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嘘つき周波数

作者: つちふる

 

 里江が深夜のテレビショッピングを観るようになったのは、このところ孝行の帰宅がとみに遅くなったからだ。

 もともと残業の多い職種ではあったが、それでも日付を越えるようなことは滅多になかった。

 ところが、最近は日付が変わってから帰宅することのほうが多くなっているのである。

 部署の責任者に抜擢されたからだと、孝行は言う。

「このところ、やれ会議だの、出張だの、打ち合わせだの、周りのフォローだので、自分の仕事が全然できないんだ。やるとしたら残業してやるしかなくてな」

 うんざりだよと愚痴をこぼすわりには、妙に生き生きした顔をしている。残業はともかく、仕事自体はやりがいを感じているということかもしれない。

 里江としても夫が順調に昇進の道を進んでいることは喜ばしく思っているし、ありがたいことだとも思っている。自分が自由の多い専業主婦でいられるのは、孝行の稼ぎが良いおかげなのだから。

 今のところ生活には十分なゆとりがある。

 それでも、近い将来は一軒家を建てる予定もあるし、いずれ授かるであろう子供にも良い環境を与えてやりたいと思っている。

 そのためにも、孝行にはもっと頑張ってもらう必要があった。

 里江はだから、日付がかわるような残業の日でも冷めた料理にラップをかけて寝てしまうようなことはせず、孝行の帰りを待ってねぎらうことにしているのだ。

 さて。

 そうなると、夫が帰宅するまでの時間をどう過ごすかという話になる。

 インドアな趣味があれば、読書をしたり、音楽を聴いたり、編み物をしたりして時間をつぶせるだろうけれど、アウトドア派の里江はどれも興味がもてない。

 結果、ダラダラとテレビを観つづけることになり、その流れですべての放映が終わったあとに始まるテレビショッピングにも目を通すようになったのだ。

 深夜0時十五分から始まる 【ルックフォン・ショップ】 は、海外のテレビショッピングを日本語に吹き替えたコメディ仕立ての番組で、ひたすら品名と品質と値段の説明に終始するいかにもなテレビショッピングとは一線を画した、エンターテイメントを重視した番組だ。

 通販にはあまり興味のない里江も、この 【ルックフォン・ショップ】 は、良い暇つぶしになるのでわりとお気に入りだったりする。

 その日も、例によって孝行から残業メールを受け取った里江は、自分の夕食をさっさと済ませると、夫の分を食卓に用意してテレビを観ることにした。

 やがて、時計が午前0時十五分を指すと、深夜とは思えないご機嫌な音楽が流れ、一昔前のシチュエーション・コメディにありそうな部屋が映し出された。

 まず登場したのは、ソファでくつろいでいる男性。この番組の主人公ポジションのジョーイ。

 足をのばしきって本をぺらぺらとめくっている。

 そこへ、舞台横から女性が颯爽と歩いて登場。ヒロイン役のルシーダだ。

 彼女は人形らしき物を大切そうにかかえて、男―― ジョーイに近づく。

 ここで、観客席からひと笑い。いかにもシチュエーション・コメディの世界だ。

「ねえ、ジョーイ。私になにか隠し事ごとしてない?」

 唐突な質問にジョーイが体を起こす。

 目をしばたたかせてルシーダを見つめ、それから読みかけの本を置き、肩をすくめて両手を広げる。

「してないねえ、何ひとつとしてないよ! ……多分」

 おどけた仕草に観客が笑う。

 ルシーダはとぼけるジョーイにウンウンと頷き返し、ニヤリと口端を吊り上げる。

「じゃあ、これからあなたに質問をするわね。あなたは正直に―― いい? 【正直】 に答えるのよ」

「ああ、いいとも」

「その前に、これを抱いて」

 言って、大切そうに抱えていた人形をジョーイに差し出す。

 ここでカメラがその人形をアップにする。どこかで見たような人形だ。

 黄色いとんがり帽子につぶらな瞳。いたずらっぽく笑う口。そして最も特徴的なのは、普通の人形に比べて鼻が長いこと。

「これって人形? ……やあ、なつかしい。ピノッキオじゃないか」

 そう、それはピノキオ人形だった。嘘をつくたびに鼻が長くなってしまう子。

 里江に物語を読んだ記憶はないけれど、そのことだけはなぜか知っている。

「そう。ピノッキオよ。それを抱いたままで、私の質問に答えてね」

 ルシーダは意味ありげにジョーイを見つめ、次いでカメラ目線でウインクをひとつ。観客が笑う。

「じゃあ、まず第一問。あなたは今日、車でこのスタジオで来たのかしら?」

「そりゃもちろん、YES。電車はあてにならないし、バイクは故障中だしね。歩くって方法も健康的で良いけど、そうなると昨日の昼にカンザスシティの家をでないと間に合わないから」

 言って、ウインクを返す。

 ルシーダはジョーイのジョークをまるで無視して、ピノキオ人形を凝視している。ピノキオは何の反応もしない。

「そう。本当に車で来たのね。いいわ」

「ねえ、なんだいこれ。心理テスト?」

「次の質問よ」

ルシーダはかまわず続ける。

「スタッフが差し入れてくれた、スターリップスのアイスクリーム、あったでしょ」

「ああ」

「私の分が見あたらないんだけど…… 食べたのはジョーイ。あなたね?」

「いや。僕じゃないな。ああ、そうだ。きっとケイトだ。マネージャーのケイトだよ。彼女、スターリップスのアイスが大好きだろ」

 ルシーダはさきほどと同じように、ジョーイの話を聞かず、ピノキオ人形を凝視している。

 と、その人形の鼻が突然、スルスルと伸び出した。

 観客の感嘆の声がスタジオに響く。

 ジョーイは目を丸くして、ピノキオとその鼻を見る。

「何だ? こいつ。鼻がのびたぞ」

「そうね」

 ルシーダは満足そうに頷くと、じろりとジョーイをにらみつけた。

「つまり、スターリップスのアイスクリームを食べたのはあなたってことよ。ジョーイ」

「え?」

「あなたでしょ」

「いや、その」

「じゃあ、もうひとつ」

 言って、ルシーダがピノキオ人形の鼻を軽く押すと、鼻はみるみる元の長さに戻った。

 再び感嘆の声。

「あなた最近、ご友人から最新モデルのゴルフドライバーを貰ったそうね」

「……ああ、あれね。うん。……何で君が知ってるのかな?」

「妻ですもの」

「それはこの番組の設定だろ!」

 メタな発言に、観客の笑い声が重なる。

「あなたの本当の奥様から聞いたのよ。プロが使う最高級のツアーモデルだって自慢してたらしいじゃない」

「……この番組、彼女も観てるんだけど…」

「知ってるわ。さて、質問するわね。その最新モデルのゴルフドライバー。本当に友だちから貰ったの?」

「ええと……」

「それとも、奥さんには内緒にして――」

 咳払いをひとつ。

「私じゃなくて、本当の奥さんには内緒にして、こっそり買っちゃった?」

 ジョーイは演技ではなさそうなぎこちない笑みを浮かべて、ルシーダを見る。

「ねえ。このシナリオ、台本にないんだけど」

「そりゃそうよ。私のアドリブですもの」

 会場から爆笑と拍手を起き、ルシーダは手を振ってこたえる。ジョーイは乾いた笑顔のまま天を仰いだ。

「さあ、答えて。最新モデルのゴルフドライバーは、友だちから貰ったの?」

「……オーケイ、オーケイ! もちろん、YESさ! 友だちから貰ったものだよ」

 なかばやけくそ気味にジョーイが答える。

 数瞬の間をおいてピノキオ人形の鼻がみるみる伸び出し、期待通りの結果に、観客は歓声をあげて喝采した。

「なるほど。友だちから貰ったというのは嘘なのね」

「ねえ。この人形、何なのさ?」

「つまり、あのドライバーは、ご自分でお買いになられた。ということかしら?」

 ジョーイは言葉につまり、ルシーダとピノキオ人形を交互に見比べ――

「……はい」

 ピノキオ人形は、今度は何の反応もしなかった。

 観客の笑い声と拍手。

「やっぱり、そうだったのね」

「ああ、もう。悪かった! 謝るよ。この通り、すまなかった! 謝るからさ――」

 ジョーイはまくし立てるように叫んだあと、ひどく冷静な声で続けた。

「そろそろ、この人形の説明をしてくれないか。一応、テレビショッピングなんだぜ。この番組」

「そうだったわね」

ルシーダは我に返ったようにカメラ目線になり、観客はその急展開にまた笑う。

「今日の商品は、まさにこれよ」

 言って、ジョーイから人形をふんだくる。

「ドール型ライディテクター・ピノッキオ」

嘘発見器ライディテクター?」

「そう。ジョーイ、あなたは嘘発見器の仕組みは知ってる?」

「いや。名前は聞いたことあるけど、仕組みまでは知らないな。教えてくれるかい?」

「もちろんよ。教えないと宣伝にならないものね」

 小さな笑いが起こる。

「嘘発見器といっても、いろいろと種類があるの。一番ポピュラーなのは心拍数・血圧・発汗の変化を調べるポリグラフ測定。ほかにも目の動きや体の動きで調べるタイプや、最近では脳波で調べる精度の高いものまであるわ」

