またね
エレベーターは一階まで下っていたはずなのに降りた階は最上階の十二階だった。
おかしな事はそれだけではなかった。大学病院は去年改装したばかりだったが、壁の色が黄ばみヒビが目立っている。
「君は?どこに行くの?」
少年に何度質問を繰り返しても、無言で腕を引っ張るだけだった。おかしい。何かおかしい。そう思いながらも私は少年の手を振りきれなかった。
少年は私をある部屋に案内した。考えてみればこの最上階はビップルームではないか、ドアの両脇に立つボディガードと思しき男二人に気付き、今さら思う。
部屋の中は真っ白で非現実的な空間を形成していた。白い壁、白いベッド、白いカーテン。勉強机だけが一般的な家庭にあるような茶色いもので、教科書のような本が収まり、唯一、現実世界を表していた。私は部屋の奥にある二ヶ所の白いドアに気付き、興味を抱いた。
「連れてきました」
ちょうど二つの内一つのドアが開き白衣の男が出てくると、少年がやっと口を開いた。
白衣の男はメガネを掛け恰幅がよかった。なんとなくこの男には逆らえないような気がした。
「この方が、例の?」
「加藤くるみです」
少年が私を名指しした。テレビで私を知っていたのだろうか。
「申し遅れました、私、近藤正也と申します」
近藤が名刺を差し出した。私は流れのままに受け取った。「細胞再生研究所 橘少年教育課 主任 近藤正也」とある。
「あの、すみません。大変申し訳ございませんが、この現状が把握できていないのですが」
近藤は目を見開き、意外にも納得したように頷いた。「そうでしょうね」
「どういう事でしょうか」
「実は」
近藤は話し始めた。
私がこの病院のビップルームに招待される事は三ヶ月ほど前から分かっていたらしい。それも有名な占い師「三島みちる」の予言によるものだと言う。そして、その際、私自身はその事を把握しておらず後に大役を担う事も知らない、という内容だった。
「三島みちる?」
私は眉間に皺を寄せた。そんな占い師などいただろうか。
「超有名占い師です」
近藤が胡散臭そうに私を見た。
「知らないの?」
少年が私を見上げた。うん、私は正直に頷いた。
これは怪しい宗教の勧誘なのかも知れない。無意識に体を固くする。まさかこんな有名な病院で勧誘をするなんて最悪。しかも子供まで使って。鞄の携帯を手に取るとすぐに小林さんに連絡出来るようにした。
「あの、大役って?」
とりあえず聞いてみる。
「あなたは、今後の我々の研究の道標となる、と三島さんは予言しております」
「研究とは、あの、細胞?」
先程頂いた名刺を再度確認する。
「そうです。我々は細胞の再生について研究しております」
「細胞の、再生」
口を開けたまま私は繰り返した。随分と畑違いの分野だ。高校の生物の答案をふと思い出した。赤点。理系ではない、と何度言い訳を繰り返してきた事か。
「私がどのように貢献するのでしょうか」
「加藤さんの予言によって、我々の研究の改善・向上を目指します」
「は」
予言なんて非科学的な不確かなもので研究を進めていくなんて、本気で言っているのだろうか。予言と研究とでは相反するように思える。それに何より、勝手にそんな事決められても困る。大体私に予知能力なんてない。(そして、そう言い切れるところが悲しい。)
「あの、そう簡単に話を進められても困ります。こちらにもスケジュール、事情があります。それに大変失礼ですが、細胞再生研究とか、そんな見ず知らずの研究に貢献しようとは思えません」
それは十分お察しします、と近藤は頭を下げると続けた。「ですから」
「本日は我々の研究について知って頂き、ゆくゆくは今後の研究において、三島さんの予言通り貢献して頂ければと思います」
また、と近藤は背筋を伸ばし、続けた。
「細胞再生研究は最先端医療として、今世界的にも、医療業界において最も注目されています。この研究への貢献は、同時に国家技術に対し大いに貢献する事にもなります」
