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悪の華道を描きましょう

作者: 真冬日

視点変更が複数回ございます。



カミラは店内に並ぶドレスを手に取り、溜息を吐く。

その表情はどうにも浮かない。

ショッピングでなんとはなしに足を踏み入れたこの店は、一般庶民には憧れのハイブランドである。

そんな店の品を気も漫ろに右から左に1ダース購入してしまうカミラを大半の人間は贅沢者だというだろう。


だが……かつてはオーダーで生地から気に入ったものを何着も作らせていたというのに。そんな考えが過るのだ。


例えばそう。昔ならば宝飾店に出向かずとも原石をバイヤーが屋敷に売り込みに来て、いくつも購入したそれを贔屓の職人にカットさせていた。

人気の舞台やオペラだって劇場に足を運ばずとも屋敷のホールに役者を呼びつけ開演させていた。

それが今はどうだろうか。

宝石は店に足を運びショーケースに並んだ庶民の目にも触れる既製品で我慢しなくてはならないし、観劇だって特別席ではあるもののわざわざ人ごみの中を出向かなくてはならないのだ。

生活のどれをとっても一般人には夢のようなものなのだが、カミラ本人にとっては随分と落ちぶれてしまったと感じる。



そんな生活でも今までなんとか耐えてこられたのは偏に愛する男と一緒になれたからだ。

愛するその彼はカミラがパトロンとして応援していた画家だった。

若く美しく魅力的な男。

甘い言葉、態度、視線を惜しまない彼は、カミラをいつも世界一の女性にしてくれる。

当時の夫にないものを全て持っていたその男を愛するのに時間はいらなかった。

禁断の愛は必然的に盛り上がり、そうして二人は愛のない醜い夫から逃れるために隣国へと渡ったのだ。


よくある物語のように駆け落ちした先で相手からの愛情が冷めてしまうとか、あまりの貧しさに食うのにも困るとかいう悲惨な話にはならなかった。

なんと連れ添って逃げた男は逃亡先の隣国の裕福な男爵家の三男で、家族の反対を押し切り画家を志す若者だったのだ。

芸術の盛んな隣の大国に身分を隠し修行に出た当初はそれなりの苦労もしたようだがその実力は本物で、気付くと大国の宰相家の奥様の目に触れるまでになっていた。


その奥様こそカミラであり、随分と年上だが手入れされた美貌と自分の才能を認めてくれたマダムに男もまた惹かれた。

駆け落ちの事実を知らない男の家族は隣国から戻った彼と、たんまり持参金を持った年上の隣国の嫁を歓迎する。

隣国で培った画家としての名と名誉を捨てて一から出直しになったものの、カミラの持参金と男爵家の後ろ盾を得た男は隣国にいたときよりもスムーズに本名で評判を手に入れることが出来た。

