第116話:春の嵐と、桜の下の特等席
終業式から数日が経ち、街はすっかり春の色に染まっていた。
3月も終わりに近づくと、冬の冷たい風はどこかへ消え去り、歩道に並ぶ桜の木々が一斉に淡いピンク色の花を咲かせ始める。
蓮は、川沿いにある大きな公園の入り口で、ソワソワと足踏みをしていた。手元にあるスマホの時計を何度も確認する。約束の時間の10分前だ。
終業式の日の図書室で、真白から「春休み、一緒にお花見しよっか」と誘われたとき、蓮は緊張のあまり「べ、別に行ってもいいけど!」と、またしても素直じゃない返事をしてしまっていた。
(お花見なんて、実質デートみたいなものじゃないか……? いや、落ち着け僕。真白のことだから、どうせ桜の木の下でも僕をからかう作戦を考えているに決まっている。今日こそは絶対に油断しないぞ!)
カバンの中には、昨日から母さんに頼んで作ってもらった二人分のお弁当が入っている。「真白さんとお花見に行く」と言ったときの母さんのニヤニヤした顔を思い出し、蓮はそれだけで顔が熱くなった。
「あ、蓮くん! お待たせ。私の方が遅くなっちゃったね」
聞き馴染みのある声に振り返ると、そこにはいつもの制服姿ではなく、白い春物のコートに身を包んだ真白が立っていた。
冬の間、ずっと彼女のトレードマークだったチャコールグレーのマフラーは、今日はカバンの中にしまわれている。代わりに、首元からは綺麗な鎖骨が少しだけ覗いていて、蓮は思わず視線をあちこちに泳がせてしまった。
「お、おぅ、真白。僕も今着いたところだから、全然気にしてないよ。……それより、服、いつもと違うから一瞬誰かわからなかったぞ」
「ふふ、そう? 蓮くんに可愛いって思ってもらいたくて、ちょっとお洒落してきたんだよ」
真白はトコトコと蓮の隣に並ぶと、顔を覗き込むようにして悪戯っぽく微笑んだ。
いきなりの先制攻撃に、蓮の心臓は早くもドクンと大きな音を立てる。
「な、何言ってるんだよ! ほら、早く場所を探さないと、良い席がなくなっちゃうだろ!」
蓮は真っ赤になった顔を隠すように、早足で公園の奥へと歩き出した。真白はその後ろを、「待ってよー」と楽しそうに笑いながらついてくる。
◇
公園内は、満開の桜を見にきた多くの家族連れやカップルで賑わっていた。
二人は川のせせらぎが聞こえる、少し小高くなった丘の上の大きな桜の木の下に、小さなレジャーシートを広げた。頭上を見上げれば、見事な桜の天井が広がっており、時折吹く優しい風にのって、ひらひらとピンクの花びらが舞い落ちてくる。
「わあ、すごい綺麗……! 蓮くん、ここ、特等席だね」
真白はシートの上にちょこんと膝を抱えて座り、うっとりとした表情で桜を見上げている。その横顔があまりにも綺麗で、蓮はまたしても言葉を失いそうになった。
「あ、そうだ。蓮くん、お弁当持ってきてくれたんでしょ? 私、すっごく楽しみにしてたんだ」
「あ、ああ、これ。母さんに手伝ってもらって作ったんだ。口に合うかわからないけど……」
蓮が照れくさそうにカバンからお弁当箱を取り出し、蓋を開ける。中には、綺麗に巻かれた卵焼きや唐揚げ、そして桜の形に型抜かれた人参など、彩り豊かなおかずが並んでいた。
「すごーい! 美味しそう! じゃあ、いただきまーす」
真白は嬉しそうに手を合わせると、お箸で卵焼きを一つ摘み、パクリと口に含んだ。
「んーっ! 甘くて美味しい! 蓮くん、これ本当に自分で作ったの?」
「卵焼きは、僕が卵を割って、味付けして、ちゃんとフライパンで巻いたんだぞ!」
蓮が少し胸を張ると、真白はふふっと笑って、今度は唐揚げをお箸で持ち上げた。
そして、あろうことか、その唐揚げを蓮の口元へとスッと差し出してきたのだ。
「はい、蓮くん。作ったご褒美に、あーん」
(あ、あーん……!?)
