プリマドンナと道化
「渡辺凛さん、だよね」
街中で掛けられた声に反応して振り返ってみれば、そこには思わず声を失うほどに美しい人が立っていた。
見違えるほど、とか、一瞬誰か分からなかった、とか、別にそういうわけじゃない。わたしの記憶にある姿より幾分か成長し、以前よりずっと輝きを増していたけれど、その人が誰であるかはすぐに分かった。ある意味予想通りの未来図を、実際に目にすることになった……ただ、それだけのことだ。
昔の古傷がじくじくと痛みだすのを押さえながら、わたしは張り裂けそうな想いでその人の名を紡ぐ。
「音無……さん?」
「そう!」
途端、ぱぁっと顔を明るくさせるその人。あぁ、やっぱりそういう無邪気なところも昔のままなんだね。
「覚えていてくれて嬉しいな」
「もちろん、覚えているに決まってるじゃん」
そう、忘れるはずなんてない。
あまりいい思い出がある相手というわけではないけれど……いや、だからこそ、なかったことになどできるはずもなかった。
嬉しそうに笑う彼女に、届くか届かないかくらいの声でわたしは低く呟く。
「忘れられる、わけがないよ」
――音無琳。
わたしと同じ名を持つ、あなたのことは、今でもわたしの中に、苦い記憶の一つとして刻み込まれているのだから。
◆◆◆
音無琳は、わたしの小学校時代のクラスメイトだった。
その頃から目を見張るような可愛らしさがあった彼女は、当然のごとくクラス内でも――ひいては学校内でも、注目の的になっていて。その上成績も運動神経もトップクラスだったから、自ずと周りからは絶大な人気を集めていた。
一方のわたしは、大して優れたところがあるわけではなかった。勉強だってせいぜい頑張って中の上くらいだったし、運動神経に至ってはからっきしポンコツで。
そんなわたしに、クラスのみんなが目を掛けるはずもなかったから。それくらい、自分でもよく分かっていたから。
だからわたしは、みんなの前でわざとトンチンカンなことを言ったり、傍から見れば奇妙極まりないような行動を取ってみせたりした。みんなの注目を引くために、幼かったわたしができることといったら、そんなことくらいしかなかったから。
そうしたら望み通り、わたしはクラスで――そして学校で、彼女に負けないくらいの人気を得ることができた。ただし、彼女のような憧れの的ではなく、三枚目のいわゆる『道化』として。
いつだって中心でキラキラと輝くヒロインだった彼女と、みんなを笑わせるピエロ役として君臨し続けたわたし。
そんなわたしたちが偶然にも同じ名を持つことは、すぐに周りへ知れ渡ることとなった。ことあるごとに散々比べられたり、からかわれたりしたっけ。
「こっちの琳は何でもできるし可愛いのに、こっちの凛は……比較対象にすら、ならないよね」
何回も言われ続けてきた言葉に、懲りることなく何回も傷つきながら、それでも道化であるわたしはまるで何も感じていないかのように、あっけらかんと笑って答えるのだ。
「そりゃあそうだよ。だって、琳ちゃんはわたしなんかとは違う次元の人なんだから。同じ名前であることすら、おこがましいくらいだよ」
やがて、必然というかなんというか……結局『リン』という名前を最終的に手にしたのは、わたしではなく彼女の方だった。時が経つにつれ、いつしか『リン』というその呼び名は、音無琳を指すものとなっていたのだ。
そして、その名を奪われたわたしが、凛という下の名を呼ばれることはほぼ皆無となっていた。
もちろん、誰かが「そうしよう」だなんて具体的に決めたわけじゃない(もし決めていたとしたら、それはもう単なるわたしに対するいじめ行為だ)。いわゆる、暗黙の了解ってやつ。
誰かの口から『リン』という名が紡がれるたびに、胸がうずいた。返事をしたくて、仕方なかった。
