同志
一九九三年九月七日(五日目)
次の日は雨だった。
細かい雨が静かにこの街全体を濡らす。
「先に実家に帰るのですか?」
朝、カーテンを引き窓の外の病院を見ながら言った。私のいる部屋からあの病院は見える。
「実家ってどこなんですか」
「ばか」
三島は一言そう言うと漬物を噛む。今朝はさすがに食欲が無いらしく、中嶋さんが買ってくれたおにぎりセットの漬物だけを食べている。
「お前の実家だよ」
お母さんがどうして。そういえばお母さんは細胞再生研究に関わっているのだろうか。聞いた事がないけど。あと、現地集合した方が早いと思う。
どうして、そう言いかけた所で電話が鳴った。私が出る前に三島が受話器を取る。
「加藤です」
一応、私の連絡先はこの部屋の電話番号にさせてもらっている。
「あ、加藤ですか?」
加藤ですと答えてから加藤に代わるってどうなんだろう。「今代わります」そして受話器を手渡される。
電話の主は花子さんだった。
おはようございます、お菓子美味しかったです、ごちそう様でした、立て続けにそう言うと花子はそんな事はどうでもいい感じだった。すぐに本題を話し始めた。
「加藤さん、これからお時間ありますか。もしよろしければ三島さんもご一緒に」
これから?
「すいません、これから出かける所なんです」本当に残念だったので悲痛な声が出た。何かあったのだろうか。不安になった。
「そうですか」
花子の溜め息が聞こえたような気がした。ふと溜め息と同時に喋る小林さんを思い出す。
結局、三島と相談し花子とは明日会う事になった。もうプリンスが他の女性に手を出したのだろうか。週刊誌の内容を一生懸命思い出そうとしたが、具体的な浮気現場や時期まではさすがに思い出せなかった。
私達は中嶋さんの車に乗るとすぐに出発した。出発前に三島がちゃんとおさげにケーキのお礼を言っていた。
車に乗るなり三島がすぐに寝始めたので驚いた。そんなに疲れているのか。心配すらした。普段あんなに飄々としている人ほどストレスがたくさん溜まるのかも知れない。
前回は二時間近く乗っていた気がしたが、今回は三十分ほどで目的地に到着した。
「実家」がお母さんの所ではなかったからだ。
「お父さん」
私がそう言いかけ、三島がすぐに手で口をふさいだ。お母さんの時同様に両肩を掴み、笑いかけてきた。
「前も言ったろ?分かるよな」
その気迫に圧倒される。何も言うなよ、去り際さらに念を押された。
普段温厚なお父さんは、かつて見た事のないほどに機嫌の悪い顔をして声を荒げていた。
「どうにも現実味がないんですけど」
お父さんはこの時、二十九歳。若く、皺も白髪もない。体型だけが今と変わらない痩せ型で、何より驚いたのはまさかのリーゼントだった事だ。
機嫌の悪いお父さんの足元を赤毛のモップがウロウロしていた。ヨネだ。小型犬、オス。ポメラニアンの血が入っているらしいが雑種に変わりない。二十年後うちで飼っているライスの親だ。
「本当なんです、聞いてください」
三島が必死に頼み込んでいる。「俺と、こちら加藤くるみがなんとか現状打破しますので、あともう少しだけ俺達も病院に入れてください」
ふいにお父さんと目が合う。
「初めまして、加藤くるみと申します」
緊張しながら自己紹介をする。お父さんの探るような目が私を捉えたが、それはすぐに三島に移った。
「で、今日は何を」
「今日は一緒に病院に来てくださいませんか」
三島が上目遣いにお父さんを見る。
「俺も?」
お父さんは意外そうに繰り返した。「その、幸人に何か?」
幸人?