夕暮れの教室やクレープ屋での勝負など、これまでの比ではないほどの衝撃が蓮を襲った。
周囲には他にもお花見客がいる。そんな中で、真白から「あーん」をされるなんて、恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。
「な、何言ってるんだよ真白! 自分でお箸持ってるから、自分で食べるよ!」
「えー、ダメだよ。これはお花見の特別ルール。はい、あーん。……それとも、恥ずかしくて食べられないのかな?」
真白は確信犯だ。蓮が照れて拒否することを楽しんでいる。
(くそ、ここで引いたらまた真白の勝ちだ。今日こそは……今日こそは、真白の裏をかいてやる!)
蓮は意を決した。恥ずかしさを限界まで押し殺し、真白の目を真っ直ぐに見つめ返しながら、彼女の差し出した唐揚げに向かって、大きく口を開けた。
「……じゃあ、食べるよ」
パクリ、と真白のお箸から直接唐揚げを口に入れる。
蓮の予想では、まさか本当に蓮が食べるとは思わなかった真白が、逆に慌てて照れるはずだった。
しかし、真白は一瞬だけ驚いたように目を見開いたものの、すぐにニヤリと愛らしい笑みを浮かべた。
「ふふ、蓮くん、男の子らしいところあるんだね。じゃあ、私の唇についた桜の花びらも、取ってくれる?」
真白はトコトコとシートの上で蓮の目の前まで綺麗に近づくと、目を閉じて、ほんの少しだけ唇を突き出してきた。
真白の唇の上には、確かに小さなピンクの桜の花びらが1枚、ちょこんと乗っている。
至近距離にある真白の顔、柔らかな唇、そして春の風に乗って漂う、あの愛おしい甘いシャンプーの香り。
「っっ~~~~~~!?」
限界、いや、完全なるオーバーヒートだった。
蓮の顔は、満開の桜よりも、トマトよりも真っ赤に染まり、勢いよく後ろにひっくり返ってしまった。
「あははは! 蓮くん、またひっくり返っちゃった! はい、私の勝ち!」
真白は目を細めて、お腹を抱えながら本当に楽しそうに笑い出した。自分で自分の唇から花びらを指先で取り、いたずらっぽく蓮に見せる。
「花びら、自分で取っちゃった。蓮くん、期待させちゃってごめんね?」
「う、うぅ……。やっぱり、勝てない……」
シートの上に大の字に寝転がったまま、蓮はカバンで顔を覆った。完璧な作戦だと思ったのに、真白の「からかい」の引き出しは、桜の花びらの数ほど無限にあるように思えた。
「でもね、蓮くん」
真白の声が、上から降ってきた。
蓮がカバンを少しずらすと、寝転がる蓮の顔を、真白が上から覗き込んでいた。彼女の背景には、青空と満開の桜が広がっていて、まるで映画のワンシーンのようだった。
「唐揚げ、本当に美味しかったよ。作ってきてくれて、ありがとう」
真白はそう言って、からかう用の笑顔ではなく、本当に優しくて、少しだけ照れたような、特別な笑顔を浮かべた。その表情を見た瞬間、蓮は「負けて悔しいはずなのに、やっぱり今日ここに来て良かった」と、心の底から思ってしまった。
春の柔らかな嵐が吹き抜け、二人の周りに大量の桜吹雪が舞い上がる。
まだクラス替えの結果はわからないけれど、この満開の桜の下で過ごした時間は、二人にとって新しい季節へと進むための、かけがえのない大切な宝物になるのだった。




