秘密
一九九三年九月四日(二日目)
カーテンの隙間から差し込む日の光にまた起こされた。まだ七時にセットした目覚ましは仕事をしてない。仕事放棄なんて私みたい。仕事しなさいよ、寝ぼけ眼で目覚ましに呟く。
この時代に来て、もう二日が経った。まだ慣れない。いや慣れてたまるか。私は必ず帰るんだから。
三島は言っていた。お前は元の時代に帰れる、と。
ていうかさ、と三島は頭を掻いていた。
お前を二十年前に連れて来たのって、コーヘーらしいんだ。私が依然として呆気にとられていると三島は構わず続けた。
全てはこの世界を救う為ね。もちろん、幸人の為でもあるよ。で、その、別の時代から人をワープさせるのってある程度限界があるらしくて。
だから、お前がこの時代にいれるのって大体三週間が限度らしいんだわ。
国家機密。世界を救う。…。一生縁の無いだろうワードのど真ん中に、今、私はいる。果たして三島が言った事をどれほどまで信じていいのか。全て本当なのか。幸人くんの指切断もあの怪しげな研究室も全て私を騙す為の演出なのではないか。そんな事すら考えた。しかし、やはり私を騙す事に何のメリットも見当たらなかった。
私自身、二十年前のこの時代にワープしている以上、もはやこの世界は何でもありだと受け入れられる気はした。ただ、あまりにも現実離れしている。私が世界を救う?
どうやって、無意識に呟いていた。え?三島が振り返る。
「ほら、お客さん来るぞ」
「三島さん、あの」
とある東京の片隅。怪しげな施設に私達はいた。通常であれば三島がここで占い業を行っているらしい。
お母さんの仕事場にそっくりで、建物全体が暗くお香の匂いで満たされ、黒や紫、深緑、真紅の布が部屋を覆っている。また、あちこちで簡易照明がぼんやりと光っていた。
水晶、タロットカード等の小道具を見下ろし私は溜め息を付いた。どうしろと言うのだ。私は力が無いのに。
それなのに、一体、どうやって?
そこにお客さんが一人、いそいそと入って来た。
女性。とても美人だった。その顔に見覚えのあった私はしばしお客さんを凝視し、あっと声を漏らした。
女優の「宮内カナコ」だった。
隣にいた三島が私を蹴った。「なんだよ」
「宮内カナコですよ。若い。二十年後でも超有名女優です」私は小声で叫んだ。
「ここに来る客は基本、みんな金持ちだからね」
三島は全く動じていない。こんにちは、愛想よく宮内に挨拶をした。何かお困りですか?慣れた様子でさらに聞く。
お母さんとは違うんだな、当然ながらそう思った。いつも最初に、何か聞きたい事はありますか、そう聞いていたから。
「私、自信がないんです」
宮内は俯いた。ああ、自信がないんですね、三島は相槌を打つ。具体的にお願いします、私が心の中で呟く一方、三島は聞かなかった。さすが、全てお見通しという事だろうか。
「このままやっていけるのか」
宮内のつぶらな瞳に次第に涙が溜まっていった。
何を?
私は三島を見た。三島はただ目の前の美人が肩を震わせるのを見守っている。全部分かっている様子だ。何度も頷いている。大丈夫ですよ、全ては必ずうまくいきますから。三島が穏やかに言う横で私は眉間に皺を寄せる。
すると、その様子が気になったのか単純に私をテレビで見ていたのか、不意に宮内が私に話しかけてきた。
「ナントカくるみ、でしたっけ。三島みちるの後継者の」
突然話しかけられ無駄に焦る。「あっ、はい。加藤くるみです」
「お二人は、どういう関係なんですか」
涙声で聞かれた。
「師弟関係以上に、何かあるように見えますけど」
「従妹です」
三島がさらりと嘘をついた。「ちょっとだけ顔、似てるって言われます」ちょっとだけ似てるのか、ちょっとだけ言われるのか。
「そう、なんですか」
宮内は何度も私と三島を見比べる。「まあ、どうでもいいですけど」
だったら聞かないでください、そう思う横で三島が切り出す。
「恋人と、結構苦労なさって?」
そうなんです、宮内が三島を真正面から見る。
「やっぱりよく分かっていらっしゃるんですね。すごい。私達、今修羅場っていうんですかね、もう不安で不安で」
一度堰き止められた涙が、再び目に溜まり始める。三島が紫のハンカチを手渡す。すいません、宮内はそう言って受け取ると広げ、両目の下に押し当てた。
その時、ふと私は思い出した。
宮内カナコは離婚する。
「信じられない。デビューした時からあの人、ずっと一緒だよって、何度も私の事励ましてくれたのに」
