第45話 秘密ゆらめく静謐の部屋
「と、う、ちゃ、く!!」
元気一杯に叫んだ三月兎の横で、私は地面に手をついてぜーはーいっていた。グロッキー状態極まれり、ってところだ。死にそう。
その横で、三月兎からそろそろと降りてくるヤマネ嬢。彼女は途中からリタイアして、三月兎の背中に負ぶさってもらっていたのだ。まぁ、しょうがない。すっごく顔を青くしている彼女を見て、さすがに私は三月兎を止めた。ワンピースの裾から伸びるすらりと長い彼女の足は、折れそうに細く、病的に白い。こんな可愛い女の子をあからさまに無茶な速度で全力疾走はさせられない。
私は三月兎に引き摺られてもう一回地獄のマラソンを味わったんですけどね!!
いまだに四つんばいの格好でうずくまりかける私に対して、三月兎は不思議そうに声をかけてきた。
「アリスどうしたの? お尻をこっちに向けられると興奮するんだけど?」
や め ろ ! !
冗談ではなさそうな空気を察して、私は死ぬ勢いで立ち上がった。 そんな私に対して、ヤマネ嬢が救いの手を差し伸べる。少し呆れたように目を細めた彼女は、首を傾げて言った。
「三月兎の戯言はいいから……、早く図書館、行きましょ」
ふああああああああ可愛い、天使だよおおおおおおお!!
やっぱり美少女に限るね! いくら美少年でもド変態はペッ! だよ!
「じゃじゃーん、というわけで、ここが図書館!」
ヤマネ嬢の鶴の一声……、いや、ヤマネの一声により、私は今三月兎の案内を受けて図書館にいる。
入り口からして分厚くて豪華な木製の扉、その重々しい扉を開けて入ってみると、中には途方もなく広い空間。天井がとても高く、ずっと上のほうに大きな窓があって、外から太陽光がきらきらと落ちてくる。ガラス越しの太陽の光は、外にある植え込みを通しているせいか小さな木漏れ日になっていて、あまり眩しくない。しんと静かで涼しい落ち着く空間だった。
私の両側には見上げるほどに高い本棚が並んでいて、本棚の中には色とりどりの美しい本が背表紙を向けて鎮座している。高いところの本をとるためのものだろうか。本棚には白くて細い梯子がついていた。
「……どう、アリス、気に入った?」
扉をあけたままの姿勢で呆けたように立ち尽くしていた私に、ヤマネ嬢がそっと声をかけてきた。返事をしようと慌てて彼女に顔を向けると、彼女は少し顔を曇らせていた。どうやら私の反応がないから、私ががっかりしたと思っているらしい。
「はい! とても!! すっごくいい場所ですね」
ぶんぶんと即座に頷いて感想を告げると、ヤマネ嬢はほっとしたように目元を緩めた。ふわりと陶器のように滑らかな頬が色づく。
なんだかヤマネさんには無駄に心配かけちゃったみたいだ。なんて良い子なんだろう。私を元気付けようとこんなに心を砕いてくれるうえ、その元気付け方が不思議の国の住人としてはダントツにまともだ。
さて、本がこんなにある空間にいるとなれば、一刻も無駄にはできない。何を読もう。
考えてみれば、この不思議の国に来てから私は本をまったく読んでいない。そろそろ活字が恋しい。
どんな本があるのか見ようと思って、私はふらっと一番近くの本棚に近づく。色とりどりの背表紙は滅多にお目にかかれないような立派な皮の装丁で、洋書風にしつらえてある。背表紙に指を走らせ、手近にあった本を一冊抜き取り本ぱらりとページをめくった。
その途端に目に飛び込んでくる黒々とした活字の群れ。ああ、なんて、心が躍るものだろう。久しぶりに見る文字に、胸がドキドキするような喜びを覚えた。
不思議の国は確かに非現実的な楽しさに満ち溢れているが、変態成分が濃すぎて疲れるのだ。私にとって一番楽しいのは、やっぱりこういう一人で落ち着いてできる趣味なんだろうな。
