までとは様子が違った。
連絡は途切れない。朝には短いメッセージが来るし、夜も帰宅した頃に一言入る。約束を忘れることも、一方的に会う予定を取りやめることもない。それだけ見れば何も変わっていないようだった。
ただ、文章が以前より短くなったのだ。会ったときも、私が話しかければ笑う。けれど、その反応がいつもより一拍遅れる。食事をしていても箸が止まる時間が増え、ぼんやりテーブルを見ることがあった。スマホが鳴るたび画面を確認し、すぐ伏せる。
何かあるのだろうと思ったが、すぐには聞かなかった。私は自分が聞かれたくないことを無理やり聞き出されるのが嫌いだからだ。私だってパチンコで大負けした日に「いくら負けたの」と正確な額を尋ねられたら腹が立つ。話したくなれば話すだろうし、話さないならそれも本人の選択だと思っていた。ただ、気にはなった。
帰宅して煙草を吸いながら、今日の祐二の顔を思い出す。コンビニで仕事をしている途中にも、あいつ今頃まだ会社にいるんじゃねぇだろうな、とふと考える。以前なら、誰かの仕事が終わったかどうかなんて気にしたこともなかった。
面倒だ。本当に面倒だ。それでも頭から追い出せないのだから、仕方がない。
ある夜、仕事を終えて制服から着替え、裏口を出たところで祐二が待っていた。会う予定はなかった。
だから最初は意外に思い、そのあと祐二を見て違和感の正体が分かった。
疲れている。いつも通りシャツの襟は整っているし、ネクタイも曲がっていない。髪も大きく乱れてはいない。それなのに、目元には明らかな疲労が滲んでいて、普段より背中まで重そうに見えた。
「……飯食った?」
挨拶より先に出た。
「まだです」
「昼も食ってないの?」
「今日は、ちょっと食べる時間なくて」
「馬鹿じゃん」
「返す言葉もないです」
いつもなら「ひどいですね」くらい言うのに、その日は素直に認めた。その返事で、仕事のことまで聞く気になった。
「仕事?」
「……ちょっと、いろいろあって」
「何やらかした?」
単刀直入に聞くと、祐二は一瞬迷った。
それでも今日は話す気だったのか、近くのベンチへ移動してから、担当していた仕事で確認漏れが重なって取引先へ迷惑をかけたことを説明した。詳しい業務内容は聞いても私には分からなかったが、何人かが対応に追われ、祐二自身も上司への報告や修正対応で残業が続いているらしい。
致命的な問題ではない。少なくとも、取り返しがつかないほどのことではなかった。けれど祐二は、そう簡単には割り切れないようだった。
「自分がもっとちゃんと確認していれば防げたんです」
祐二は膝の上で手を組んだまま、そこへ視線を落としている。その言い方を聞いているうちに、前に公園で聞かされた話が頭に浮かんだ。
まだ私が祐二の名前すら知らなかった頃、この人は仕事で失敗して、公園のベンチで一人落ち込んでいたらしい。そこへたまたま通りかかった私は、事情もろくに知らないくせに適当なことを言い、缶コーヒーまで押しつけたそうだ。
その場面そのものは相変わらず思い出せない。けれど、祐二から聞いた言葉は覚えていた。
「で、会社潰れた?」
「え?」
「人死んだ?」
祐二がこちらを見る。きょとんとした顔が、やがてわずかに緩んだ。
「……どっちもないです」
「じゃあ、まだ終わってねぇじゃん」
言ってから、私は立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」
「どこ行くんですか?」
「すぐそこ」
店へ戻り、飲料棚へ向かった。缶コーヒーが何種類も並んでいる。甘いやつがいいのか、ブラックがいいのか、そういえば本人に聞いたことはない。ただ、無糖を飲んでいたことがあるのは覚えている。私は迷った末、それに近いものを一本選んでレジへ持っていった。
会計を済ませると、祐二から聞いた公園での話がもう一度頭をよぎった。あのときの私は、パチンコで勝って機嫌がよかったから、たまたま落ち込んでいた名前も知らない男へ缶コーヒーを一本渡したらしい。
でも、今買ったのはパチンコで勝ったついででも、気まぐれでもない。祐二があんな顔をしているのを見て、何かしてやりたいと思って店へ戻った。同じ缶コーヒーでも、あのときとは意味がまるで違う。
それに気づくと落ち着かなくなり、私は余計なことを考える前にベンチへ戻った。そのまま祐二の前に立ち、買ってきた缶を胸元へ押しつける。
「ほら」
「これ……」
「飲め」
受け取った祐二は、缶と私を交互に見た。
「前みたいですね」
「私は覚えてねぇけどな」