そう、カミラが駆け落ちした先での生活は決して悪くはない。

愛する男との暮らしは覚悟していたものよりずっと質のいい生活だ。

だが日常として今の生活が身に沁みこむほどに、嘗ての豪華絢爛たる日々の記憶が頭に掠めるようになる。

ドレスも宝石も観劇も。少しクオリティが下がるくらい、彼との愛の前ではなんでもないと思っていたのに。

小さな不満は本人も気づかぬうちに深々と積もってきていた。



そんなある日、愛する彼がなんとも言えない顔で帰宅する。


「どうしたの、そんな浮かない顔をして。今日は城から依頼が来たって張り切っていたじゃないの」

「ああ、王太子からの直々のご指名だった。国で今一番話題の画家である俺に任せたい仕事があると言ってね」

「すごいじゃない。どうして喜ばないの?」

「嬉しいさ。これほど名誉なことはない。だが駄目なんだ。あの依頼は受けられない」


王族御用達の画家となれば名声は約束される。

嘗てまでとはいかないが愛する男とより良い生活が出来ればこれほどいいことはないではないか。

それなのに依頼を受けないなど、こんなバカな話があろうか。


「王太子様からご依頼いただいた絵は…隣国の宰相夫人、つまり君の元夫の…新しい妻の絵なんだ」

「え……」

「王太子様はその宰相夫人の絵を本人に送りたいようでね。彼の国へ出向き直接描いてほしいと仰せなんだ。なんでも留学先で世話になった礼だとかで」


予想だにしなかった内容にしばし言葉が出ない。

今まで意識的に気にしないようにしていたが、自分の後釜に座った女の噂は隣国にいるカミラの耳にも入っていた。

噂の内容は二つ。

一つは女神のように麗しく、無理矢理元夫に嫁がされた悲劇的な美女。

もう一つの噂は元夫をその美貌と手練手管で骨抜きにし、金を湯水のように使う毒華のような傾国の美女。

実の息子であるマルクとの噂は最早世界的に有名な話で、最近産まれたという男児も二人の子供ではないかという。


両極端な噂だが、どちらにしても所詮は小娘。

おそらくあの莫大な資産を前に有頂天になっているのだろう。

小娘にはもったいない。

あれらの財産はいずれ全て長男であるマルクが引き継ぐことになる。

ひいては実の母親である自分にもその権利があるはずだという考えに思い至るカミラ。

自分の金を勝手に減らされては困る。


「…そうよね。少し注意してやらなくちゃ」

「え?」


宰相家の財産はカミラのもの。

そうなればまたかつての生活が手に入る。しかも心底愛し合っているこの男と共にだ。

今までどうして思いつかなかったのか。

それは天啓のような素晴らしい考えに思えた。


「折角のチャンスを棒に振ることはないわ。その仕事うけましょう?」

「は? いや無理だろう」

「大丈夫。あのヒトの居ない時を狙って屋敷へ出向けばいいのよ。私も同行するわ。私に任せて!」


張り切るカミラとは対照的に男は戸惑いを見せるが、これも二人の将来の為だ。

愛する男と過ごす豪華絢爛なあの生活を思い浮かべ、口端が上がるのを抑えられないカミラだった。







※※※※※※※



宰相は現在毎年恒例の視察で地方におり屋敷は不在のはずだとカミラは言う。

だからと言って以前は自分も出入りしていた屋敷だ。

カミラのお気に入りの画家だった男の顔を使用人達は忘れていないだろう。

しかもカミラまで同行するというではないか。

寝取った男がいうのもなんだが、あの評判の悪い恐ろしい宰相を刺激して良いことがあるとは思えない。

カミラとの駆け落ちの件も、何も手出しされなかったのが奇跡だったのだ。

最悪殺されても文句は言えない。

まったく乗り気のしない男は戦々恐々と宰相家へと再び足を踏み入れた。

そこで待ち受けていたのが男の画家としての人生観を変える出会いだとは、この時男は気付いてなかった。




「本日もまずは5分だけ、そこへ座っていてくださいますか。ポーズはそうだな。お二人のお顔が見えるように…はい、その角度がよろしいかと。嗚呼素晴らしいですね。美しい…」


愛しいわが子を胸に抱き優しさが滲み出る美しい女性と、母の胸に抱かれ安心しきってスヤスヤと眠る赤子。

まるで聖母と天使のような神々しさを感じる。

画家ならば誰もが描いてみたいと願うような垂涎のモデル達だ。

目の前のモデルに目を吸い寄せられ何かに取り憑かれたように夢中で筆を進める。

実は今回画家として男が選ばれたのは写実的な画風と、驚異的な筆の速さという特殊能力の評判が王太子の耳にまで届いたからだ。

でないと今話題とはいえ経歴の浅い男に名だたる有名画家を退けて依頼が来ることはなかっただろう。

モデルが赤ん坊なのを配慮しての人選だった。

そんな速筆を得意とすることを考慮しても、未だかつてないスピードで絵が仕上がっていく。

肉眼に写るこの美しい光景を脳内に焼き付け、それを腕が自動でキャンパスにトレースしているようだ。

幸い赤ん坊が起きることもなく何回かの休憩を挟むだけで概ね絵は完成に近付いていった。

あとはモデルなしでも描けるだろう。

絵を描いている間にその色味、質感、曲線、鼓動、全てを脳内に叩き込み決して忘れない。こんな素晴らしい光景、忘れようがない。


「まるでリュカが今にも目を覚まして笑いかけそうな…素敵な絵……」


モデルを終えて絵を覗き込んだセレスティーヌが艶めかしく息を吐き出す。

その様子になぜかいけないことをしているような気になりギクリと肩がはねてしまった。


「絵を描いていただけると聞いたときは少し面倒だと思ってしまったのだけれど、ジェイス殿下からの贈り物ですから。断るのも忍びないし、渋々ながらお受けしたの。でも描いていただいて本当に良かったわ。こんなに愛らしいリュカを残せるのだもの」


無邪気に微笑むその顔にぼんやりしてしまう。

あの宰相の後妻だ。

宰相を操り散財しているという噂だ。

もっとこう、ドロドロしたものを含んだ毒花のような人物なのではないかと勝手に想像していたのだが…。

実際には母性的なのに蕾のような無邪気さもあり、それでいて男を刺激するような香り立つような艶麗さも兼ね揃えている。

こんなに数多の要素を持つ不思議な女性には出会ったことがない。

思えば年上の伴侶を持つ自分と彼女は似ているのかもしれない。

元は夫婦だった二人を自分が引き裂き妻を奪い、残った旦那に彼女が宛がわれた。

そこに何か運命のようなものを感じる。


「あの…セレスティーヌ様……」


意識して何かを言おうとしたわけではない。

ただ何となく彼女ともっと会話がしてみたくて、何か彼女の興味を惹きそうな会話をしようと口を開きかけた時だった。


「これはこれは、実に素晴らしい。セレスもリュカもまるでそこにいるようだ。これはいい。ああ、我が家の家宝にしよう。うん」


うっとりとした野太い声にギョッとする。


「あら旦那様、視察はもう終わりましたの?」

「視察と言っても毎年の恒例となっている慣習的なものだ。少し簡略化したとて問題ないさ」


何故だ、早まるにしたってまだ予定では1週間はあったはずだ。戻るのが早すぎるだろう!