だけど、わたしがその名で呼ばれることは、もうきっと一生ないから。わたしはもう、みんなにとっての『リン』ではないから。
『リン』という名前は、わたしではなく音無琳のものだから。
――わたしだって、凛なんだよ。渡辺凛っていう、ちゃんとしたフルネームがあるんだよ。だからみんな。わたしのこと、凛って……呼んでよ。
心の叫びを必死でかみ殺し、わたしは代わりに与えられた別の名――渡辺とか、ナベちゃんとか、そういう名字関連の呼び名――を甘んじて受け入れ続ける。
道化はただ道化らしく、求められるがまま、舞台上で馬鹿みたいにくるくると回りながらヘンテコな踊りを続ける。
そんな日々は、小学校を卒業してからも根強く続いて……わたしがようやく『リン』という本来の名を取り戻すことができたのは、大学進学のために親元を離れてからだった。
◆◆◆
「まさか、あんなところで会うなんてねぇ。偶然だよね」
「ホント。何があるか、分からないね」
あの後、近くの喫茶店に連れ立って入ったわたしたちは、案内された二人掛けの席に向かい合うようにして座った。
「凛ちゃんは、今何してんの?」
メニューを捲りながら、音無さんが尋ねてくる。彼女の口から紡がれた『凛』という呼び名に、何とも言えない微妙な気持ちになりながらも、わたしは昔得意だった――最近はほとんどしないけれど――道化風の笑みを浮かべながら答えた。
「ん? 普通にこの辺で働いてるよ。常識ないわりには、何とかうまくやれてる方じゃないかな。……音無さんは?」
みんなが呼ぶような下の名を口にしなかったのは、彼女に対するせめてもの抵抗だ。それが伝わったのか、音無さんはその綺麗な瞳にほんの少しだけ影を落とした。
けれどそれは一瞬のことで、薄化粧で整えられた綺麗な顔は、すぐに完璧な――澄んだ美しい笑みを、形作る。
「あたしは、最近引っ越してきたんだ。旦那の転勤で」
「えっ、結婚してたの?」
「そうそう。去年ね」
思わず大きな声を出してしまいながら、目を丸くするわたしをよそに、彼女は不意にとろけるような表情になった。どうやら聞くまでもなく、幸せな結婚をしたらしい。
やっぱり昔から完璧だった彼女は、今でも完璧街道を全うに進んでいるようだ。……わたしと、違って。
不意に込み上げてきた、嫉妬や羨望にも似た苛立ちを隠すように、わたしはわざと明るい声で言った。
「えぇ~。じゃあもう、音無さんじゃないね」
「うん。今は、日並琳っていうの」
「そっかそっかぁ。……今更だけど、おめでとう」
「ふふっ。ありがとう」
「旦那さんってどんなお仕事してるの?」
「医者よ」
「えー、すごい。セレブじゃん」
「そんなことないって」
パラパラと当てもなくメニューを捲りながら、彼女が苦笑する。
やがて氷水を持ってやって来たウエイトレスに、わたしたちはそれぞれオーダーを告げる。わたしは紅茶とミルクレープ、音無さん――本当は日並さんと呼ぶべきなのかもしれないが、便宜上今後もそう呼ぶことにする――は珈琲とショートケーキを注文した。
ふと、気付いたように音無さんが問うてくる。
「凛ちゃんは、珈琲じゃないんだ?」
「うん。わたし、珈琲飲めないの。お腹壊しちゃうから」
「えぇっ、美味しいのに……勿体ない」
「でもわたしは、紅茶の方が好きだし」
「あたしは絶対、珈琲の方が美味しいと思うけどなぁ」
そんな風に、突如勃発した珈琲党と紅茶党の勢力争いじみた応戦を繰り広げていれば、十分もしないうちに注文していたものが運ばれてきた。苦笑しつつ、二人そろって食べ始める。
しばらくは、二人とも自分のケーキを食べることに専念していたから、会話なんてほとんどなかったのだけれど……お皿に残ったホイップクリームをフォークで器用に掬い取りながら、不意に彼女がポツリと口を開いた。
