「女の子はいい匂いしかしないはず」
「女の子はいい匂いしかしないはず」
地元の地名の表示がバシッと音がして、シャッターが切られるように切り替わる。
外灯に照らされただけの小さなターミナルのアスファルトを舐めるようにヘッドライトが旋回し、夜行バスが入ってくる。
助けの舟を見た、難民のごと、地べたに置いていたそれぞれの荷物を抱えて周りが動き出す。
切られたシャッター。行き先を告げる。
「新宿」。
マイクで乗車の呼びかけが始まる。
ここでカメラは既に疲れた表情の人々の群がるターミナルから少しずつ遠ざかる。
ターミナル全体を映す入り口付近で一旦停止し、改めて寄っていく。
群集の一番後ろで小さなリュックを背負った背中。季節外れのスタジャンに黄色に近い鮮やかな長い髪が外灯に輝いている。
バスの行き先を見上げる横顔のシャープな頬にはヘッドライトの逆光の強いシャドーがかかって、キャップの下の表情は分からない。
小さく息をついたように一瞬下を向いた彼女もまた、バスへと歩き出す。
ここでカメラは、彼女を乗せて、じき東へと走り出すバスより一足先に500キロ先の目的地へと向かおう。
朝まだきの新宿上空。
共同アンテナの受信針が絶滅した見知らぬ恐竜の角のごと、朝日を弾き返して沈黙している、総合病院の屋上、上空。
カメラはここで停止すると切り替わる。
この物語のもう一人の主人公はここにいる。
下手くそな看護婦のせいで、左肘の内側、肉が抉れて、点滴の細いチューブの中に鮮血が少し、逆流している。
そのコードを引っ張り、レンの脚を掴む。ラースに出てくるレンを知らないか?そうか。
ここで僕の持論を伝えておこう。
女の子はいい匂いしかしないはず。
まぁ、女の子に触れたことはないけれど。
全部、「ラース-君がくれた夏の物語-」で学んだ。アニメだ。
カメラは乱れた白のシーツのベッドの縁に腰かける少年を左側から捉える。
薄い水色と白の縞模様の院内着から伸びた細く白い腕の先、指で一体の少女のフィギュアを掴んでいる。
彼は誰になく、話し出す。
「今日は水曜日。週検査の日です。
水曜日は着替えをさせるんですよ。
検査の結果がいいようにって。
世間じゃ神頼みとか、パワースポットがどうとかって、あんなの、何の意味もないですよ。
このレンはラースのシーズン3に出てくる子で、図書館で本とか読んでる内気な女の子なんです。ほかの子の髪の色は派手なのにこの子は黒のロング。とても清楚でこうあるべきですよね、女の子は。
でもいいんです。関係ないです。
どうせ僕はもうすぐ死にますから」
ベッドサイドの棚の上。
輪切りの鮮やかなフルーツ柄のホーローの脇にフィギュアが置かれる。
神経質そうに細い指で少年は細かくポーズを調整する。
紺の肩フリルのワンピースを着せられたフィギュアの少女の赤い目が、シーツに突っ伏した少年を見下ろしている。
長く淀んだ闇を抜けて彼女は500キロを潜り抜けて、今バスは、新宿駅南口のターミナルへ、もったいぶるような低速の大回りで滑り込んでくる。
マラソンランナーへ喝采を浴びせるような、甲高い複数のカラスの鳴き声が、バスの屋根に当たって周囲に響き、動き出した街の喧騒に紛れていく。
寝付かれなかった。
細く薄い備え付けの毛布を必死に引き上げて夜を過ごした彼女は薄目で窓の外を確かめる。
白い光の中に乱立し、威嚇するようなビル群の一部が切り取られて視界に飛び込む。
バキン‼ と、何かを叩き割るごと響いた金属の排水溝を通り過ぎたバスのタイヤの音で、意識がはっきりする。そして悟る。一夜に抜けてきた距離と、もう戻れないこと。
到着のアナウンスを待たずに彼女はシートから身を起こす。