予想外の展開、そして久方ぶりに目にする宰相にいやな汗が流れる。


「お帰りなさいアナタ。寂しかったわ」

「おおおセレスや。ワシもだよ。ワシもそなたらに会えぬ日々は砂を噛むような心地だった。死ぬかと思ったぞ」


熱い抱擁とキスを始める2人。

女神のような麗しい美女が小汚い醜悪なオークに穢されていくような、悍ましくも耽美な様子に違う意味で嫌な汗が流れる。


「ふふ、旦那様ったら。まだ3日しか経っていませんわ」

「3日も会えないのは地獄と同義。ああリュカたーん。ねむねむなのかなぁ。パパにただいまのチュウをさせておくれ。チュゥゥゥ」

「ふ? ふぇ…ふぇぇ…ふんぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!!」


脂ぎった中年のキスという迫りくる恐ろしい危険を前に本能で目が覚めたのか、竜の断末魔のような泣き声をあげ始めた赤ん坊。


「ぶっ、ぶべっ、ぶべべべ。お、お顔を蹴らないでおくれリュカたん。危ない。お、落ちるから暴れてはならぬぞ」


全身全霊をかけて拒絶を示す赤ん坊に顔を蹴られ続ける宰相は、赤ん坊を支えようと四苦八苦する。


「リュカ、お父様のお顔を蹴ってはダメよ」

「あー、まぁ!」


セレスティーヌが素早く赤ん坊を受け取ると、赤ん坊は先程までの台風が嘘のようにコロリとご機嫌になった。

ふくよかで柔らかそうで最高に心地の良さそうなセレスティーヌの胸に、涙の跡を残したままの頬を当て満足げに指を吸う。


「うぅぅ、何故いつもいつもリュカたんは父を嫌がるのだ」


宰相はガックシと膝をつきさめざめと泣き始めてしまった。

上流貴族らしい太々しい態度しか見たことがなかったので、先程からの腑抜けと言って差し支えないほどの宰相の様子に度肝を抜かれる。


「気にしないであなた。男の子は小さな間はお母様の方が好きなものよ。その内お父様に憧れを抱くようになるわ。ほらリュカ、お父様にお帰りなさいをしましょう」

「ぶぅぅぅぅ」

「セレス、リュカ、ただいま!」


右にセレスティーヌ、左にぶすくれた赤ん坊。頬を擦り寄せられムニムニされた宰相はみっともない程のニヤケ面だ。

だがそこには幸せというものが滲み出ており、自分の場違い感に身体を小さくすることしか出来ない。


「さて、久しいな」


愛しい家族との再会を思う存分堪能した宰相は唐突にこちらに声をかけてきた。

どうやら最初から男の正体に気付いていたらしい。

宰相の雰囲気がガラリと変わり、鼻に付く猫撫で声から重みのある低く冷え切った声。

声帯の幅の広さに感心する余裕はなく身体が強張る。

何せこちらは元妻を寝取った男だ。


「おひ、お久しぶりでございますっ」

「ふん、そう緊張するな。そなたに宿怨などない」


悪の結晶とも囁かれる宰相が自分を許す言葉を発したことに目を剥いた。

てっきり想像も出来ないような苦しく悲惨な殺され方をされてもおかしくないほど恨まれているのかと思っていた。


「ジェイス王太子が其方を寄越すと分かった時は何か含みがあるのかと勘繰ったが、あの青二才にそのような度胸はないわな。単なる偶然ならば構わん。ワシもそなたの腕は買っていたのだ」


よもや自分を肯定する言葉まで飛び出しいよいよ驚きはピークに達する。


「そ、その、その節は大変なことを仕出かし……」

「もう良いと申しておろう。そなたらが駆け落ちした折は多忙で放置しておっただけなのだが、今となっては元妻のことはワシにも落ち度はあったと思っておる。夜会に連れて行き金を与えることだけで夫の務めを果たしたと思っておったワシが愚かであったのだ」


宰相は赤ん坊を抱くセレスティーヌの細い肩をパンのような丸い手でそっと寄せる。


「このセレスティーヌが真の夫婦というものをワシに教えてくれた。妻とは自分の髪より、命より、愛おしく大切なモノである。今は愛する妻セレスティーヌを与えてくれた全ての縁に感謝しておる」

「旦那様ったら…大げさなんだから」

「大げさなものか。ワシは女神の如き美しく愛らしい妻を与えたもうた神に対しても、毎朝感謝を捧げておるほどだぞ。一日一万本、感謝の整髪剃りを欠かさんと決めておる」

「そ、そん…な…一万本? たったの…? 髪を置き去りに常に自身が前進する旦那様凛々しい…渋い……はぁ…素敵過ぎてセレスは惚れ直してしまいます」

「おお愛しいセレス…」


完全に二人の世界だ。

寒くなり始めたというのに周囲はなんだか暑くなってきており、周りに沢山の花が開花する幻覚が見える。


「おや。どうやらリュカたんはまたおねむのようだ」


見れば赤ん坊は指をしゃぶりながらセレスティーヌのふわふわな胸で目を瞑っている。

いくら赤ん坊と言えどこの甘ったるい空気の中でよく眠れるものだと感心したが、周囲に多数控えている屋敷の使用人達の表情を見ればこの空気は通常運転だと察することが出来た。


