ゼリアルの月エントータの日:晴れ:狼が来たぞー!(゜ロ゜; 三 ;゜ロ゜)
別の中学出身の彼女の名前は知らない。
教室でまったりしていた自分を突然廊下に呼び出したのは、ショートボブの似合う可愛い子だった。
しっかりビューラーが当てられたまつげはマスカラで増量され、ハーフを思わせる色素の薄い瞳は大きく吸い込まれそうだった。
その瞳が、私という獲物を見据える。
―――「ねぇ天見さん」
狡猾さを裏に隠したような高い声が、私の心に少しばかりの嫌な予感を突き立てた。
何を意図してか分からなかったが、微笑むように吊り上げられた彼女のピンク色の唇が記憶の中にやけに鮮明に残っている。
―――「天見さんと大地君って付き合ってるの?」
胸にグサリと来た。
どうしてそこで胸が痛むのか、あの時はよく分からなかった。
戸惑って数拍返事が遅れただけで、女子生徒の目つきが鬼のようなものに変わる。
訳が分からないが怖い顔だ。
―――「……ううん」
どうしてここで睨まれなければならないんだろう。
困惑がだんだん混乱に変わってきた時、彼女はトドメの一言を可愛らしく言ってのけた。
―――「あはっ、よかったぁ。聞きたかったのはそれだけ。私、大地君に告白しようと思って。大地君、天見さんとよく一緒に居るみたいだったから」
大人しく身を引けって言っとこうと思ってね!
そんな心の声が聞こえてきそうな、遠慮の無い声音だった。
【比翼】
遠く連理の呼ぶ声がする。
(最後に呼ばれたのは、いつだったかなぁ……)
☆
「アマミヒヨク」
突然、はっきりとした力ある声が耳元で生まれた。
何度か経験したことのあるシチュエーションに、ほとんど条件反射で比翼は頭を起こした。
「はっ……はい! 起きてます先生!」
「先生?」
最初に気付いたのは、目の前にある筋肉質の腕だった。
保健体育の授業中だったのかしら。
続いて、クスクスと笑う少年少女の声。
「……あ……アル、ド……さん……」
視線をあげると、寝起きにあんまり見たくないアルドの怖い顔がそこにあった。
その後ろから、ひょっこりと金髪の見慣れた少女が顔を出す。
「よく眠れた?」
「ビアンカ! ここは……」
視界が背の高い木で覆われている。どこかの森の中のようだ。
川のせせらぎも聞こえてくる。
「多分、村から見てずっと西にある森ね。ヒヨクがめちゃくちゃな方向に飛んできたから、最初は私達もよく分からなかったんだけど。アルドさんの故郷が近くで良かったわ」
「私が飛んで……?」
「うん、翼の生えた白い馬の姿で。覚えてないの?」
「覚えてるような、覚えてないような…ロキを連れていかなきゃ、って思ったのは覚えてる」
ただ必死で、白い神殿から、村からロキを連れ出そうとした。
「あの後大変だったんだよ? ヒヨク、ここに着くなり眠り込んで元の姿に戻っちゃうし。やー、よかったよ、ロキ様を乗せたペガサスが空を駆けて来た時は何事かとびっくりしたけど、とっさにヒヨクの服をひっつかんできて」
服?
そういえばここに来る前に、ロキが言っていたではないか。
―――元の姿に戻る場所には注意するように。
身体は変化しても、服はそのまま。
つまり、服を纏っていない姿(蝶やペガサス)から元に戻れば……
そして、昨晩自分が元の姿に戻ったときに傍に居たと思われるのは、ビアンカ、ロキ、アルド。
「い、いやぁぁぁああ!!」
「落ち着いて!! よく見てヒヨク、ちゃんと服は着てるから!」
「……ぇ、え!? 何で!?」
「ヒヨクが元の姿に戻った瞬間に男衆には回れ右してもらって、私がちゃんと着せたから!」
意外に単純な造りの服でよかったよー、と何でもなさそうに話すビアンカの顔を直視できなくなる。
「……あれ? もしかして照れてる? やだなぁ女同士でしょ! あ、それともー……」
ビアンカはふと綺麗な顔を寄せて、いじわるそうに囁いた。
「せっかくだからロキ様に着せてもらいたかった?」
「な訳ないじゃん!! せっかくって何せっかくって!」
「ふふふ。まぁ冗談はともかく、ヒヨクのこと、ロキ様が一番心配してたんだからね。ちょっと声をかけてあげて」
ビアンカに掴まれた肩がぐい、とロキの方に押し出される。
「あ……えっと」
何を言おうか迷っていると、ロキの方から微笑んでくる。
「その顔は友の顔か?」
ピチピチピチ。
小鳥の囀りが聞こえてきた。
「え?」
言われて、本来の自分の姿だと耳が聞こえないことを思い出す。
ビアンカ達と会話ができるということは、また自分ではない姿になっているということだ。
「あれ? でもいたって普通……げ」
普通ではない。
よく見れば、肌はいつもよりすべすべで白く、腕や足はいつもより細い。
「鏡なら、はい」
ビアンカが親切に差し出してくれた手鏡を見て頬が引きつった。
黒目の大きい瞳に、ふわふわしたショートボブ。
可愛いが抜け目の無さが漂う顔立ち。
―――「天見さんと大地君って付き合ってるの?」
(これは……!)
