雨の日
『忘れっぽい奴』
と言うのが身近に居ないだろうか?
居ないなら想像してみて欲しい。
さて、今イメージしたソイツはどの程度の忘れ屋だ?
学校の宿題を忘れて廊下に立たされるとか、買い物行くのに財布忘れるとか、そういうのかね。
もしその程度を思い描いたならこう言いたい。
──甘く見るな。
本当に忘れっぽい奴ってのは、本当に凄いんだ。
例えばこれは、いつだったかの雨の日──
「あ、傘忘れた」
「はぁ?」
狭い部室、帰る準備をしながら窓から外を見て言った玲菜の言葉に、俺は耳を疑った。
何故なら今日は、朝から雨が降っていたのだ。
確かに傘をささないと出歩けないというほどの降水量ではなかったが、かといって全く気にならないとは言い難い降り方ではあった。
何の雨具もなく出歩けば十分かそこらで、髪や服がじっとり重くなる位と言ったところか。
そんな中傘を忘れてきたというのだ。
前から忘れっぽい奴だとは思っていたが、まさかここまでとは。
「教室に忘れてきたかな……」
あぁ、そういうことか。びっくりした。
「じゃあ途中教室、寄ってくようだな」
「ついでに宿題のプリントもとってくるかなっ」
忘れ物のその先にまた忘れ物のある奴である。
だが、この程度ならまだ忘れっぽい奴レベル初段といったところだ。
もちろん玲菜の本領はこんなもんじゃない。
「……おい、教室寄るんじゃなかったのか?」
階段の途中、その後頭部へ向けて放った俺の言葉に足を止める玲菜。
彼女が今立っているのは三階から二階へ降りる階段の途上である。ちなみに言うと、玲菜のホームルームは三階にある。
「あっと、いけないいけない、忘れるところだった」
やはり、完全に忘れていたようだ。
部室を出てから三分も経ってない。お前は鳥か。ばあちゃん家のインコのが、まだしも物覚えが良いかもしれないぞ……。
人間、誰でもド忘れするってことはあると思う。
だがそれは、たまにやってしまうから何とか笑い話に出来ることだ。
玲菜の場合にも適用するなら、「たまに」という言葉の意味を「数分毎」と定義しなければならない。
「──おい」
「あっ?」
今度は教室の扉を開けたところで呼び止めるハメになった。
自分で気づいてくれやしないかと淡い期待をして少し黙っていたのだが、やはり口をはさまずにはいられなかった。
「お前は今この教室に何をしに来たんだ?」
「いっけない、傘傘っと……」
玲菜はあろう事か自分の机から宿題のプリントを引っ張り出すと、やり遂げたような顔で踵を返したのだ。もちろん言うまでもない事だが、本来の趣旨は傘を取りに来ていたはずである。
ついでの用事を覚えていて、何故メインの目的を忘れるんだ。
パタパタと自分の席に戻って折り畳み傘を取り出す玲菜の背を眺め、思わずため息が漏れた。
次の場面はまた数分後、昇降口で靴を履き替えた直後だ。
「………………。」
途中で気づいていた俺は、今度はあえて口をはさまなかった。
「あれ?」
玲菜が己の手にさっきまで持っていたはずの傘が無いことに気づいたのは、いざ傘を開こうというタイミングである。下駄箱エリアを通過するわずかな間で彼女の手から傘が消失していた。
「私傘どこやった?」
こっちが聞きたいわ。とツッコミを入れたいところだが、悲しいことに傘の在り処を指摘できる自分がいる。
何度も同じ光景を見ている俺は学習してしまっているのだ。
「どうせまた下駄箱に上履きと一緒にいれたんだろ」
「あったあったっ!」
今は関係ない話だが、夏場に玲菜がテレビのリモコンと財布を冷凍保存するのは、彼女の家の風物詩である。
誰に対しても、何に対しても平等な彼女は、忘れ去るモノすらえり好みしない。
帰りに寄ったコンビニではこうだ。
「あっ! お客様!」
「……はい?」
「商品をお忘れですよ」
「あ、あぁーすみません!」
商品をレジに置き、支払いを済ませおつりを受け取るまでの間に、自分が買ったモノの存在を忘れ去るのも、彼女の十八番である。
……募金がしたいなら、レジ横に置いてある募金箱へ恥ずかしがらずに入れとけ。
とまぁ、こんな風に。
通い慣れているはずの学校から最寄り駅までの片道だけでコレだけ立て続けにド忘れを連発するのである。
全く、俺が居ない時コイツはちゃんと人間として生活できてんのか、甚だ疑問である。
この日最後に見た玲菜もまた、やはりいつも通りだった。
『次は~○○~、○○~、お出口は──』
「おい、起きろ、駅着くぞ」
「……ふぁ?」
最近、玲奈は電車で良くウトウトしている。
今までは色々とくだらない話をしながら帰ったものだが、夜更かしでもしているのだろうか。
そんなんだとさらに物忘れが加速するぞと、忠告してやるべきだろうか。
電車が速度を落とす。
慣性に引っ張られて夢の世界が未だ頭の八割くらいを占めている玲菜の頭が、カクリと傾いた拍子に手すりに衝突する。
「はわっ!? お、降ります!」
ガタっ、と彼女が立ち上がると同時に開いた扉。
寝ぼけ半分の玲菜は口を開いて待つ扉へ跳ねる様にかけていく──が、このまま行かせるわけにも行くまい。
「こらまてっ、傘忘れてるぞ!」
「──あぁっと、しまった」
呼びかける声が通じるかどうか微妙だったが、どうやら飛び出す寸前で我に返ったようだ。
たたらを踏んでブレーキをかけ、座席に置き忘れた傘を飛びつくようにして拾い上げる。
「ふぅ、また傘失くすところだった……って、あぁ! 降ります! おりますぅ!」
慌しく、閉まりかけた扉をすり抜けるようにして玲菜はホームへ転がり出て行った。
「……全く、放って置けない奴」
物忘れも大概にしとけよ、せめて自分のことくらいは。
それが出来るようになるまでは、世話やいてやるからさ。
■■■
「ふぅ…… あぶないあぶない」
手にした折り畳み傘を眺めてひとりごちる。
過去幾度と無い傘の紛失実績を重ねた私はとっくの昔に母の家計簿にブラックリスト認定されている。
おかげで親はもう新しく傘を買ってくれない。
バイトもしていない身としては、失くすたびに限られた小遣いを切り詰めて傘を調達するのは手痛い出費だ。特に、梅雨の時期にもなると電車に傘を置き忘れる確率はグッとあがる。今回は“たまたま”直前で気づけたからいいものの、こんな調子では先が思いやられる。
「悠ちゃんが居てくれたときは、こんな心配要らなかったのにな……って」
ダメダメ。
私がもっとちゃんとしていないと、悠ちゃんが安心できないじゃない。
私が一人でもやっていけるように頑張るって、誓ったばかりなのに。
どうやらまだ幼馴染に頼るクセが抜けきっていないらしい。
男の子みたいなしゃべり方をする同い年の女の子。
いつもどこか抜けている私を助けてくれる頼れる友達。
──今はもう居ない、私の親友。
「私がしっかりしないと。悠ちゃん自分のことそっちのけで世話焼いてくれるから──」
──うっかり、自分が天国逝くのも忘れちゃうかもしれないもんね。