「どうだろうかセレスや。この隙に3日もセレスを感じられずカラカラに乾いたワシの心を今から潤してはくれんか?」


耳元で囁いているが丸聞こえだ。

宰相はもう少し自分の声の野太さを自覚した方がいい。


「もう旦那様ったら。甘えん坊なんだから。リュカのお昼寝の間ちょっとだけよ? 」


頬を赤く染め初々しく可憐なセレスティーヌに、自分に対して言われた訳でもないのに鼓動が激しく跳ねる。


「続きは、夜に…ね?」


宰相の口元にちょんと人差し指を当て、それからその指を自分の口元に当て流し目で微笑むセレスティーヌ。

初々しさの中にあるこの妖艶さはなんだろうか。

思わず動く喉の音が聞こえてしまっていないかと少し焦る。

興奮しているのが丸わかりなフンスフンスと荒い宰相の鼻息がうるさいので多分聞こえなかったと思うが。


赤ん坊を起こさないように慎重にセレスティーヌから受け取り、彼女の手を取り部屋を後にしようとする宰相。


「あ、少しお待ちを旦那様」


宰相を制止したセレスティーヌ。

彼女が突然こちらを向いた。

背筋を正し優雅にこちらへ向かって来るではないか。

男の鼓動の跳ねる音が本当に聴こえてしまいそうな距離まで近づくと、何事かと戸惑い慌てふためく男の耳にそっと唇を近づける。


「旦那様は許しても、私は貴方が彼にした行いを許しませんから。旦那様が貴方の絵を気に入っていなければ、この屋敷に入る前に貴方を旦那様の目に触れないよう排除していたのよ。自身の才能に感謝なさい」


耳元で囁かれるのは男の頭を一瞬よぎった甘いものではなく、恨みや脅しだった。

先程感じた聖母のような雰囲気は全く感じられない。

だが男の胸はかつてない程最高潮に高鳴っていた。


セレスティーヌの息が男の耳元から離れるのが名残惜しい。

落ち着いた中に滲む苛立ちの声。

ずっと鼻に当てていたい程甘く芳しい匂い。

怒りを隠さない強い視線。

まるで未開の地に咲き誇る、御伽の毒花そのものだ。

一度近づいてしまえばその花粉で獲物の脳を操作し、自ら餌になりに喜んで身を投げ出させるという恐ろしい人喰い花。


時には聖母、時には初々しく且つ妖艶な妻、時には近づくだけで虜にする強烈な悪華。

この女は一体いくつの顔があるのだろうかと男は酩酊した頭でぼんやりと考える。

全て描き残しておきたいとも。

描いて描いて描いて描いて。

この美しき華を描き残しておかなければという天命が男の中に宿った瞬間であった。







※※※※※※※※※


私がこの屋敷へ使用人として奉公に出たのは12歳の時であった。

若い女が好きだという宰相の噂は当然耳に入っていたのだが、貧しい男爵家の四女である私は嫁入りの持参金を自身で稼がなくてはならず、貴族の屋敷の中でも群を抜いて賃金の良かった宰相家へ怯えながらも面接に行きそして採用に至ったのである。



始めこそ若い娘ならば誰もが嫌悪するような宰相の加齢臭漂う底意地の悪そうな容貌に震え上がっていたのだが、仕事が忙しいのか愛人宅にでも通っているのか宰相が屋敷に戻ることは月に一度よりも少なかった。

そもそも彼は屋敷の使用人になど露ほど興味はないらしく、実家が商家で親から宰相を籠絡するよう命令されていたらしい二つ年上の先輩使用人が裸でベッドに忍び込んだ時など問答無用で部屋から叩きだしそのままクビにして使用人頭も責任を取って減給となった。