どうしてそんな呼び方をするのだろう。
「幸人に何かあったんですか。俺も有希子も、絶縁させられてからは、幸人が混乱するのであまり会わないように言われているのですが」
嘘。
私はその場に立ちすくんだ。絶縁、という事は、お父さんは幸人の父親?じゃあ、母親って。
「今日はこれから話したい事があるので、病院に家族全員集まって欲しいんです。ゆきさんは今頃病院にいると思います」
家族全員、父親、ゆきさん。私は固まった。お父さんとお母さんの本当の子供は幸人。
お父さんは訝しげに三島を見て頷いた。
「分かりました」
病院に着くまでの車の中は通夜のように静まり返っていた。
助手席に座る三島が何度か私を振り返ったのを感じた。
今の現状を少し理解出来た。占い師として有名とはいえ、赤の他人の三島が幸人のような特殊人物に毎回会いに行けるのは、お父さんとお母さんの許可を毎回取っているからなのだ。考えてみれば、カードのようなものをボディガードに見せていた。あれは三島がお父さんかお母さんから借りた面会許可書、のようなものなのかも知れない。
誰か息遣いの荒い人がいると思ったらヨネだった。お父さんがちゃっかり連れて来たらしく、膝の上でハァハァ言っている。お父さんの犬好きはいつからなんだろう。雨に濡れたヨネの匂いが車に充満し、中嶋さんが雨にも関わらず窓を全開にした。
病院に着くと、待合室にあの後姿があった。
「鈴木さん」
鈴木の元へ行くと鈴木の顔が綻ぶ。ニコニコしながら私の頭を撫でた。あれ、こんなに仲良かったかな、と思う。何してんの、コーへー、三島が苦笑しながら近付くと、鈴木が三島の肩に腕を回す。「えっ?何?何なの?」三島は落ち着かない様子で鈴木を見た。
鈴木の隣にはお母さんの姿もあった。
予定の日までまだ時間があるけど、と笑う。予定の日とは二日に約束した二週間後の十六日の事だろうか。そして、ふと鈴木とお母さんは面識があるのか気になった。
「今日は重大発表があります」
三島がそう言い、お母さんにお父さんが近付いた。
「ゆき」
「元気?」
会うのは久しぶりらしい。二人は見つめ合うと抱擁し何度もキスをする。唖然とする私の横で見知らぬ子供も口を開けてその様子を見ている。
「じゃ、行きますか」
三島が鈴木に肩を組まれたままみんなを振り返った。
「詳しい事は上で話しますので」
ワン、外でヨネが鳴いているのが聞こえた。先ほどお父さんがヨネを見ている看護師にミックスです、と言っていたが、ようするに雑種だよ、と思う。
上の階に着くとエレベーターが開いた瞬間幸人が待っていた。
お母さんに飛びつくと思ったら、恥ずかしそうにもじもじ突っ立ているだけだった。久しぶりで照れているのだろうか。お母さんが幸人を抱き締め嗚咽すら漏らしたが幸人はされるがまま立っているだけだった。
幸人の部屋に入ると近藤が出迎える。「この度は加藤有希子さん、加藤道弘さん、お久しぶりです」
近藤がお母さんとお父さんに一礼する。
「本当に久しぶりだわ」
お母さんが笑う。今まで見た事のないゾッとするほど冷たい笑みだった。
「幸人が今年七歳になるという事は、七年ぶりね」
それって、全く会っていないという事だろうか。私は眉間に皺を寄せる。そして納得した。幸人が生まれてすぐこの施設に入ったのであれば、幸人にはお母さんとお父さんの記憶がほとんど無いだろう。だから幸人の反応に違和感があったのだ。
しかし近藤は動じていない様子だった。「恐れ入ります。全てこちらの都合の為です」眉間に皺を寄せ、残念そうな顔をするが単に表面上のものに見えた。
「今回、どうして幸人に会える事を許可してくださったの?」
お母さんは先程から幸人と固く手を繋ぎ、そのまま一生放さない様子だった。
「実はですね、我々の研究は更に佳境に入りますゆえ、今後このような面会は厳しくなります」
「それは今までと状況は何ら変わりないけど」
「はい、存じております。しかし、これからの研究は最終段階に入りますので、幸人君の精神面も考慮しまして今後の面会は控えさせて頂きたく」
「ふざけんなよ」
お父さんが笑った。お父さんの笑顔も冷たい。「だから、今までと変わらないんだって。要するに会うな、って事だろ」
「はい、今までと状況は変わりませんが、本日のこの面接を持って幸人君との面会を最後にしたいと考えております」
その後の様子はひどかった。
お父さんは近藤に掴みかかり、お母さんは幸人の手を掴んだまま部屋から出ようとしてボディガードに取り押さえられた。
