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帰宅命令

『知宏!! あんた、今どこで何してるの!?』


 ……相手は、お袋だった。それも、なかなかご立腹のようだ。電話に出た瞬間に、ものすごいボリュームが俺の耳をつんざいてきた。


「……いや、だから。草津に行くって言ったよな?」

『三日間も何の連絡も無くて、心配しないわけないでしょ!?』

「まぁ……うん。そこは……すまん」

『それと、もうすぐお盆じゃない? 今年は爺ちゃんの新盆なんだから、そろそろ……てか、明日には帰ってきて欲しいんだけど!』

「えっ、明日!? いや、それは……」


 チラリと千笑の方を見ると、目を丸くして小さく首を横に振っている。「ダメダメダメダメ……!!」……そんな心の声が聞こえてきた。


「せめて、明後日にしてくれないか?」

『できません!! 明日の午前中に帰ってくること!! もし帰ってこなかったら、警察に捜索願出します!!』

「ま……待て待て、わかった。とりあえず一旦帰るから、早まんな」


 電話を切った俺は、深いため息を吐く。あのお袋のことだ、捜索願ってのは脅しじゃないだろう。……面倒なことになった。


「千笑、ごめん。俺……明日埼玉へ帰らなきゃいけなくなった。お袋がだいぶヘソ曲げてて……」

「そんな、嫌だ……!!」


 ものすごい勢いで言葉を被せられてしまう俺。そんな千笑の頬には、涙が伝っていた。俺の胸の辺りを鷲づかみするようにしてすがりつき、「嫌だ嫌だ!!」と子供のように連呼する千笑は、かつてないほど辛そうで……。俺は少し焦り、彼女の背中を優しくさすった。


「おいおい、ただ埼玉に帰るだけだぞ。まだ夏休みだし、すぐこっちへ戻ってくる。……そんな、出兵するわけじゃないんだから……」

「それでも!! まだあたし、心の準備が出来てない!!」

「……それは、俺だって同じだ」


 ……全く、成人してないだけでここまで束縛されるとは。親が心配するのも分からなくは無いが、この時代の俺だってもうすぐ17歳だ。夏休みくらい、好きに行動させて欲しいよな。……爺ちゃんの新盆があるのは仕方ないけど。


「……じゃあ、あたしもトモくんと一緒に埼玉いく」


 ずずっと鼻をすすり、唇を尖らせながら、千笑はポツリと言った。彼女のその言葉は、俺の心に明らかな不安を落としてゆく。


「……来て欲しい気持ちはあるんだけど……、ダメだ」

「……どうして?」

「八倉線に乗ることになるリスクを、できるだけ無くしたい」


 ……彼女が八倉線に乗るとしたら、それはもう、俺に会いに行くために決まっている。それ以外に理由は無いと言い切れる。つまり、「八倉線に乗るな」ではなく、「俺に会いに来るな」……が、最も根本的な解決策だということだ。


「あのさ、なんで……八倉線に乗っちゃいけないん……? 八倉線で何があるん? 八倉線に乗ると、あたしは……どうなるん?」

「詳しいことは話せない。とにかくダメなんだ」

「どうして……教えてくれないん? もしかしてさ、トモくん……」


 目を細めながら一呼吸置いた後、……彼女は重そうに口を開いた。


「……埼玉に、本命の彼女が……いるんじゃないん?」


 ……言葉に詰まる俺。なんで、そうなる。……いや、ある意味自然な思考なのか? そうだとしても、もっと俺を信じろよ……‼︎


「ち……違う、そうじゃない!! 見当違いも甚だしいぞ千笑っ!!」

「……動揺してんね。やっぱそうなんだ。さっきの電話も、お母さんじゃなくて彼女さんだったんじゃないん?」

「そんなわけないだろ!? ほら、着信履歴!!」


 俺は、スマホの画面を千笑へ突き付けた。そこには「矢吹久美」と表示されている。それを見た彼女は、再び目を細めて黙り込んだ。


「理由は、必ずいつか話す。……というか、話さなくても分かるときが来る。埼玉に女なんかいないから、安心してくれ。とにかく、お前は草津から離れるな。用事が済んだら、すぐ戻ってくるから」

