66話 奇病
あれから……
リュシアンに怯えるシオンを、部屋に来たメリエルがなんとか支えてベッドまで戻した。
フランクも診察をしに来て、シオンに
「貴女は病気なので、すぐに帰る事はできません」
と告げ、感染力の強い病気だからと、ここに残る事を納得させた。
シオンは常に不安そうで、辺りを見渡しては悲しそうに下を向き、何も話そうとはしなかった。
リュシアンが傍にいる事が慣れないのか、緊張しているようにも感じられた。それが分かるのはリュシアンが動く度に、ビクッと肩を驚かせるからだ。
本当はシオンを一人にしてあげた方がいいんだろうが、それがリュシアンには出来なかった。もう離れないと、何があっても守る、助けるとシオンに言ったのだ。こんな状態であっても、自分が言った事は最低限守りたかったのだ。
シオンは、シオンとしての記憶を全て失っているようだった。
しかしノアの記憶は残っていて、今自分はノアであり、カタラーニ男爵家でリアムと共に過ごしていたと思っている。
あの悲惨な日常の中に、今またシオンは囚われてしまっているのだ。
「お食事をお持ちしました。今日から公爵様もご一緒にこちらで召し上がられるんですよね?」
「あぁ、ありがとう。アイブラー嬢」
「さぁ、おく……ノアさんも、こちらのテーブルでどうぞ」
「いえ……私は、その……」
「どうした? ノア?」
「め、滅相もない、事だと思って、います」
「何がだ?」
「貴方様は、お貴族様、なんですよね? なのに、私となんて……」
「ノア……」
メリエルにテーブルへ促されるも、オズオズとしてなかなかテーブルまで行こうとしないシオンの元まで、リュシアンはゆっくりと近づいていき、少し屈んで目線を合わせた。
「私の事は気にしなくてもいいんだよ。いや、私が君と一緒に食事を摂りたいと思ってるんだ。ひとりより、二人で食べる方が寂しくないだろう?」
「でも……」
「ノアさん、公爵様がノアさんと一緒に食事がしたくて仕方がないんですって! 私も側にいますから!」
「うん……ありがとう、メリエルさん……」
メリエルを見て、シオンはようやく少し緊張を解きほぐしたようだった。
ノアと名乗ってから初めてメリエルを見たシオンは、自分に似た容姿である事に驚きながら、どこか親近感を感じたようで、メリエルが側にいる時は安心するようだった。
この部屋にはシオンの目に映るものに、フィグネリアを思い起こさせる物を置かないよう徹底されている。
元より調度品の類などは無いので、今はシオンの姿が少しでも映らないようにされている。
窓ガラスや書棚の扉等には、曇るように処置されていて、シオンが自分の顔を見れないように配慮されているのだ。
髪も後ろにまとめられてあって、自分の髪色が銀髪だと分からないようにメリエルがセットしている。
それでも、シオンが自分の身体に違和感を覚えない訳が無い。
高くなった目線、白い肌、動かしにくい脚に腕、僅かに痛みが残る左肩……
自分の身体じゃ無いようで、凄く居心地が悪く感じてしまう。
自分はどうなってしまったのだろうか。この人達は何故、自分に優しくしてくれるのだろうか。どうして公爵様は自分を見る時は悲しそうな目を向けるのだろうか。
そんな事を考えつつも、それを聞くのも憚れるように感じて、シオンはいつも口を噤んでしまうのだ。
席に着いて、リュシアンと共に食事を始める。
まだ身体に優しい消化のいい物ばかりがテーブルには並んでいるが、それでもシオンにとっては、今まで見た事の無いような数の料理とフルーツが並べられてあるのに、戸惑うしかなかった。
何も手を付けようとしないシオンに、そうかと気付いたリュシアンは優しく声をかける。
「ノア、遠慮しないで食べても良いんだよ。これは全てノアの為に用意された物なんだからね」
「で、でも、こんなにたくさん……」
「今は体が弱っているから、出来るだけいっぱい食べて、しっかり病気を治さないといけないんだ。早く元気にならないといけないだろう?」
「そう、ですけど……」
「ノアさん、温かいうちに召し上がってくださいね。その方が私も嬉しいです」
「メリエルさんがどうして嬉しくなるの?」
「それは当然です。早く一緒にお邸に帰りたいんですもの」
「お邸に……うん、そうだね。早く良くなって帰らなくちゃ。リアムが待っているんだもの」
「それは……」
シオンからリアムと言う名を聞くと、リュシアンの胸はズキリと響く。今はもうあのリアムはいない。それをどう伝えれば良いのか、まだリュシアンは分からないのだ。
メリエルに促され、ようやくシオンは食事を始める。
しかし、右手でスプーンを持とうとしても、上手く持てないようで、何度も手からスプーンを落としてしまっている。
「シオン、どうした?」
「え? あ、いえ、その……何だか上手く力が入らなくて、触ってる感覚も無くて落としちゃうんです」
「副作用か?!」
対面に座っていたリュシアンが、慌ててシオンの元まで来た。しかしそれを見ていたメリエルには、シオンの右手の状態が副作用ではない事を知っている。
「違います、公爵様! 以前からノアさんは右手が麻痺しているんです!」
「なに?!」
そう言えばメリエルは言っていた。御守りを作る時、右利きなのに左手で刺繍をし、指に針を何度も刺していたと。
すぐにリュシアンはシオンの右袖をまくり上げる。そこには肘辺りから手首手前まで、何かに切られたような後が残っていた。
「これは……奇病のせいで、か……?」
「そうだと思います。奥様の身体には、至る所に傷痕があるんです。それは見るに耐えない程に……」
「そう、なんだな……」
シオンは初め、リュシアンが腕をまくった時は萎縮して体を強張らせるしか出来なかったのだが、シオンの腕を優しく撫でるリュシアンの顔が何故か苦しそうで、なぜそんな顔をするんだろうと不思議に思ったのだ。
「シオン、他に動きにくい所はないか? 痛む所や辛い所があれば言ってほしい」
椅子に座るシオンの目線に合わせるようにリュシアンは膝をついている。高貴な方なのにどうしてここまでしてくれるのか、シオンにはそれが分からなかったが、それが嫌ではないと感じていた。
「他には、えっと……左の脚が動きにくいです。あ、左肩は動かすと痛みを感じます。所々、引きつったような感じがして、少し体が動かしにくいです」
「…………」
体の不調を言ってくれたが、それはシオンが自分はノアだと思っているからだ。
今まで何も言わず、誰にも悟られないようにするには想像も出来ない程に大変だったのだろうと思うと、リュシアンは何も言葉が出なくなった。
「……一度ちゃんと調べてみよう。すぐにフランクに診て貰おう」
「そうですね。ですが今は食事が先ですよ。ノアさん、スプーンが持てなければ私がお手伝いしますからね」
「だ、大丈夫です。左手で持てるから」
言われてリュシアンはハッとし、すぐに自分の席へ戻った。
辿々しく左手でスプーンを持ち食事を進めるシオンが、リュシアンの目には痛々しく映って悲しくなってしまうのだった。