丸めて纏めた長い髪がバサリと落ちて、彼女を守るようにゆっくりかかる。それを払いのけて彼女は顔をあげる。紗がかかっていた朝の光は強度を強め、僅か開いたバスのカーテンの隙間からさえ彼女の横顔を射抜く。
遮るように、リュックからサングラスを取り出す。
細い顎のライン、吊り目のように切れ上がったレンズのデザイン。
捨てられて、落ちぶれて、排水溝から出て、再び歩き出す一匹の野良猫の矜恃と恐れのように僅か、揺れてる彼女の肩に、朝の光の一つが留まる。
カメラはここでもう一度、さっきの少年へと戻る。
銀で出来た細い歯が黒い毛の隙間を走っていく。櫛はネットで購入した筆職人が毛の剪定で使う専用のものだ。
サッとカーテンが開けられ、検査を告げにきた看護師が、朝から縁起の悪いものでも見たかのように、でもそれを何とか表情に出さないようにと一瞬の必死の努力の末の、それは表情なのか、哀れむような面持ちで。
少年と目が合う。
目を逸らしたりなどしない。見返したまま、歯をレンの髪から離し、静かに棚へ戻す。
何を疚しいことがあるか。
レンはお前なんかよりずっと美しく、僕に近い。
促されて、重病人でもないのにストレッチャーで運ばれる。
バカバカしい。
脳の腫瘍の一つに怯えているのは僕じゃない。お前ら医者の方だ。
身体を包む機械から照射される見えない光が僕の脳を執拗に輪切りしている間、僕は妄想する。
僕は童貞だ。
そして多分、童貞のまま死ぬ。
心残りがないわけじゃない。
でもそれは仕方ない。
確率とは結句、過去からの予想でしかない。
だとしたら、僕の今までの人生17年全部賭けたとて、これから先、良い事など数える程しかないはずだ。
腫瘍が見つかって中学に行けなくなって、人並みのレールから外れてしまったと思った。
分かるまい。
サッカーとかバスケとか、そういうものに汗水を垂らすことが出来て、同じ教室に女の子がいて、その匂いをあわよくばかげるような、そんな環境で10代を過ごした奴らに分かるまい。
僕の孤独と、それを上回る苛立ちが。
マスターベーションさえ満足に出来ない、無遠慮な看護師がいつ来るとも分からない薄いいやったらしいカーテンに遮られた世界。そこで充足を求められる生など分かるまい。じわじわ死んでいくんだろ。分かってる。言ってやろうか、医者達に。無駄な事だ。ぼくは毎晩祈ってさえいる。腫瘍や、もっと早くデカくなって、僕の脳を奪えよ。そう祈ってる事、言ってやろうか。
フラッシュが明滅する光が突如目の前で炸裂し、どこかに備えられたスピーカーから検査終了の声がする。
痛みもなく検査は終わって、芳しくない結果が告げられる。それを毎週繰り返す、その寂寞。
何も成してなく、死ぬのか。
そうか、そうかよ。
ベッドに戻る。
カーテンの継ぎ目を安全ピンで何箇所も留めて僕はゆっくりとレンのワンピースの下から足先へ、奥へと指を添わせる。
分かるもんか分かるもんか。
憤怒にも似た何か。
ギャッと圧を受け、レンの身体が軋む。その音で僕は自分の汚れた身体と、それでもまだ生きてる事を自覚する。なんて事だ。
女の子はいい匂いしかしないんだろう?女性もののシャンプーをしているレンの髪の毛を嗅ぎながら僕は独り静かに昂ぶっていく。そう思って死なせてくれよ。それさえ、世界は僕に許さないのか。
キリキリと。
時をここで少し巻き戻そう。
フェードアウトしたベッドの上の少年。代わって白い画面から徐々に立ち上ってきたのは、先ほど新宿についた彼女だ。
マイナーロックバンドのロゴが黒字でプリントされた白いTシャツを着て、下に清流が流れる橋の上。向き合ってる男の顔は彼女の陰になって見えない。
彼女の肩を掴む逞しい筋肉の筋だけが見切れている。
カメラは2人の姿を彼女の後ろから捉えている。声が聞こえる。彼女の声だ、男がそれに応えている。
「なぁ、お前ってそんな面倒な女だったっけ?見当違いだわ、マジで」