あのセクシーな先輩で通用しないのだから自分など絶対に目に留まらないと確信し漸く安心できた。



しかし安心できたのも束の間、旦那は害がなかったのだがその妻の方が私の大きな悩みの種となった。

宰相家で働き始めて2年目。

昔から手先が器用で姉妹たちの髪を結うのはもっぱら私の役目だったこともあり、同僚達にもたまに髪を結ってあげていた。

その為にある時気まぐれに突然髪結を辞めさせた宰相夫人の朝の髪のセットをする役目に推薦されてしまった。


セットをしたのは次の髪結を採用するまでの数日だったのだが、これをきっかけに宰相夫人の目に留まり今迄ベッドメイク担当だったのに気付くとそば仕えになっていた。

側に置いて恥ずかしいほどの不美人でもなく、かといって目を引くほどの美人でもない。印象に残らない地味さを気に入ったと宰相夫人は私を褒めた。

仕えてみると夫人は上流貴族の例に漏れずプライドが高く傲慢で高飛車であった。

これは宰相にも言えることだが使用人を同じ人間とは見なしておらず賃金で動く何か別の生き物と思っているらしい。

夫人の前では感情を消すこと、粗相をしないこと、機敏に動くこと、とにかく人間らしさを見せないことを常に求められた。

気まぐれにコロコロ変わる夫人の要求や機嫌に振り回され一瞬たりとも気の抜けない日々は元来おっとりした性格の彼女にはつらいものだった。



だがそれから数年。

突如として夫人は屋敷から姿を消した。

パトロンをしていた画家の男と駆け落ちしたのである。

前々から二人が並々ならぬ関係であることは周知の事実だったが、まさか宰相夫人の座を捨ててまで画家の男に入れ込んでいたことに驚いた。

一方、妻に出て行かれた宰相はというとそれに大した反応もなくまったく影響がなさそうな様子だった。


漸く緊張から解放されそろそろ実家から結婚の話が来る頃だろうと思っていた時期に、宰相が新たな妻を迎えるとの情報がもたらされた。

今度の相手は王太子の元婚約者で宰相家とも釣り合いのとれたやんごとなき出自のご令嬢との事。しかも私より年下だ。

前の夫人を若くしてもっと高飛車にしたような少女を想像してげんなりとなった。





「紅茶でございます」


数年前のことを思い出しながら突如現れた客人にお茶をだす。

宰相家の客人ではあるが私も既知の間柄であった。

しかし親しくもなくよい思い出でもない客人であるので、通常通り宰相家の使用人として恥ずかしくない応接を心がける。


「あら貴女、久しぶりね…随分と変わったわね」


客人も私に気づいたらしい。

私の様変わりした姿に目を丸くしている。


「お久しぶりでございます」


義務的に深々と頭を下げると面白くなさそうに鼻を鳴らして紅茶を一口啜る。


「ねぇこの紅茶、わたくしの好きな茶葉でなくてよ。早く取り替えなさい」


そんなことを言う客人に対して奥様を見る。


「奥様、いかがいたしますか?」

「そうね。お客様のご要望ですもの。取り替えて差し上げて」

「かしこまりました奥様」


優雅に微笑む奥様に頭を下げ紅茶を入れ直そうと背を向けたとき、ヒステリックな声が響いた。


「ちょっと! わたくしが取り替えなさいと言ったらさっさとしなさい! いちいち確認なんかとるんじゃないわよ!」


昔と変わらない癇癪持ちを冷ややかな目で見つめる。


「お客様、お言葉ですが私の主人は奥様でございます。奥様の命令にしか従いません」

「な、なんて無礼なっ」


私の投げやりな言葉に顔を真っ赤にして戦慄く客人。


「わたくしの目が届かなければこうも使用人の質が下がるなんて嘆かわしいわ」

「あらあらお客様。我が家の使用人への侮辱はお止め下さい。彼女たちは素晴らしいと他のお客さまには大変評判ですし、私もそう自負しておりますもの」


若々しく美しい顔におっとりとした笑顔を浮かべる奥様。


「評判ですって!? だったらその派手な装いと化粧はなんなの!? 使用人というものは影のように地味でないといけないのは常識よ! 華美な装いを許しているなんて貴女使用人に舐められているのよ」


今の奥様…セレスティーヌ様が嫁がれてからこの屋敷に新しい風が吹いた。

まず月に一度しかお帰りにならなかった旦那様が毎日屋敷に帰るようになり、ご長男であらせられるマルク様も一週間の内数回は顔を見せるように。

仕える主人が複数屋敷に存在することで使用人たちに良い意味で緊張をもたらした。


そして誰もが圧倒される美しい庭に高価な調度品を嫌味なく配置した品のある室内。

セレスティーヌ様の若々しい感性であっという間にハイセンスな屋敷へと変化した。

セレスティーヌ様が使用人たちに求めるレベルはとても高く、お茶の出し方や歩き方しゃべり方、ちょっとした所作にしても優雅さを持ちなさいと指導される。

元々公爵家の使用人たちの質は高いのだが更にその上を望まれた。

だがセレスティーヌ様の要求に応えることが出来なければ単純に叱責されるというのではなく、出来なかった理由を一緒に考え次に出来るようにするにはどうすれば良いのか一緒に悩んでくださる。

なにより今の給金に加え、より多く努力しているものを評価されては褒賞を下さる。

そうすることにより使用人たちのやる気はますます高まり今や屋敷全体に活力が漲っている。


「彼女たちの服装とメイクに関しましては私の指示によるものですわ。私は常に美しく磨いたものに囲まれていたいのです。影のようにどんよりとした者が傍にいつも居ては気が滅入りますもの」


そう、セレスティーヌ様の指示の中で一番驚かされたのは私たちの身なりだ。

セレスティーヌ様は使用人のお仕着せを年齢に合わせてそれぞれ若干異なるデザインに変更した。

客人の言うように使用人は目立たないような装いをするのが普通だが、私たち若い女は膝丈のスカートにフリルのあしらわれた可愛らしい目を引くデザインだ。

それに合わせてメイクも少し華やかにするよう指示を受けている。

これが私を含め若い使用人たちに好評で、他の屋敷で働く友人にも羨ましがられている。

宰相の屋敷は奥様だけでなく使用人も美しい花園のような場所だと囁かれているのが誇らしくてならない。


実は私は婚約も決まりあとは結婚するだけになっているのだが、もう少しだけでも仕事を続けたいと先方にお願いしている。

先方もこの屋敷で使用人をしている婚約者がいることが誇らしいと二つ返事で了承してくれた。

それほどまでにここの使用人というブランド価値は高まり、今や若い女の子の憧れの就職先第一位であるのは間違いない。


「これだから若い娘って駄目ね。使用人を調子付かせるだけなのに」

「ところでマダム。本日はどのようなご用件でしょうか? マルクに会う為にこちらへ?」


客人の嫌味をスルーしたセレスティーヌ様が問いかける。


「ええ勿論そうよ。私はマルクの母親ですもの。会いに来るのは当然でしょう」


駆け落ちして出て行ったくせに、その相手と共に公爵家に乗り込んで来るなどどういう神経をしているのだろうか。

呆れて開いた口が塞がらないが、静かに入れ直した紅茶を差し出す。


「そうよ。やはり紅茶の茶葉はこれじゃなくちゃ。それにしても、貴女…セレスティーヌさんだったかしら? 随分とこの家で好き勝手やっているようですわね?」


部屋を見回しながらそんなことを言う客人こと元奥様。

悪趣味な調度品でゴテゴテした以前の客間より余程洗練された空間だが、ハイソな年配女性には理解出来ないらしい。


「この家はいずれわたくしのマルクが全て受け継ぐのですよ? いくらあの男を骨抜きにしたところで、代替わりすれば貴女にはなんの権利もなくなるのですからね。あまり我が家を荒らさないでちょうだい」