「へえ。思いのほか種類があるんだな。で、これはどのタイプ?」

「ワオ、台本通りのいい質問」

「どうも」

「これは、どのタイプにも属さない嘘発見器なの。なんと、人の声の周波数に含まれるノイズで嘘を見わけるのよ」

「周波数って、何とかヘルツとかいうあれ?」

「ええ。以前から声の抑揚や裏返りかたで嘘を判別する測定器はあったけれど、あまり精度は高くなかったわ。でも、これは違うの」

「精度が高い?」

「Yes。とてもね。一昨年だったかしら、人は嘘をつくときに特定のノイズを発生させるという研究報告があったでしょう」

「いや、知らないな」

「あったでしょう?」

「OK。あったんだね。わかった。続けて」

「そのノイズは人の個性に関わらず―― ようするに嘘を平然とつく人でも、すぐに挙動不審になって怪しまれちゃう人でも同じように―― 出てしまうものなの」

「絶対に?」

「絶対に。無意識だから隠しようがないってわけ」

「へえ」

 ジョーイと観客の嘆声が重なる。

「この人形が、そのノイズをキャッチするってこと?」

「そう。人形の耳奥にあるスイッチをこうやって押して…… はい、センサーがオンになったわ。この状態で誰かが嘘をつくと、センサーが嘘つき周波数ライヤーズ・ノイズを感知して、ピノッキオの鼻が伸びるって仕組みなの。まるで童話みたいにね。読んだことある?」

「ああ、子供のころに読んだな」

 半瞬の間をおいて、ピノキオの鼻が伸びる。

「ごめん。読んだことないです」

 即座に謝るジョーイに、観客が爆笑する。

「精度については、たった今ジョーイが試してくれたとおりよ。…もう一度試してみる?」

「いや、結構。精度はもう十分に証明されただろ。僕の貴い犠牲でさ」

 ピノキオ人形を差し出されて、ジョーイは大げさに後ずさる。

「でも、これって使い道あるのかい? 警察や裁判所だったらともかく、一般家庭の日常で使う場面が思いつかないんだけど」

「あら、いろいろあるじゃない。そうね、例えば…… ある日、あなたのお気に入りのティーカップが割れていた。自分で割った覚えはない。じゃあ、いったい誰が? 猫かしら? それとも子ども? という場面」

「うん」

「そこで、子供に聞くのよ。ピノキオ人形を近くに置くか、抱かせるかして―― 『ねえ、ハニー。僕のティーカップを割れていたんだけど、君は誰がやったのか知ってるかい?』」

「嘘をつけばピノキオの鼻が伸びるし、本当なら反応しない。なるほど。勝手な決めつけで怒るようなことがなくなるかもしれないな。誤解が少なくなるのは良いことだと思うよ」

「ほかにも、こんな場面でも使えるわ。……最近、夫の帰りが遅い。仕事が増えて残業が多くなったとか言ってるけど、本当かしら。ケイタイの電源が切られていたり、こっそりのぞいた着信履歴に暗号めいた名前があったり、あやしいわ。なんてときに、この人形をそばに置いてこう聞くの」

 ルシーダはジョーイに詰め寄るように近づく。

「ねえ、浮気してるでしょ?」

「…なんて恐ろしい」

 震える声のジョーイに観客が笑う。

「あら、余計な勘ぐりをしなくてすむじゃない。夫が浮気しているかもしれないなんてヤキモキしてるより、ハッキリとジョーイは浮気をしているってわかったほうが良いでしょ」

「おい。僕が浮気していることになったぞ。勘弁してくれ」

「とにかく。使い道ならいくらでもあるってこと」

「穏やかじゃない使い方ばかりだったけどな。さて。じゃあ、ルシーダ。このピノッキオの注文方法と、肝心な値段を教えてくれないか」

「オーケイ。この高精度ライディテクター・ピノッキオ。価格は、税別で二万八千円。送料は地域によって異なるから注意してね。注文は電話のみの受けつけよ。番号は―― 多分、このあたりに出てるわ」

 ルシーダが指さす画面の右下に、価格と電話番号が浮かび上がる。

「支払方法や送料、発送日の詳細はオペレーターが詳しく教えてくれるから、どんどん電話してね。そうだわ、ジョーイ。あなたの奥さんにも勧めなきゃよ」

ジョーイはルシーダからピノキオ人形を取り上げると、満面の笑顔でうなずいた。

「もちろんさ。家に帰ったらすぐに注文させるよ」

 ピノキオ人形の鼻がみるみる伸び、今日一番の笑い声と拍手が響きわたった。

 それらを覆うようにBGMが流れ出し、画面中央に 『see you!』 の文字が浮かび上がると 【ルックフォン・ショップ】 は終了となる。


 おおよそ三十分の放映。

 いつもはファッション雑誌をめくりながらツボに入ったジョークに笑うぐらいで、商品内容など覚えていない里江なのだが、今回はちがった。

 ルシーダが注文方法の説明を始めると、雑誌裏の空白部分に電話番号と商品名を書き殴り、アンダーラインを力強く引いたのである。

 一時を過ぎてようやく帰宅をした孝行は、雑誌裏に書き殴られた文字に気づいて里江を見た。

「お前、ピノキオ好きだっけ?」


 里江のもとに 『ライディテクター・ピノッキオ』 が届いたのは、それから一週間後のことだった。



                   ※



 責任者に抜擢されたことで仕事量が膨れあがり、結果として残業や出張が増えたという孝行の話を、里江は一度も疑ったことはなかった。

 もともと一つのことにのめり込んでしまう性格で、高校時代は部活ばかり、大学時代は勉強ばかり、院生時代は研究ばかりして過ごしたと聞いている。

 だから、今の状態―― 残業と出張漬けの日々―― も、里江は 「今度は仕事にのめり込んでいるのね」 程度の認識でいたのだ。

 その認識にピペット一目盛り分の染みを落としたのは、主婦仲間の庸子の話だった。

「最初は、管理職にもなれば残業も出張も増えるのね、ぐらいに思ってたのよ」

 音をたてて紅茶をすすり、ひとつ三百六十円のマドレーヌをためらいなく口に放り込む。

「そもそも、あの顔にあの体型でしょ。 浮気するにもアレじゃあ無理でしょってね。変な信頼があったわけ」

「どこで怪しいって思ったの?」

「ケイタイよ」

「ケイタイ?」

「そ」

 マドレーヌを、もうひとつ。

「それまではだらしなくてさ、テーブルに放ってあったり、玄関や風呂場に置き忘れることだってしょっちゅうだったのよ。それが、急に肌身離さず持つようになったの」

「へえ」

「で、なーんか怪しいぞって思って、いつだったか酔っぱらって帰ってきた日にこっそり覗こうとしたら…… なんとロックがかかってるわけ」

「几帳面ね」

「いやいや、怪しすぎでしょ? だって、この間まで通話ボタンと終了ボタンしか理解できない人間だったのよ? ネットもメールも意味不明だから使わんとか、意味不明なこと言ってた奴よ? そんなのが、いきなりロックをかけて暗証番号を設定したりする? できる?」