真夏の太陽光線を浴びて、鈍色の欄干は吸収した熱をじわじわと周りに吐き出しているようだ。
額から汗が出てくる。
せっかく慣れない化粧もしたのに。
「だって冷静に考えてみれば無理だろ?まだバンドも続けたいし、お前だってそうだべ?」
男のサイドを刈り上げた変則的なドレッドヘア。毛量が多過ぎて余ったのを固めているから、ウルトラマンセブンみたく、後方に流れている。わたしの、正義のヒーローじゃなかったのか。すっとシャツに手を当てる。まだ何の兆しもない自分の腹。その仕草を見て男がなおも言う。
「まだ間に合うんだろ?絶対そうした方がいいって。そりゃ申し訳ないと思うし、責任も感じてるけど、時間が経ったら、そうした方が良かったってお前も思うよ。勿論、金だって出すし」
そんなに嫌なのか。
それが、純粋に不思議だ。
責任とか申し訳ないとか、思って欲しいわけじゃないよ、分かってよ。
腹から手を離し、欄干を掌で包む。
皮膚が灼けるような熱さ、限界まで我慢して、グッと息をこらえて、表情を作る。
「分かったよ。いなくなってあげるから。別のいい人見つけて」
キクスイ、あなたが好きだと言ってくれた、はにかんだ笑顔で言えたはずた。
男の首筋に掌を押し付けて離すと、踵を返す。
スニーカーがタンタンと、敷き詰められた古臭いアスファルトブロックの隙間を踏むたび音を出す。音符になって、響け。曲にならぬ悔しさとさみしさ。
カメラはかちらへ向かってくる彼女を正面から捉える。噛み締めた唇から獣の牙のような先の鋭い小さな八重歯が白くのぞいている。
風をはらんでシャツが揺れて、寄り過ぎた彼女がシャツのロゴだけアップになってフレームアウトしてカメラの脇を通り過ぎていく。
ここで、カメラは大きく首を振り、再び今の新宿へ。今の彼女を捉える。
小さなメモを頼りに住宅街を彷徨って辿り着いた二階建ての一軒家。
東京での唯一の親類。
叔母がいるという。
会うのは初めてだ。
髪を結わえ直すと、意を決してインターホンを鳴らす。反応が無くて、再度インターホンに指を伸ばしかけたところで応答がある。
何と名乗ったものか、一瞬迷い、故郷の地名と名前を告げる。しばし考えるような沈黙ののち、今行きますとの応え。
扉が開き、中年の女が出てくる。どこかへ出掛けるところだったのか、化粧をしっかりとしている。
手短に上京の挨拶をする。
彼女の母親から簡単に事情は聞いていたのだろう。それに軽く頷くと女は言った。
「これからわたしも病院に行くのよ。息子が入院していてね。総合病院だから産婦人科もあるわよ」
そこで言葉を切って試すように彼女を見据える。
「一緒に連れて行って下さい」
「いいわよ。でも、あなた本当に生むの?」
「はい、産んで、ここで子どもと2人で生きていこうと思います」
「そう、でも仕事は?住むところもないんでしょう?」
そう言って何かに気づいたように女は慌てて言う。
「いや、わたしんちもね、勿論余裕があればそりゃね」
「大丈夫です。叔母さんにはご迷惑はかけませんから」
彼女は叔母の言葉を遮る。それに安心したのか、女は頷くと歩き出す。彼女はそれに続く。ふと先ほどの叔母の言葉を思い出して聞く。
「息子さんが入院されているんですか?」
聞こえなかったのか、中年の女にしては早足で女は歩いて行く。
が、ふいに立ち止まると振り返った。
「そう。女の子が好きでね、あなたと同じ名前の女の子と一日一緒にいるのよ」
淋しそうに笑うと、彼女の返事を待たずにまた歩き出す。
嫌だ。
淋しいとか思ってはいない。
見舞いなんていらない。
僕は充足してるさ。
何も足りてないものなどない。
見た事もない年上の女の訪問など、望んでない。
「姉の娘さんでね、あんたにとっては義姉さんに当たるのよ。失礼な事言うんじゃないの」
失礼?
