私は覚醒した
一九九三年九月二十三日(二十一日目)
この時代に来て三週間も経った。
最初は一日中と言っていいほど何から何まで戸惑う事の連続だったが、(予想外の展開に巻き込まれ続けた事が大方原因ではある)さすがにこの時代にも慣れた。
最悪の気持ちで幸人を送り出したあの十六日から一週間、ほぼ四六時中、幸人の事をずっと考えていた。
幸人の近況はプリンスを仲介する形で知った。また、お母さん達が現地で流れる幸人関連のニュース内容を国際電話から教えてくれた。
あの切断実験について決行詳細は未定、との事だった。あれからずっといつ行われるのか考えるだけで息苦しかった。今にも幸人の悲鳴が聞こえてきそうであの日から毎日悪夢を見た。
ぼんやりカーテンを開けようとした瞬間、私は無意識に玄関の方角を見た。
玄関ドアの前に誰かいる。
そして驚いた事に外に誰がいるのか私には分かった。
「鈴木さん」
話しかけるとドアの外で鈴木が笑った。
「よく分かったね」
五分後、ドアを開けると鈴木が厚手のコートを片手に抱え立っていた。
「待ってたよ、くるみ」
私が無言で目を擦りながら鈴木を見ると、その右手を鈴木が掴んだ。
「誕生日おめでとう」
私は目を見開いた。
「今日、一九九三年十月二十三日、くるみは生まれた。そして二〇一三年からやって来たくるみが二十歳になった。つまり、」
私は微笑んだ。鈴木は頷いた。
「隣国に行くんですね、私達」
鈴木は言う。
「諦めないで待っててよかった、君の覚醒を」
私は笑顔で頷いた。視界が急に開けたような不思議な気分だった。今なら何でも予知出来る自信がある。
この時代に来て三週間、二十歳の誕生日。お母さんの予言通り、たった今この瞬間、私は覚醒した。
数時間後、鈴木、私、中嶋さんは空港にいた。
私達だけ先に発ち、プリンス御一行は予定上仕方なく、数時間後に発つ事になっている。
「幸人の切断実験は、今日、九月二十三日夕方四時に行われます。隣国とは十七時間時差があるので、タイムリミットはあと二十一時間ですね」
私は鈴木に言った。鈴木の顔は引きつっていた。
「切断実験の日が、まさかくるみの覚醒の日だったとはね」
「隣国はずっと前から切断実験に関しては計画していたんです」
「当然、隠していたのか」
そういえば、とお母さんが切り出した。「ずっと前から思っていたんだけど」
「幸人の情報はどうやって隣国に漏れたのかしら?国家機密で幸人の研究は進められていたはずよ」
「雅だよ」
鈴木はあっさりと言った。
「雅さん?耕平のお嫁さん?」
お母さんは動揺している。はい、と私は頷く。
「雅さんはスパイだったんです。情報は全て隣国の官邸に流していたんです」
「もうすぐ失踪するよ」
鈴木は真顔でさらりと言った。
隣国に到着すると、空港は麻薬騒動があったらしくごった返していた。外ではタクシーが大渋滞を起こしている。
しかし私にはどうすればいいのか分かっていた。
空港の外をしばらく歩くとコンビニの廃墟があり、そこに一台のタクシーが停められている。
「加藤さん」
私はタクシーの中で片言の英語で文句を言うお父さんに話しかけた。「もしかして、道に迷っています?」
「何でここに?」
お父さんはひどく驚いた顔をした。私は微笑むと鈴木と一緒にタクシーに乗り込んだ。
「偶然迷って空港まで来てしまった所に君達が現れて、びっくりしたよ」
「大学病院に行く所、ですよね」
私は頷いた。
「何で分かる?」
お父さんはいつまでも不思議そうに私を見ていた。
「急に有希子に呼ばれたんだ。幸人が殺されるって」
大学病院に着くと想像通り駐車場は車で満たされ、いつかのように道にまではみ出して駐車がされていた。
時刻は朝八時。幸人の手術まであと六時間と迫っていた。
横に長く伸びたその病院内部は広いのでぎりぎりまでタクシーで近付いてから、手術室のある十二階でなく、ミーティングルームのある十階に行った。
十階で降りた瞬間、当然ボディガードに追い出されそうになったが、ディール首相から以前頂いた名刺を見せてミーティングルームまで案内してもらった。
部屋に入るとディール首相が笑顔でこちらに向かって来た。中には既に青白い顔のお母さんもいた。
「これはこれはナイスタイミングです」
「これから幸人の切断実験をやる事は知っています」
私は突然切り出した。
