母さんが死んだ
「母さんが死んだ」
お父さんが涙声で言った。私は、うん、と頷いて鼻を啜った。
お母さん本人の予言通りだった。
「来月の二日早朝、私死ぬわ」
一ヶ月前、お母さんが突然そう言った時、動揺した私はお茶碗を落として割り、お父さんはコップに注いでいた牛乳をこぼし、愛犬のライスがしめたとばかりに走ってきた。
そして予言通りの二日早朝、本当にお母さんは死んだ。病死、ガンだった。
お母さんはそこそこ有名な占い師、「加藤有希子」として働いていた。
テレビのワイドショーにもしょっちゅう出演していたし、効くのか分からない謎の小物もネットや雑誌で販売していた。
この話題はすぐさまテレビで取り上げられ、週刊誌にも載るだろう。
一ヶ月前に既に予言を聞いていたからか、お母さんの死は自分でも驚くほど受け入れる事ができた。もしかしたら、単純に信じていないだけかも知れない。お母さんの人柄からして、またどこからかひょっこり出てきそうな気がしたのだ。
そして何より、お母さんが死ぬまでに体の中の水分が全て無くなる程まで泣いた私達には、これ以上お母さんの死に駄々をこねる気力もなかった。
「どうする?」
お父さんは腕を組んだ。私は俯き答えた。
「火葬か土葬か」
「違う」
違うよ、お父さんは顔を両手で覆う。少し肩を震わせていた。
「どうしたの、お父さん」
お父さんの顔を覗きこむとお父さんは目を真っ赤にして言った。
「くるみ、お前がお母さんの仕事を継ぐかどうか、だ」
今年二十歳になる私は、普段、お母さんの手伝いをしていた。つまり、有名占い師の助手である。そしてゆくゆくは継ぐはずだった。
「継ぐはずだった」
お父さんが声に出した。「ちょっと」私は口を尖らせた。「なんで私が言おうとする事を言うの」
「出来てないんだろ、引継ぎ」
お父さんは鼻を啜った。私はボックスティッシュを手渡し、言う。
「出来てます」
「え」
お父さんの声が思いっきり裏返った。
引継ぎは出来ていた。ただ、私には問題があった。
「すごい、すご過ぎるよ」
お母さんの声が耳元で蘇る。「くるみ、すごいよ」
「私の子なのに、ここまで占い師の才能が無いなんて」
何度お母さんにそう言われたか分からない。その度に私は目の前の水晶を割ろうとした。しかしお母さんはそんな私を制し、決まってこう言うのだ。
「くるみが二十歳になるまでに絶対、才能開花するはずだから」
あれは予言だったのか、自分の仕事をなんとしても継がせる為の策略だったのか。
「継ごうと思う」
私は鼻をかむ。「やっぱりお母さん、私に継いで欲しいと思う」
「大丈夫か」
お父さんの声はまだ裏返っていた。
「だってお母さんの血を半分は受け継いでいるんだから」
するとお父さんはふいに黙り込んだ。
「それに、お母さんが、私が二十歳になったら」
「くるみ」
お父さんが遮る。
「今こそ言うべき時だから、言うよ」
お父さんは先ほど自分がかんだティッシュのゴミをいじりながら言った。
「くるみ、お前は養護施設からきたんだ」
「え」
今度は私の声が裏返った。
「はい、そうなんですよ」
私は相槌を打った。司会の男が眉を吊り下げた。「ご苦労なさったんですね」完全に同情しているのか、同情する表情がお上手なのか。
「そんな事ないですよ」
私は悲しげに笑って見せた。何度この顔を作ったか分からない。お笑い芸人が変顔を作るようにこの顔は瞬時に作れた。
お母さんが死んでさらに一ヶ月が経った。
母、有名占い師「加藤有希子」の跡継ぎ、義理の娘「加藤くるみ」として、身寄りの無い可哀想な私は、奇跡的に同情票を買ってテレビ出演や雑誌掲載と、想像以上の勢力拡大を遂げていた。
そして今日もワイドショーのテレビ出演に励んでいる。