それは何か、質の悪い冗談か皮肉か。
流しっぱなしにしていたアニメのDVDを消すと、ヘッドホンを毟り取る。
冗談だろ。
「何しに来るんだよ。会わないよ。会いたくないよ。彼氏と上京がてらのディズニーランド帰りにでもフラっと寄って可哀想な義弟を形ばかり見舞っていい人気取りか。やめてくれ。迷惑だ。失礼はそいつの方だろ」
「あの子はそんなんじゃないわよ。それに、名前を聞いたらあなただって…
母息子のやり取りの途中だが、一度カメラに視点を戻そう。少しずつカメラは2人から離れていく。病室を仕切るカーテンをすり抜ける。2人の姿の代わりにカメラは閉ざされたカーテンの前に立つ、彼女の姿を捉える。
さてカメラをここに置いて、物語を再開しよう。
出身はエストニアだが、アメリカに国籍を移した黒人白人混成の珍しいロックバンド、エルガルドラインのボーカルが以前CNNのインタビューに応えて言っていた。
「話せば分かると言うが、その実、言っても分からねぇ奴がこの世界にはごまんと居て、しかもよく出来たことに、おうおうにして人生はそういう奴と邂逅する段取りに出来てる。全くファックな話だが、それを愛せるのがRockだと思う」
聞いた時は彼と2人で笑ってさすがエルだと思ったが、なるほど、笑い事ではなかったか。息を吸う。溜めて、表情は作らない。カーテンに手を掛ける。蛍光灯にチリッと光る、細い銀色。安全ピンか。守っているんだな、ここから入るなと、拒絶して、孤城の城主気取りだなぁ、わたしも行きたかったよ、ディズニーランドとか。
両手で掴んで力を入れる。
AVとかであるだろう、ストッキングが裂ける時と同じような音が響く。
全くファックな話だぜ。
少年と目が合う。叩きつける。
「失礼で悪かったなぁ。こっちは母親の股から生まれ出た時から失礼続きなんだよ。文句があんなら直接言ってもらおうか」
「レンちゃん!」
待っててとの指示を無視して乱入してきた彼女に叔母が非難するような視線を向ける。
言葉に反応して、パッとベッドサイドに視線を飛ばした少年に、彼女、ここで改めて呼称を変えよう、レンは言う。
「そっちじゃねぇよ。こっちに生身の女がいるだろが」
やめろやめろやめてくれよ。
誰だよこいつ。
僕が何をした?
病気になって、それでも誰にも迷惑をかけず、わがままも言わず、ここでおとなしくしてるじゃないか。それでいいだろ、上出来だろ、掻き乱さないでくれよ。
迷惑だよ。
そうさ、僕は頑張ってる。
何が欲しいとも言わないし、死ぬのが怖いとか、そういう泣き言だって言ったことがない。
それなのに、なんだ、この女は。
レンだって?
レンちゃんがこんなんであってまるか。侮辱しやがって。
「出てけよ!」
渾身の力をこめて怒鳴る。
震えて、顔が紅潮する。
ベッドの上で膝を抱えて俯いて、肩を震わしている。
それを見下ろす。
細くて小さくて、まるで女の子のようだ。そんなに牙を剥き出して、怖いのか。投薬の影響だという、脱色して薄い茶色に変わってしまっている髪の毛。細くふわふわしている。でもそれは、棘なんだろ?