最後に吐き捨てられた近藤の捨て台詞がいつまでも頭に残った。
「全ては国家の為なのです。我々研究チームとしても大変遺憾に思っております」
数分後、私達は幸人の部屋にある二つのドアの内のもう一つの方のドアを開けた。
ドアを開けると廊下が続いており、いくつものドアが連なっていた。前回、もう一つの方のドアを開けた時も感じたがこの病院は予想以上に広い。
私達は廊下に連なるドアの中の一番近いドアを開けその部屋に入った。
その部屋はミーティングルームらしく、十二畳程の広さでホワイトボードと会議テーブルが四つ、その上に載った一台のパソコン、後ろには自販機まであった。
「今回、僕達がここに来たのは、実は理由がありまして」
三島が私達、近藤、幸人、鈴木、お父さん、お母さん、私の六人を見渡しながら言った。
「僕の予知では、橘幸人君の」
「あ」
ここで思わず声が漏れた。お父さんとお母さんの子供であれば性は加藤であるはずだ。そういえば前回見たリーフレットにも幸人は橘幸人、と記載されていた。
「幸人は国家の財産になったから、事実上は加藤の性ではないんだよ」
三島がこちらにやって来て誰にもバレないように教えてくれた。「橘は天皇の性だろ」
国家の財産、天皇の家系。現実離れし過ぎている。まさか身内でこのような単語を使う日が来るとは。しかし、人に対して国家の財産、という言い方が引っかかる。幸人に対して、絶滅危惧種の動物扱いさながら、と言った所だろうか。
で、と三島が続ける。すいません、私は小さく謝る。
「幸人君の今後の研究は確実に失敗します」
「何?」
近藤は眉をひそめた。
はい、と三島は真顔で頷く。
「今まで三七件、でしたっけ?」
三八件です、と近藤が訂正する。両手を組み納得のいかない表情を浮かべている。
「ああ、そうですね、それほどの実験を行ってきましたが、今後、その今までの実験を統括する更なる大実験を計画しているという事ですが」
はい、と近藤が相槌を打つ。
「どれも失敗します」
三島がしれっと言い切る。「確実に」
「そんなはずはありません」
興奮した近藤が立ち上がった。
「我々が三八件もの実験により得た研究データによれば、今後の実験は成功します」
そして最後に三島に対抗するかのように一言付け加える。「確実に」
あの、と三島も引かない。
「今まで行われてきた実験は主に動物実験ですよね」
「そうです。幸人君本人の身体を考慮して」
「では、これから僕の言う事はすぐにご理解頂けます」
三島は真っ直ぐに近藤を見すえ、近藤は何も言わずに三島を見つめ固まっている。
「これから行われる実験は主に全て、幸人君の身体がメインになりますよね。今までの動物実験と結果が確実に変わります」
三島は頷いた。「じゃ、手っ取り早く結論からいきますね」
「幸人君のその体質は今だけなんです」
途端、三島と鈴木以外の全員が声を上げた。近藤が再び口を挟む。「どういう事ですか」お母さんもお父さんも今にも立ち上がりそうな姿勢になった。
実は、三島が近藤を真っ直ぐに見て答える。
「今だけなんです、彼の異常なまでの細胞再生能力、というんですかね、その、生えてくる力」
皆が疑いの目を三島に向けていた。言われるまま信じられる事ではない。しかし考えてみれば、そもそも幸人の能力自体の方が信じられない事なのだ。三島が言うから本当なのだろう。私は一人小さく頷いた。
「今まで、その特殊能力について、幸人君の遺伝子レベルからあらゆる研究を繰り返し、動物実験も繰り返し行ってきたと思いますが、やはり、それは幸人君本人の身体上でないと起こらない現象なのだと、結果はそう出ているはずです。だから今後の実験の成功が予想出来たんですよね。当然、幸人君がメインになるので失敗する訳がない、と」
でも、と三島は続けた。「では、幸人君のその特殊能力が無くなってしまったらどうしますか」
近藤は口を閉じたまま目だけをギョロリと動かした。
「これから行われる幸人君自身をメインとした実験は全て意味が無くなってしまいます。彼の身体あちこちを切断した所で、もう生えてこないので。ちなみに彼は、あと数日でその特異体質は変わってしまいます。僕達と同じ、通常の人と同じ体質になり、怪我をすれば自然治癒力は働きますが、指を切ったら二度と生えてきません」
そして近藤が何か言い掛け、三島がふいに私を指した。
「そこで、我愛弟子、加藤くるみの出番です」
え?