「頑張って覚えたのね」

「何のために?」

「それはまあ、ロックをかけるためでしょ」

「だから、何のためにロックをかけるの? 今まであちこちに放り投げてたくせに」

里江は音をたてずに紅茶を口に含み、ひと呼吸おいてからうなずいた。

「怪しいわね」

「でしょ! そこで、調査することにしたの」

 庸子が注意深く観察してみると、夫の不可解な行動や態度が次から次へと浮かび上がってきたという。

 まず、残業がある日は妙に機嫌がいいこと。

 定時帰宅を条件にして仕事を選んだ人間とは思えないくらい、ウキウキしているのだ。

 残業の帰りには必ずご機嫌とりの手土産を買ってくるのも―― 最初は喜んでいたものの―― よく考えればおかしな話だった。

 つぎに、出張の着替えの中にお洒落な服が紛れこむようになったこと。

 買ってあげた覚えはないから、夫が自分で購入したということになる。

 ただ、それにしてはセンスが良すぎるし、そもそも出張に持っていくような服ではない。

 どうしたのと聞けば、安かったから買ったと言う。どう見てもブランド品なのに。

 それから 「ちょっと本屋へ行ってくる」 と言って出かけることが増えた。

 だいたい三十分から一時間程度の外出。

 必ず本を買ってくるから本屋にはちゃんと行っているのだろうけど、買ってきた本の大半は読んだ形跡がなく、中には袋に入りっぱなしの物もある。

 試しに読んだ形跡のない本の感想を聞いてみたところ 「なかなか面白かったよ」 という、なかなか面白い答えが返ってきた。

「とにかく、態度と行動のいちいちが余すことなく怪しいわけ」

 それらに加えて、急にケイタイのロック機能を覚えて設定したり、いつのまにかメールやネットを使いこなせるようになっていたりすれば、疑うなというほうが無理だろう。

 うしろめたいことをしていることは明らかだった。

 あとは、それを決定づける証拠がほしい。

 証拠をつかんだら、すぐに裁判にかけて慰謝料から土地から何から何までふんだくれるものは全てふんだくり、最後に離婚届にサインをさせて第二の人生をスタートさせる。

 庸子は、そういう計画があることを里江に打ち明けた。

 その計画を一日でも早く実現させるため、興信所に夫の浮気調査の依頼をしたという。

「まだ依頼して一週間ぐらいだけど、女の影があるのは間違いないみたい。あとは写真でも音声でもいいから決定的な証拠が手に入れば……ね」

 最後のマドレーヌをほうばると、庸子は毒のある笑みをうかべて里江を見た。

「あんたも気をつけたほうがいいわよ。朴念仁の旦那だからって油断してると、痛い目にあうから」

「あの人は、仕事一筋だもの」

人の夫を朴念仁呼ばわりするのはいかがなものかしらと思いつつ、里江は品良く笑う。

「どうだかねえ。残業とか出張とか、急に増えたりしてない?」

「増えてるわ」

「えっ、増えてんの?」

「でも、それは部署の責任者になったからで――」

「怪しい!」

 庸子は里江の言い分を遮って身を乗り出した。その瞳は、ある種の期待に満ちている。

「うちの旦那とまったく同じ言いわけしてるじゃない! 怪しすぎ。それって、ほんとに残業? ほんとに出張? ちゃんと確かめたほうがいいわ」

「でも――」

「うちの夫にかぎって。でしょ?」

 里江の言葉を先読みして、ニヤリと笑う。

「うちの旦那も、まさにそういう感じだったわけよ。だから気をつけなさいって言ってんの。……ところで、それ食べないならもらっていい?」

 庸子は里江が最後にとっておいたマドレーヌに手を伸ばすと、許可をまたずに口へ放り込んだ。

 里江はその様子をうわの空で見つめながら、これまで考えもしなかったことを考える。

 孝行が浮気?

 一つのことにのめり込んだらそれしか目に入らない、あの不器用な人が?

 急に増えた残業と出張は、その目くらまし? 本当は別のことを楽しんでいる?

 疲れきって帰宅をして、お風呂にも入らず眠ってしまうのは… 演技?

 だとしたら。

「助演男優賞ものだわ」

「え?」

「やっぱり考えられない。そういったこと、隠せる人じゃないもの」

「考えられないことが起こるのが、人生ってやつよ」

 知ったふうなことを言う庸子に、里江は苦笑してうなずいた。

「そうね。最後にとっておいた大好きなマドレーヌが誰かに食べられてしまうなんてことが起こる人生だもの。わからないわね」

「そうそう。油断大敵」

 悪びれない庸子に、里江はもう一度苦笑する。

 心にピペット一目盛り分の染みが落ちたのは、このときだった。



                   ※


「今日も遅くなりそう?」

「そうだな。遅くなると思う」

 孝行はトーストにジャムを塗りながら淡々と答える。残業が当たり前になっている最近では、朝の食卓が最も夫婦の会話が成り立つ時間になっていた。

「残業、つづくね。そんなに忙しいの?」

「え? …あ、いや。うん。忙しいよ。かなり忙しい」

「そう」

 取り繕うような孝行の口調に里江はかすかなにごりを感じとる。濁りは心にこぼれ落ちて、ますます染みを広げていく。

「あまり無理しないでね」

「わかってるよ。…これ、うまいな。何?」

「キンカンの甘露煮。実家から送ってきたの」

「ああ、キンカンか。お義母さんの手作り?」

「お父さんの、ね」

「へえ。あの人、料理するんだ。意外だ」

「美味しいでしょ」

「うん。パンにのせても合いそうだ」

「合うと思うよ。キンカンのジャムって普通に売ってるし」

「いつも頂くばかりで申し訳なくなるな。最近は顔も出さずに不義理をしてるし、たまにはお礼がてら挨拶に行かないと」

「仕事が一段落してからでいいよ。向こうも孝行さんが忙しいことはわかってるから」

「そうか。じゃあ…… って、もうこんな時間か」

 他愛のない会話をいくつか交わせば、それだけで出社時間になってしまう。

 孝行は小さくため息をついて立ち上がる。

「今日も長い一日の始まりだ」

「早く落ち着くといいね」

「ああ。行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 里江はいつものように玄関の外まで出て、孝行の背中が見えなくなるまで見送る。

 その様子を見た主婦たちが 「今どき珍しい、甲斐甲斐しい奥様なのよ」 と近所の話題にするのを知っているのだ。周囲の印象は良くしておいて損はない。

「さて、と」

 部屋に戻った里江は、テーブルに残された食器をまとめてシンクに放りこむと、洗うのは後回しにして収納タンスの前に立った。

 くぼみに指を入れて軽く引くと、扉が扇子のように折りたたまれながら開いていく。

 タンスの中には、ハンガーに掛けられた洋服たち―― これまで何度も日の目を見てきたお気に入りのブラウスから、買ったきり一度も着ていない冒険的なワンピースまで―― が、隙間なく納められている。

 その洋服たちにかくまわれるようにして、昨日やってきたばかりの税別二万八千円の 『ライディテクター・ピノッキオ』 は、タンスの奥に座っていた。

 里江は人形を抱き上げ、テーブルの上にのせる。

 スイッチは左耳の奥。これを押すと嘘発見器が作動を始めるのだ。

 なんとなく呼吸を整えてから、スイッチを押す。

「……私は、小山里江です」

 まずは自己紹介。嘘でも何でもないので、当然、ピノキオの鼻は伸びない。

「夫は小山孝行。子供はいません」

 淡々と思いのままにつぶやいていく。

「誕生日は二月十日です。水瓶座。血液型はA」

 反応なし。ここで、嘘を入れてみる。

「今年で、二十四歳になります」

 変化は、瞬き二回の間をおいてから起きた。

 それまでピクリともしなかったピノキオの鼻が、スルスルと伸びだしたのである。

 鼻が伸びた。つまり、嘘を発見したということだ。

「お見事」

 里江は感心して手をたたく。

 自分では誕生日や趣味を言うときと同じ調子で年齢を告げたつもりだったが、嘘つき周波数ライヤーズ・ノイズはしっかりと出ていたらしい。

 ちなみに正しい年齢を告げたときは、鼻は全く反応してくれなかった。

 その後も思いつくままに嘘と本当を並べたててみたが、精度の高さは予想以上で、ピノキオの鼻は本当のことには全く反応せず、嘘に対してはことごとく鼻を伸ばした。

「…これ、凄くない?」

 注文したときは半信半疑で、税別二万八千円を騙し取られる覚悟で購入したのだけど、これならむしろ安い買い物だったと思えてくる。

 興信所に夫の浮気調査を依頼している康子にも見せて試してみたところ、彼女のつく嘘をことごとく見破ってみせた。康子はさんざん楽しんだあと、ふと真顔に戻ってこう言った。

「私がいるときは、それしまっといてね。うかつなことが言えなくてすっごい無口な人になっちゃうから」

 ピノキオ人形の性能が十分に信頼できるものだとわかった。

 あとは確かめたいことを、確かめたい相手に聞けばいいだけだ。

「ねえ、このところ残業やか出張がずいぶん増えてるけど、それって本当に仕事だけが理由なの?」

 孝行はもちろん 「ほかにどんな理由があるんだよ」 と答えるはずだ。すこし不機嫌になりながら。

 その様子を見て、里江はすぐに 「変なことを聞いてごめんなさい」 と謝るだろう。しかし、視線は夫の顔ではなく、隣に置かれたピノキオを凝視しているはずだ。

 いったい、人形の鼻はどんな反応を見せるのか。

 何も反応しなければ、それでよし。二人の円満な関係はこれからも続いていく。

 でも。もし、反応してしまったら。

 ピノキオの鼻が伸びるのを、目にしてしまったら。

 そのときは……



                   ※



 人形を試す機会は、思いのほか早く訪れた。


 その日は孝行が珍しく残業を早めに切り上げてきたので、二人は夕食を終えたあともリビングでくつろぎ、バラエティ色の強い情報番組を観るとはなしに観ていた。

 相方の無茶ぶりに大袈裟なリアクションを返す若手芸人と、ワイプの中で無邪気そうにはしゃいでみせるアイドル。進行役のベテラン芸人がテロップつきのつっこみを入れ、録音声のような笑いと拍手が響く。

