猫坂小町殺人事件
どんな街にも、子供が足を踏み入れてはいけない妖しい界隈があるものです。
そしてその妖しさが、人の心を惹きつけるのです。
これからしばしの間、あなたの心はこの不思議な空間へと入っていくのです。
その女の人はいつも、坂道の上の地蔵の祠の前に立っていた。
長い髪をして、肌が異様に白かった。
その界隈は、かつては花街のあったあたりで、非合法の売春宿もひしめいていたが、売春防止法が施行されてからは、次第にラブホテル街へと変貌して行った地区である。
子供たちたちは親に、その界隈への立ち入りをきつく禁じられていた。
「親不孝横丁」と呼ぶ人もいた。
後で知ったことだが、裏通りではヤクザが徘徊し、麻薬の取引や売春の斡旋なども行われていたらしい。
だけど僕は、時々その迷路のように入り組んだ界隈を横切ることがあった。
塾への近道だったからだ。
坂道の多い街だった。
道は細く、曲がりくねっていたので、初めて訪れた人は、たいてい道に迷った。
僕と僕の友人たちは、親の眼を盗んで、ここで鬼ごっこやかくれんぼをして遊んだこともあるので、どの路地がどの道に通じているのかを熟知していた。
そして、小学校の高学年ともなれば、その街がどういう性質の街なのかを察していた。
その日も、僕は塾の行きがけに地蔵の前を横切ろうとした。
夏の夕暮れ時で、雨が降っていた。
すると、あの女の人がずぶ濡れになって立っていた。
白いワンピースが透けて、下着や身体の線が露わになっている姿は、いたたまれないほど痛々しかった。
僕は少し引き返して、コンビニに入ると、入口近くにあった透明のビニール傘を買った。
これで欲しかったマンガ本が買えなくなるけど、仕方ないやと思った。
ずっと前にマンガで読んだ笠地蔵の話を思い出して、そうしようと思ったのだ。
地蔵のところへ引き返すと、女の人はさっきと同じように立っていた。
僕は走り寄ると、ビニール傘を開いて、「はい」と差し出した。
女の人はびっくりした顔をして僕を見た。
化粧が流れ落ちて、映画で観た雪女みたいに凄い顔をしていた。
怖いけれど、眼をそらすことが出来ない、凄味のある美しさだった。
僕はもう一度「はい」と言うと、強引に傘の柄を握らせて、走ってその場を立ち去った。
なんだかわけがわからなかったけれど、ドキドキが止まらなかった。
その女の人は、俗に「立ちんぼ」と呼ばれる娼婦であることを、小学五年生だった僕は、うすうすとは知っていた。
その界隈の旧町名を冠して「猫坂小町」と呼ぶ人もいたようだ。
昔は路地がさらに細かく入り組んでいて、猫が通るほどの狭さだったという。
彼女が亡くなったのは、その年の秋のことだった。
雨の夜、路地裏の急な石階段で、誰かに突き落とされて、殺されたのだった。
彼女が有名企業のOLだったことから、謀殺説をはじめとして、様々な憶測が乱れ飛び、客として接したことがある外国人の男が容疑者として逮捕されたが、結局、決定的な証拠は挙がらず、真犯人は見つからなかった。
そして二〇年の歳月が流れた。
今年も僕は彼女の命日に事件現場に足を運んだ。
今日もあの日のように雨が降っている。
コンビニで買ったビニール傘を差して石段の上に立つと、ちょうど彼女が倒れていたあたりに、いくつかの花束が捧げられていた。
事件直後には山のようになっていた献花の数も、年々減って、今ではほんの二、三だ。
それだけ人々の関心も薄れたということだろう。
だけど僕は今も鮮明に憶えている。
あの夜、僕は塾の帰り道にこの界隈を通り、彼女の姿を見つけた。
彼女は客と一緒にホテルから出て来たばかりで、僕があげたビニール傘に二人で入って、寄り添って歩いていた。
僕は特に深い考えもなく、その後をつけて行った。
路地の分かれ道に達した時、二人は左右に別れた。
その時彼女は、差していた傘を、客の男に渡したのだ。
声は聴こえなかったけれど、「これ、差して行きなさいよ」と言っているように思えた。
男は無造作に傘を受け取ると、路地を曲がって見えなくなった。
それを見送って彼女は、反対側の路地へと歩いて行った。
僕は後を追った。
追いついたのは、大きなホテルの裏側で、狭い谷間のようになったところにある長い石段の上だった。
足音に振り返った彼女は、追ってきたのが僕であることを認めると、微笑んだ……。
いや、そう見えただけかも知れない。
僕は反射的に、彼女の胸のあたりを力一杯押していた。
小柄で痩せっぽちな人だったので、小学生の僕でも、突き飛ばすのは簡単だった。
彼女は叫び声を上げることも出来ず、眼を見開き、大きく開いた口で悲鳴を吸い込むようにして、後ろ向きで石段を転げ落ちて行った。
肉の塊が地面に叩きつけられる鈍い音を背中で聴きながら、僕は走ってその場を立ち去った。
どうしてそんなことをしてしまったのか、自分でも訳が解らなかった。
だけど、今なら解る。
僕は彼女のことが好きだったのだ、と。
そして見ず知らずの男に、思い出のビニール傘をあげてしまった彼女を許せなかったのだと……。
背後で気配がした。二人だ。
刑事だな、と僕は思った。
了
※この作品はフィクションであり、実在の事件や人物とは関係ありません。
誰にでも、子供の頃の少し恥ずかしい、甘酸っぱい思い出があるものです。
あなたにとってその思い出が、ただ懐かしいものであることをお祈りします。
それではまたお逢いしましょう。