宮内がそう言った瞬間、私は机に両手をのせ前のめりになった。
「その人と別れてください」
「え」
宮内が狐に抓まれたような顔で私を見た。大きな瞳と長いまつ毛が、女優という彼女の職業を忠実に表していた。
「六年という長い交際期間を経て、結婚。その後のスピード離婚まで僅か一ヶ月と五日」
私は早口で宮内に告げた。何度その新聞の見出しを聞いたか分からない。
「未来のお告げがそう出てます」
伝手は二十年後のお父さん。なぜならお父さんは宮内カナコの大ファンだったのだから。
「どうしてそんな事、あなたのような半人前に言われなくちゃいけない訳?」
明らかに宮内は不機嫌な顔をした。無理もない。私は我に帰り、急に恥ずかしくなった。
三島がフォローに入る。「すいません、世間知らずなもので」そして、でも、と意外にも続けた。
「信用できます」
宮内が私を見た。全く信用していない様子だった。
「予言は当たります」
三島は尚も真正面からそう言った。宮内は溜め息を付いた。
「何だか現実味があったのよ。それでイラついたのは悪かったわ」
宮内は完全に三島の気迫に圧倒されていた。そして頷いた。
「信じるわ、あなたの予言」
悲しげに笑った。
信じてください、私はそう思った。
そして幸せになって欲しい。お父さんは宮内の笑顔が大好きだったから。
二十年前、宮内は結婚して僅か一ヶ月と五日で離婚。それからあまり笑わなくなったと悲しそうに言っていた。お父さんはまるで自分の娘のように結婚した時の新聞記事も直後の離婚記事も全てスクラップしていて、それを何度も私に見せた。単純に熱烈ファンだったように思う。
「別れるわ。あんな男」
宮内の悲しげなその笑顔は、見ている人も悲しませる。つまり逆を言えば、宮内の笑顔は人を幸せにする。どこかでそんな一文を読んだ気がした。そう思う横で、あなたの笑顔は、と三島がそれを口にした。
「初日にしてはまずまずだね」
宮内が帰った後、三島は伸びをして言った。「お前、記憶力いい方なんだよな」
「いえ、普通よりちょっといいくらいで」私は苦笑した。
途端、三島の表情が固まった。しかし、「たまたまお父さんが宮内カナコの大ファンだったから詳しかっただけです」そう続けると、三島の顔に安堵の色が浮かんだのが分かった。
私は三島に尊敬の眼差しを向けた。
「三島さん、本当にすごいお方ですね。宮内カナコが来た時から困ってる事も全部お見通しで」
「ああ」
三島はニヤリと笑った。そしてピースをする。「任せろ」
少しだけかっこいいと思ったのは秘密だ。
夕方の撮影はニュース番組だった。
予想以上に称賛の声が掛けられ、正直困った。
昨日のメモリアルダービーの結果が予言そのままだったからだ。お父さんサマサマだと思う。もし元の時代に帰ったらお父さんの好きなピーナッツをバケツ一杯買おう。
「昨日のニュースがドンピシャだったという事で」
口紅の浮いた女子アナが微笑み、いやあ、僕の未来もあとでこっそり教えて頂きたいものですな、腹の出た中年アナウンサーも感じよく笑った。
「順風満帆のデビューとなりました」
隣で三島が満帆の所を強調して言った。そうですね、と隣の中年アナウンサーが相槌を打ち、順風満た、満帆ですね、と噛んだので私と三島が思わず中年を見た。
ところで、と女子アナが唇の両端を吊り上げた。
「順調な滑り出しを見せてくださいました加藤さんには本日、あるゲームに参加して頂きたいと思います」
罰ゲームだ、私は青くなる。隣の三島も心なしか血色の悪い顔で笑った。「わあ、どきどきですね」棒読みだ。
では、と女子アナが四角い箱をふいにテーブルに持ち上げた。
「この中には、とある項目がいくつか書かれたくじが入っています。そして、それを加藤さんに引いて頂き、その項目の今後を当ててもらいます」
私の唾を飲み込む音が予想以上に大きく三島がこちらを見た。
予習をしてません、抜き打ちテスト前の心境。せっかく順風満帆だったのに。ここでコケたら今までの奇跡が水の泡だ。そういえば、と気付いた。二十年前に来てから生放送しか出演していなかった。編集に頼る事が出来ない。
私は箱に手を入れ祈るような心境で三角のくじを一枚引いた。当たりが入っている普通のくじならよかったのに。そう思う横で、当たりますよ、三島が棒読みで言う。余計不安になる。
引いたくじに書かれていた項目は「政治」。
三島が笑顔で高い声を出す。「じゃあ、加藤、今の選挙の流れとか」
「世代交代」
私は突如宣言した。スタジオ内がしん、と静まる。三島が目を丸くする。