寝癖がはねている。
点滴に繋がれていない右手で命づなのように掴んだ、小さな少女のフィギュア。これが、アンタの大切なものか。
そうか、分かったよ。
「急に来て、ビックリさせてごめん。カーテン、ちゃんと弁償するから」
レンは病室を出る。
少しの窪みに雨水が少しずつ溜まって大きな水たまりになるように、それはシーツの上で徐々に広がっていく。
吐き気の止まらない深夜。
消灯された病室は暗く、入口の非常灯だけ、不安を煽るような原色で光って、その光の筋を病室に幾筋かはみ出させている。
それは少しずつシーツを広がって、横たわる少年を包囲していく。ズブズブとそこへ沈んでいく感覚。
助けて、助けて。
必死に言ってるはずなのに声が出ない。ナースボタンを押す代わり、僕は必死に手を伸ばす、ベッドサイド。
お気に入りの真紅のドレス姿をさせたレンを握りしめる。助けて助けて。苦しいよ。
胎児のように丸まり、お腹にフィギュアを抱え込む。暗闇の中、ドレスの中に指先を差し入れて、もうぜんぶ知ってるその中に触れていく。ここは太もも、腰、腹、確かめるようにプラスティックの皮膚をなぞる。
吐き気と戦い続ける。
何度も何度も指は小さな布の中で上下する。吐き気を耐えて出た涙が頬を伝っていく。
怖くはない。
怖くない。
僕は満たされている。
ゴン!と脳内で音がして強烈な痛みと吐き気がくる。慌てて、ベッドの柵から身を乗り出す。
獣のような声を上げて、必死に何か、吐き出そうとす。粘る痰と胃液しか出ない。柵にもたれたまま、痛みと吐き気をやり過ごす。
レン、助けて。掴んだ脚を撫でる。
僕をもし変態と世界が言うならよし、それで良い。世界に満ちる健全な人々よ、お前らだって知れば泣いて乞うだろう、恐怖ではない、嵌ればもう抜けられぬ、ここに広がる底はない、孤独を。
呼ばれた気がして目が覚める。
ネットカフェの一室。
パソコンの電源が闇に赤く光っている。安物のソファで身じろぎする。
隣室の男が大きな咳払いをして、それが真横にいるかの如く響いて、ビクッとする。
独りか、ふいに自覚する。
思えば遠くへきたもんだ、初めてのライブ。小さな函だったけど、手売りしたチケットの甲斐あってお客さんも結構来てくれた。
始めて作ったオリジナル曲、「バンビーナ」。指先でコードを弾く。忘れちゃいない。何度も練習した。
(紅く一筋紅を引いたらバンビーナ、もう泣かないで)
歌い出し。ベースのてっちゃんが書く歌詞はいつも何だか昭和じみてて、絶対ロックじゃなかったけど、それがわたしは好きだった。
そのライブのアンコールでカバーしたんだ、思えば遠くへ来たもんだ。
フォークの原曲を、エレキサウンドに載せて歌い上げた打ち上げ、その夜、告白されたんだよな、彼に。
幸せだったね。その時のわたし。
部屋が借りられず、一週間、ネカフェ暮らしが続いている。
保証人がいないと、仕事がないと。
難題ばかり言ってくれるなよ。
寝返りを一つ打って再び寝ようとしてふと思い出す。
あいつ。
あいつのところへ行くか。
カーテンの件もある。
もう病院側で替えが用意されていた、カーテンが風もないのに揺れて、レンが顔をのぞかせる。
「具合はどう?」
大きな包みを抱えている。
気配に振り向く。レンか。いつまでこっちにいる気か。
ヘッドホンを外す。
備え付けのテレビの画面に映る、カラフルな短いスカートと、派手な制服を着た少女達の姿。
「お楽しみ中、ごめんね」
「それ何?」
「カーテン。買って持って来ちゃったよ。お金だけ払えばよかったのね」
ふふと笑って、スツールに腰を掛ける。
腹に塗られた薬が冷たい。捻挫とか、そういうのに効きそうだ。その上を医者が持った、ムヒみたいな形をした機械がぐるぐる動く。