まるでこの屋敷は自分の物だとばかりの口ぶりにゾッとする。

この人は自分から手放したはずの権利を主張するというのか。


「ああ、確か貴女にも男児がいるのだったかしら。でも長男はわたくしのマルクよ。あの子が将来はすべて相続するの。貴女の子になにか与えられるなんて期待はしないことね」


聞いているだけで、怒りで戦慄きそうになる。

ここまで身勝手な主張をされるとこの世のものではない生き物が喋っているように感じる。

直接言われているわけではない私がここまで憤っているというのに、セレスティーヌ様はまるで人気の作曲家の演奏を楽しむかのように愉快そうな面持ちで耳を澄ませながら紅茶を楽しんでいる。


「どこか田舎の土地と男爵位くらいならわたくしがマルクに頼んであげないこともなくてよ、おほほ」

「戯言はそこまでにして頂きましょう母上」


迎賓室の扉がノックもなく開いたかと思えば、颯爽とマルク様が現れた。


「まぁマルク!! 会いたかったわ!」


芝居がかった表情で目じりに涙を浮かべ、大きく手を広げてマルク様を迎える客人。

だがマルク様はそれを宰相ゆずりの冷ややかな視線で受け流し、お茶を楽しむセレスティーヌ様の背後にそっと移動した。

元奥様の口元がピクリと反応する。


「どうしたのマルク? 久々の親子の再会なのですからもっとお母様の傍に来てお顔をよく見せてちょうだい」

「勝手に出て行っておいて久々の再会もないでしょう。セレスに迷惑までかけて…あまり恥ずかしい振る舞いは自重して下さい」


嫌そうに顔をしかめる背後のマルク様を振り返り、宥めるように眉を下げて苦笑するセレスティーヌ様。


「マルク、母が息子に会いたい気持ち、息子が誇らしい気持ちは今の私ならよく理解出来るわ。貴方は叱らないであげてちょうだい」


優しげな微笑みを浮かべるセレスティーヌ様は、まるで聖母のようにお美しく同性である私も気を抜くと見惚れてしまう。


「セレスティーヌ…」


当然マルク様もこの笑顔には骨抜きで、熱に浮かされたようにセレスティーヌ様の名を呟く。

そんなマルク様のご様子に気づいた元奥様の眉間に皺が寄る。

息子も既にセレスティーヌ様の毒牙にかかってしまっていたとでも思っているのであろう。

実際に毒牙にかかっているかは別として、この場の雰囲気がセレスティーヌ様の美しい微笑みひとつで支配されているのは間違いない。


「まぁそれはそれとして…」


落ち着き払った声で続けるセレスティーヌ様は、しかし次の瞬間聖母の微笑みをさっと取り払い、黒くあくどい笑みを口元に浮かべた。

背後に黒い薔薇が開花していく幻想が見える。


「もしかして貴女、自分が手放したモノが今更惜しくなったのかしら? それでしたらダメよ。かつて貴女のモノだったものは今は全て私のモノなのですから」


突然態度が変わったセレスティーヌ様にギョッとする元奥様。

普段はおっとり美しくナチュラルにワガマ…要求レベルが高いセレスティーヌ様だが、やはりあの宰相を尻に敷くだけある。

これぞ悪名高き宰相家の嫁。

この如何にも悪役ですと言わんばかりに悪そうな表情をセレスティーヌ様がする時は反撃の合図だ。

セレスティーヌ様をただの育ちの良い小娘として扱った人間は全員痛い目を見ることになる。


「なにを言っているの? わたくしはただ愛するマルクの邪魔になりそうな貴女に釘を刺しているだけで…」

「それなら安心なさって。貴女の愛するマルクも私のものですから」

「はぁ!? なによそれ!? なんてふしだらなの!!」

「セレスティーヌ…その言い方は誤解を生むというかなんというか…」


大胆なセレスティーヌ様の発言に度肝を抜かれる元奥様。

一方マルク様は顔を真っ赤にされてあたふたしているが、まんざらでもなさそうだ。


「そして使用人のこの子も、この部屋も…すべて私のものです。ねぇそうでしょう?」

「はい。その通りでございますセレスティーヌ様」


控えている私に向かい妖しい微笑みを浮かべるセレスティーヌ様に即答してみせる。

マルク様の気持ちが良くわかった。

セレスティーヌ様に所有物扱いされる…これは存外嬉しいものだ。


「大方かつての生活を思い出してもう一度と夢見てしまったのでしょう? 貴女の今のお相手が私の主人と同一レベルの生活を送らせる甲斐性があるとは到底考えられないですもの」

「な、わ、わたくしは別に、そんな。愛があれば、それで…」

「それに——やはり恋しくなったのでしょう?」


しどろもどろな元奥様に対してセレスティーヌ様は真っ赤な紅の乗った形の良い唇を更に愉しげに歪める。


「あの内臓脂肪を溜めまくったプヨプヨ我儘ボディが」

「は?」

———ん?


