第31話 怒りの涙
つぅっ。涙が一筋、零れ落ちた。
涙は暖かかったけれど、涙の伝った跡は、空気に触れるとヒヤリとした。
エプロンドレスのポケットを探る。
確かここに…。
有った。
ズッシリ、とした、重圧感のある重み。その確かな手応えを感じながら、私はそれを持つ。
『そうだ、アリス。もしもの事があったら大変だから…、はい、これを上げるよ。』
帽子屋さんに言われ、渡された小型の銃。
それは見た目や大きさに対しては、重く感じられた。
けれど、きっと人の命を奪えるシロモノにしては、とても軽いのだろう。
その引き金も、きっと。
とても、重くて。残酷な程、軽いのだ。
床に座り込んだまま、その銃を天井に向かって撃つ。
バキュンッ!!
その場を静かにするには十分な、銃声が響いた。
「あ…アリス、ちゃん?」
ジャックさんが戦いの手を止め、私を呆然としたように見つめた。
そりゃあそうだろう。今まで無力だと思っていた少女が銃なんて取り出したら、誰だって驚く。
エースさんも、僅かに驚いたように目を見開いて、こちらを見る。
銃を撃った衝撃に、腕がビリビリと痺れる。
けれど、この怒りを鎮められるのなら、腕一本の代償など、この時の私にはとても安く感じられた。
「てめえら…喧嘩を今すぐ止めろ。」
この国に来て、久しく使っていなかった柄の悪い言葉が、自然に口をついて出た。
多分、この国に来てから漠然と感じていた不安が、この怒りと合わさって爆発してしまったのだと思う。
私は、こんな強烈な感情を押さえられる程に大人じゃなかった。愛想笑いすら出来ない程に、子供な私には、出来る筈も無かったんだ。
「あ、アリスちゃんッ!!ど、どうしちゃったのよ?私、…そりゃ暴れちゃったのは悪かったと思ってるけど…。」
慌てるジャックさん。私の怒る訳が、見当もつかないようだ。
今は彼の慌てる顔が、とても嬉しかった。彼の顔から僅かに見え隠れする、驚愕と恐怖が。
「怒らない、とでも思ったんですか?」
床に座り込んだままでも、私の声はしん、と静まった食堂にはよく響いた。
まるでさっきの銃声が、魔法を使ったみたいに静かだった。みんなの声を凍らせる、サイレントの魔法。
「この国に来て、戻る方法はわからなくて。」
嗚呼、怒らない方が可笑しいんじゃ無いの?
「おまけに隠し事をされて。」
前のアリスって誰?誰も教えてくれないじゃない。
「おまけに命の危険にまでさらされた。」
そう言って、私の後ろにあったテーブルの足に刺さる、エースさんのナイフを引き抜く。
「っ…エース君、なんてことを…アリスを傷つけることは…大罪よッ…!」
ジャックさんがエースさんを振り返り、言った。エースさんは、呆然とした顔で立っているだけで。
「ねぇ、怒らない方が、可笑しくないですか?」
何の感情もこもらない、自分の声。怒っている筈なのに、声には感情がこもらない。
響く声に、食堂に居る人たちは身じろぎさえしなかった。顔は何処と無く蒼ざめて見えた。
「私は帰りたいのに。」
つぅっ。また、涙は流れ出た。
「そん、な…で、でも、この国はアリスちゃんに取って居心地は良いでしょう!!?愛されているんだから!!愛して貰えるんだから!!」
ジャックさんの慌てたような声。彼の手からすでに剣は滑り落ちていて。必死に私を説得しようとしている。
エースさんは、まだ呆然とした様子だった。頼り無げなその表情は、どうしてなのだろう。
「愛されてる?愛して貰える?何言ってるんですか?」
ははっ。乾いた、絶対零度の声で嘲笑ってやった。
「あなた方が愛していらっしゃるのは、私では無く、アリス=リデルでしょう?」
嗚呼、私はきっと我侭なんだろう。
あの子なら、きっとどんな愛でも受け入れてたに違い無い。
愛を切望して渇望していた、私の喪った友達の、夕子ちゃんならば。
でも、ごめんね。私、夕子ちゃん程大人でも、子供でも無いんだ。
あの子程、優しくないんだよ…。
「あ、…。」
ジャックさんは何も言えないようだった。ただ、固まった。
アリス。アリス。
そう呼ばれる度に、自分の名前が遠のいていく気がした。
「あは、あはははははははっ。」
可笑しくて、仕方が無いという風に、嘲笑った。せせら笑ってやった。
怒りのせいで頭は真っ白。
空っぽな愛は、怖くて素直に受けられないよ。