「国家?」
信じられない。どうして平然と国家なんて言葉を口にできるんだろう。感心すらした。この宗教はどこまでこんな嘘を突き通すつもりだろう。
私の考えがそのまま顔に出ていたらしい。近藤はすぐに、「では、まずこちらの部屋までお願いできますか」先程近藤自身が出て来た奥の部屋を指した。
「私達の研究の成果をお見せしましょう」
「ちょっと待ってください」
私はいよいよ危険だと判断した。そんな密室に連れ込まれたら逃げられない。
「今日はこれから予定がありますので、もうお暇しなくてはいけません」
声高々に宣言した。
「そうでしたか」
近藤は少し拍子抜けしたような顔をした。引き止めるのかと思ったらそこまでしないらしい。
「では、本日はこちらの研究所のリーフレットをお持ち帰って頂いて、後でご覧になっていただければ」
そう言って近藤はいったんその部屋に入り、分厚いパンフレットのようなものを二、三部持って来て寄越した。私は読む気など毛頭無かったが、早くその場から去りたかったので受け取るなりすぐに出口へ突進した。
と、
「加藤くるみ」
後ろから高い声が私を呼んだ。
驚いて振り返ると少年がこちらを見ていた。笑顔とも泣き顔とも言えない顔をして私を見つめ、
「またね」
手を振った。
ふいに胸が締め付けられるような感覚に陥った。なぜか見捨ててしまうような気分になる。
「ばいばい」
手を振るとドアを閉めた。その瞬間、少年の名前を聞き忘れた事に気付きあっと声が漏れた。おそらくもう会う事もない。別に聞く必要もないのに。
エレベーターにしばらく乗りたくなかったので息を切って階段で下った。
とりあえず先程の一部始終を報告しようと小林さんに電話した。しかし何度呼んでも小林さんは出ない。まさか病院前の一件から怒っているのだろうか。いやまさか。
やはり建物内の壁あちこちに見られるヒビが目に付いた。先程の廊下といい階段の所といい、改装していない所もあるのかも知れない。
一階に到着すると売店に入った。
五〇〇ミリペットボトルを一本掴み、レジへ向かう。代金を店員に渡し、何気なくキャップに表示された賞味期限に目を止めると愕然とした。
1993.10.12.
二十年前?
キャップをまじまじと覗き込んでいると店員がどうかしましたか、と聞いてきた。
「これ、賞味期限」
「あっ、少々お待ちくださいませ」
店員がすぐにペットボトルを受け取り、隣のものと交換して持って来た。キャップの表示を再度こちらに見せる。
「こちらに交換させていただきます」
しかし私は再び固まった。
1994.01.04.
これも賞味期限、切れてる。
「今、何年でしたっけ」
途端、店員が目を丸くした。この人は何を言っているのだろう、という考えが安易に顔から読み取れた。「一九九三年、ですよね」
「一九九三年?」
二十年前。
信じられない。息を飲んだ。
私はお釣りもペットボトルも持たず病院を飛び出した。
外は、明らかに景色が違っていた。
病院前の看板に大きく写るグラビアはお父さんが昔好きだった女優だ。歩く人々の服装も、ドラマの再放送で見た事のあるような懐かしいスタイルだった。
今、二十年前にいる?
と、ちょうど電光掲示板が六時のチャイムを告げた。同時に眉の太い口紅の目立つ女性アナウンサーが映し出される。
「九月二日午後六時のニュースです」
九月二日。同じ日付。ちょうど二十年前って事だろうか?
凝視したまま固まっている私を余所に、当然の如くアナウンサーは淡々とニュースを報道し続けた。ダイヤの乱れ、自殺女性、食中毒…そして今最も気になる人名を耳にした私は画面に食いついた。
「国民的有名占い師、三島みちるさんは今月中に引退を発表しました」
「え?」
声が漏れた。前で電光掲示板を見ていたおじさんがこちらを振り向いた。
超有名占い師と言われている三島みちるが、引退?