隣へ座り直す。離れた車道から車の音が聞こえ、コンビニの明かりが歩道へ四角く落ちている。夜なのに空気はまだ湿っていて、座っているだけで首筋へ薄く汗が滲んだ。
祐二の仕事に口を出せるほど、私は何も知らない。だから、邪魔にならないように知ったかぶりだけはしないことにした。
「仕事のことは私には分かんないから、解決方法とか聞かれても知らんよ」
「はい」
「何を確認すりゃよかったとか、どう直すとかも分かんない」
祐二は黙って聞いていた。
「でもさ。ミスしたなら、直せるとこ直して、謝るとこ謝って、次やらなきゃいいんじゃねぇの」
「……はい」
「今やってんだろ、それ」
「やってます」
「じゃあもう、今できることやってんじゃん」
自分でも、たいしたことは言っていないと思う。もっと上手な励まし方だってあるだろう。けれど私は、祐二に『大丈夫』と言うつもりはなかった。本当に大丈夫なのか私には分からないからだ。この先、仕事の評価がどうなるのかも知らない。ただ、一つの失敗で、この人自身まで駄目になったわけではないことくらいは分かる。
「それで駄目なら、そのとき考えればいいじゃん。今から全部終わったみたいな顔しててもしょうがなくない?」
祐二は缶を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐く。
「……清美さんらしいですね」
「褒めてる?」
「褒めてます」
「ならいいけど」
プルタブを開ける音がして、祐二は一口飲んだ。私はその横顔を見ていた。
祐二があの日のことをずっと覚えていたと聞いたとき、正直、よく分からなかった。ろくに話したこともない女に声をかけられて、コーヒーを一本渡されたくらいで、そんなに心へ残るものなのかと思った。
でも今なら、前より分かる。
弱っているときに、誰かが自分を見つけて声をかけてくれること。それだけで助かる瞬間もあるのかもしれない。
昔の私は、偶然そこにいた相手にそうしただけだった。けれど今は何も解決できなくても、祐二がしんどそうだからここにいたい。あのときとは違って、今は祐二だから放っておけなかった。そう自覚すると、急に照れくさくなった。
「今日は気が済むまで付き合うよ」
「清美さん、明日早いんじゃ」
「早くないから平気。昼からだし」
「でも」
「うるせぇな。たまには頼れ」
祐二は何か言いかけて、しばらく私を見たあとにようやく小さく笑う。
「じゃあ、少しだけお願いします」
「最初からそう言え」
そのあと、近くの店で遅い夕食を取った。
祐二は最初、あまり食欲がないと言っていたが、温かいものを腹へ入れるうちに顔色がいくらか戻った。私は仕事の話をそれ以上聞かず、コンビニで起きたどうでもいい出来事や、最近見た変な客の話をした。
帰り道、祐二の足取りは会ったときよりわずかに軽くなっていた。少なくとも、裏口で見たときのような顔はしていなかった。
その夜は、仕事帰りにパチンコへ寄るつもりだった。少しだけ打って、調子が悪ければすぐ帰ればいい。祐二が待っていると知る前は、店の情報まで調べていた。
けれど祐二を見送ったあと、スマホを開いても店へ向かう気にはならなかった。今日は、勝った負けたで頭をいっぱいにする気になれなかった。
それだけだ。
***
付き合い始めて半年が過ぎた頃、財布の中に三万円あった。給料日直後ではない。家賃や携帯代を払ったあとに、自分で残した金だった。
この事実は、私にとって結構な事件だ。
以前なら、金がある状態そのものが落ち着かなかった。財布に数万円入っていれば、今日は行けると思う。一万円くらい使っても平気だと考える。結果、勝てばさらに使い、負ければ取り返そうとして残りも減らす。金は貯めるものではなく、増やすために突っ込むものだった。
もちろん、増えないことのほうが多い。そんなことは分かっている。分かっていてやるから質が悪い。
その日は仕事が休みで、夜に祐二と会うまでは特に予定もなかった。昼過ぎに起き、冷蔵庫の残り物を食べ、煙草を吸っているうちにいつもの店へ行こうかという考えが浮かんだ。出禁になったところではない。家から何駅か離れた別の店だ。
財布の中には三万円がある。十分勝負できる金額だ。頭の中で、いつもの計算が始まった。
一万だけ、一万で出なかったら帰る。うまくいけば旅行代くらい増えるかもしれない。
そこまで考えたところで『旅行代』という言葉に引っかかった。スマホを取り出し、祐二とのメッセージを開く。来月、一泊旅行へ行くことになっていた。付き合ってから初めて二人で遠出する予定だった。行き先を決めるときも、宿を探すときも、私は思っていた以上に楽しみにしていた。