「以前も申し上げましたが、無駄です。今すぐ計画は中止して下さい」
ディール首相は両手を上げ微笑んだ。「君達は今さら何を言っているのですか」
「あと、どうして今日手術をする事を知っているのでしょうか?」
そう言って眉をひそめる。
「君のワイフが言ったのかな?」
「いいえ。ちなみに雅は今、自国の病院です」
鈴木は笑った。「子供を今朝一人産んだ所です」
「そして、くるみという名前になるんですね、その子、女の子は」
私が続ける。鈴木が驚いた顔で私を見た。
「もうそこまで分かるんだ?」
私だけに聞こえる小声で聞いてきた。私は微笑むと小声で返した。
「鈴木さん、今なら何でも分かります。私が鈴木さんと雅さんの子供だという事も、私と三島さんが兄弟だという事も。雅さんが私を出産後失踪して、三島さんと一緒に施設に入れられる事も」
ディール首相は頷いた。
「ほほう、君は先日会った時よりも随分と自信に満ち溢れているように見える。この一週間で一体何が起きたのかな?」
「今日、二十歳の誕生日を迎えました」
私はにっこり笑い返した。ディール首相は眉を上げて笑う。「おう、それはおめでたい」
そして、と私はディール首相を真っ直ぐ見据えると続けた。「ディール首相」
「本日、あと一時間後に株価が大崩落します。その三十分後にニトロ州で竜巻が起こります。その影響で大手精肉会社ユミール社が一ヶ月以上製造を中止します。そしてその二時間後、お出かけ中の息子様が交通事故に遭います。そして、そのニュースを聞いて帰宅を早めた奥様も交通事故に遭います。お二人とも命に別状はありませんが後遺症は残ります。奥様は一生車椅子生活になるでしょう。全て本当です」
一気に伝えた。ディール首相は通訳が話し終わるなりみるみる顔を赤くし私を見た。
「あと一時間半だけ待ちましょう」
一時間後、果たして株価の崩落は起こった。
ディール首相は私を見ると、偶然もあり得る、と呟いた。「あと三十分あります」私には自信があった。真っ直ぐディール首相を見返す。
その三十分後、いよいよ竜巻が発生した。ユミール社の製造延期のニュースも入った。
「ディール首相、今ならまだ間に合います。無駄な幸人の手術は中止してください。今すぐ息子様の外出を辞めさせる事をお勧めします」
私がそう言った瞬間、ミーティングルームのドアが開き、プリンス御一行が入って来た。
プリンスは入室するなり挨拶をさっと済まし、大声で発言した。
「ディール首相、突然ですがこの手術は中止なさってください。くるみさんの予言は信用出来ます。僕の願いは彼女によって叶えられたのですから」
「ディール首相、今ならまだ間に合います」
私は再び訴えた。無意識にお母さんの方を見ていた。
「事が起きてからでは、遅いのです」
五分ほど沈黙が生まれたように感じた。
ディール首相はゆっくりと頷いた。「分かった」
「加藤くるみ、君はどうやら魔法使いのようだね」
そして微笑んだ。
「君に魔法をかけられてしまった。もう君の言う事は全て真実としか思えないよ」
手術は中止になり、幸人は我が国に返してもらえる事も決定した。
ディール首相の息子も奥様も無事だった。そして、息子が使う予定だった高速道路では五台の玉突き事故が起きたという知らせが入った。
「ありがとう、くるみ」
鈴木はそう言うと私の頭を撫でた。
「俺の自慢の娘」
私は微笑んだ。
「全てはお母さんの為だったんですね」
うん、鈴木は頷いた。細い目が無くなるほどに笑うその笑顔は少年のように幼く見えた。
朝、くるみの顔を見た瞬間、大分昔に予知した俺の記憶は信頼出来るものだと悟った。
くるみの目の色は、三週間前、くるみがこの時代に来た時のそれとは明らかに違っていた。大丈夫だ、今日にでも隣国へ幸人を助けにいける、そう確信した。
全ては俺の少年時代から始まった。
俺が小学生だった時、俺はこの変な力のせいで何度もいじめに遭った。そしてその度何度も姉ちゃんに助けられた。
俺は姉ちゃんに感謝していた。そしてその感謝の思いは、次第に姉に対する思い以上のものへと変わっていたように思う。
姉ちゃんは強かった。泣く事なんてほとんど無かった。でも中学時代三年間の内、一度だけ泣いた事がある。
