プロローグ
閃光が走る。
幾つもの火線が漆黒の夜を駆け抜け、空に立ち込めた煙を赤く染める。
兵士たちの怒号が響く。
巨大な城塞だ。東西に遥かに連なる山脈の一角、その中腹に、地面から突き出したように城塞が聳え立ち、幾つかの尖塔が立ち並んでいる。それらを取り囲むように巨大な城壁が構えている。
普段なら見張りの兵が均等に配置されるだけのその城壁は、しかし今は膨大な数の弓兵たちで犇めいている。その眼下にはやはり膨大な量の歩兵たちだ。弓兵たちは城壁の上から眼下の歩兵たちに向かって大量の矢を雨あられと射かけている。彼らの頭上では魔法による火球が飛び交い、時折弓兵を燃え上がらせる。
と、不意に、轟音が響いた。
城塞を守って左右に広がる城壁の、中心部分が火に包まれる。弓兵たちが悲鳴と怒号を上げる。城壁の下では、無数の歩兵たちが鬨の声を上げる。魔法だ。巨大な岩に炎を纏わせて打ち出す、高位の戦術魔法が、戦いの渦中で炸裂した。弓兵の勢いが衰えたところで、歩兵たちが城壁に梯子をかけることに成功した。雪崩のように歩兵たちが梯子に殺到する。弓兵たちは必死に梯子を落とそうとするも、いち早く城壁を昇り切った一人の甲冑兵が、彼らに切り込んだ。城壁の上は騒然とする。その隙に歩兵たちは幾つも梯子をかけ、そこからは敵味方入り乱れた肉弾戦が始まった。
頭上を飛び交っていた火球は既に姿を消し、代わりに兵士たちの血しぶきが舞う。
剣と剣、鎧と鎧がぶつかり合う耳障りな金属音と、兵士たちの雄たけびと断末魔が戦場を満たし、城壁の上は阿鼻叫喚の様を呈した。
そんな戦火とは少し離れた所。歩兵たちの遥か下、迷宮じみた地下牢。錆びひとつない頑丈な鉄格子と、大ぶりの石レンガの壁に囲まれて、一人の女が鎖に繋がれていた。頭上に挙げた両手に鉄環を嵌められ、鎖で壁に繋がれている。俯いており、通路に疎らに配置された弱弱しい蝋燭の光では、陰に沈んだ彼女の表情をうかがい知ることは出来ない。
遥か頭上の争いも、ここまでは届かない。たった一度、僅かに牢が揺れて、足枷が微かに音をたてたのみだ。
それでも彼女には十分だった。
周りの全てから遮断されたこの場所は、人間の作り出した死の世界だ。食事は与えられない。彼女は少々食事をとらなくても問題なかった。通路の壁の蝋燭は魔力が供給され、何もせずとも燃え続ける。ここでは全ての変化は拒否されていた。
そんな中で、たった一人。
このまま続けばきっと精神が壊れてしまったであろうこんな場所では、地上から届いた僅かな振動は、彼女の心を呼び起こすには十分だった。
彼女は軽く頭をもたげた。
たとえ死ななくても、空腹は感じる。その空腹すらもう忘れてしまった。彼女は久しぶりに自分の体の重さを感じた。自分の体から、かつての活力が失われていることを感じた。今の今まで、精神が体から離れ、無限の時の中をふわふわと浮遊していたようだった。
――視界すらも怪しくなっているようだ。鉄格子と壁の隙間で、白色の光点がチカチカと点滅しているように見える。自分はこんなにも牢に侵されてしまったのか――
いや。幻覚ではない。確かに、白色の光点はそこに存在していた。彼女はそこに込められた雫ほどの魔力を感じ取った。光点が明度を増す。と、――
――突然光点が彼女へ向けて走り出した。よく見れば、光点自体は動いていない。光点が小さな魔方陣を生み、その魔方陣がまた魔方陣を生み――。連鎖的に展開された魔方陣が、猛烈な速さで彼女へと迫っているのだ。
彼女はうっすらと開けた目で其れを見つめた。
白い魔方陣がいよいよ彼女の足枷まで迫ったその時。
突如として闇色の光の奔流が噴き出した。彼女の足枷から噴き出したように見えたその奔流は、左右は両側の壁まで、上は牢の天井まで伸び、巨大な壁を作り出した。見れば闇色の光の流れは幾多の魔方陣を形作っている。
それらが猛烈に回転し、点滅し、時には位置を入れ替え。
目まぐるしく動き出した。
白色の魔方陣は消えたかに見えた。しかし、よく見ると、足枷を中心に、白色の細い光が闇の壁の上下左右に細い腕を伸ばし始めている。白色の光は幾多にも分裂し、その先を何度も散らし消滅させながらも、少しずつ腕を伸ばし、壁の中に勢力を広げていく。
闇色の壁の魔方陣の動きがいや増す。
白色の光が闇の魔方陣にぶつかる。
消える。
分裂する。
伸びる。
ぶつかる。
分裂する。
また分裂する。
伸びる。
ぶつかる。
消える。
闇の魔方陣は回り続ける。
今や、白色の光は闇の壁の全体にまで血管のように行き渡っている。
闇の魔方陣の回転が不規則になる。明滅が激しくなる。魔方陣がガクガクと震え、次第に移動をやめ、闇の壁全体が激しく震え始め―
――シャーン――
と。薄氷を割り砕いたかのような、高く澄んだ音をたてて。闇の壁が、砕け散った。
彼女は、茫然とした目でそれを見つめた。
一瞬、辺りが静寂に包まれる。
すると今度は、彼女の真下に大きな白色の魔方陣が浮かび上がった。
またもや魔方陣は連鎖反応をはじめ、大中小様々な大きさの魔方陣が部屋の床を埋め尽くし、壁にまで腕を伸ばし、歯車のようにゆっくりと回転しだした。
彼女の真下の一番大きな魔方陣に刻まれたルーンが一回りの回転を終えた時、魔方陣が円形の光を放ち始め――。
城壁で弓兵を切り捨てた甲冑兵は、息つく間もなく後ろの相手に切りかかろうとして、
ふと動きを止めた。
夜にも関わらず、上空から光が注いでいる。
戦いの最中にも関わらず、上を見上げると、そこには城の上空を埋め尽くすような巨大な魔方陣が浮かんでいた。魔方陣から円筒形の光が下方に向かって放たれている。その中心に、
…なんだ、あれは。人か?
城の上空。巨大な魔方陣の元。数十メートル下では、城壁の上で無数の兵士たちが斬り結んでいる。そんな中。
一人の男が、一人の女を抱きかかえるようにして、空中に浮かんでいた。つい今しがたまで地下牢に繋がれていた彼女だ。二人は白色に輝く直径数十メートルの魔方陣の下で、それが放つ円筒形の光のカーテンの中心で寄り添うようにして立っていた。
彼女は、涙を浮かべた目で男を見つめていた。揺れる瞳を閉じて彼女は男の胸に顔を埋める。男は彼女をそっと抱きしめ、耳元で何事かを囁いたように見えた。
いまや、誰もが戦いの手を止め、こちらを見上げていた。
男は女に肩を貸したまま、眼下に広がる戦火の後を見まわした。
城壁は砕け、尖塔は崩れ、おびただしい量の血と、矢と、剣と、死体が転がっていた。
それらを見降ろした後、男は徐に眼下に手のひらを向け、そして――