私が目を丸くすると、テーブル下で足を蹴られた。
「今、僕の言った事が果たして真実であるのか。それには確実な証拠が必要です。そしてもちろん、実験が失敗します、だけで終わりにはしません。こちらも国家の為に協力させて頂きます」
三島が笑った。
お父さんとお母さんが私を見て、私は三島を見た。自信満々のその顔は何か考えがあるらしかったが、近藤が「では、詳しくお聞かせ願えますか」と言った瞬間、三島が数秒鈴木を見た所から、全ては鈴木の案なのだと悟った。
「加藤くるみ、彼女の予知能力は脅威です」
三島が私の肩を叩いた。今まで静かに状況を見ていた鈴木が頷く。近藤が期待を込めた目で私を見つめ、私はその視線をあからさまに逸らした。
今この瞬間、世界で一番驚いているのは私だろう。
「幸人君はこのままだと能力が無くなります。今後の大実験は出来なくなります。でも、データさえあれば他の実験は続けていく事が出来ます」
「そうですね」
近藤が頷く。「事実上は」
「でも、確実に幸人君の能力が無くなったという証拠やその時の状況は、実際に切断をしない限り分からない。つまり他の実験に移れない、そうですね?」
三島が言う。そうです、近藤は頷く。
「そこで加藤の予知能力を使います」
三島が私の肩を再度叩く。私が今にも反発して立ち上がろうとするのを押さえ付けているようだった。
「俺達の予知では、今後幸人君の能力が無くなった後に実験を行った為に、幸人君は一生両足を失う、という結果が出ています」
お母さんは唇を噛み、お父さんは両腕を組み直した。幸人が唾を飲み込んだのが分かった。
「しかし、我々としてはその実験で起きた一部始終、実験結果やその時の状況、データは必要です」
まさか。
「加藤は、その未来の実験データを予知出来るのです」
そう言うと三島が私を振り返った。
「加藤、これ、見覚えあるだろ?」
三島が紫のハンカチをかざした。私は頷く。お母さんの遺品だ。これが一体何と関係あるのだろう。鞄から取り出し三島に手渡した。隣でお母さんが息を飲むのが聞こえた。
三島は小さく折り畳まれたそれをゆっくり開いた。
次の瞬間、驚いた。折り畳まれたそれから一枚のフロッピーディスクが出てきたからである。
「このフロッピーに幸人君の両足切断実験のデータ全てが入っています」
フロッピーディスク越しに三島は微笑んだ。「また、このデータは未来のものです。つまり」
「実験データのみならずそこからの新たな研究、その結果まで入っています。つまり、これ一枚あれば二十年分の細胞再生研究の結果がわずか三秒で手に入る訳です」
そう言うと、会議テーブルに用意してあったパソコンにそれを入れる。
二十年前のパソコンは大きく、読み込みも遅い。カタカタという音がし、そのまましばらく待たされた。その時間がどれほど長く感じられたか分からない。ようやく画面にデータが表示された時は思わず安堵の声が漏れた。あまりに内容が多過ぎた為に何度かフリーズしたが、無事に内容は読めた。近藤は食い入るように画面を見つめている。
これで一件落着だ。
私は会議椅子にぐったり寄り掛かった。
私がこの時代にやって来た理由はこれだったのか。
「ハンカチって、どうしたんですか」
一時間後、私と三島は病院の喫茶店にいた。私はコーヒーを飲みながら三島に聞いた。一方三島は鈴木を見る。
ああ、あれね、俺の、三島が微笑む。趣味が悪いと思った事は言わないでおこうと思う。
「このハンカチが無いと人をワープさせる事が出来ないんだ。だからくるみを二十年前のこの時代に連れて来れた」
なるほど。納得した。確かにこの時代に来る前にナースステーションでハンカチを受け取っている。ここで鈴木が説明する。
「ワープにもルールがあって、人数は自分以外で二人まで、もしくは自分一人がワープするか。期間は三週間。でもそれは人によりけり」
そして、あれ、と思う。