それは姉ちゃんが体育館倉庫に連れて行かれた時。姉ちゃんが連れて行かれる事を事前に予知していた俺はその日一日落ち着かなかった。同時に怖くて助けられない事も分かっていた。そして、いつも自分を庇ってくれた姉ちゃんが連れて行かれ、青ざめた顔で帰宅するなり泣き出した夜、俺は自殺を図った。未遂に終わったが。
それから数年経って、また姉ちゃんの涙を見たのは姉ちゃんの子供、幸人が国家の財産になった時だった。
生後間もない幸人が誤って車の窓に手を挟み、その直後に生えて来た事を病院に相談するなりすぐに精密検査の連続、国家の財産への手続き。姉ちゃんの意思とは関係無しに事はどこまでも進んだ。
姉ちゃんは頬を伝う涙を気にもせず、真っ青な顔でいつまでも震えていた。その姉ちゃんを見た瞬間、俺は自分の子供、自分の分身二人を未来から連れてくる計画を立てた。
一人は男の子、もう一人は女の子。女の子は俺以上の未知なる力を秘めている事。全て雅に出会った瞬間に直感した。俺の分身である二人を、未来から二十年前のこの時代にワープさせる事で、姉ちゃんの涙を取り消す事は可能だと思った。
同時に、そうする事で自分の力が完全に無くなる事も、寿命がひどく短くなる事も分かった。
俺が死んだら、姉ちゃんの家、加藤家にくるみを、雅の妹さん御夫婦、三島家にみちるを預ける手筈も整えた。雅の妹さんは姉ちゃんの親友だったので、突然命日を告げた俺の言葉を少しでも信じようとしてくれた。全てはうまくいくと信じるしかなかった。
そして、今、俺には力が全く無い。もう何も先の事は読めなくなった。
あとは今までの予知を思い出して、必死でみちるとくるみを動かし続けた。
俺は姉ちゃんが好きだった。人の心は色のように例えられるけど、姉ちゃんの心は透き通った空みたいだった。正直で真っ直ぐで裏表が無い。とてもきれいな心だと思った。
姉ちゃんは全部知っていた。
姉ちゃんが全部知っている事を分かっていたから、この計画を俺は立てた。
くるみが二十年前にワープする事も、それが俺の計画である事も、未来のデータと、俺の遺品のハンカチが必要になる事も。俺の姉ちゃんに対する思いも。全部知っていたんだ。
みちるとくるみには言えなかった。俺が本気で姉ちゃんが好きで、それを姉ちゃんは知っていて、だからこの計画が生まれたなんて、言えなかった。
「くるみ、俺は」
「十一月二十六日ですね」
私は頷いた。鈴木の命日である。あと一ヶ月と三日で鈴木はこの世から消える。鈴木は残りの人生全てを取り消してでも、これから流れるお母さんの涙を取り消したかったのだろう。
一九九三年九月二十四日(二十二日目)
翌日、私と鈴木は帰国し、あの大学病院にいた。先程幸人とお母さん、お父さんにお別れを告げた所だ。
幸人は親子三人で退院前の荷物をまとめる作業をしていた。ありがとう、お姉ちゃん、そう言う幸人の嬉しそうな笑顔を見ると胸が熱くなった。
お母さんとのお別れは本当につらかった。本当にもう会えなくなってしまうのだ。
なぜなら、私は今から元の時代に戻るのだから。
「世界一周の修行に出るんだって?」
お母さんが微笑んだ。はい、私はそう言うと俯いた。泣くのを堪えるのが必死だった。
「くるみちゃん、頑張ってね。ずっと応援してるからね」
はい、そう言った瞬間、涙が零れた。
さようなら、お母さん。
「三島さんは一年間、よく過去の記憶だけで予知してる振りを続けられましたよね」
「あいつ、勘がいいからね。客が何を知りたいかとか、何を言って欲しいのかとかすぐ分かる奴だったから。もしかしたら、実はあいつも少なからず力があったのかもね。睡眠時間とか異常だったし」
「それは関係ないんじゃないですか」
とにかく、と鈴木は笑う。
「首相と対決するきっかけ作りまであいつがいたから出来たんだ。大した奴だよ」
鈴木は笑った。
私がエレベーターに乗り込むと鈴木は、じゃ、と私の頭に手を乗せた。
「愛してるよ。くるみ。本当にありがとう」
「待って」
私はエレベーターの扉が閉まると同時に手を伸ばした。もう会えなくなってしまう。
何か、最後に言わなくちゃ。
「待って」
しかし、そう言った時、既に大きな揺れと共にエレベーターは真っ暗になっていた。
明かりがついた瞬間、
「危ないよ、指。もう生えてこないよ」
背後から声がした。振り返ると驚いた。
車椅子だったその男、幸人は両足でしっかりと立ち、さらに私の左腕を掴んでいた。