一九九三年、九月五日首相交代。覚えていてよかった。次の首相は若かったから覚えている。プリンスなんてあだ名がつくほどきれいな顔で、何度も色恋沙汰で週刊誌にすっぱ抜かれていた。名前もちゃんと覚えていた。相田聡。首相相田聡、相田聡総理。ここまで文字が被る名前も珍しかったから。
「世代交代、ですか」
女子アナがぎこちなく微笑んだ。「それはまた広いですね」私もそう思う。慌てて付け加えた。
「新しい人が新しい風を取り込み、この国を引っ張って行く事になるでしょう。おそらく今後一年はその新しい風にいい意味でも悪い意味でも振り回される事になりますが、それは今までに無いほどに若者が政治に対して興味を持つ良いきっかけとなるでしょう」
放送終了後、女子アナが小声で私に言った。
「ねえ、加藤さん、新しい風ってもしかして相田さんの事?」
ふと迷った。ここで言っても未来が変わったりしないだろうか。先程の予想はさすがに全国ネットだし名前は伏せたけど。しかし、すぐに思い直した。あの言い方だとプリンス以外に当てはまる人はいないだろう。ほぼ名前を言っているようなものだ。
「プリンス、相田さんですね」
三島がやって来る。「帰るぞ」
そして女子アナに言った。
「あくまで予言です。未来は変わります」
女子アナが目を大きくする。私は一礼し三島とスタジオを出た。
「お前、よく覚えてるな、二十年前のお前が生まれてない頃の首相だぞ」
三島が感心の表情で私を見た。私は頷いた。「記憶力は普通よりちょっといいくらいです」
プリンスが好みの顔だった事は秘密だ。
一九九三年九月五日(三日目)
次の日も例の建物で一日接客だった。
その日のお客さんは驚く事に昨日の女子アナだった。三島曰く、相当な額を支払って順番を先にしてもらったそうだ。何しろ三島のこの占いは大人気ゆえに最長で半年待ちらしい。
「こんにちは」
女子アナは照れたような笑みを浮かべた。二回目だからか、私は気持ちに少し余裕があった。何かお困りですか?三島と同じように聞く。はい、女子アナは俯いた。
「実は、ある男性からプロポーズされまして」
恋愛相談は多い。
「それはおめでとうございます。それで、迷ってらっしゃるのですね」
私は女子アナの顔を伺った。しかし意外にも迷っているようには見えなかった。
「相手が相手なので」
女子アナは視線を斜め四十五度に向け微笑む。どちらかと言うと幸せそうな顔。私は頷く。
この人はそのプロポーズを受けるつもりなのだ。ただその後押しをして欲しいのだ。
相手、どんな人なのだろう。考えていると偶然にも奥の部屋からわっと歓声が上がる。選挙の途中結果が出たらしい。
すると今までの表情とは打って変わって女子アナの表情が曇った。
「相田さん、首相になるんですよね」
真剣に私の目を見てくる。
もしかして、プロポーズした人とは。私は必死に記憶を遡る。プリンスの奥さんの名前は、確か。
「花子さん」
ふいに口にした。目の前の女子アナの本名。
「どうして知ってるんですか」
花子さんは目を見開く。「私の本名、会社にしか公表してないのに」
なぜなら未来の週刊誌で掲載されていたから。
「私、自分の本名にコンプレックスがあって。今時古風じゃないですかハナコ、だなんて」
「素敵な名前だと思います」
私は微笑んだ。そして、しばし花子さんの両手を包み、その後喋りだした。
「プリンス、相田さんは蝶のような人です。御本人はとっても魅力的な翅をお持ちだから、女性はみんな魅了されるでしょう。自分のものにしたいと必死で捕まえようとするでしょう。もちろん、相田さんもご自身の翅であちこちの女性の元へひらひら。好きな場所へどこまでも飛んでいけます。でも、翅を休める場所はいつも同じ花。花子さんの所です」
花子さんは唾を飲み込み、隣の三島はニヤついていた。
「相田さんのパートナーとして、ぴったりのお名前だと思います。相田さんはこのままだとあちこちへ飛び回ってしまうので、しっかり引き寄せておいてください」
部屋に到着し、テレビをつけるなりプリンスの万遍の笑みが画面いっぱいに飛び込んできた。選挙結果が出たらしく、「首相相田」の文字が大きく映されている。
「くるみ、テレビ見てるか?」
バターンというドアの開く音と共に三島が飛び込んで来る。私が着替えていたら、そう言いかけたところで口を噤んだ。三島が上半身裸だったからだ。
「ちょっと、何なんですか。服着てください」