「このハンカチに包んであったフロッピーって誰が用意したんですか」
私が鈴木に聞くと、隣の三島が、
「え?ゆきさんだよ」
そう言って目を見開いた。何でそんな事を聞くのだろう、という顔だ。
お母さん?私も目を見開いた。
「二十年後のお母さんは、私が二十年前にタイムスリップする事を知ってるんですか?」
「いや」
そう言いながら、三島がストローをメロンソーダに浮かぶバニラアイスに刺した。どちらかと言うと今の会話よりもそちらに気を取られている様だった。
「それなのに、どうしてフロッピーディスクを用意出来たんですか?」
三島がスプーンでアイスを掬い始めたので、うん、と今度は鈴木。
「分からないんだよね」
私が、え、と目を丸くすると、
「分からない。なんで用意出来たのか」
鈴木がそう言い、横で三島がストローを吸った。
二〇一三年、お母さんがフロッピーに研究データを入れ、それを持って私が二十年前のこの時代にやって来た。でもどうしてお母さんがフロッピーを用意出来たのか。
「ゆきさんって、もしかして分かってたのかな。全部」
三島がそう言いながらストローを回した。氷がカランと音を立てる。さあ?鈴木は笑う。
そして運ばれてきたピザトーストを掴み、熱、と指を引っ込めた後、再度それを掴むと、くるみ、とふいに話し始めた。
「二十年後って、今、この瞬間から変わっていくんだ」
ピザトーストを熱そうに頬張る。
「だから、くるみがいた二十年後と今の二十年後は違う」
私は眉間に皺を寄せた。なんだか頭の中がこんがりそうだ。つまり、例えばの話だけど、今度は三島が話し始める。
「今、ゆきさんにくるみは未来のあなたの子供なんですよ、って言ったらどうなると思う?二十年後はおそらく変わるよね」
三島はそう言うとストローをズズッと言わせた。いつの間にか飲み干している。
「そしたら、今、くるみはこっちの時代にタイムスリップしていないかも知れない。つまり、くるみの存在はこの時代から消えてしまうかも知れない」
私は無言で頷いた。三島が絶対に何も言うな、って言ったのはそれが理由だったのか。
「だから、今この瞬間、くるみが二十年後にこの時代にワープして幸人を助けに来ますよ、なんて言えないし、もちろん、これから行われる幸人の両足切断実験を許して、そのデータをフロッピーに入れて二十年後まで待ってください、なんて絶対に言えない。そんな訳で分からないんだよね」
鈴木はそう言うとおしぼりで手を拭き、笑った。
「ま、頑張れよ」
横で三島が真顔でポツリ。
私はコーヒーカップを最高部まで傾け喉を鳴らした。いつのまにか温くなっていたそれはほぼアイスコーヒーになっていた。冷たい液体が胃に流れ込み、ふいに寒気を感じる。この寒気はおそらくコーヒーによるものではない、今、この現状に対する自身への不安だった。
ちょうど二時間程前、三島の大予言の後、近藤は他の研究者達を呼び出し、その場で一斉にフロッピー解読が始まった。そして、その間、私達は久しぶりの幸人との面会を再開した。
近藤曰く、もし幸人の能力が予言通り無くなってしまったら、その時幸人は再びお母さん達と生活出来ると言う。
確かに幸人、いや幸人の能力は現在国家財産である為、その能力が無くなってしまったら、国家のもとに置かれる必要は無くなるのだろう。
お母さんもお父さんも一刻も早く幸人を連れて帰りたいといった感じだった。一方、七歳の幸人が話の展開に付いて来れるはずは当然ない。ただ複雑な顔をしていた。自分の両足切断実験をせずに済むという事は確認したいらしく、「足切らないよね?」と何度も聞いてきた。
結局、データ解析は相当な時間が掛かるという事だけが分かった。また、その期間は一ヶ月は優に過ぎる、という大雑把な予想しか出なかった為、幸人との暮らしがいつになるかは未定、としか判断出来なかった。
幸人と再開の約束を交わすとお母さん達と私達は別れた。お母さんは別れ際に私の両手を握り、ありがとうと目を潤ませていた。そして言った。