「あのね、凛ちゃん」
細長くなってきたミルクレープを、フォークで慎重に皿へと倒しながら、わたしは返事をする代わりに、向かいへと顔だけを向けた。
彼女はやけに真剣そうな顔をしてこちらを見つめていた。その様子にわたしは眉をひそめ、首を傾げる。
「ずっと、聞きたかったんだけど」
「何を?」
「その……」
言うべきか、言わざるべきか。いつも迷いなどなく、しっかりと物事の指針を示していた彼女が言い淀んでいるのは、珍しい。
「いいよ、言って」
心持ち優しめの声で促せば、彼女は困ったように微笑みながらも、ようやく決意したように口を開いた。
「凛ちゃんってさ……あたしのこと、嫌いでしょ」
思いがけない言葉に、頭が真っ白になる。
確かに、彼女のことは……嫌いとまではいかないにしろ、好きというわけでももちろんない。
わたしが長年抱き続けることとなった劣等感を植え付け、育ててきたのは彼女だ。だからこそ、いい思い出がないのも事実で……どっちかというと、苦手、といった方が正しいかもしれない。
けれど……それをまさか、少なからず見抜かれていたなんて。
他でもない、彼女本人に。
「……」
いつものように笑って、そんなわけないじゃん、って言いたいのに。何かが喉に詰まったみたいに、声が出ない。
わたしの沈黙を肯定と受け取ったらしく、音無さんはそれと分かるくらい寂しそうに眉を下げた。彼女が浮かべる表情の意図が分からず、ただ茫然とその整った顔を見つめる。
胸が締め付けられるほどの切なげな表情のまま、音無さんは再び口を開いた。
「あたしはね……ずっと、凛ちゃんに憧れていたの」
え、と掠れた声が漏れる。発された言葉を、そう簡単に信じることができなかった。
だって、音無琳はいつも完璧だった。いつだって、誰かに憧れられる存在だった。そんな彼女が……単なる道化を演じることしかできなかったわたしなんかに、憧れるなんて。
馬鹿げてる。そんなはず、ない。
否定の言葉を紡ごうと口を開きかけたところで、それを遮るように音無さんは言葉を続けた。
「自分で言うのも何だけど、あたしは確かに小学校の時みんなに好かれてたし、憧れられてた。その地位を確保するために、並々ならぬ努力を強いられたよ。そうやって飾り付けた自分っていうブランドは、あまりに息苦しくて……正直ね、辛かった」
可愛らしくあろうとすること、完璧であろうとすること――みんなのマドンナで、あろうとすること。
そのためには、陰で一生懸命努力する必要があったのだと。そうやって作り上げた自分の姿は、あまりに堅苦しいものだったから、本当はあまり好きではなかったのだと……そう、彼女は語った。
それは、わたしたちが今まで知らなかった――きっとこれからも知ることはなかったはずの、裏話に近いような暴露。
わたしが神妙な顔で耳を傾けていると、それまで自嘲気味に笑っていた彼女がいきなり「でもね」と声を一段と明るくした。わたしの目を真正面から見据え、その瞳を不意にとろけさせる。
夢見心地な表情に、何故だか一瞬ドキリとした。
「凛ちゃんは、あたしが努力して築き上げてきた地位と同じ場所に、いきなりやって来た。あたしとは違う、クラスの笑い者として、みんなからの人気をいともたやすく手に入れた。おどけながら笑ってみせるあなたの、自由気ままに生きているような姿が、ものすごく羨ましくて……」
わたしを見つめるその柔らかな瞳も、歌うような明るい声も、わたしを賛辞するような言葉の数々も……彼女がわたしに与えるものの全てを、受け取るのはあまりに辛いものだった。わたしには、重すぎた。