「では、最後に僕の今後について、お願いします」
番組の締めで、司会の男が恭しく頭を下げる。これは想定内である。はい、と私は通常より三割り増しの高い声をあげ、その男の両手を包んだ。お母さんの真似だった。お母さんは占う時、いつもお客さんの手を両手で包む。
三十秒ほど経つと、やはり頭に何も浮かばない私はカメラ越しに視線を送った。「そうですね、え、と」ここでチラリと司会の名札を盗み見た。「遠藤さんの今後は」
「近いうちに番組を一つ持つ事になるでしょう。その時に、是非、また私をゲストとして呼んでください。詳しくはその時にお話しますね」
私はにっこりして見せた。スタジオ内の空気が少しざわついた。なんだ、ここで言えよ、ADの誰かが舌打ちをした。
司会の遠藤さんもなんとも言えない笑顔を浮かべ、いやあ、参ったな、とカメラに視線を送った。「何かもう一声」というカンペを持ったADが私を見る。私の笑顔もさすがに引きつった。
「その新番組で遠藤さんは、どの局よりも先に大スクープを取り上げることになるでしょう」
言った直後、あ、やりすぎた、そう思った時には遅かった。一斉にカメラが私をアップで映していた。遠藤さんは興奮して「本当ですか」を繰り返していた。あまりに興奮して方言も出始めたので至急コマーシャルに入った。
もうすぐ二十歳になるのに才能は全く開花する気配が無かった。
このままではいけないと思っていながらもどうする事も出来ないのは分かっていた。溜め息を付きながら楽屋に行くと、
「加藤さん」
マネージャーの小林さんがものすごい勢いで走ってきた。がに股。三十二歳。独身女性。ぽっちゃり寸胴メガネのボブカット。実は親がハーフだったという噂。
「どうしました」私は汗だくの小林さんを振り返った。「彼氏できたんですか?」
「いや、そうじゃなくて」
小林さんが真顔になった。汗が頬を伝り、衣類洗剤ダウニーの匂いがした。
「加藤さん、さっきの予言は本当なんですか」
途端、私も真顔になる。「ごめんなさい」
「加藤さん」
溜め息と同時に声を出す小林さんの喋り方は真似できない。
「またですか。やめてくださいよ」
「あの空気の中、何も言わずにやり過ごすのは不可能ですよ」
私は口を尖らせた。ストレスで胃から湧き上がる悪臭を感じる。「仕方がなかったんです」
「でもこないだも適当な事言ってましたよね」
小林さんも眉をハの字にして口を尖らせた。
「あの時も似たような状況だったんです」
「加藤さん」
小林さんが背筋を伸ばし私を真正面から見た。
「何とかしてください。いつか絶対クレームになります」
さすがに私自身、罪意識はあった。
予言は当たらず、どちらとも言えるような事ばかり言ってその場をやり過ごす毎日に、少なからず嫌気もさしていた。こんな事ばかり繰り返していたらいつか必ず罰が当たるだろう。
テレビ局から小林さんの車で直接病院へ向かった。国内最大級と言われる大学病院で総理大臣が入院した事もある。仮にも有名人だったお母さんは、そこで一ヶ月前まで入院していた。
そして、今になって病室から遺品が見つかったらしい。
病院は家から近く、小林さんとなんとなく気まずい雰囲気だったので先に帰ってもらった。
十一階のナースステーションで受け取った遺品は、見覚えのない花柄模様の紫のハンカチで知らない香水の匂いがした。「本当にお母さんの遺品ですか」思わず確認したが、まつ毛の長い可愛らしい看護師は間違いありませんと笑顔だった。とりあえず持ち帰る事にした。
「自分の本当の家族が誰とか分からないんですか」
下りのエレベーターに乗った瞬間、よく聞かれる事を聞かれた。声の主は車椅子に乗った男だった。二十代後半位、きれいな顔立ちだった。