「あなたに会えてよかった」
私は鼻の奥がツンとするのを堪えた。まさか、この時代では他人の私にお母さんがそんな事を言うなんて。
私はただ、フロッピーを運んだだけ。全ては鈴木と三島の計画だ。
そして二人は仲良く手を繋ぎ立ち去った。二人が別居していたのにも関わらず、その熱が冷めていない事には驚いた。三島は二人が幸人を取り上げられた事を機に別居を始めたと言っていた。
病院の喫茶店に入ってから一時間程経ち、私達は席を立った。支払いは一番所得の高そうな三島でなく、意外にも、鈴木が三人分をさらりと支払った。
ごちそう様です、三島と共に頭を下げると鈴木は私と三島の頭に手を置き、
「かわいい二人の為ならいくらでも」
と言って笑った。なんだそれ、と思う。
病院の自動扉を抜けると、有能な中嶋さんが雨の日だからと目の前に車を停めていてくれた。
車が出発してすぐ中嶋さんが振り返った。
「三島さん、加藤さん。この後もしよろしければ、うちの家族と一緒に夕飯なんていかがですか」
マネージャーはこんなに気軽にプライベートのお誘いをするものなのか。それも家族ぐるみの。失礼ながら思ってしまった。
しかし意外にも二つ返事で三島がOKした。目尻を下げ、久しぶりですねと嬉しそうに笑う。「メニューは何ですか」
「ハンバーグです」
中嶋さんが笑う。「中身は秘密です」
あれ、そういばヨネの姿が見えないな、三島が車の中を見渡したので私は彼の後頭部を叩いた。中嶋さんが真顔で言う。
「ヨネちゃんなら加藤ご夫妻が連れて帰りました」
マンションに着くと、一度自分の部屋へ向かった。部屋に入るなり、電話機のオレンジの着信ライトが目に入った。
誰だろう。留守電ボタンを押すと、メッセージが再生された。
「花子です。加藤さん、明日なんですが、もしよろしければ、虹ヶ丘の私の家までいらっしゃいませんか?今までの感謝の意を込めて手料理をご馳走します」
花子さんだった。トイレでなく虹ヶ丘の。
後で三島に相談しよう、そう思いながらシャツのボタンを外した。
と、その時、勢いよくドアが開きいつものように三島が入って来た。
「おっ、悪い悪い」
そう言いながらしっかりとこちらを見ている。咄嗟にシャツを羽織ると三島を叩きながら玄関まで追い出した。
すると、そこに中嶋さんのおさげが立っていた。
「ちょっと時間掛かるらしいって。夕飯」
三島がそう言いながらこちらを振り返った。一方、おさげは私を凝視している。
「あっ、すいません、見苦しいものを」
私がシャツのボタンを締めながら言うと、おさげは短く、いえ 、と言い、
「ちょっとハンバーグが失敗してしまって」
小さな声で言った。
ボタンを締めながら明日の予定を三島に確認し、花子の家には中嶋さんに送ってもらう事になった。
そして別れ際、あの、私は思いきっておさげに声を掛けた。もしよろしければ、と前置きをする。
「お手伝いしてもいいかな」
お手伝いは、買出しから始まった。
近くのスーパーで一番安い合い挽き肉を買う。おさげは豆の缶詰を大量にカゴに詰め、私と目が合うと目を逸らした。
「もしかして豆をハンバーグに入れるの?」
聞いてみるとおさげは頷き、「大好きなんです、豆」ぼそりと言った。
可愛いと思った。確か、誰かも同じように豆が好きだって言っていた。誰だったか思い出せない。その彼女もハンバーグに豆を入れると言っていた。確か、お味噌汁にも入れると。
「そうですそうです」
おさげが目を輝かせた。「うちもお味噌汁に豆を入れます」
豆でこんなに会話が弾むとは。豆だって自分の話題がここまで出るなんて思わないだろうな。サンキュービーンズ。
袋片手にスーパーから出る頃には、豆の件から心を許したのかおさげは笑顔を見せてくれるようになった。そして、ふいに、
「加藤さんはみちるの事好きなんですか?」
予想外の質問をしてきた。