「一晩使用すれば一生落ちないような匂いを枕に染み込ませる強烈なあの耳元の芳しい加齢臭が」

「はぁ?」

———んん?


「うんちくと若かりし頃の武勇伝ばかり語り周囲からうんざりされているのに気付いていないどこか憎めないチャーミングな性格が」

「はあぁ?」

———んんん?


「まだお若い貴女のパートナーでは到底この境地には達しておりませんものね? 成熟した男性の魅力が恋しくなるのも仕方ありません」

「なにを言っているの貴女は!?」

なにを仰っているのですかセレスティーヌ様……。


思わず元奥様とリンクしてしまったではないか。

敬愛する主人に呆れた目を向けそうになる己を叱咤しポーカーフェイスを辛うじて保つ。


「でも今更青い果実の固さと酸味に気づいたってもう遅いわ。今のあのヒトは全て私だけのものです。自慢ではありませんがこの私、セレスティーヌは今まで数多の泥棒猫と戦って負けたことはございませんの、おーほっほっほっ」


いいえセレスティーヌ様。

私の知る限りでは貴女様が泥棒猫と戦ったことは一度もございません。

単純にセレスティーヌ様の美貌やら財力やら影響力に嫉妬して嫌味を繰り出す女性はおりましたが、宰相様単品を欲して貴女様に突っかかる女性の存在は記憶しておりません。というかそんな女セレスティーヌ様以外いるわけがない。

悪役らしく顎を上げて天高らかに笑うセレスティーヌ様とは対照的に部屋の空気は微妙なものになった。



「随分と楽しそうだねセレスや」

「あら旦那様」


セレスティーヌ様の高笑いで足音を消した旦那様が突如登場し、もっちり太い指で彼女の肩を抱き寄せた。


「もう終わられたのですか? 随分と早いようですが」


旦那様は今セレスティーヌ様の要望で肖像画を描かせていたところだ。

その描かせている者というのが今目の前にいる客人の現夫。

つまり旦那様からすると、元妻を奪った間男なのだ。

私ならばそんな者を屋敷に入れてあまつさえ絵を描かせようとなどしないだろうが、セレスティーヌ様が彼の描いた旦那様の肖像画が欲しいと強請ればあっさりと頷かれてしまった。


「絵描きのあの者がどうにもワシだけでは筆が乗らないようでな。是非セレスも一緒にと言うので呼びに来たのだ」


きっと元妻に逃げられた当初は男性としてのプライドが多少なりとも傷付けられた筈なのに…。

全く気にした素振りがないのは恐らく、今がとても幸福だからなのだろう。

過去など思い起こす暇もないほどに。


「お忙しくて逢えない時でも寂しくないようにと、旦那様が描かれた最高の絵をお願いしたのですが…そうね、絵の旦那様の横にだっていつでも美しい私がいないとダメよね」

「その通りさセレスや。忙しい時でもセレスにオネダリされれば飛んで帰って君を抱き締めよう。どんなワガママでも言いなさい、愛しい君の為ならばなんだって叶えよう」

「ふふ、期待しているわ」


最早宰相家ではありふれた日常の一場面であるが、昨日の間男同様に元奥様もかなりのドン引き具合らしく顔を引きつらせている。


「はてさて久しいなカミラ」


旦那様は新雪のように可憐なセレスティーヌ様の頬に軽くキスをすると、底意地の悪そうな嫌な視線を元奥様に寄越す。

この目は別れた妻を見るものではなく、まるで政敵を見るような不敵なものだ。

気の強いはずの元奥様の肩がビクリと揺れる。


「先ほどのセレスティーヌの言葉で立場を理解しただろう? ワシはこの美しい女神に心底惚れておる」

「…」

「だからな——どうかもうワシのことは忘れてくれ」

「……?」

「そなたの気持ち、いや、どんな女の気持ちにも応えてやることは出来ん。この魅惑の我儘ボデーで女を翻弄してしまう罪深きワシを許してくれ」

「!!?」


元奥様は自分が今現在この醜きオッサンに意図せずフラれていることにようやく気付いたようだ。

屈辱で言葉が出ないらしく、顔を真っ赤にさせ口をパクパクさせる元奥様が面白くて思わず吹き出しそうになるのを耐える。


というか肉に埋もれた瞼を伏して哀しげに溜息を吐く旦那様のアンニュイな憂い顔が腹立つわぁ。

それは美男子しかしてはいけないやつなのに!

世の女性はほぼ腹を立ててしまうような旦那様の憂い顔だが、案の定セレスティーヌ様だけは別なようでポッと可愛らしく頬を染めている。

元奥様は「だ、誰があんたなんかっ」などと言っているが、セレスティーヌ様には悔し紛れのツンデレ発言にでも聴こえているらしくどんどん表情が優越感に浸ったドヤ顔に。


セレスティーヌ様は旦那様の発言を真に受けているが、勿論旦那様本人は元奥様が本気で恋しくなって復縁を望んでいるなどとは思っていないだろう。

だが敢えて全力で元奥様を袖にする旦那様。

どんなに否定しようが、また泥棒猫に勝ったとご満悦なセレスティーヌ様。

元奥様のプライドがガンガン傷付けられていくのが分かる。

あれ? やはり旦那様この元奥様のこと怒ってた?


