53話 その対象は
へたり込んだ状態で、シオンはまだ恐怖から覚めやまずガタガタと震えている状態だった。
思わずリュシアンが近寄ろうとしたが、それよりも先にジョエルがシオンに向き合い、膝を折る。
「お嬢様、もう大丈夫です。アイツはいなくなりました。安心してください」
「うん……うん、わかっ……」
「ほら、大きく息を吸って、それからゆっくりと吐いてください。もう怖くありませんから。ね?」
「うん……ご、ごめん……ごめんね、ジョエル……」
「謝らなくて良いですから。私は大丈夫ですよ。今日は殴られてません。あんな奴、怖くも何ともありませんし。ね?」
「うん……うん……」
まるで幼い子供が自分に打ち勝つために耐えているような状態のシオンの姿に、リュシアンは何も言えずにその様子を驚きながら見つめていた。
シオンへのジョエルの対応も慣れているようで、二人はこうやって過ごしてきたのだと聞かずとも理解出来てしまったのだ。
ジョエルはシオンの背中を優しく何度も撫でて落ち着かせ、息を整えさせてから腰を支えて立ち上がらせる。
それから二人はゆっくりと本邸へと向かって行った。リュシアンの横を通り過ぎる時、ジョエルはリュシアンの目を見つめてぺこりと頭を下げた。
一部始終を見て何も言えず出来ずにいたメリエルも、後を追うように二人について行った。
三人の姿が見えなくなるまで見送り、深く息を吐いてからリュシアンはユーリを呼んだ。すぐにユーリは姿を見せる。
「ユーリ。報告できるか」
「はい。報告致します。ルストスレーム家では公爵夫人は、いないものと扱われてきたようです。食べ物も満足に与えられず、奴隷であったジョエルと同じように生活してきたものと見られます」
「アイツが奴隷だったと?」
「そうです。幼い頃は元聖女にかなり暴力を振るわれていたようですね。それから投資に失敗したのは父親である伯爵で、男娼を毎夜のように部屋に呼び寄せているのは母親である伯爵夫人でした。それが露見しそうになって、二人は娘のした事だと擦り付けたようです」
「……っ!」
「それから、公爵夫人は幼い頃より奇病を患っているとの情報も」
「奇病だと?」
「はい。突然傷が体にできたり痣ができたりするらしいのですが、その噂が広がるのを恐れた両親は、医師に診せる事をしなかったそうです。だから社交界デビューもさせなかったようですね」
「そうだったのか……」
ユーリから事の真相を聞いたリュシアンは、情けなくて情けなくて、自分の愚かさに苛立ちがつのっていった。
フィグネリアの娘だからと噂を簡単に信じ、シオンに邪険な態度を取ってきた自分を恥じた。
そしてシオンの身体中にある傷は奇病を患っていたからだと分かり、今もまだそれは続いているのだろうかと考えた。
左肩の傷はもしかしたら、その奇病が原因だったのかも知れないと考えを巡らせたが、あの傷跡はアウルベアにつけられたものと同様だったと思い直す。
だからあれは違うのだろうと考えたのだが、いずれにせよシオンは守るべき対象であって、憎むべき対象では無かったと思い知ったのだ。
さっきのジョエルとシオンの姿を思い浮かべると、それが前世のノアとリアムであった自分の姿に重なって見えてくる。
あの時のように、ノアとリアムだった自分達と同じように、ジョエルとシオンも二人で寄り添うように生きてきたのではないだろうか。
そう考えると、ジョエルの見る目も変わってくる。ジョエルはきっと、シオンを支え守ってきたのだろう。それは二人が恋人同士だとか、男女の仲だとか、そんな簡単な関係だと位置づける事ではなかったのだとリュシアンは考えを改める。
ノアとリアムだった自分達も、恋と言うには幼くて、愛と言うには未熟であって、だけどそこには確かで揺るぎない絆があって、それは誰にも害されないものだったのだ。
二人の間に自分が簡単に割り込めないような感覚に陥り、それならば男女の仲だった方がマシだとも思えたのだ。
深くため息を吐き、執務室へと戻ったリュシアンはセヴランからの報告を受ける。
ボリスは支払いが滞った事に対して抗議をしに来ていたのだ。それから公爵夫人に与えられる金を受け取りに来たとも。
そうやってボリスはいつもシオンに渡される筈の金を搾取していたのだと知る。そしてその金はフィグネリアの元へ納められていたのだろう。
リュシアンはシオンのこれまで生きてきた環境を知り、せめてここでは何の苦労もなく、豊かに優雅に過ごさせてやりたいと思った。
ケーキを見る時のシオンの嬉しそうでキラキラとした瞳は、今まで見る事も食べる事も出来なかったからなんだろうと考えると、無性に切なくなり愛しくもなり、それらの感情が一気に胸を占めていく。
シオンに会いたい……
さっきは恐ろしかっただろう。怖かっただろう。何も出来ずに震えるしか出来なかったシオンの姿を思い浮かべると、胸がズキリと痛くなる。
最近はメリエルをノアだと考えて行動する事はなく、何ならそんな事は忘れてしまう程だった。
そればかりか先程の震えていたシオンが、ノアの姿と重なって見えてくるのだ。
泣き虫で弱い癖に、誰かに頼ろうとしない姿勢。優しい笑み。耐え忍ぶ姿。
容姿は全く違えど、それらは前世のノアを彷彿とさせてしまう。
しかし、だからと言って決めつける事はもうしない。メリエルをノアだと思ったからアウルベアから無意識にメリエルを守った。そしてシオンを守れなかった。
今はノアが誰かなんて関係ない。自分の周りにいる人達は全て守るべき存在だったのだ。
そして今現在、伴侶であるシオンを一番に守らなければいけなかったのだ。
そう思い直して、リュシアンはシオンの部屋へと向かうのであった。




