2.海姫シュトラウス
喧噪が聞こえる。漁港の朝市のような賑やかさに一瞬顔を顰める。
「何だよ、ここは……」
頭の中には疑問符が飛び交って、困惑した表情はそのままダイレクトに心情を外部へ伝えているだろう。
先ほどまで、男は見慣れた自室にいた。友人を招き、ゲームに興じ、ああだこうだと騒ぎ笑い。その途端にこの慣れない喧噪。
嗅覚、味覚が更にリアルさに拍車をかけている。潮の香り、すれ違う人々の空気。その全てが、ゲームではありえないことなのだ。
「いらっしゃい! 新鮮な魚だよっ! これがたったの二フラムだ!」
「おぉ、これはまた見事な……!」
「お~い! 誰か俺の縄知らねえか~?」
「またお前かピアーノ! 相変わらず失くし癖の直らねえ野郎だ」
あちこちから耳に届く声を頭に反芻させて、情報を集める。
フラム、という単位が聞こえた。これはアリフェレット海戦記における"最小通貨"だ。主に一般人が多用するお金で、ゲームでは完全なフレーバーだったっけか。
ピアーノという人名が聞こえた。ここらに住む人の名前だろう。とりあえず、ここが日本ではないということは確かなようだ。
クルト村という地名が聞こえた。確か、アリフェレット王国の王都であるニグレス近くに存在する漁村だったはずだ。
「つまり、ここはアレか。アリフェレット海戦記の世界ってことか?」
そんなバカなと一笑する場面だろうが、残念ながらそんな気にもなれそうにない。次々に聞こえてくる会話がその事実をより明確に浮き彫らせる。
基本ルールを熟知し、世界観に噛り付き、自作サプリまで手をかけたのだ。次々と入ってくる情報をゲームの設定に照らし合わせていく。
ここは異世界。だけど慣れ親しんだゲームの世界だ。現代が退屈かと言われればそうでは無いが、こういうシチュエーションに燃えてしまうのは男の性だ。ロマンとも言う。
港町を練り歩き、会話を盗み聞いて確信する。
「ここは、アリフェレット海戦記の世界に間違いないみたいだな」
幾度ともなく繰り返したセッション。あらゆる立場で挑んだロールプレイ。その全ての経験が無駄になることは決してない。
むしろ血肉となって馬車馬の如く有益に働くモノだ。生きるにしろ、のしあがるにしろ、それらは総じて糧になる。
「そうすると問題は、生活だな」
自分の部屋着姿を見下ろして肩を落とす。靴も履いてない。靴下が砂利に引っかかって小さく解れているのが分かる。周りの視線も心なしか痛い。
衣食住。この三つは最低限確保しておかなくてはならない。そして俺はこの三つを今の一文無しの状態でも得られることを知っていた。
躊躇いはある。そもそもこの方法は最終手段だ。打つ手なしの崖っぷちから、崖を降りるだけの手段と言っていい。
「……よし! やってやろうじゃねえか」
腹は括った。何でこの世界に来てしまったのかは分からない。しかし来てしまった以上はここで生きなければならない。死にたくない。当然だ。
ならばこの程度の事でビビってはいられない。世界に染まれ。現代の常識など、こっちでは何の価値も無い。
「悪い、ちょっといいかい?」
その第一歩として近くの通行人に声をかける。ここから、俺の第二の人生ともいうべき物語が始まるのだ。
「奴隷市場はどこか分かるか?」
◆
奴隷市場とは。金持ち連中が脂汗を迸らせ、濁った眼と黄色い歯をギラつかせ、腐臭漂う涎を落としながら絶望した少女を金と交換する場所。というのが一般的なイメージだろう。まぁ、俺の勝手な想像だけど。
少なくとも良い感情を抱くような場所じゃないのは確かだ。
「そこの旦那ぁ! 俺を買ってみないか? 力仕事なら自信あるぜぇ!」
「そうじゃなぁ……。おい商人。こいつはいくらだ?」
「はい。この奴隷は五万になっておりまして……」
「何じゃと? 二万くらいにならんのか?」
「おい旦那! いくらなんでも半額以下は酷いぜ! せめて四万は出してくれねぇと!」
「お客様。この方の面子も御座いますので、せめて三万五千あたりで……」
しかしこの奴隷市場の雰囲気はどこか明るい。ここは国営の奴隷市場。ここ以外では奴隷の売買は固く禁じられており、この法を破れば問答無用で極刑に処される。
あちこちで聞こえてくるのは奴隷と買い主と奴隷商人の三人による値段交渉。唾を飛ばさん勢いで白熱する様は市場と冠するに相応しいと言えよう。
「新入り、一本どうだい?」
「悪い。タバコは無理なんだ」
同じ檻で座る優男の誘いを躱す。そうかいと勧めた優男はタバコを自分の口へ運ぶ。タバコの先に人差し指を添えると、小さい火と共に紫煙が揺れる。
なるほど、魔法使いか。
「お前、名は?」
「蓮矢だ。五十嵐蓮矢。こっちじゃレンヤ・イガラシ、かな」
「字と名を逆にするっつう事は……東方出身か?」
「正解。黒髪なんざ、こっちじゃ珍しいだろ? あんたの名前は?」
