画家
フェイルブックに今日も1枚の絵がアップされる。檸檬伊江郎の描く風景画だ。彼は毎日欠かさず絵を描きあげ、投稿している。精緻な筆遣いは、まるでバルビゾン派の描くそれのよう。大地は土の匂いが伝わってくるほど綿密で、轍はいままさに馬車の通ったあとかと思われた。空に浮かぶ雲は太陽に照らされて輝き、葉は1枚1枚がみずみずしい。
作品はどれも同じ風景であったが、同じ日はけっして訪れないように、毎日異なった表情を見せていた。
1日の作業に、どれくらいの時間を割いているのだろうか。そもそも、そんなことが可能なのか。
それほどまでにすばらしい完成度なのだ。
多根間九一はこの狭い部屋で、ノートパソコンを通して伊江郎の絵を眺めるのが好きだった。フェイルブックのリアクションには必ず「超いいぜ」を押し、ときにはシェアもする。感性が合うというだけでは説明のつかないつながりを感じていた。意識の共有とでもいうのだろうか。
その日もノートパソコンを開き、伊江郎の「新作」を味わおうとした。今日の絵は、どんな感動を与えてくれるのか。
しかし、風景画はあがっていなかった。
「まだ時間が早かったかな」独りごちる。ソファーにもたれかかり、目をつぶって半時ほど待つ。
絵はアップされない。多根間はテーブルの上の挿し花をじっと見つめた。伊江郎に何かあったのだろうか。
夜になり、もう一度フェイルブックをのぞいてみる。伊江郎がこんな書き込みをしているのを見つけた。
「楽しみにしてくださっている皆さま、たいへん申し訳ありません。絵を描こうにも、ぼくにはもうキャンバスを買うお金もないのです。ああ、もっと絵が描きたい」
多根間は矢も盾もたまらず、コメントを送る。
「檸檬伊江郎様、あなたの絵を1枚送っていただけませんか。わたしが買い取らせてもらいます」
すぐに返事が書き込まれた。
「それは助かります。けれど、ぼくの絵などにどれだけの価値があるのか。多根間様、あなたの言い値で結構です。キャンバスを買えるお金があれば、ぼくは救われるのです」
「では、1万円でどうでしょう」
「そんなに?! ありがとうございます、ありがとうございます」
伊江郎の絵は翌々日、多根間のもとへ届いた。
「檸檬伊江郎様、あなたの絵は無事に届きました。これからそちらの口座に振り込みをしますので確認してください」多根間はそうコメントする。
「はい、わかりました。ほんとうにありがとうございます」
その数分後、よほど慌てていたのか、誤字だらけのコメントが多根間あてに書き込まれた。
「多根間様、これはいったいどういうことでしょうか?」
「と申しますと?」
「あなたは1万円で絵を買ってくださると言いました。確かにそう言ったのです。ところがどうでしょう。100万円も振り込まれているではありませんか。きっと間違えたのですね。お返ししますので、どうぞそちらの口座番号を教えてください」
たったいま壁に掛けたばかりの絵を満足そうに見あげ、多根間九一はこう打ち込んだ。
「あれはウソです。ほんとうは200万円で買うつもりでした。それを100万円しかお支払いしなかったのですから、あなたは100万円の損したのです」