「ああ、そうだ」

 マンネリ化したやりとりを真顔で眺めていた孝行が、ふと思い出したように里江を振り返った。

「明後日、また出張になったから」

「泊まり?」

「うん」

「一泊?」

「いや、三泊」

「三泊?」

 里江は少し驚いた声をだす。

「ああ。本社に行って企画の進捗状況を報告したり、今後の予定を決めたりするから。……それに、ちょっと行くところもあるし」

 ぽつりとつけ加えた言葉を、里江は聞き逃さなかった。

「行くって、どこへ行くの?」

「えっ?」

 今度は孝行が驚いた声をだした。普段の里江なら出張が何泊だろうと行き先がどこだろうと気にもかけないのに、今日はやけに食いついてくるからだろう。

「どこって…… いろいろだよ」

「いろいろ」

「いろいろ。取り引き先の挨拶まわりとか、新しい施設の視察とか、あとは―― そうそう、展示場の見学とかもあったかな。それから……」 

 視線を天井に貼りつけたまま、ずいぶんな早口で行き先を告げていく。

 なんだか説得力のありそうな場所を、思いつく順番に並べて取り繕ってるみたい。

 なんて。さすがに勘ぐりすぎかしら?

 孝行の挙動や言動がいちいち不審に思えてしまうのは、康子の話を聞いて神経が過敏になっているせいだろう。

 こんなとき、ウソと本当を見分けることができれば、余計な不安や不審を抱かずにすむのに。

 そして。

 今は、それができる。

 里江はおもむろに立ち上がると、孝行のわきを通り抜けて収納タンスの扉をスライドさせた。

「どうした?」

「ちょっと待ってて」

 いぶかしむ孝行の視線を背中に感じながら、里江はタンスの奥で佇むそれを抱き上げて振り返った。

「ほら、これ」

 差し出して見せたのは、黄色いとんがり帽子をかぶり、つぶらな瞳といたずらっぽく笑っている口もとが愛らしい、そして何よりアイデンティティともいえる長い鼻をした人形だった。

「何かわかる?」

「人形だな」

「じゃなくて。なんの人形かわかる? って聞いてるの」

「なんの…」

 少し考えてから孝行が答える。

「ピノキオ?」

「正解。ほら、かわいいでしょう。テレビショッピングで紹介されてたから、思わず買っちゃった」

「…ああ。あのルック何とかって番組か。お前がよく観てる」

「ルックフォンショップ。外人さんが二人でやってる番組」

「そういえば、いつだったかピノキオがどうこうみたいなメモしてたな。あれが、つまりそれか」

「あれが、つまりこれよ。なかなか良い出来でしょ?」

「まあ、ピノキオって感じはするな」

「ちょっと抱いてみる?」

「いや、べつにいいよ」

「よくないわよ」

「え?」

「いいから、ほら。はい、どうぞ」

 里江は半ば強引に孝行の胸元へピノキオ人形を押しつけた。

 耳の奥にあるスイッチを、そっとオンにして。

「思ったより重いんだな」

「でしょ」

 その重さは中に組み込まれている装置の重さだ。もちろん、言わないけれど。

「なんだ、固定型の人形なのか。どうせなら手と足ぐらい動かせたらいいのに」

「そうね」

 孝行は文句を言いつつも、人形を持ち上げてみたり、押してみたり、回してみたり、長い鼻をつついたりしている。研究熱心な性格は、こんなときにも発揮されるらしい。

 里江はその光景を微笑ましく眺めていたが、本来の目的を思い出して表情を改める。

 準備は整った。

 ピノキオは孝行の手元にある。センサーも起動している。

 あとは、聞くべきことを聞くだけ。

「それにしても、急に増えたよね」

「うん?」

「残業とか、出張とか。もともと多かったけど、最近になってすごく増えたでしょ」

「そうか? …いや、そうだな。仕事が増えれば、どうしても残業や出張も多くなるからな」

 顔を上げずに答える孝行。人形をもてあそぶ手が、どことなくせわしない。

「とか言って、実は仕事以外のことしてない?」

 里江はいたずらっぽい表情で孝行の顔をのぞき込む。

 それから、本気で猜疑していると思われないよう 「なんてね」 と、冗談めかしてつけ加えた。

「…そんなわけないだろ」

 孝行は里江の冗談に合わせるように、呆れたような笑みを浮かべて答える。

 ささやかで劇的な変化が起きたのは、次の瞬間だった。

 それまで微動だにしなかったピノキオ人形の鼻が、音もなくスルスルと伸びだしたのである。

「お、なんだこいつ。いきなり鼻が伸びたぞ」

 孝行は細い目を丸くさせて、人形の鼻をつかんだ。

「どういう仕組になってるんだ?」

 思いがけない変化に好奇心を刺激されたらしく、つかんだ鼻を引っ張ったり、腹や背中を押してみたりしてみるが、何も起こらない。

 そうこうしているうちに、ピノキオの鼻は伸びたときと同じように元の長さに戻ってしまった。

 首をかしげて真剣に人形を調べている孝行の向いで、里江はインク瓶をひっくり返したような勢いで心の黒い染みが広がっていくのを感じていた。

 ピノキオの鼻が伸びたということは、嘘つき周波数ライヤーズ・ノイズを感知したということだ。

 この頃になって急に多くなった残業や出張の原因は、責任者に抜擢されて仕事が増えたからではなく―― むろん、それもあるだろうけれど―― 『仕事以外のなにか』 をしているから。

 ピノキオ人形の精度の高さは、さんざん試して実証済みだ。誤作動を疑うような余地はない。

 孝行は、嘘をついているのだ。

「うーん。やっぱりわからないな。何がきっかけで鼻が伸びるんだ?」

 里江の気持ちを知らず、孝行はなおもピノキオ人形の仕組みを考えている。

「ちょっと説明書を見せてくれ」

「え?」

「説明書だよ。どんなときに鼻が伸びるのか、書いてあっただろ」

「えっと……」

 里江は口ごもり、曖昧な答えを返す。

 説明書は、もちろんある。しかし、見せられるわけがない。

嘘発見器ライディテクター・ピノキオ』 と、商品名がはっきりと書かれているのだから。

「それが、捨てちゃって」

 とっさに思いついた嘘をつく。

「捨てた?」

「この間、掃除をしたときにね。雑誌と間違えて捨てちゃったみたい」

「おいおい。じゃあ、どんな時に反応するのかわからない――」

 言いかけて、孝行が絶句した。

 ピノキオの鼻が再び伸びだしたのである。

「今のは、どれに反応したんだ?」

 里江は黙って首を振る。答えを知っているから 「私にもわからないわ」 と、声にだして答えることができない。ピノキオの鼻が、また伸びてしまう。

 ピノキオ人形は、言葉の中に嘘が含まれていれば誰であろうと関係なく反応する。

 今は、里江の 『捨てちゃって』 という嘘に反応したのだ。

 ピノキオの鼻が元の長さに戻る。孝行はますます顔をしかめる。

「さっぱりわからん。ひょっとして、時間か。十分おきに伸びるとか。あるいは――」

 自分の手を強くたたいてみる。ピノキオは反応しない。

「ちがうか。おもちゃの 『踊る花』 みたいに、音に反応するやつかと思ったんだけど」

 近い。

 ピノキオが反応しないかわりに、里江が肩をびくりとさせた。

「わからないな」

「もういいでしょ」

「いや、こういうのって気になると落ち着かないんだよ」

興味を持ったらとことんまで追求するのが、良きにしろ悪きにしろ孝行の性格である。

 しかし、今回に関してはそんなことをしてもらっては困るのだ。

 里江はどうにか興味をそらせようと考え、

「じゃあ、今度――」

 メーカーにでも聞いておくから。

 という言葉を、慌てて飲み込む。

 そんな思ってもいないことを口にしたら、またピノキオが反応してしまう。

「今度?」

「あ、うん」

 里江は言語野をフル回転させ、差し替える言葉を探す。

 そして。

「それは、また今度にして、ね? …ほら、せっかく早く帰ってきたんだから」

 それから、ほのかに熱のこもった声色でささやく。

「今日は久しぶりに、夜が長いでしょ?」

「……ああ」

 答える孝行の声もまた、熱を帯びていた。



                   *



 孝行はいかにも仕事のために行くといった表情で、三泊の出張へ出かけた。

 実際、仕事が大半を占めているのは確かだろう。問題は 『大半でない時間』 が何で占められているのか、である。

 愛用のソフトアタッシュケースには、里江には理解できない資料や書類と、里江のほうが理解している身だしなみ品や着替えが詰め込まれているだけで、とくに怪しむ物はなかった。