「いや、師匠だよ、単なる」
私が笑うと、そうなんですか、そうですよね、おさげは顔を綻ばせる。「みちるが師匠って、笑っちゃいますね」
「私の小学校はここです」
帰り道の途中、おさげが紹介してくれた。今日はクラブが休みだったんです、と笑う。意外にも陸上クラブの長距離部門らしい。早いデブ、って言われてます、おさげが自虐的に笑うので、そんな事ないよ、と一秒で返した。棒読み。「そんな事言わせちゃダメだよ」そこは気持ちを込める。
さらに歩くと、おさげが顔を曇らせ、
「ここ、みちるの彼女がいるんです」
と古い木造アパートを指した。舞台セットのようにわざとらしい今にも壊れそうなアパートだった。へえ、彼女いるんだ、私は単純に驚き、「みちるは夜中にここに来て会ってます」おさげに至っては、隣でショックの塊のような顔をして続ける。
「相手はA高の人。すっごい美人」
おさげが知っているんだから週刊誌にも載っているんだろうな、と溜め息を付く横でおさげが鞄をゴソゴソいわせ週刊誌を取り出した。
週刊誌には「超オンボロ木造建築!三島みちる貧乏だった!」と大きな見出しがあった。
どういう事だろう。そして、常に週刊誌を持ち歩いているおさげに驚かされる。
見出しの下にモノクロ写真で三島と制服姿の少女が写っている。しかしその写真の下の説明文に目を疑った。「三島みちる、美人妹と二人、貴重な家族時間」
妹?
「妹、という事になっているんです」
おさげが真剣な表情で私を見る。
「でも、週刊誌ってその辺ちゃんと調べるはずだし、妹なんじゃないの?」
違うんです、おさげは譲らない。
「私、聞いたんです。みちるが電話で謝ってるのを。あの人に、妹の振りさせて悪いって」
高級マンションでも壁の薄い所は聞こえます、盗聴には気を付けて、全国のマンションに住む人に言いたいと思った。
その後、しばらくぼんやり歩いていると目の前に小さな公園が見えた。すると、
「みちると初めて会ったのはここです」
おさげが急に切り出した。私はその小さな公園を見回した。滑り台と砂場とブランコ、色褪せた青いベンチ。
「ここで?」
驚いた。中嶋さん伝いに三島と会った訳ではないらしい。
「みちるはあのベンチに座っていたんです」
おさげが青いベンチを指差し、話し始めた。
初めて見た時、みちるはあのベンチで一人、ぼーっと座ってて。その時は別に何とも思わなかったんですけど、その次の日も次の日もずっとあのベンチに座ったままだったんで、
私すごく心配して。そしたら四日目にみちるが消えたんです。
「何してたんだろう」
「ホームレスだったんですよ、みちるは」
ホームレス?三島さんが?信じられない。「で?」私は先を勧めた。
六日後にまたそのベンチに現れて、その次の日も。どんどん痩せているような感じだったんです。で、私、思い切って声を掛けたんです。
「何て?」
「うちに来ませんか?って」
すごい事を言うな、この子。私はおさげをまじまじと見つめた。「そしたら?」
「競馬、やってる?って」
「え?」
笑ってしまった。
「何、それ、第一声がそれ?」
おさげは真顔で頷いた。「お父さん、競馬やってるから、はいって言ったんです。そしたら」
「なるほど、それで中嶋さんのお父さんと仲良くなったんだ」
「そうなんです」
目を丸くしておさげが頷いた。
その日、みちるが馬券をくれたんです。で、大当たり。次の日もみちるとそのベンチで会って馬券をくれて、それも大当たり。それをお父さんに話したら、お父さん、会ってみたいって言って。で、二人はすっかり仲良くなって。始めは夕飯だけご馳走してたんだけど、それからそのままの流れでうちで住むようになったんです。
中嶋家も十分変わってると思う。
「それから、みちるは占いの仕事を始めて」
「それが大成功したんだね」
はい、とおさげが頷いた。「で、お母さんはスーパーのパートをやめて、みちるのマネージャーになったんです。さっき行って来たスーパーです」