小学校時代、彼女がわたしに植え付けた劣等感は、これまでであまりに大きく育ちすぎていたのだ。
「違う、よ」
気づけば、静かに口を開いていた。
言葉を遮られたことに驚いたのか、音無さんが目を見開く。そんな表情の変化に構わず、わたしは気持ちの溢れるがまま、ただ口を動かした。
「わたしが道化を演じていたのは、あなたが羨ましかったから。何でも容易くこなして、いつもみんなに囲まれていて……いつだってヒロイン的な存在だったあなたに、わたしは対抗する術を持っていなかった。何の偶然か、あなたと同じ名前を付けられて。そのせいで、周りからいつも無意識に比べられ続けて。それが、何より辛かった」
長年道化の仮面に隠し続けた本心が、次々と溢れ出す。音無さんの顔を、もう見ることはできなかった。
「道化の人格はもともと、みんなに注目してほしくて作ったものだった。でも、本当は……みじめなわたしを隠すための、手段の一つだったのかもしれない」
道化の人格は、わたしの劣等感の権化。彼女の言うような『自由気まま』でもなければ『羨ましい』ものでもない。
むしろ、縛られ続けた結果生まれたものにすぎないのに。
みじめなわたしには、もともと道化がお似合いだった。笑われこそすれ、憧れられることなど、決してあってはならないのだ。
それも、舞台の中心で輝くプリマドンナが相手だなんて。
「……ごめん、ね」
ポツリと最後に告げ、わたしはその場でうつむいた。これ以上、言葉を紡ぐことは叶いそうにない。
冷めきっているであろう紅茶の水面が、わたしの情けない顔を映し出した。カップを揺らせば、それに合わせてわたしの表情も醜く歪む。
「……帰る」
残った紅茶を飲み干して、わたしは立ち上がろうとした。
ガタリ、と椅子を引く音がしたと思ったのに、わたしの身体はその場から動くことを許されなかった。音無さんが、わたしの手を掴んで引き止めたのだ。
驚いて向かいを見ると、音無さんは先ほどと同じように微笑んでいた。予想外の表情に、わたしは思わず固まってしまう。
桜色の唇をほころばせ、彼女は口を開いた。
「やっと、本音を言ってくれたね」
「えっ……」
「あなたと、腹を割って話がしたかったの。ずっと、友達になりたかった」
信じられない。どうして、わたしなんかと。
「なん、で」
「何でだろうね?」
困惑するわたしとは裏腹に、音無さんはひどく落ち着いている。柔らかな笑みを湛えたまま、立ち上がろうとしていたわたしを見ていた。
「同じ名前ってことで、興味を持ったのが最初かな。道化っぽく振る舞うあなたに憧れていたっていうのも、わりと事実だし。……それが演技だってことは、なんとなくわかってたけど」
見破られていたことに、また驚く。いや、わたし自身そんなに演技が上手いわけでもないから、注意して見ればすぐわかるのかもしれないけれど。
「嬉しかった。どんな形であれ、あなたの中にあたしという存在が刻み込まれていたことが。本当に、ずっと……あなたと仲良くしたかったの」
だから、ねぇ。凛ちゃん。
「今からでもいい。あたしと、友達になってくれないかな」
悪戯っぽく輝く瞳に、拒否権なんて見つからない。
あぁ、でもきっと。
なんだかんだ言い訳を考えては強がってみせてるだけで、きっと本当は、わたしも――……。
「わたしも……本当はあなたと、話をしてみたかったのかもしれない」
彼女の瞳を直視できず、ほんの少し視線をずらしながらポツリと呟けば、音無さんの――琳の表情が、ぱぁっと光がさしたみたいに明るくなるのが分かる。
プリマドンナと、道化。
正反対の二人が手を取り合い、仲良くするっていうシナリオも……それはそれで、なかなか悪くないかもしれないな。
目の前の無邪気な瞳を盗み見ながら、わたしはぼんやり思った。