「体調はどうなの?」
「平気だよ」
最初に見たときより、明らかに痩せている。
「ねぇ、名前、まだ聞いてなかったね」
「ハヤ」
「ハヤ?」
「そう」
「たとえば、ハヤトとかの聞き間違えじゃなく、ハヤ?」
「しつこいね」
ちょっと会話の途中だが、失礼しよう。物語も長くなってきたが、ここで、ようやく主役の2人の名前がはっきりしたようだ。
故郷から遠く離れ、東京へ出てきたレン。
脳内の腫瘍で入院する、美少女アニメに耽溺する少年、ハヤ。
これはもう言うまでもない、この2人の物語だ。さて会話に戻ろう。ん?別のシーンへとカメラは飛ぶようだ。
ムヒを腹から離すと、カブト虫などの幼虫の話でもあるかのようにサラッと医者は言った。もしかしたら、それは医者なりの思い遣りだったかもしれないが、レンにはどすっと土嚢のように響いた。首筋あたりに。
「成長が止まってますね」
ハヤが手持ち無沙汰のようにシーツをつまんだり離したりしている。わたしと2人で落ち着かないのだろう。
救いを求めるようにベッドサイドに視線をやる。
「いいよ。持ってると安心なんでしょ?人形」
「うるさい」
スツールをカタリカタリと揺らして、レンはリズムを取る。
音のない病室。僅か、ヘッドホンから漏れる女の甘い声。
「ねぇ、幻滅した?」
「何が?」
「最初に会った時」
「全然。タイプじゃないもん」
最初にレンがカーテンを裂いて入って来た時、あれはきっと安堵だ。強烈な怒りと恥辱の底に確かにあった。
ここから救ってくれよ、ずっと待ってたんだ、きっとその、乱暴にして可憐な来訪者、その誰かを。
「やっぱりレンちゃんみたいな黒髪の子がいいんだ?」
隣りでレンが笑う。
下がってもないのに、意味なくメガネを押し上げると、医者はレンの質問にやや早口で答えた。
「とにかくですね、様子を見ましょう。生活には気をつけて下さい。そう、ご住所のね、ここだけど、あなた何で」
「分かりました」
打ち切って遮って席を立つ。
そうか、誰も祝福なんかしてないのか。
住む場所もなく、逃げて来た女なんて。
おい、お前まで裏切るのかよお腹の中の分身に声を掛ける。
ヤワだな、キクスイと、わたしの血を吸ってんだろ?ロックだろ?たかが一週間、ネカフェの固いソファで寝て、ジャンクを食ったくらいでいじけてんなよ。おい、おい、なぁ、答えろよ、何か言えよって、なぁ、なぁ!
バンと廊下の脇、トイレの扉を開けて、個室に飛び込む。
「何か言えよおい…!」
クラブで泥酔した時のごと、便器にしゃがみこんで、張られた透明な水に向かって嗚咽する。
笑いたい笑いたいのに。
なんでこんな糞みたいな場所でわたし無様に泣いてんの。
ねぇ、もうみんなのところへ帰りたいよ。
(泣かないでバンビーナ。抱こうとするその手を振り払ったら歩きましょう、紅も鮮やかに)
みんなって誰だよ。いなくなったのは、わたしの方だもんな。
キクスイに橋の上で啖呵を切って、東京へ出てきた。
ビルに囲まれた場所で、カラスの声が告げた朝にそれはもうとっく、覚悟していたはずだろう。
袋から出したカーテンを広げて、後ろから、ハヤの肩へかけて、残りを自分に回す。
「雪山で遭難したみたいだね」
「ずっと隠れたかった?」
「そんな場所はないよ」
「いつまでこっちにいるの?」
居て欲しい?別に。近い?そう。こっち。やだ?ちがっ
間近にハヤの顔がある。頭から被った白のカーテンの中。病院のベッドの上。
「告白してよ」
レンは言って、ハヤの小さな髭を撫でる。一丁前だね。
ハヤが手を払う。
「何の?」
「言えない話。今だけ聞いてあげる」
俯くハヤの顔。首の骨が発掘され途中の何かの骨のように皮膚から浮き上がっている。裂けてしまいそう。