なんだか、信じられない話。本当に三島はホームレスだったのか。
夕飯のハンバーグ作りは楽しかった。
豆をふんだんに生地に練り込んだ為に形成が難しかった。私が苦戦している様子を見ながらおさげは楽しそうに笑う。こうするんですよ、とやって見せてくれる。その様子を中嶋さんが娘二人を見るような優しげな表情で見守っている。
「えっと、下の名前は何ていうのかな、今さらなんだけど」
ハンバーグをフライパンで焼いている間、暇が出来た。中嶋さんは風呂の準備に風呂場へ消えた。
「三島さんは、同志って言ってるみたいだけど」
「みち子」
みちるに似てるね、私が笑うと、だから同志なんです、とみち子が頷いた。
「この名前である以上、この世界を満ち足りた世界に変える使命があるんだよ、って言ってました」
何言っちゃってるんだろう、三島さん。
フライパンからハンバーグを皿に滑らせると、みち子に言った。
「じゃあ、その偉大な使命に立ち向かっている同志を呼んできてもらっていいかな」
「了解です」
みち子が敬礼して部屋を出て行った。
数分後、みち子が沈んだ顔で戻って来た。
「どうしたの?」
私が聞く前に中嶋さんが聞いた。
「みちる、用事が出来たって」
あ、そうなんだ、私もがっかりした。せっかく作ったのに。
「あの彼女だよ、絶対」
みち子は涙目になっていた。やめなさいよ、中嶋さんが注意する。「妹でしょ」
「絶対、彼女だよ。私、聞いたんだもん」
豆入りのハンバーグはとても美味しかった。
小さな木製のテーブルを三人で囲んで座った。本当は気付いていたけど、やはり、夕飯の席で納得した。
中嶋さんの家のどこにも旦那さんの存在が見当たらないという事。
「三島さんは不思議な人よね」
中嶋さんは微笑みながらご飯を口に運ぶ。横でみち子はむくれたままだった。
不思議、というか変わっているというか。中嶋さん達も見ず知らずの男を住まわせるなんて十分変わってると思います、なんて言えないが。もしかして、旦那さんがいないのは三島が来たからなのでは、と思い苦笑する。と、ちょうど中嶋さんが切り出した。
「あの人もね、三島さんの事、結構気に入っていたんです」
一瞬、何の事だか分からなかった。お父さん、みちると一番仲が良かったもんね、みち子がそう言ったので旦那さんの事だとやっと分かった。
「今、旦那様はどちらに」
「さあね」
中嶋さんがあっけらかんと笑う。その笑顔はさっぱりとしていて嫌な感じが全くしない。
「もう離婚して半年以上経つのかしら」
「お父さん、こないだ女の人と歩いてるとこ見たよ。また別の人」
「あら」
この二人はあっさりと話す。「何か話した?」中嶋さんが聞き、うん、とみち子が頷く。
「二人共元気か?だって」
「あら」
この二人はもし家に泥棒が入っても、あら、で済ませそうだ。
旦那様の写真を見て納得した。みち子は中嶋さん似だと。浅黒い肌にきりりとした目鼻立ち。とてもかっこよかった。外国人みたい、呟くとハーフですとみち子が言う。
中嶋さんは浮気症だった旦那に嫌気が差し離婚したと言う、というか笑っていた。でもその目はどこか悲しげだった。
「向こうは、絶対ダメ離婚、なんて繰り返してたんだけど」
「覚せい剤みたいですね」
「やっぱりみち子の教育上何かあったらと思って」
「会いに行きませんか」
気が付くと切り出していた。
死んでしまったらもう会えない。死んでしまってからではもう遅い。
「私の予言を信じてください」
思わず言ってから後悔した。言ってからではもう遅い。
でも別にいい。
中嶋さんに幸せになってもらいたい、そう思ったら勝手に口から言葉が出た。
「私の予言では中嶋さんは再婚します、旦那さんと」
帰り際、中嶋さんの部屋の表札を見て納得した。今までどうして気付かなかったんだろう。
「小林」
そう書かれていた。
結局その日、三島は深夜二時過ぎに帰って来た。