 ただ、一点。

「この服、持ってくの?」

 替えのワイシャツと下着の間にはさまれるようにして、いつか里江がコーディネイトした薄いブルーのスマートカジュアルが紛れ込んでいたことが少し気になった。

「多少は自由時間があるからな。ずっとスーツとワイシャツっていうのも疲れるだろ」

「私が選んだ服だよね、これ。デートのときくらいお洒落してって」

「…そうだっけ?」

「デートするの?」

「誰とだよ」

「素敵な人と」

「だから、誰だよ。おっさんの集まりだぞ」

 孝行が笑う。

「そうよね」

 ピノキオにこの会話を聞かせていたら、あの子の鼻は反応したしら。

 そんなことを考えながら、里江は孝行を送り出した。



                   ※



「そんなの、この人形を前に置いて 『あんた、浮気してるでしょ?』 って聞けば即解決じゃない。向こうは 『してない』 って答えるに決まってるんだから」

 あとは、ピノキオの鼻が伸びるかどうかを観察すればいい。

 康子の言うことはもっともだった。

 そもそも、そのために高い金額を払ってライディテクター・ピノキオを購入したのだ。

 ただ、いざとなるとなかなか踏み込むことが出来ない。

 浮気を疑って、聞いて、孝行が否定する。

 それで、ピノキオが反応しなければ何の問題もない。引き続き良好な夫婦関係を築いていけるだろう。

 でも、ピノキオが反応してしまったら?

 そこから先の未来は、大きな闇がぽっかりと口を開けている。のぞき込む気には、とてもなれなかった。

「ああ。それはそうと、私、離婚することにしたから」

「へえ… ぇええっ?」

「目下、離婚調停中。ふんだくれるだけふんだくってやるつもり」

 里江が恐れている最悪の結末に自分たちが至ったことを、康子はこともなげに打ち明けた。

「旦那さん、やっぱり不倫してたの?」

「してたしてた。探偵さん、すごいね。決定的な証拠写真をバンバン撮ってくれて―― ホテルに入るところとか、抱き合ってるところとか、キスしてるところとか―― それを旦那に見せたら、真っ青な顔で震えて謝ってくんのよ。許してくれ。もうしないって」

「でも、許さない」

「当然。ていうか、前からチャンスをうかがってたんだよねえ」

 康子は口端をつりあげて、悪意ある笑みを浮かべる。

「チャンスって、離婚するチャンス?」

「そ。正確には、自分に有利な条件で離婚するチャンス。慰謝料、家、土地なんかをペロリといただけるような」

「ペロリ」

「まあ、さすがにそこまでふだくれないと思うけど、かなり良い条件にはできるはずだって、弁護士の先生も言ってたし」

「弁護士って。もう相談してるの?」

「もちろん。できるだけ早く決着つけたいのよ。こっちのボロがでないうちにね」

「ああ…」

 里江はすぐに察してうなずいた。

 康子の夫が不倫をしていた一方で、康子もまたつきあっている男がいるのだ。その関係は今も続いている。

「離婚したら、その人と一緒になるの?」

「まっさか。せっかく外した首輪をどうしてまたつけなきゃいけないのよ」

 康子は鼻で笑い、膝に乗せたピノキオ人形の頭を軽くたたく。

「だいたい、離婚してすぐ再婚ってわけにもいかないでしょ。しばらくは夫に裏切られた妻を演じなきゃ」

「じゃあ、これから一人でやっていくの?」

「だね」

「心細くない?」

「そうならないように、ふんだくるんじゃない。離婚が成立するまでは、だから彼とも会わないつもり。こっちのことがばれたら全部パーだからね」

 やっていることは相当あくどいことなのに、康子はいっそすがすがしさを覚えるほど堂々と言ってのける。 

 里江は彼女を軽蔑する気持ちよりも、その行動力と思い切りの良さに感心してしまっていた。

 孝行がもし、万が一、不倫をしていたとしても、自分が康子と同じことができるとは思えない。

 そもそも、里江の中には離婚という選択肢が存在していないのだ。

 孝行がもし、万が一、不倫をしていたとしたら、里江はどうにかして相手に手を引いてもらう方法を考えるだろう。場合によっては手切れ金を用意してでも自分の居場所を守るつもりでいる。

夫婦関係をさきほどの 『首輪』 に喩えるなら、その不自由さに息苦しさを感じて抜けだそうとしているのが康子であり、首輪によって多少の不自由さを覚えるにしても、安定と安心を保証されるのであれば十分に満足できると考えているのが里江だった。

「ひどいやつでしょ。私って」

 康子は肩をすくめて自虐してみせるが、罪悪感を抱いている様子はまるでなく、口ぶりはむしろ誇らしげだった。

 その無邪気な笑顔が何となく癪に障ったので、里江は少し脅かしてやりたくなる。

「あなたも不倫していることが旦那さんにばれたら、大変なことになるわね」

「大変どころか、私の人生設計がパーよ。でも、大丈夫。これ知ってるの、あんただけだから」

「その私が、ばらしちゃったりして」

「本気でやめてよ」

 とたんに真顔になって里江をにらみつける。

「あんたを信用してぶっちゃけてるんだからね」

「わかってるわ」

「…なんか不安になってきた」

 康子はつぶやくと、膝上のピノキオ人形を抱き上げてテーブルに置き、耳奥のスイッチを押した。

 人形はたちまち嘘発見器となる。

「私の秘密を、誰にも漏らさない?」

「……ええ。誰にも秘密を漏らさないわ」

 康子は答えた里江ではなく、ピノキオの鼻を凝視し、伸びる気配がないことを確認してから、ようやく表情を和らげた。

「よし、嘘はついてないな。安心した」

 耳裏のスイッチを切って、ピノキオの頭をなでる。

「これって便利だねえ。嘘か本当か一発でわかっちゃう。私も買おうかな」

「でも、実際はなかなか使う気になれないものよ。うしろめたかったり、本音を知るのが怖かったりして」

「そう? 私ならどんどん使っちゃうけどなあ。って、あんた私には使いまくってたじゃん」

「それは、あなたが試してみたいって言うからでしょ。聞く内容だって当たり障りのないことだったわ。踏み込んだことは、さすがに聞けないもの」

「じゃあ、私が踏み込んだことを聞いてあげよっか」

 机の上のピノキオ人形を手に取って、康子がいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「聞きたいのなら、どうぞ」