「聞きたいことがある」
「女の子っていい匂いしかしないんでしょ?」
笑い出しそうになったけれど、見れば不安そうなハヤの目の色とぶつかって、飲み込む。
「知りたい? 」
「試していいよ」
唾なんか、こんなタイミングで飲まないでよ。言っておいてなんだけど、怖いのはわたしの方なんだ。ハヤが見返して、レンにそっと手を伸ばす。レンは息を吸って、準備する。
「教えてあげる」
ハヤの目から不安が消えている。手が止まっていた。
「僕はね、童貞のまま死ぬんだよ。腫瘍は順調に大きくなってるってさ」
ハヤはレンへ伸ばしかけた手を、万歳をするように上へあげると、カーテンを払った。
レンは大きく息をつく。
背中のファスナーをそっと指先で摘まんで下ろす。下着のピンクの肩紐が見える。それを指の腹で肩から滑らせて落とす。精密作業のようにハヤが粛々とフィギュアの少女の服を脱がしいく。
「さっきのアレって情けのつもり?」
レンの否定を途中で手で遮る、伸ばした左手に点滴の管が引っ張られて支柱がガシャと音を立てる。
「いいよ、分かってるよ。どうせアンタには分からないよ。アンタなんかに分かってたまるか」
吐き捨てる。何が救いだ。
目が眩んでた。
そんなもの、あるはずがないのに。
肩先を露出させられて、ハヤの手のひらに収まっている少女の赤い目がこっちを見ている気がする。
「分からないよ。でもハヤ、あなただってわたしのことは分からないでしょ?」
「分からないよ!でもだからこそ僕は君をいたずらに挑発したりなんかしてないだろ。そんな権利、誰にもないだろ。病人で死にそうだから、イニシアチブ取れて嬉しいかよ、バカにすんのも大概にしろ!」
シーツに染み込ませたはずの夜に広がったアレが浮き出て身体の周りで噴き上がる。
バカにしやがってバカにしやがって。
そうだ、忘れてた。信じたりなんかしたら、傷つくだけだ。ろくなもんじゃない。
ヘッドホンを掴むと、かぶりつくように装着する。もう何も聞くか。
「そうだね、ごめんね。ハヤ、わたしはあなたと秘密を共有したかっただけなんだ」
レンの声はハヤには届いていない。
ベッドに置かれたカーテン。包まっていた2人の名残のような小さなコブを残した皺。
病室に2人を残してカメラは大きく上空へと上がる。
ゆっくりと西へ向かう。
彼女が去ったのちの、故郷へ。
スタジオでアンプを弄りながらてっちゃんが言う。
「レンが居ないと練習しても意味ないでしょ」
「ボーカル、今募集してっから」
キクスイがドラムの前に座ったまま、憮然として答える。
「代わりなんているのかよ。レンに戻ってきてもらえよ」
ラスカはギターを壁に立て掛けたまま、取ろうともしない。
スマフォが光っている。
LINE。
てっちゃんからだ。キクスイからじゃないところが、らしい。てっちゃんは優しい。いつだってメンバーの間に入って仲裁役だ。
「レン、帰って来て。キクスイもそう言ってるよ」
てっちゃんらしい。あいつに気を遣うことなんてないのに。
キクスイ、わたしが付けた彼のあだ名。メンバーの間で全然浸透しなかったのに、てっちゃんだけは面白がって使ってくれた。
段ボールで囲まれた、フローリング。
四畳半に残された隙間でわたしは天井を見つめる。
(ありがとう、てっちゃん。わたし、もう戻れないよ。バンビーナ、いつだって、あれがわたしの最高の曲です)
心の中で呟く。
やっと決まった木造アパートは風呂さえない。
カタカタ石鹸鳴るのか、優しさの怖い彼は居ないが、神田川のほとり。
結局、お腹の中の子はダメだったよ、ゴメンね、キクスイ。
目をつぶる。
バンビーナのイントロを口ずさむ。
また夜が来る。
何度越えたら、死ねるのか。
死ねる?