宿代、交通費、現地で食べたいもの、酒、土産。全部合わせれば三万円なんて簡単に消える。以前の私なら、それでも「勝てば増える」と考えただろう。今だって、一瞬はそう思った。
もちろん、真人間になったつもりはない。パチンコは今も好きだし、ギャンブルの怖さを悟って生まれ変わった覚えもない。ただ、三万円を失った先の景色を以前より具体的に想像できるようになっていた。
旅行で金が足りなくなる。食べたいものを我慢する。祐二へ「今月金ない」と言う。それは嫌だった。何より、楽しみにしている予定を、自分の勝手でつまらなくしたくなかった。
私は財布を見たまま、しばらく考え、そして閉じた。
「……今日はやめとくか」
口に出した自分が一番驚いた。
パチンコへ行きたい気持ちは残っている。それでも今日は、三万円を台に突っ込む気にはなれなかった。
誰かに管理されたわけでも、説教されたわけでもない。自分で財布を閉じた。そのことが、妙に気分よかった。
***
夜になり、私は祐二との待ち合わせのため駅前へ向かった。
到着したのは約束の十分前だった。昔なら『時間ぴったりでいいだろ』と思っていたのに、最近は遅れないよう余裕を持って出ることが増えた。祐二に注意されたからではない。待たせたくないと思うようになっただけだ。
そんな自分に気づくたび、少し居心地が悪い。遅刻癖が直ったと胸を張れるほどではない。祐二を待たせるのだけは嫌だった。
改札の向こうから祐二が出てきた。
こちらへ気づくと、いつものように表情が柔らかくなる。それだけで、待っていた時間も無駄ではなかったと思えるのだから、我ながら単純だ。
「お待たせしました」
「遅い」
「二分前ですよ」
「私は十分前からいた」
「珍しいですね」
「うるせぇ」
そう返してから、もう言い直さなかった。付き合い始めた頃なら、慌てて取り繕っていたかもしれない。でも今は、そんな必要もない。祐二は私の口の悪さなんて、とっくに知っているからだ。
駅前は仕事帰りの人で混み合っていた。行き交う人を避けながら歩いているうちに、祐二と何度か肩が触れた。以前なら、そのたびに意識していたと思う。けれど今では、わざわざ距離を取ることもなくなった。
「来月の旅行、楽しみですね」
「うん」
「何食べたいですか?」
「肉」
「即答ですね」
「あと酒」
「それも即答なんですね」
「いいじゃん」
祐二が笑うと、私もつられて笑った。ふと、付き合い始める前の自分を思い出す。
パチンコ屋を出禁になって、店を出た瞬間から文句を言い、禁煙の表示を無視して煙草を吸い、自販機の返却口へ指を突っ込み、バイトに三分遅刻した日。
あの日の私が今の姿を見たら、何と言うだろう。
男のためにパチンコを我慢するとかあり得ねぇ。恋愛で生活変えるとかダサ。
多分、そのくらいは言うと思う。でも、それでは少し違う。
私は祐二に合わせるためにパチンコを我慢したわけではない。そもそも、やめてもいない。三万円を残したのだって、祐二に褒めてもらいたかったからではなかった。
私が旅行へ行きたかった。祐二と行きたかった。だから使わなかった。
それは、昔の私にはなかった感覚だ。目の前の楽しさが一番だった。今だってそこまで変わらない。ただ、明日の楽しみや来月の予定も、同じ財布の中へ入れられるようになっただけだ。
「何笑ってるんですか?」
横から聞かれた。
「別に」
「怪しいですね」
「うっさい」
私はそう答え、歩幅を合わせて祐二のほうへ寄った。腕が触れるが、祐二は何も言わずにそのまま隣を歩いた。
清らかでもない。美しい生き方をしてきたとも思わない。名前をつけた両親が今の私を見たら、頭を抱えるようなところだってまだいくらでもあるだろう。
煙草を吸って、酒を飲んで、口も悪いままかもしれない。パチンコだって、もう二度と行かないとは言えない。誰かを好きになったからといって、そういう自分を丸ごと捨てるつもりはない。それでも、祐二との時間まで台無しにはしたくなかった。
変わりたいと思ったところだけ、自分で選べばいい。昔の私なら、こんな考えを気持ち悪いと思ったはずだ。今でもむず痒さは残る。
けれど、悪くはない。
隣を見ると、祐二はいつも通り前を向いて歩いている。私はその横顔を眺め、また笑った。
クズな私でも、恋くらいしていいのかもしれない。
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