 里江もまた、康子と同じ種類の笑みを浮かべて応じてみせた。

 わずかな沈黙のあと、康子は肩をすくめてピノキオ人形を机に戻した。

「……やめた。確かに聞くの怖いわ」

「でしょ。嘘のままにしておいたほうがいい嘘とか、知らないほうがいい本音ってあると思うの」

「かもね」

 むしろ、そのほうが多いのかもしれない。

「でも、あんたの旦那の浮気疑惑に関しては、事実を知ったほうがいいと思うよ」

「ええ。あの人が出張から帰ってきたら、ちゃんと聞くつもり」

「別れるときには言ってよ。目下、ふんだく離婚実践中の私がアドバイスしてあげるから」

「ふんだく離婚って、ひどい響きね」 

 妙な頼もしさを見せる康子に里江は苦笑を返し、少し冷めたお茶に口をつけた。

 会話が途切れ、小さな沈黙が落ちる。

 と、その合間を繕うようにかすかな音楽が聞こえてきた。

 誰もが耳にしたことのある、有名なクラシック。

「これ何て曲だっけ。バッハのやつ?」

「パッヘルベルのカノン。…って、これ電話だわ!」

 里江は慌てて立ち上がり、隣の寝室へ駆け込む。近頃はケイタイばかりだったので、据え置き電話の呼び出し音をすっかり忘れていた。

「はい、三枝さえぐさです」

「ああ、いたか」

 聞き慣れた声が耳に触れる。

「…孝行さん?」

「うん。ケイタイにかけてもでないから、こっちにかけたんだ」

「え? …あっ、ごめんなさい。バッグに入れっぱなしかも」

 今日は午後から出かけるつもりだったので、ケイタイや化粧品といった移動に必須な小道具はすべてバッグの中に詰め込んであったのだ。

 そこへ康子が訪ねてきたので里江の予定は急遽変更、相手に断りを入れて、こうしてお茶をしているのである。

 バッグはだから、玄関に置き去りのままのはずだ。

「とにかく、いてくれて良かったよ」

「どうかしたの?」

「それが、今日の会議で使う資料をそっちへ忘れてきちゃって」

「えっ、大変じゃない」

「大変なんだよ。それで、悪いんだけどこっちへ持ってきてほしいんだ」

「こっちって、孝行さんのところ?」

「そう。至急に」

「でも、場所がわからないわ。教えてもらっても、迷わないで行けるかどうか…」

「大丈夫、絶対に来られるよ」

 孝行は力強く断言したあとで、厳かにつげた。

「場所は、レイゾンだから。レイゾン・ルッツ・ホテル」

「レイゾン…」

「知ってるだろ」

「当たり前でしょう」

 レイゾン・ルッツ・ホテルは五つ星を冠する、いわゆる超一流ホテルであり、さらには里江が孝行からプロポーズを受けたスペシャルな場所でもあるのだ。

 知らないわけがない。

 弾む足取りで歩いたレイゾン・ルッツ・ホテルへ向かう道は今でも鮮明に覚えている。

「二人の思い出の地で会議なんて、ずいぶん無粋なことをするのね」

「俺がセッティングしたわけじゃない」

「資料はどこにあるの?」

「ああ、すまないな。ベッド横のパソコン机に行ってくれ」

 里江はコードレスフォンを持ってパソコン机の前に来る。

「来たわ」

「一番上の引き出しを開けて」

 言われるまま、一番上の引き出しを開ける。

「そこに封筒があるだろ。長形四号―― ええと、細長いタイプの」

「…これかしら。まっ白で何も書いてない封筒だけど」

「それだ。悪いけど、それを持ってきてほしいんだ。新幹線に乗れば一時間もかからないから」

「車ならもっと早く行けるわよ」

「いや、新幹線のほうがいいと思う。道路が渋滞してるかもしれないし、焦って事故を起こされたら取り返しがつかないことになる。大丈夫。六時までに持ってきてくれれば間に合うから」

 時計を見る。午後四時を少し回ったところ。時間的には余裕がある。

「次の新幹線は四時二十七分発だから、それに乗るといい」

「あら、調べてくれたのね」

「駅までたいした距離はないし、歩いても間に合うだろ」

「ええ」

 時計から視線を外すと、半開きのドアからこちらをのぞいている康子と目が合った。軽く手を振っておく。

「それから、服装なんだけど。場所が場所だから…」

「ええ。大丈夫」

 もともと出かけるつもりだったので、身なりについては問題ない。メイクも気合いを入れて仕上げてあるので、軽く直すだけで十分だろう。 

「早めに着いたら、レイゾンの 『オリジナル・シルクプディング』 をご馳走してもらおうかしら」

「え? いや、それは…」

「冗談よ。待ち合わせはホテルの入り口でいい?」

「ああ。すまない。駅まで行けたらいいんだけど」

「いいの。久しぶりに思い出の道も歩いてみたいし」

「着いたらケイタイに連絡してくれ。すぐ行くから」

「はい」

「じゃあ、またあとで」

 孝行が通話を着るのを確認して、里江も受話器を置く。

 頼まれた白い封筒を手にリビングへ引き返すと、立ち聞きしていた康子がいそいそと席に戻りながら好奇の目を向けた。

「旦那さん?」

「ええ。ごめんなさい、すぐ出かけないといけないの」

「ホテルがどうとか言ってたけど」

「会議があるんですって。そこで使う資料を忘れたみたい」

 白い封筒はのり付けされていて中身は確認できないけれど、膨らみ具合からして数枚の書類が折りたたまれているらしかった。

「一大事じゃない」

「そうね。一大事だわ」

「……なんで嬉しそうなの?」

 康子に指摘されて、里江は自分の頬が緩んでいることに気づく。

「だって、ちゃんと仕事をしてるってわかったんだもの」

 出張という名の 『何か別のおこない』 ではなく、ちゃんと仕事のための出張だと証明されたことが頬を緩ませたのだ。

 それは嬉しいという感情よりも、むしろ安堵の感情のほうが強かった。

「あまいわね」

「え?」

 上機嫌で出かける準備を始める里江に、康子は醒めた視線をむける。

「出張、何日あるんだっけ?」

「四日よ。三泊して、四日目の夜には帰ってくるって」

「で、今日は出張何日め?」

「二日目」

「つまり、明日一日はまるまる残ってるわけだ」

「そうね」

「ばれない嘘をつくコツはね」

「え?」

 康子は意味ありげな間をあけてから、内緒話のように声を落として言った。

「本当のことを交えながら話すことなんだって」

 その話は里江も聞いたことがあった。

 事実を含んでいる割合が多ければ多いほど、嘘は事実の中に溶け込んで見抜きづらくなる。完璧な嘘は自分さえもだます。

 そんな話だった。

 しかし、不器用で感情がすぐ顔にでてしまう孝行に、そんな器用なまねができるとは思えない。

「そう。できていないのよ。だから、あんたが疑ってんでしょ」

 康子の言葉にハッとなる。

 確かにそうだ。もし完璧な嘘をつかれていたなら里江は孝行を疑うことなどなく、ピノキオ人形を購入しようとも思わなかったはずなのだ。

 ということは、やっぱり……

「そこで、この子の出番ってわけ」

 康子はルックフォンショップのルシーダさながらの口ぶりで、ピノキオ人形を里江の前に突きだした。

「今から旦那さんに会うんでしょ。だったら、直接聞けばいいじゃない。これをバッグにしのばせて―― 『明日も仕事?』 って」

「………」

 孝行は当然 「当たり前だろ」 と答えるだろう。

 里江はその言葉を信じたいと思いながらも、バッグの中をのぞきこむ。

 そのとき、ピノキオの鼻は……

「バッグから鼻が伸びてきたら、孝行さん驚くわね」

「まあ、あんたは驚くどころの騒ぎじゃないだろうけど」

 ピノキオの鼻が伸びるときは、孝行が嘘をついていると証明されるときである。

 そのとき、自分がどんな反応をするのか、何を言いだすのか、想像もつかなかった。

「時間はいいの? すぐ出かけるとか言ってなかった?」

「あっ」

 里江は思い出したように時計を見る。孝行の指定した新幹線に乗るためには、もう家を出なければならない。

「ごめんなさい。私、行かなきゃ」

 いいながら、康子の脇をすり抜けて収納ダンスを開き、ずらりと並ぶ衣服から品のよいコートを選んで腕を通す。

「駅までなら、車で送るよ?」

「ありがとう。でも、走った方が早いと思うから」

「そっか。ここはやたらと一方通行多いしね。じゃ、こっちはどうする?」

 康子が差し出したのは、ピノキオ人形。ハンドバッグに収まる―― かさばること甚だしいが――  大きさなので、持って行くことはできる。

 里江は瞬き二回の逡巡で、ピノキオ人形を受け取った。

「ねえ、白か黒か賭けをしない?」

 里江が靴を履いていると、すでに玄関のドアを開けて待つ康子がふと思いついたように言った。

「私は白ね」

 その上、先に賭けてしまう。

 残る選択肢は黒。里江はしかし、即座に答えた。

「私も白よ」

「ええ。それじゃ、賭けにならないじゃない」

「私たちが勝ったら、お祝いに二人でリブラ・リンドンのランチを食べに行く。どう?」

「あんたの奢り? なら、のった」

 里江は玄関に置きっぱなしだったバッグを手にして、大切な書類が入っている封筒と、かさばること甚だしいピノキオ人形をねじこんだ。

 それからアパートを出て、二人並んで階段を下りていく。

「じゃあね」

 里江は軽く手をふり、駅へ向かって歩き出す。

「私たちが負けたら、どうする?」

 その背中に、車に乗りかけた康子が声を投げかける。

 里江は立ち止まって振り返ると、小さく肩をすくめてみせた。

「そのときは、二人でリブラ・リンドンのランチを食べに行くつもりよ」

「それって、勝ったときと同じじゃん」

「行く相手が違うわ」

「相手? ……ああ、私じゃなくて、旦那さんと行くわけだ。怖い怖い」

「孝行さんでもなくて」

「え?」

 里江は困惑する康子に、いたずらっぽい笑みをむけて答えた。

「孝行さんのお相手の人と。ね」

 そして、今度こそ駅へ向かって歩きだす。

 その後ろ姿を見送りながら、康子は小さく首をふった。 


                   *


 駅を出て、かつての記憶を頼りにレイゾン・ルッツ・ホテルを目指す。

 ここを最後に歩いたのは十年も前のことなのに、当時の風景とのズレがあまりないことに里江は驚いた。老舗や有名店が多く集まる通りなので、入れ替わりが少なく、かえって変化が緩やかなのかもしれない。

 決定的に違うのは、むしろ里江の気持ちだった。

 あのときは孝行からのプロポーズを予感して、完全に舞い上がっていた。人生でもっとも浮ついた足取りで、見える建物、目に入る風景を指さしてはいちいち話題にして歩いたことを覚えている。記憶が鮮明なのは、そのおかげかもしれない。