「三島みちるさんの引退に関しては詳細不明ですが、世代交代の起こる事を仄めかすコメントがいくつか見受けられました」
ニュースで報道されるほど三島みちるは有名占い師なのか。しかし、引退?それは私が細胞再生研究に貢献する事と関係あるのだろうか。全ての展開が早過ぎてついていけない。
「実は随分前から退き時は考えていたんです。新しい風も入ってくるので」三島みちるの静止画像とテロップが画面に流れる。五十代後半のおばさんかと思いきや、黒髪セミロング、顎の尖った若い女性が映り、年齢は(二十四)と紹介されていた。
コマーシャルの後はスポーツです、アナウンサーがそう言うと短いBGМが流れコマーシャルに入った。見た事のあるようなものや全く覚えの無いものが流れ、たまたま映った見慣れた女優の若さに改めて自分が二十年前にいる事を実感した。
と、次のコマーシャルで私は再び画面に注目した。ピアノの音色と子供のアナウンスが流れ、画面が真っ暗になる。
「僕達は今まで何度失敗を繰り返してきたのだろう」子供は続ける。「何度成功を夢見てきたのだろう」画面に色とりどりの花が咲いて集まり、次第にそれが子供の笑顔になっていく。ピアノの独奏はオーケストラに変わった。この当時でこの映像技術はすごいと思う。
「今、この瞬間も医療技術は進化し続けています」子供の顔が目をきらきらさせて言い、「細胞再生研究所」と続けた。
細胞再生、私は口元で呟いた。やはり怪しい宗教のように思えた。だいたい、二十年後の現在に細胞再生研究所なんて一度も聞いた事がない。この当時くらいしか発展してなかったんじゃないか。やっぱり怪しい。
一体何が起きているのだろう。私はその場にしゃがみ込んだ。
とにかく不安でとにかく怖い。ただ、途方に暮れる。涙目になる。
お母さん。
その瞬間、ハッとした。「そうか」思わず声に出した。
お母さんにまた会える。
病院の目と鼻の先に最寄駅があったのですぐに切符を買って電車に乗った。やはり、かざすだけの電子定期券はまだ作られていなかった。
突然二十年前に来てしまうなんて、なんて不幸だろうと思った。
でも、今、死んだお母さんに会えるなんてこんなに幸せな事はないと思う。切符を握る手に力が入った。
二十年前の九月二日、私はまだ生まれていなかった。私が生まれるのはあと三週間後だ。この時、お母さんはまだ実家にいた。そして私が生まれた日、お父さんとお母さんは同居し始めた。それからさらに二ヶ月後、二人は赤ちゃんの私を引き取りに来た。
駅から徒歩数分のおばあちゃんの家まで予想以上に時間が掛かった。
まず電車から降りた時点で、あまりの駅の古さに閉口した。階段はひび割れとガムの吐き捨てた後で目を逸らしたくなった。スーパーやビジネスホテルが出来ている周辺は工場だらけで白い白熱灯の光が窓から漏れ、あちこちから機械の音が響いていた。
しかし、おばあちゃんの家の前で私は再び途方に暮れる事になった。
会いに来たのはいいが、どうやって会えばいいのだろう。まさか未来から来たなんて信じてもらえないだろうし、そんな事を言って怪しまれたら一巻の終わりだ。二度と会えなくなるかも知れない。
本当に困り果てた私は、チャイムを押す手を何度も伸ばしては引っ込めた。
その時だった。
「随分、遅かったね」
突如、背後から声がした。
私は振り返り、固まった。
三島みちるは男だった。
背後に立っていたのは、先程まで電光掲示板に映っていた三島みちる、本人に間違いなかった。
「やっと会えたよ、お前に」
三島は目を細めた。笑ったのだと思う。