本当かよ。
死ぬのか。
黒い例のが今夜も広がり出す。
やめてくれ。やめてくれよ、もう。
「あがけよ」
レンの声。
まさかな。
「生きたいのは誰だって同じだろ。でもなぁ、死ぬしかない者もいるんだ、悔しいけど。だからこそ生きてる限りはあがけよ。死者に失礼はアンタだ」
「知らないくせに、何の痛みも抱えないくせに言うなよ!」
「痛み?痛みがそんな偉いかよ!」
「レンだって僕と同じになってみれば分かるさ」
昼間、ふらりとやって来たレン。
そう言えば、憔悴して見えたのは気のせいか。
「ハヤ、苦しいんだね。でもあなたはまだ生きてるじゃない。だったら、まだあがいてよ」
そう言ったっきり、走って病室を出て行ってしまった。
しっかり防いだはずなのに、鎧の隙間から、刺さった言葉。
聞けば良かった。
レン、何があったの。
次に会う時に聞けるだろうか、この夜を越えて。
ふっと、ベッドサイドに手を伸ばす。
デモ用の白いCD。
レンがくれて、一度も聴いてない。
手探りでヘッドホンを探す。
CDをラジカセにセットする。
微かに回転音がして、しばしノイズのあとに、突然知らない男の声が聞こえる。
「てつ、チューナー3な、上げぎみで最初しぼ…あれ?もう録ってるの、これ?」
「始まってるよ!キクスイ、曲紹介、曲紹介!」
レンの声だ。
バンド、やってたんだ、本当に。
「やー俺むり、そういうの。レンちゃんお願い」
「え?えー! えっと、バンド名は…」
「いいよ、もう曲やろ、曲」
ドラムの打ち込みが始まる。それに負けないようにレンが怒鳴るように言う。
「えーじゃあ、聴いてください。バンビーナ‼」
ベースとギターが重なる。重層的なアップテンポなイントロが始まる。
レンが歌い出す。
ハスキーでいつもと全然違う声。
暗闇でハヤは耳を澄ます。
レン/Vocal&Guitar
ラスカ/Guitar
てっちゃん/Bass
キクスイ/Drums
『バンビーナ』
紅く一筋紅を引いたらバンビーナ、もう泣かないで
つれないあなたも、いつかわたしを忘れるでしょう
生きて辱めをうけずといえど、この火照りの中で何度も生まれ変わるなら、もう翼はむしっていい
泣かないでバンビーナ
抱こうとするその手を振り払ったら歩きましょう、紅も鮮やかに
浮世の世知辛さを知って笑うなら、袖触れ合ったあなたは明日の人
わたしのいい人にはならず、何度も泣かせて、もう一度会いにきて
泣かないで泣かないで
バンビーナバンビーナ
紅蓮の紅を引いたらもう忘れて
わたしの声は聞こえないところでちゃんと生きてね
泣かないでバンビーナ
抱こうとするその手を振り払ったら歩きましょう、紅も鮮やかに
あなたも知らない香り
つれないあなたも、いつかわたしを忘れるでしょう
そしたらもう一度生きれる
そしたらわたしももう一度生きれる
手書きの歌詞カードの最後のフレーズをレンが歌う。ゆっくりとフェードアウトしていくギターとベース。
最後まで残ったドラムがたっぷり余韻をつけて消えて、暫く沈黙が続く。
ふいにまた、音声が入る。
「レンちゃん、レンちゃん!バンド名!最後にバンド名言っとこ」
「え?最後にそれ?」
レンの笑い声。
「早く早く!」
「バンド名は…」
聞き逃すまいと、ヘッドホンを耳に押し付けた瞬間、ブッ!と、ハヤの頭の中で何かが弾けるような音がした(終)
感想、ご意見、ありましたら、ぜひお寄せ下さい。
同時に、読んで下さった方達が考える、レン達のバンド名も募集致します(笑
こちらもどうぞ奮ってご応募下さいませ。
複数候補が上がりました際には、レンを含むメンバーの話し合いの上、活動報告の欄でレンより報告させて頂きます。