「悪い、着替え途中だったもんで」
「三島さんが着替え途中って、逆ですよ、普通。予想外です」
「そんな事より、テレビ、見てるな?」
三島は右手に持ったシャツを羽織り、ボタンを締めながらお茶をコップに注いだ。器用。
「プリンスの事も大きく取り上げられてるんだけどさ」
そう言いながら喉を鳴らしお茶を美味しそうに呷る。
「お前の事も取り上げられてんぞ」
見ると、プリンスの首相就任が決定した瞬間の映像が流れた後、ひたすら私の顔がアップで映っていた。
「世代交代」私が突然声を出した時の様子、「新しい人が新しい風を取り込み、この国を引っ張って行く事になるでしょう」瞬きを全くせず必死で喋っている様子が流れる。
他のチャンネルに回しても、さらに回しても私が映っていた。
血の気が引いた。
まさか、ここまで大々的に取り上げられるとは思わなかった、本日二回目の予想外。お母さんが死んだ時を思い出した。あれは後継者の私が義理の娘だったから。でも、今回は違う。正真正銘、私の能力が評価されている。
なぜなら私は未来から来たから。
罪悪感を感じ溜め息が漏れた。三島が私の肩を思いっきり叩いた。
「プリンスに首相が決まるなんて予想したのは俺達くらいだったからさ。専門家もびっくりだって」
未来から来たから、気が付いたら真顔で呟いていた。
一九九三年九月六日(四日目)
次の日は一日フリーだったが急遽、番組出演が決まった。
また夕方の番組だった。撮影前、花子さんがわざわざ私達の控え室まで来てくれた。
花子さんは何やら高そうな紙袋をくれた。高級お菓子の差し入れらしい。幸せそうに微笑んでいた。ファーストレディか。
「あの後、就任が決定して、私、すぐに彼の元へ向かったんですけど」
花子さんの目がきらきらと光る。
「彼が既に婚姻届を机の上に置いて待っていたんですよ。隣にシャンパンとケーキもあって」
そうだったんですか、私は苦笑した。さすがプリンス。
撮影では昨日の予知についていくつか聞かれ、二日連続でお褒めの言葉を頂いた。また、昨日の罰ゲームは無く、簡単な予知を頼まれただけだった。私は何とでも解釈できるような言い方をしてその場を凌いだ。三島も調子が出なかった、と苦笑していた。
撮影後も花子さんと談笑し、別れ際に部屋の電話番号を交換した。
花子さんは私よりも七歳も年上だったが、それを感じさせないほど気さくに話してくれた。昨日の予言を本当に喜んでくれたらしい。この時代に出来た年上の友達のような存在がとても嬉しかった。
その日の夜、私と三島は三島の部屋で花子から頂いたお菓子を食べながら予定を確認していた。
「よし、いよいよ明日だ。何度この日を待ち侘びた事か」
途中まで言ったくせに三島は小袋のパッケージを破きミニケーキを口に放った。十八袋目。甘党なんだな、と思う。
と、そこでチャイムが鳴った。インターフォンの画面には、中嶋さんの所のおさげが照れくさそうに立っていた。今日は肩まである長い髪を下ろしている。
「同志だ」
三島がそう言いドアを開けに行った。
同志と言われたおさげは三島を見るとぱっと顔を輝かせた。「みちる、これ、お菓子のお礼に」
サランラップで包まれたものを一つ三島に手渡す。「今日、家庭科で作ったの。パウンドケーキ」
「さんきゅー。同志」
三島が笑顔で受け取る。すると、おさげが先程から覗いている私の存在に気付き、分かりやすいほどショックの受けた顔をした。
「じゃあ、おやすみなさい」そう言うと走っていく。小学校高学年らしいが、パジャマ姿が幼く見えて可愛らしかった。
「お菓子のお礼にお菓子か」
三島の顔が綻ぶ。「俺を糖尿病にしたいのか」
「さっきからいっぱい食べてるのに、よく言いますね」
「だから半分中嶋さんにあげたんだろ」三島は口を尖らせラップの包みを開く。黄色いパウンドケーキには胡桃が入っているのが分かった。あ、と三島。え、と、私が目を丸くした所で、口の中にケーキが押し込まれた。
「共食い」
三島は笑ってキッチンに向かう。「さ、糖尿病予防にコーヒーでも飲むかな」
あ、私が淹れますよ、もごもごしながらヤカンを受け取った。パウンドケーキはとても美味しかった。明日お礼を言いたいが、言わない方がいい事は明らかだった。
「よし」
三島が伸びをする。
「糖尿病検査行くぞ、明日」
「え?」
ちょうど点火の瞬間だったので聞こえなかった。
「病院行くぞ明日」
三島が真顔で言い、十九袋目の小袋を開く。そして続けた。
「その前に実家に帰らせてもらいます」