偶然手に取ったその本は、どうやら子供向けの童話らしかった。活字が大きく、ひらがなばかりが紙面を埋めているせいで、内容がひどく短い。おもしろかったけど物足りないので、次の本を探す。目の前の本棚には、綺麗な色の背表紙がいっぱいに詰まっていて、まるで本の海みたいに見えた。その中から、次の本を手にとる。
その本は文庫本よりもやや大きく、装丁はやっぱり美しい皮製の本だった。開くと、今度はちゃんと漢字が並んでいる。普通の小説みたいだ。
舐めるように内容を読む。でも、勢いよく活字を追い始めた私の瞳はすぐに失速して、私は首をかしげる。
……なんだかこの本、読んだことがあるような気がする。
しかしハッキリとは思い出せない。なんとなくモヤッとした気持ちのまま、その本を本棚に戻して別の本を引っ張り出す。これは一冊目と同じく子供向けの本らしく、ひらがなが多い。おや、これもやっぱりなんとなく覚えのある内容だぞ?
私は首を反対方向に捻り、一旦本を閉じてその豪華な装丁の表紙を眺める。
おかしい。本の内容には確かに覚えがあるのに、こんな綺麗な洋書風の表紙には見覚えなんてなかった。
私が今まで手にしてきた本というのは、一般的なハードカバーの単行本や小さくて薄い文庫本だ。何せ我が家はしがない小市民の家庭なので当たり前のことだが。つまり私は、こんなに豪華で骨董アイテム的な雰囲気たっぷりな本なんて手にしたこともないのだ。
なんというか、違和感を感じる。なんで読んだ覚えのある本がたくさん、この不思議の国の図書館にあるのだろう。
モヤモヤしたまま、私は手当たり次第に三冊の本を本棚から抜き出してぱらぱらと捲る。一冊目、恐らく童話。これは読んだ覚えは……ない。二冊目、恐らく児童書。こっちも読んだ覚えはない。……三冊目、同じく児童書。あっ、
読んだ覚えが……ある!
これは間違い無く読んだことがある本だった。すごく面白い本だったから、忘れようが無い。
小学校低学年のときだったか、図書室で見つけて、あまりの面白さに何度も何度も借りて、ほぼ私が独占していた。司書さんは最初こそほほえましそうな顔で貸し出し手続きをしてくれたが、最後のほうは呆れ顔で「本当にその本を面白いって思ってるのなら他の子にも貸してあげなさいね」と注意を受けた。
まぁ、私としても面白い本を独り占めしていたことに心が痛まないでもなかったが、でもまぁいっかテヘペロ☆とあまり気にしていなかった。いや、でも一応クラスメイトに薦めたりしたんだっけ? 小さい頃のことだからか、よく覚えていない。
さて、では、何故この図書館には、私に覚えのある本がこんなにたくさんあるのだろう?
……まるで私のためにあつらえたかのようで、嬉しいような、不気味なような。
思案して私は顎に手をやった。気分は名探偵、ヨーシ不思議の国の謎を張り切って解いちゃうゾ☆ ……なんちゃって。
普通に考えれば、この図書館の蔵書を管理している人の趣味が私とドンピシャ同じだってことになる。いや、でも、そもそも現代日本で出版されている児童書が、不思議の国にある時点でおかしくないか?
だってこの国の風景は、まるで御伽噺の世界をそっくりそのまま現したような、中性ヨーロッパ風のレンガの家々と、広大な森と、青々とした海の見える海岸と、そして極めつけには赤と白のメルヘンなお城のあるような場所だ。
そんな世界に、私の育った現代日本と同じ内容の本があるっていうのはちょっとおかしい。端的にいえば、世界観的に全然合わない。
……もしかして、今手に取った本たちも、私と同じように現実世界からやってきた、とか?