「本当に、すぐ戻ってくるん……?」


 俺は力強く頷いた。彼女は俯き気味に、「わかったよ」と呟いた。


「……じゃあ、最後にもう一回……抱きしめて」


 再び無言で頷いた俺は、彼女の肩へ手を回してそっと引き寄せてから、静かに抱きしめた。今度は、千笑も俺のことを抱きしめてくれた。快適な柔らかさとほのかに香る汗の匂い、そして密かに主張する女性らしい香り……。その全てを、余すところなく全身で感じ取る。


 性行為の経験がある人間なら、この程度じゃ満足できないかもしれない。……だが俺は、これで十分だった。千笑と話し、手を繋ぎ、ハグをするだけで心が満たされる。……大学生のときの、早く童貞を捨てなければとひたすらに焦っていた恋とは、まるで別物だ。


 お互いに性行為なんて知らなくて、ただ触れ合うだけでも緊張するような恋。初々しいというか、若々しいというか……。俺は、そんな恋に憧れていたのかもしれない。……前の彼女と付き合っていた頃から。


 きっと俺は、背伸びばかりしていたのだろう。男子校で灰色の青春を送っていた俺とは違い、当時の彼女は共学上がり。……アイツと上手くいかなかった理由が、分かってきたような気がする。


 このままずっとこの世界にいて、一からやり直したい。千笑を抱きしめながら、俺はそう思っていた。あるいは、抜け落ちた何かを回収させるために、神がこの時代へ俺を送り返したのかもしれない。


 密着していた体を、名残惜しむように離してゆく。俺の体からぬくもりも遠ざかり、流れ込んできた空気が体を冷やした。


 俺と千笑は、お互いの肩に両手を乗せたまま、お互いの顔を見つめ合った。整っていない太めの眉が、逆に彼女の凜々しさを際立たせている。はにかむと見える八重歯もいい。どちらかと言えばボーイッシュな顔つきなのに、表情は愛くるしくて女の子らしいところもいい。


 前向きで明るいところも、正義感のある考え方も、一生懸命になると我を忘れるところも好きだ。声も可愛い。独特な訛りも彼女を引き立てている。……なんだこれ、むちゃくちゃ千笑に夢中じゃないか俺。


「……トモくん、今……どんなこと考えてたん?」

「ん? ……そうだな。やっぱり俺、……千笑に夢中だなって」

「……へぇ。なんだかんだでトモくん、物好きなんね。そんなあたしも、トモくんに夢中かもしんない」


 そう言うと、千笑は静かに俺の肩から手を下ろした。


「……ホントはさ、キスも……して欲しかったんだけどさ。……やっぱし、まだ止めとくことにすんね」

「あぁ、そんなに焦ることもない。ゆっくりでいいから」

「ううん、そういうんじゃなくて。トモくんにはさ、……ちゃんと帰ってきて欲しいから。だから、その時までキスは預かっとく」

「なるほど、そういうことか」


 ふと気がつくと、辺りはもう……薄暗くなってきていた。ポツポツと、外灯に明りがともり始めている。


「……だいぶ遅くなっちゃったな。千笑の両親も心配するだろうし、今日はもう帰ろう。……次は、しばらく後になるけど」

「トモくんがいなきゃ……苦しいよ。人はなんで悲しむんかな……」


 俯き加減でそう呟いた千笑は、動き出そうとしなかった。俺は彼女の頭をぽんぽん撫でながら、「大丈夫、絶対また会える」と伝えた。


「絶対……だかんね……!!」


 そして千笑は、ひと思いに走り去っていった。彼女の背中が闇に消えるのを見届けてから、ようやく俺も……橘民宿へ向かって歩き始めたのだった。

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