夢に出てきた『彼女』だ。
(どどどどうしてこの顔にぃぃぃ!?)
「ヒヨクがこんなに嫌がるの、初めて見たかも」
と言うビアンカに、ロキが続く。
「だが望みの姿だ。嫌いと言うことはあるまい」
「だいっ嫌いよー!!」
必死に否定して見ても、ロキたちはキョトンとするだけだ。
幼女の頃の自分、美少年、蝶、ペガサス……と来た後ならば、同じ年頃の愛らしい少女の姿は一番元の自分に近く、心理的な抵抗は少なかろうと思うのかもしれない。
とんでもないのだ。
―――「私、大地君に告白しようと思って」
この身体は、数々の爆弾発言をしてくれた少女の身体。
むぉぉぉぉ……と頭を抱えて悶える比翼を視界の隅に置きつつ、さぁて、とビアンカはアルドの方を向く。
「今日はアルドさんのお家にお邪魔していいのかしら?」
お茶でも飲みにいくような明るさでビアンカが尋ねる。
「どうぞ……こちらです」
アルドが木々の間に慣れた身のこなしで入っていく。
「……ねぇ、信用できるの?」
ビアンカの打って変わった冷たい声がアルドの背中にぶつけられる。
パキッ。
アルドが踏んだ木の枝が折れる。
ビアンカはアルドの背中を見据えたまま胸の前で腕を組んだ。
「私達は教会に無断でロキ様を連れ出したのよ? いいえ、私や貴方は『巻き込まれた』と言えばそれで済むかもしれないけど、ヒヨクは言い逃れできない。貴方の家で、ヒヨクが反逆者として捕まえられないという保証はある?」
こちらを振り返ったアルドは、ビアンカを静かな瞳で見返して言った。
「判断はロキ様にお任せします」
ロキは落ち着いた様子でビアンカを見て言った。
「大丈夫。少なくとも今のところは」
―――かくして。
「……豪邸」
比翼の喉から掠れた声が漏れた。
(アルドさんって、お坊ちゃんだったんだ……)
ヨーロッパのどこかにある大学だと言われたら信じてしまいそうな風景が眼前に広がっていた。
華美な装飾は不要とでも言わんばかりの無機質で威圧感のある門と塀の雰囲気はアルドそっくりだ。
その門にはまっている黒々とした分厚い扉を抜けると、さっぱりとした庭が広がっている。
花が咲き乱れて多くの神官が行きかっていたロキの神殿と違い、石と水と木、草のみで埋められた広い庭は、酷く静かで生き物の声も聞こえてこないように思える。
ずっと奥に、門と同じくデザインや芸術というものを丸めてどこかに投げ捨てて来たかのような、露骨なまでに愛想のない見た目の屋敷がどっしりと佇んでいる。
(ロキの神殿は宮殿って感じだったけど、こっちは……砦? みたいなー……)
「兄上!」
ぱぁぁっ、という効果音が着きそうな笑顔の男の子が玄関の扉を開けて飛び出してきた。
「アルドさんの……弟さんですか?」
「ああ、イクセルという」
比翼に短く答えると、アルドは駆け寄ってきた少年と話をし始めた。
歳の頃は自分に近いように見えるが、高い背と浅黒い肌が大人びているように見せているだけで、実は結構年下なのかもしれない。
ビアンカの後ろからこそこそと様子を窺っていると、その男の子は怪訝な顔で比翼を見返した。
「こいつ誰?」
「こいつ!? 私はヒヨクよっ」
「変な名前」
「何なのよこの失礼なお子様は!」
「ぁんだとコラもういっぺん言ってみろヒヨッコ!」
「紹介が遅れた」
そこに割り込んできたのはロキだった。
「ロ、ロキ様! ようこそおいでくださいました!」
慌てて居住まいを正す少年。
「いや、僕のことはいい。この娘は、極秘の占いに出た予言の娘。故あって連れている。リーベに預けられた娘だと思い丁重に扱ってくれると助かる」
「は……はい! 分かりました!」
少年はロキに声をかけられただけで興奮しているようで、頬を紅潮させて笑顔を浮かべた。
感動です!!とか唐突に叫びそうな雰囲気だ。
「ロキ、リーベって?」
どこかで聞いた名前をこっそり尋ねてみる。
確か、アンディーンと言う街の名前と一緒に出てきたような。
(リーベ教……だったっけ?)