……この不思議の国というのは、結局どういう場所なんだろう。
あらためてこの場所について何も知らないという事実を突きつけられて、私は少し身を震わせた。日の光が直接差し込まないせいか、この図書館は程よく涼しい。その涼しさが、今はぞっとするような寒さに感じられる。
不思議の国。
白兎の連れてくる少女をアリスと慕う住人たち。
心臓の鼓動のない猫。
そして、以前居たという、私以外のアリスたち。
夕焼けの中、居なくなってしまったらしい、一番最初のアリス。
ここは、一体。
私の吸い込まれたあの謎の絵本のなかなのか。
それとも、私は不思議の国のアリスよろしく、ただ昼寝してこんな奇妙な夢を見ているだけなのか?
悶々と考えつつ、私はさっき出した本を戻そうと本棚に目を向けた。そして、おやっと思う。本棚に目立つ傷がついていることに気がついたからだ。
ちょうど私が立ったときに、目線上に来るくらいの高さだ。木製の棚の板に、何かで抉り取ったかのような深い傷跡があった。
本棚全体が漆で塗りこめたようなつやつやとした滑らかな質感だったので、一度見つけてしまうとその傷はひどく目立った。よく見ようと顔を近づけたところで、私はその傷跡があるあたりの本の間に、何か薄い冊子のようなものが挟まれていることに気がついた。
皮製の立派な背表紙の間に挟まるそれは、ずいぶん薄汚れてひなびた雰囲気だった。どうやら、本ではなくてノートのように見える。誰かの忘れ物かな?
なんとなく興味をひかれて、そのノートを触った。抜き取ろうとしたけれど、ぎちぎちに挟まっていてなかなかとれない。うお、なんじゃこりゃ。ふんぬっと気合を入れて、ようやく引き抜く。
さあて、誰の忘れ物かな? ちょっと秘密の匂いを感じて、私はわくわくしながら表紙を見る。
古びた質感のそのノートは、上質な手触りだ。恐らくきちんとした文房具屋さんで買ったものだろうな、と思う。伊達に絵を描いちゃいないぜ、私だってよく画材を買いに文具屋さんに行くからわかっちゃうもんね!
表紙にも裏表紙にも、名前は書いてない。……中身、のぞいたらやっぱり失礼かな。そう思いつつも、気になって私はそろりそろりと開ける。くうう、この背徳感、ぞくぞくしちゃうね!
ノートの1ページを開くと、そこにはなにやら文字が書いてあった。細いボールペンで書かれた繊細な文字。何だろうと目を細め、顔を近づけた。そこにあったのは、『佐奈の日記』というタイトル。
ごくん、と私は息を飲み込み、目を見開いた。ノートを持つ手が、かすかに震える。
なんで、ここに、こんな名前が?
佐奈なんて登場人物は、『不思議の国のアリス』には存在しない。いや、それ以前にこんな漢字の並ぶ文字は、日本人の名前でしかありえない。つまりこのノートは、この不思議の国の住人の忘れ物ではないってことになる。
もしかして、もしかしたら。この日記は、前にここに居たという、私より前に来たアリスのうちの誰かが遺したものだろうか……?
「アーリスッ! おもしろい本あったぁ?」
考えることに集中しきっていた私は、その声を聞いてびくりと震え、反射的に手に持ったノートを本棚の隙間にねじ込んだ。なんとなく、それが見つかったらいけないような予感がして、咄嗟に取った行動だった。
三月兎はそんな私に構いもせずに、いきなりタックルして私のことを見事に押し倒した。げぇっと変な声が出て、そんな私の上で三月兎は「あれぇ?」とのんきに首をかしげる。くそ、美少年だからって許さんぞ貴様! でもキョトンとした顔はかわいい!!