「ねぇ旦那様、早く絵を描いてもらいましょうよ」

「ああ、そうだな。早くしないとリュカたんもお昼寝から起きてしまうしな。さぁ行こうか愛しい妻よ」


いや、単純に自慢したかったのだろう。

誰も欲しがらない醜い己を、それでも奪われないよう必死に太い腕に抱き着き子猫のように威嚇している愛らしい妻の存在を。

自分は今こんなに幸せであるということを。


元奥様になど目もくれずに去っていく夫婦二人。

私はそれを見送り、まだ元奥様が椅子の上で唖然としているなか供したお茶を片付け始める。

そんなことをすれば怒り狂いそうな元奥様だが、最早そんなことに気付くだけの余裕がないようだ。

それほどあの夫婦のパンチ力は凄まじい。


「さて母上。お伝えすることがあります」


父親の登場から後ろの方に控えていたマルク様が、スッと前に出た。


「実はこの国での貴女は既に死亡扱いとなっています」

「は……はぁぁ!?」


漸く正気に戻った元奥様は、マルク様の衝撃発言に度肝を抜かれる。


「父上の逆鱗に触れるのを恐れた貴女の実家からの申し出によりそういう処置となったのです」

「何を勝手に!」

「なので貴女にこの国の身分はありません。今の貴女はただの隣国の絵描きの妻です。今回の件は水に流しますが、今後この家に接触しようものならば容赦なく対応します」

「な、何を言ってるのマルク! 私達は血の繋がった親子じゃない!」

「だから言ったでしょう。私の血の繋がった母は既に死亡したと。今の私の家族は父上とセレスティーヌとリュカだけです。さようなら」

「そんなっ! マルクっ! マルクったら!!」


マルク様は呼びかける元奥様を一度も振り返ることなく部屋を後にした。

自分も絵に写ろうと、悪の華を追っていったのだろう。









※※※※※※※



この世界の美術史を語るのに欠かせない有名な画家が存在する。

何世代も前に生きたその画家は末端貴族の三男に生まれ、かなり年上の妻を娶っていた。子供はいなかったようだ。

画家のごく初期の作品は凡庸と評されることが多いが、それ以外の作品は現在では一枚で屋敷が数棟建つほどの金額で取引される傑作ばかり。

その絵はどれもたった一人のモデルを描き続けたものだ。


その人物というのが世界三大美女の一人と謳われる、大国の名門貴族の夫人だった女性だ。

その夫人が嫁いだ名家は今もなお絶大な権力を誇り世に君臨している。

夫人はその名家の全盛期を築いたとされる男の妻で、悪名高き悪女として幾人もの男達をその類稀なる美貌で翻弄し陥れたとされている。

だが別の説によれば夫人は女神のように清らかで美しく、夫婦仲も随分と良くおしどり夫婦の代名詞として語られることも多い。

今もなお夫人悪女説派と女神説派で分かれて討論が行われている。


夫人が両極端な二つの人物像として語られる原因の一部となったのが、この画家の作品である。

その夫人の作品達は時に悪魔のように禍々しい美しさで描かれていたり、時に赤子を抱き愛おしげに微笑む天使のような美しさで描かれていたりするのだ。

どちらも共通して言えるのは、その夫人の絵全てが人々を魅了する美しさがあるということだ。


ちなみにこの画家は生前趣味で描き上げた夫人の絵を一枚も手放すことなく全て手元に置いていたらしい。

取り憑かれたように夫人の絵ばかりを描き続け、かなり困窮した生活を送っていたとのことだ。

画家は「生涯を捧げるテーマを見つけた」と語り夫人の絵を描くことを辞めず、且つその絵を売ることも良しとせず家族に随分と苦労をかけたようだ。

その様子はまるで悪魔に魅入られているようだ、夫はあの毒華に取り憑かれてしまったと嘆く画家の妻の手記が後世に残されている。

画家の死後、発見された絵は200枚を超えていた。


ちなみに最も人気のある代表作と言われるものはその200枚以上の絵の中には存在しない。

人々が一番魅了されている作品はかつて夫人も住んでいた豪邸のエントランスに今尚堂々と飾られている。

その絵は画家の作品には珍しく夫人以外にも夫と二人の息子も描かれていた。

生意気そうに顎をツンとあげ、誇らしげに微笑む夫人。

どこか無邪気さも感じられるその姿は家族に囲まれとても幸せそうだ。




最後までお読み下さりありがとうございました。

ちなみに人間の髪は約10万本あるそうです。

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― 新着の感想 ―
[一言] …えっとね、ちゃうねん(天丼)
[良い点] たった1万本!! [気になる点] 一人で深夜に読んでいると、吹き出した声で家族に不審に思われてしまう。 [一言] 面白かったです! セレスかわいいです。
[一言] Twitterで漫画の広告みかけたのがきっかけでこっちにきました。 本当に素晴らしい作品です。 短編連載とでもいったらいいのか、シリーズものとして非常によいです。 主人公追放ざまあ系の新しい…
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