養護施設には何度か足を運んだ。しかし結局、両親の詳細は謎だった。分かる事は父親は既に亡くなっているらしいという不確かな情報と、母親に関して一切情報が無い、という事くらいだった。お父さんに至っては、お母さんは何か知ってたかもな、と唸るだけだった。
「加藤くるみ、ですよね、テレビに出てる占い師の」
突然聞かれ多少うろたえたが、私はお決まりの言い訳をいつものように口にした。
「自分の事は」
「分からないんですか」
意外にも先回りされた。少しムッとする。しかしエレベーターは恐ろしくゆっくりと下っていった。
「よく言いますもんね、占い師は自分の未来だけは分からないって」
彼はそう言うと頬を緩ませ目を細めた。随分と偉そうな人だが上品に笑う。
「じゃあ、僕の未来を教えてください」
「辞めた方がいいですかね、この仕事」
先ほど小林さんに思わず言った一言。
辞めるつもりなんてなかった。天国のお母さんに少しでも喜んでもらいたかったから。
それに、お母さんの仕事に憧れがあった。僅かな情報を聞いただけで当ててしまう力。占ってもらったお客さんの嬉しそうな顔、自信に満ちた顔、希望に溢れる顔。そして、その占いが未来を変えてしまう事。
それなのについ言ってしまった。小林さんの顔がみるみる赤くなっていったのが印象的だった。「加藤さん、そこまで言わなくても」
「でも、私、このままだと」
「何か方法がありますよ」
「占い師を雇うとか?」
私がそう言うと小林さんがサッと右手で口を覆った。笑いを堪えているように思えた。
どうせ辞めるなら惜しまれる方がいい。潮時になる前にこの仕事を辞めるべきかも知れない。
辞めるなら今なのかも知れない。
「いいですよ」
私は男の目線に合わせてしゃがみ込み、ハッとした。服を着ているからすぐには分からなかったが両足とも義足だった。足首から金属が覗いている。両手でその男の手を包む。男の骨ばった白い手は冷たくひんやりとしていた。
「一つ、あなたの願いが叶うでしょう」
男の目を直視し、たまたま頭に思い浮かんだ事を言った。
結局適当な事をまた言った。どうせこの人とは二度と会わない。私はこの世界からいなくなる。もうこの仕事を辞めるのだから。
「へぇ」
男は眉を上げてにっこりした。明らかに信じていない顔だと分かる。
「じゃ、最後にあと一個だけいいですか。その願いを叶える為にどうすればいいか、教えてください」
教えられたらどんなにいいか。当然分かる訳などない。私は無意識に目を閉じた。
真っ暗だ。
私のこの先も何もかも。
その時、ガタン、と音がし激しい振動が体を大きく揺らした。
「えっ」
目を開けると閉じていた時のように真っ暗だった。
「ええっ」
立ち上がり非常ボタンを連打する。鼻が詰まっているように呼吸がうまく出来なくなり、心臓が激しく波打った。何が起きているのか分からなかった。怖くて叫びだしたくなったが必死で堪えた。
故障?
しかし、エレベーターの扉はすぐに開いた。
消防団のような人達が両側から無理やり扉を開いたらしい。
「大丈夫ですか?」
黒目のギョロッとした男の人が私を見た。
「はい」
予想以上に声が裏返った。気が付けばこめかみを汗が伝っていた。弱虫な私は思ったよりもパニックを起こしていたんだろう。
そして、次の瞬間、驚くべき事が起きた。
「うん、大丈夫」
背後からの声に私は耳を疑った。
後ろから出てきたのは先ほどまで喋っていた車椅子の男ではなく、六歳くらいの少年だった。
車椅子の影で見えなかったのだろうか。
しかし車椅子の男が見当たらない。いつの間に降りたのだろう。
少年は私を振り返ると言った。
「行くよ」
そしてスタスタと先を歩いていく。混乱したまま突っ立ていると、少年が戻ってきて私の手を引いた。
「ほら、早く」