この頭の中の呟きが聞こえたのだろう、ロキはふ、と微笑んだ。
ドクン。
見下ろしてくる澄んだ藍色の瞳が綺麗で、つい心臓が早鐘を打ちそうになる。
「よく覚えてるね。リーベはリーベ教の最高神。水の女神だよ」
(水の……ねぇロキ、さっき言ってた予言がどうとかは、本当の話?)
『それは嘘』
思念でロキが答える。
「ええ!?」
「ヒヨク?」
突然声をあげた比翼の方を、ビアンカとアルド、そしてアルドの弟のイクセルが驚いて目を向ける。
「いや! 何でもないです……」
(ロキ、平気なの? そんな嘘ついて……)
すかさずロキに問いかける。
『お前は何も心配しなくていいよ』
ぽんぽん、とロキに頭を軽く触られた時、比翼はわずかに動揺した。
同じように……。
―――「大人しい女の子を狙うなんて、許せない許せなーい!! 私を狙えば喜んで相手をしてやるのに!」
―――「……少し落ち着け」
連理も、してくれてた。
「ぼけっとしてんな! おいてくぞヒヨッコ!」
イクセルの不機嫌そうな声にはっとする。
「ヒヨッコじゃない、ひ・よ・くー!!」
イクセルについていくと、屋敷の飾り気の無い客間に通された。
アルドは両親に話をしてくると言って客間を去り、イクセルもどこかに消えた。
残されたビアンカ、ロキ、比翼の三人は、ぐったりとソファにもたれた。
大して歩いた気はしないが、気疲れが激しい。
この屋敷の重々しい雰囲気もだが、いつ教会関係者に見つかるかとヒヤヒヤしながらの移動は思った以上に精神を消耗してしまうようだ。
「ビアンカ……今日みたいな一日が、いつまで続くの?」
「さぁ。聖都アンディーンへ行くなら、アンディーンに着くまではずっとこんな感じだと思うけど」
まじっすか。
だが本当の“まじっすか”な事態は、この直後に控えていたのだ。
その夜、私達はアルドの屋敷で一人用としては勿体無いくらい広い個室を与えられた。
隣にはビアンカの部屋があり、少し離れた奥まった場所にロキの部屋が用意されていた。
ベッドに入る前に用を足しておこうと廊下を歩いていると、いきなり誰かに口を塞がれた。
「むぐ……っ!!」
『しっ、静かに』
頭に直接届く明瞭な声。
(ロキ!?)
暗がりで相手の顔はよく見えないが、思念で会話ができる相手はロキだけだ。
ロキはそれ以上何も伝えないまま、比翼の手を強引に引っ張っていく。
(え、な、何……!?)
やがて自分の部屋らしき場所に比翼を連れ込むと、ロキはすばやく扉を閉めて内側から鍵をかけた。
「ロキっ?」
ロキに両腕を掴まれ扉に押し付けられるような格好になった比翼は、焦って声をあげた。
室内の蝋燭の灯りに、ロキの姿が明々と照らし出される。
よくできた人形のようだと思った。
室内着の彼は、昼間よりも腕や足や胸元の露出が多い。
透けるような白い肌が暑さのせいか少し汗ばんで、キラキラと光っていた。
ロキの顔立ちも髪も肢体も肌も全て、誰かが丹精込めて造り上げた芸術品のように魅力的で、非の打ち所が無い。
ジジ…と蝋燭が音を立てた。
いつも怜悧な藍色の瞳が今は熱を帯びて、潤んでいるようにも見える。
(というか近い!!)
息がかかってしまいそうな近さで見下ろされ、比翼はおびえた。
視線を逸らすように俯くと、ロキの指に顎をとらえられて上向かされた。
「……ヒヨク……」
落ちてきたのはいつもより低く掠れた、熱に浮かされたような声だった。
狂おしく熱い視線が至近距離で注がれる。
顎に置かれていた指が、頬を伝い髪を梳くように下から撫ぜていく。
そのどれもが愛おしいと伝えてきているようで。
(わ……待って、これは!)
恥ずかしさでぎゅっと目を閉じた。
自分が真っ赤になっているのが分かる。
弱々しく肩を押し返そうとした比翼の手をそっと掴んだロキは、身をかがませて比翼の顔へ唇を寄せた。
ロキの手の中の比翼の手が強く握り締められた。
(……………連理)
比翼の意識はそこで途切れた。
☆
暁の時代。
水の女神が混迷の大地へ幾人かの御子を遣わす。
御子を惑わし只人へ堕とす者。
人はその者達を闇の王の娘、《マリス》と呼んだ。