 今はでも、あのときの舞い上がっていた気持ちとはまったく違う。

 孝行の心が、どこか遠くへ行こうとしているのではないかと不安を抱いている。

 その不安は、ピノキオ人形によって増大してしまった。

 孝行は、嘘をついている。

 この四日間の出張のどこかで 『仕事ではない何か』 をするつもりでいる。

 それが何であるかはわからないけれど、妻である自分に隠してまですることとなれば、真っ先に思いつくものがあった。

 それを、確かめなければならない。

 孝行はもちろん否定するだろう。

 里江はその言葉の真偽を、表情や口調といった不確かなものからではなく、ピノキオ人形によって確かめることができる。

 良くも悪くも、真実を。

 薄暗い気持ちを振り払うように少し早足になって交差点を渡ると、突然、赤レンガ造りの建造物が視界に飛び込んできた。

 それは建ち並ぶビル群を背景に押しやり、優雅で貴族的な輪郭を浮かび上がらせていた。

「素敵……」

 思わず感歎の声がこぼれ落ちる。

 レイゾン・ルッツ・ホテルは、里江の色鮮やかな記憶そのままの姿で出迎えてくれたのだ。

 そして、もう一つ。

 彼女を出迎えるものがあった。

「やあ。わりと早かったな」

 聞き慣れた声。

 さまよわせた視線は、すぐにエントランスの白い階段を下りてくる孝行の姿をとらえた。

「迷わなかったか?」

「ええ」

「そうか。まあ、駅からほぼ一本道だから、迷いようがないか。景色も変わってなかっただろ」

「ほんとに。あのときのままね」

 実際はテナントの入れ替わりや建造物の褪色、行き交う人々のファッションなど、変化はしているはずだ。

 ただ、それらは思い出の輪郭を崩すことのない、優しい変化である。

「で、感想は?」

「え?」

「十年ぶりに訪れた、レイゾン・ルッツ・ホテルの感想。といっても、まだ中に入ってないけどな」

「素敵だわ」

 里江はすぐに答えた。

「思い出が強すぎるから現実とのギャップにがっかりするかもって思ってたんだけど、素敵なままでいてくれた」

「常に変化を。しかし、再び訪ねられたお客様の思い出を崩さぬように」

「なにそれ?」

「レイゾン・ルッツ・ホテルのポリシーらしい。これに書いてある」

「へえ」

 里江は渡されたパンフレットに目を落とす。


 

 【レイゾン・ルッツ・ホテルへ懐かしく訪れた人々が、思い出の中と変わらず

  にある光景に感動するのはなぜか。

  それは、ホテルが常に変わり続けているからである。

  思い出は純粋な記憶ではない。

  美化された記憶のことである。

  もし我々が 『本当』 に何も変わらずにあれば、人は美化された記憶と

  比較して、以前より質が落ちたと失望するだろう。

  変わらないがゆえに、変わってしまったのである。

 『変わらずにある光景』 を提供するためには、だから常に変わり続けなけ

  ればならない。

  常に変化を。しかし、再び訪ねられたお客様の思い出を崩さぬように。

  正しい変化を】

 

「ようするに、正しく変わっていけば変わらずに素敵でいられるよってこと?」

「そういうことだな」

「何だか哲学的ね」

「ああ」

「でも、正しく変わるってどういうことかしら?」

「うん。それがわかれば、きっと一流になれる」

「なるほど」

 二人は真顔で頷きあい、同時に笑いだす。

「さて、と」

 話が途切れたところで、孝行は腕時計をに目をやった。

「そろそろ時間だ」

「え?」

 里江は何の時間だろうと半瞬考え、残りの半瞬でここに来た目的を思い出して顔色を変えた。

「そうだ、会議! 書類!」

 慌ててハンドバッグを開き、横たわる邪魔な人形を押しのけて白い封筒を取り出す。

「これで間違いない?」

「……ああ、そうか。そういえば、そんなこと言ったな」 

 焦る里江とはうらはらに、孝行の反応はずいぶんと悠長だった。

「時間、大丈夫なの? 六時からなんでしょ」

「うん。あ、いや。うんじゃなくて…」

 なぜか曖昧な孝行の態度に、里江は眉をひそめる。

「どうしたの?」

「ええと…… ここから先はどうするんだっけ?」

「どうするって、会議に行くんでしょ」

「いや、それはもういいんだ」

「え?」

「あ、服か」

「服?」

 意味不明だ。

 連日の激務で、ちょっとおかしくなっているのかもしれない。だとすれば、これは労災になるのではないか。

 そんなことを考える。

「ほら、これだよ。この服。どう?」

 里江の不安をよそに、孝行は妙に自分の服装を強調してくる。

 言われるまま、あらためて夫の着ている服を観察して――

 里江は、ふと違和感をおぼえた。

「えっ?」

 その違和感は、すぐ驚きに変わり――

「ちょっと、何でそんな格好してるの?」

 驚きはすぐ疑問に変わった。

 孝行が身にまとっていたのは、仕事で着るいわゆるビジネス・スーツではなく、いつかのデートで里江がコーディネイトした、薄いブルーのスマートカジュアルだったのである。

「いや、ちゃんと着られて良かったよ」

「どうして?」

「どうして? ああ、サイズか? このところの激務で痩せたんだよ。おかげで、今は当時とほぼ同じ体重だぞ」

「そうじゃなくて」

「うん。そうじゃないよな」

 苛だつ里江に孝行はあっさり頷き、それから、少し決まり悪そうに打ち明けた。

「実は、四日間の出張っていうのは嘘なんだ」

「……は?」

「嘘」

「嘘?」

「そう、嘘。本当は一昨日と昨日の二日だけで、今日と明日は有給をとった」

「………」

「まあ、そういうこと」

「……どういうこと?」

 まるで理解が追いつかない。

 四日間の出張は嘘?

 本当は二日で、残りの二日は有給をとった?

 何のために?

 そこまで考えて、里江は思い出す。

 四日間という出張を、自分も疑わしく思っていたことを。出張にかこつけて何か後ろめたい行為をしているのではないかと、疑念を抱いていたことを。

 だからこそ孝行から呼び出されたとき、真偽を確かめようとピノキオ人形を持ち出してきたのである。

 そう。

 理解できないのは、そこだ。

 なぜ、孝行は嘘をついてまで自分を呼びだしたのか。

 後ろめたいことをするつもりなら、誰よりも里江に気づかれることを恐れるはずだ。

 それをわざわざ呼び寄せるなんて、いったいどういうつもりなのだろう。

 孝行を見る。

 孝行は里江の顔を見て、小さく吹き出す。

「お前、顔中にクエスチョンマークがついてるぞ」

「顔どころか、体中よ」

 里江は真顔で返す。

「ヒントは、この場所とこの格好。何かわからないか?」

「孝行さんに嘘をつかれていたってことは、わかるわ」

「そうじゃなくて。ああ、いや。嘘をついていたことは謝る。でも、そのほかに何か気づかないか?」

 気づく?

 いったい、何に気づけというのだろう。

 この場所と、孝行の格好?

 まずは場所。

 ここは、レイゾン・ルッツ・ホテルだ。

 超のつく一流ホテルで、サービスも料理も設備も価格も常軌を逸しており、何より、里江が孝行からプロポーズされた記念すべき場所である。

 次に格好。

 孝行の格好は、薄いブルーのスマートカジュアル。恋人時代、里江が気合いを入れてコーディネイトしたものだ。

 しかし、孝行は恥ずかしがってなかなか着てくれなくて、不満を言う里江にいつも 「特別なときがあれば、そのときに着るから」 と言ってごまかしていた。

 そして――

 そうだ。

 孝行は、本当に特別な日に着てきたのだ。

「あ」

 里江の顔から、クエスチョンマークがこぼれ落ちる。

「うん」

 その瞬間を待っていたように、孝行が頷く。

 二人の描いた記憶の絵が、ぴたりと重なる。

「……今日?」

「そう。今日だよ。十年前の」

 そうだ。

 里江は今、はっきりと思い出す。

 十年前の今日、孝行はこの場所で、その姿で、自分にプロポーズしてくれたのだ。

 あのときの里江は大いに感動しつつも、雑誌に載っていそうなロマンティックすぎる演出に―― 実際、孝行は丸写しにしたらしい―― 笑いそうになるのをこらえてもいたのだった。