「難しい顔してるねー! あらら、カワイイお顔に眉間のシワがーっ!」
倒れた私の背にのったまま、私の額に手を伸ばし遠慮を微塵も見せずにぐいぐいと皺をのばそうとした。あわわ、やめっ、ちょ、痛い! あああああ、そ、そんなに強引にのばされたら顔が、顔が変形するうっ! こいつ、私の顔が二度と見られないものになったらどうしてくれるつもりだ!
「あの、や、やめてください、ちょ、ちょっと、」
「ええええ、だって、そんな茶葉が切れたときの帽子屋みたいな顔、アリスには似合わないよ。めっちゃ嫌そうな顔だもん!」
お、おう。帽子屋さんがさりげなくディスられている!!
茶葉が切れたときに眉間にシワを寄せて悩む帽子屋さんを想像して、大変微妙な気持ちになって私は黙り込む。いくら麗しの美青年であっても、憂いの理由がそんなんじゃ、素直にその美しさに感嘆できないね!
「……何、してるの?」
かけられた声に驚いて顔を上げると、そこには本を数冊抱えたヤマネさんが立っていた。白磁のかんばせに浮かぶ表情は怪訝そうで、半目になって私と三月兎を見ている。……そりゃそーだ! 普通馬乗りになってる人となられてる人いたらそんな顔にもなるよねなんかゴメン!
「三月……、アリスから下りて」
重たそうに本を抱えなおし、ヤマネさんがこちらへ寄ってきて溜息とともにそういった。ふおお、やっぱり天使! このマジキチな不思議の国において、混乱を収束する唯一の天使! ぺろぺろ!
おっと、これじゃ私まで変態みたいだ。いかんいかん、混乱のあまりの痴態である。
「アリスが嫌がってるから、早く。なんか彼女、口からヨダレ垂らして苦しんでる」
「!!!」
い、いやあああああ!! よだれ出てた! 本物の変態みたいじゃないか! も、もしかして朱に交わればというやつ!? 不思議の国に長く居すぎると、マジで変態になっちゃう感じなの!? うわあああああ早く帰りたいよおおおお!!!
不思議の国の謎を解いてから~とか悠長なこと言ってられない! とにかく早く帰りたい! この国に来てから、初めてといえるほど深く感じるホームシック!!
半ば変態化し始めた自分の言動に気づいた私は、うなだれながら決意を新たにした。絶対に帰る!
「え? あ、ほんとだ。アリス、そんなに苦しかったの? ごめんねー。何か今度はお尻もまれたときのビルみたいな顔になってるね!」
ひ、ヒエエエエ! 私の上からどきながら笑顔で三月兎が口にした内容がエグい! 可哀想なビルさん、まさか年下の同性にケツをもまれるとは……!!
いやー、しかし、あわや私も変態の仲間入りかと震えていたが、そんなことはなかったね。本物の変態っていうのは、美少女を見てヨダレをたらす程度じゃ収まらないようなBIGな変態だった。安堵に胸を撫で下ろす。私まだ変態じゃない!!
「アリス、大丈夫? ……三月兎に邪魔された?」
無表情に近いけれど、じゃっかん眉を寄せて心配しているのがわかる表情で、ヤマネさんが尋ねてくる。
「い、いえ。全然! 大丈夫です。久しぶりに本を読めて、とっても楽しかったです!」
何だか小学生の作文みたいな感想になっちゃったが、まぁ正直な感想だ。あ、そうだ。ヤマネさんは何を借りてるのかな?
「ヤマネさんは何か面白そうな本、見つけられました?」
「うん……。これ」
彼女が腕に抱えた本をそっと差し出すが、あう、悲しいかなその本はすべて英語の題名。読めない。
「いつも読んでる本の続きなの……。アリスも、良かったら読んでね……」
「……アリガトウゴザイマス」
ご、ごめん……!! 私、英語読めない!
だが可憐な顔でこちらを窺う美少女にそんな情けないことは言えずに、私はガクガクと頭を縦に振った。