 今回もきっと、雑誌に載っていた 『妻へのサプライズ企画』 的なものを丸写しにしたのだろう。

「でも、覚えていてくれてよかったよ。これで 『何のこと?』 なんて言われたら、今までの準備が水の泡になるところだった」

 覚えていたというよりも、ぎりぎり思い出すことができたというのが正直なところだけど、もちろん口には出さない。

「いつから準備してたの?」

 かわりに別のことを聞く。

「二ヶ月前かな。ホテルに予約を入れたのは」

 二ヶ月前と言えば、ちょうど里江が孝行に不信感を抱き始めた時期と一致する。あのぎこちない態度の数々は、つまり、このことを隠していたからなのか。

「えっ。じゃあ、残業や出張っていうのは、ぜんぶ嘘?」

 言葉にしてから、里江はすぐにそれはないことに気づく。残業や出張から帰ってくる孝行はいつもヘトヘトで、疲れたふりをしているようには思えなかった。

「本当だよ。部署の責任者になって、仕事が増えたのも本当。ただ、必要以上に残業を入れていたのも本当でさ、それは、今日と明日の有給を意地でも確保するためだったんだ。仕事を前倒しにして」

「今日のために?」

「そう」

 ほとんど執念のような情熱に、里江は呆れる。

「普通、ここまでしないわよ」

「約束だからな。十年後に、ここでもう一度過ごすって」

「え?」

「まあ、当時の服装でロマンティックにっていうのは、雑誌の影響だけど」

 孝行は苦笑したが、里江はそれよりも引っかかる言葉があった。

「約束って、 私と?」

「お前は酔ってたし、冗談のつもりで言ったんだろうけどな。約束したんだよ。十年後、もう一度このホテルで過ごそうって」

「………」

「で。俺は、それを真に受けることにした」

 里江には覚えがない。

 でも、きっと言ったのだ。

 夢見心地の雰囲気の中で、高揚する気分とアルコールに、紡ぐ言葉を任せたのだ。

 もちろん、冗談まじりに。でも、心のどこかでは期待をして。

 孝行はその言葉をあえて真に受け、それから十年間、ずっと真に受け続けてきたのだ。

 急に増えた残業も、泊まりがけの出張も、すべて今日のために。

「さて。ネタばらしも済んだところで」

 孝行の手が、さりげなさを装い損ねて、ぎこちなく伸ばされる。

「ほら、中に入ろう」

「…はい」

 里江は微笑み、伸ばされた手に自分の手を重ねてエスコートを受けた。

 ちょうど、十年前と同じように。



       ○


 

「俺、そんなに挙動不審だったか?」

「ええ。『隠し事をしていると悟られないように、自然に振る舞おう』 っていう態度がそのまま出てたわ」

 最上階のスカイラウンジで、味覚の上限を大幅に引き上げてしまうようなディナーと、現実から足を踏み外したような夜景を楽しんだあとで、二人はあの日と同じスイートルームでくつろいでいた。

「それじゃ、まるで意味がなかったな」

「あら、意味ならあったわよ。マイナス的な、ね」

「マイナス?」

「だって私、孝行さんのことを疑ってたんだもの」

 深々としたソファに身を沈めて、里江は飲み終えたフルートグラスをテーブルに置く。少し酔いが回り始めているのか、頬が薄く染まっていた。

「残業とか出張とか言っておいて、本当は後ろめたいことをしてるんじゃないかって」

「後ろめたいことって何だよ」

「浮気とか、不倫とか、密通とか」

「全部おなじ意味じゃないか」

「でも、違ってよかった」

 里江は隣のソファに置いたハンドバッグを引き寄せる。

「私なんてもう、相手の人との修羅場まで覚悟していたもの」

 ファスナーをスライドさせ、バッグを開く。

 仰向けのままこちらを見つめている、黒い瞳。長い鼻。

 ピノキオ人形を取り出して、膝の上にのせる。

「俺にそんなことできるわけがないだろ。第一、相手がいない」

 孝行は自虐まじりに笑いながら、向かいのソファに腰を下ろした。

「そうかしら」

「そうだよ」

「じゃあ、そういうことにしておくわ」

「ああ、そういうことにしておいてくれ。…って」

 孝行はそこで里江の膝上にのっている人形に気づく。

「お前、その人形持ってきたのか」

「ええ」

「なんでまた」

「はい」

 里江は答えるかわりに、ピノキオ人形を差し出した。

 孝行は反射的に受け取ってしまう。

「…そう言えば、こいつの鼻が伸びる仕組みがわからないままだったな」

「そうね」

 孝行はうしろめたいことをしていない。

 それは、きっと本当のことなのだろう。

 しかし断言することまではできない。

 あくまでも 「だろう」 という期待値の高い可能性であって、そこから先は相手を信じるかどうかの問題になる。

 本来ならば。

 しかし、里江は確かなことを知ることができる。

 その術を持っている。

 疑いを、完全にぬぐい去ることができる。

「孝行さん」

「うん?」

 ピノキオ人形の鼻をつまんだまま、孝行が顔を上げる。

 里江は孝行ではなく、ピノキオ人形を見つめる。

 そして。

「本当にしてない? う・わ・き」

 軽く。軽く。

 冗談を言うように、軽く。

 少し笑顔で。

 聞いた。

「……お前なあ」

 孝行は呆れたようにため息をつき、ピノキオ人形をテーブルに置く。

「そんなことする奴が、十年前の約束をしつこく覚えていて、あげく実行したりするわけないだろ」

「そうよね」

 頷きながらも、里江はまだ物足りなさそうな顔をしている。

「ようするに、俺はお前に一途なんだよ」

 その期待に応えるため、孝行は少し照れくさそうに言葉をつけ加えた。

「浮気なんて、するわけがない」

 アルコールとはべつの由来によって赤らんだ孝行の顔を、しかし里江は見ていなかった。

 ただ、鼻を。

 ピノキオの鼻だけを凝視していた。

 そして、鼻は――

 里江は力が抜けたように、テーブルになだれ込む。

 疑念と不安で固まっていた心が、解きほぐされていく。

「ああ、よかった」

 鼻は、ついに伸びることはなかった。

 孝行は潔白だと、完全に証明されたのである。

「よかった」

 里江は、今度こそ本当の安堵を覚えた。

 綻び始めていると思っていた孝行の愛情は、信じられないほどに強く自分を支えくれていた。

 それは、この先に何があっても揺るがないと確信できるほど、強く。

「信じてもらえたようで何よりだよ。赤面ものの告白をした甲斐があった」

 そう言って笑う孝行の顔は、まだ赤いままだ。

「すごく嬉しかったわ」

 里江も微笑み返して答えたが、しかし、彼女の確信は孝行の告白によってもたらされたものではない。ピノキオの鼻によって、である。

 そのことに罪悪感を抱きつつも、里江はピノキオ人形には大いに感謝していた。

 何しろ、自分の居場所がこの上なく安泰であることを知ることができたのだから。

 私は愛されている。

 とても強く。

 この先も、きっと。

 ずっと。 

 

 孝行が立ち上がり、ふわりと手を伸ばす。

 里江はその手を取り、誘われるように抱き寄せられる。

 軽いキス。

 二人は鼻をつけて、微笑みあう。

「それにしても、浮気を疑われるなんて俺も大したものだな」

「ごめんなさい」

「いや、怒ってるわけじゃないんだ。むしろ、少し嬉しかったりする」

「え?」

 目を丸くする里江に、孝行は小さく笑って、瞼にキスをする。

「そういうことを疑うのは、つまり嫉妬だろう?」

「…そうかもしれないわね」

「昔はほら、俺が嫉妬するばかりだったからな」

「そんなにやきもち焼きだったかしら?」

「ああ。正直、俺のプロポーズを受けてくれたのが不思議でしょうがなかったよ。ほかにも良い奴は山ほどいたのに。…未だにわからないくらいだ」

「そうね。決め手は、安定した収入と将来性。それから、いずれ相続する土地と財産だったかしら」

「おい」

「あなたは素敵よ。あなたが思っているよりも、ずっと」

 今度は里江からのキス。少し長く。

「じゃあ、少しは自惚れてみるかな」

「自惚れるのはいいけれど、浮気は駄目よ」

「だから、俺にそんなことできるわけない。何しろ」

「私に一途だから」

 数ミリの距離が縮まり、ゼロになる。

 甘い足取りは、いざなわれるように、ベッドへと。

「お前こそ、俺の留守が多いからって浮気するなよ」

「私に、そんなことできるわけないでしょう」 

 里江は口元を綻ばせて、孝行の言葉をまねてみせる。

「私も孝行さんに一途なのよ」

 二人は笑いあい、唇を重ねる。

 孝行の熱を帯びた両手が、里江の肩を優しく押す。

「……あ」

 ゆるやかにベッドの海へと沈んでいく中で、里江はそれに気づいて小さな声をあげた。

「どうした?」

「ううん。やっぱり出ちゃったなって」

「なにが?」

 里江は小さく微笑むと、不思議そうに自分を見つめる孝行の耳元でそっと囁いた。


「嘘つき周波数」

 

 テーブルの上。

 二人を見つめるピノキオ人形。

 その鼻が今、ゆっくりと元の長さへと戻っていく。



            了


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