「俺はアスパー・リガレット。これでもエルフの魔法使いだ」
「魔法使いねぇ。その顔とその能力なら性奴隷の方が良かったんじゃないか?」
「男に掘られたからこっちに来たんだよ。まったく、俺は女の子が好きだっていうのに……」
淡いブロンドを惜しげも無くガシガシ掻きながら、優男――アスパーはぼやく。
エルフは男女問わず美形が多い。そしてアスパーも例に漏れず美形だ。中性的な顔立ちだから女性にも見えるから、男に掘られたと聞いても納得できた。まぁ、俺にそんなケはないが。
「エルフと言えばあれだ。森の神々に誓って云々、みたいなイメージなんだが」
「童話じゃねえか。あんなキザなエルフが実際にいてたまるか」
まぁ、確かにと俺も頷く。"姫と魔法使い"という童話に登場するエルフの魔法使いのプロポーズの言葉が"森の神々に誓って"云々と続いてた気がする。
因みに何故そんなことを覚えているかと言うと、エルフでプレイした際に必要になるからだ。
具体的に言えば、十五歳未満の女の子にさっきのセリフで口説くと交渉判定にプラス補正がかかる。現実で言えば夢見る女の子の前に白馬の王子様が颯爽と現れるみたいなノリなんだろう。
日本だと白馬に跨った……江戸の殿様? いかん、まるっきり時代劇だ。
「ちょっと、私が十万ですって!? そんな安い女に見えるの!?」
「えぇい! 俺はもう少しお淑やかな女がいいんだよ!」
「何よ、モテないから性奴隷を買おうとしてるんでしょ!? 好きなだけヤらせてあげるんだから、もう少し高く買いなさい!」
値段交渉の白熱さはどこも、いつでも変わらない。
高い値段で買われた奴隷は、再び売られた時の待遇がガラリと変わるのがその主な理由である。ウン千万もの奴隷となれば、嗜好品に囲まれて優雅に暮らせると言われればそれはもうハリキるしかない。
奴隷は高く買ってもらいたい、買い主は安く買いたい。その妥協点を探すのが奴隷商人の主な仕事だ。
「レンヤさん。お客様ですよ」
担当の奴隷商人の言葉に立ち上がる。アスパーは頑張れよと一言告げるだけで、余計な事は何も言わない。
果たしてどんな買い主だろうか。そしてどんな値が付くのだろうか。熱狂やまない周りの様子を横目にしながら、俺は顧客用の商館へと通された。
「おいおい……」
商館に立ち入れる客層は上流貴族や大商人などの富豪たちだけである。そのためここに通される奴隷も一流でなければならない、と言うのがアリフェレット海戦記における奴隷市場のフレーバーだ。
当然奴隷になってから日の浅い、且つ相応の教養すら受けていない俺が入れるはずがない。ゲーム的に言えば、何かのイベントが始まるのかと思える。けれどここは現実だ。ゲームじゃない。
内心で首をかしげていようとも、周りの状況は進んでいく。
「バルトルード様、こちらがご所望の奴隷となります」
俺を連れた奴隷商人が深々と頭を下げる。商館に通されるという事はそれだけ確かな身分があるということなので、商人の恭しい態度は不自然ではない。
けれど、どう見ても若い。いや幼いと言った方がいいか。現代の感覚で言えば小学校高学年で通じる見た目であり、保護者らしき姿も見えない。
親の権力を食い物にしているという可能性もあるが、そんな輩は商館などには通されない。いよいよ表の首も傾げそうになった様子が可笑しかったのか、少女はクスリと笑う。
「あなた、名前は?」
「レンヤ・イガラシ、です」
まぁ、細かい事は別にいいかと深く考えるのを止めた。貴族に対して腹を探ろうとすれば命が幾つあっても足りない。知ったからには死んでもらおう、なんて展開は過去のセッションにおいて何度も経験してきていることだ。
実際それで殺されてキャラロスト。涙をのんだことも二、三度ある。頭を軽く振ってバルトルードを改めて見る。
「東方の生まれで間違いない?」
「はい。と言っても、アズリア神州の彩月の出ですが」
東方は広大であり、明確な区分や名称が存在しない。その内の一割が南のアズリア帝国の植民地として知れ渡っている。そこがアズリア神州と呼ばれる地域であり、東方と言えばまずここを指す。
態々言い換えたのはアズリア神州よりもさらに東、真の意味での東方に関する知識が無いので念を押しただけである。
元々、東方と言う地名はフレーバーとして出ていただけであり、数年後に発売されたサプリメントでようやく実装された地域だ。多少、知識に粗があっても記憶違いで押し通してしまえばいい。それで何も問題は無い。
「アズリア神州、か。よく海を渡れたわね。それとも向こうは造船技術が優れてるのかしら?」
「うん? いやまぁ、濡れ衣で島流しにあって運よく辿り着いただけなんだけど……」
頬に冷や汗が一筋流れる。俺の知っているアリフェレット王国は世界基準でも一、二を争うほどの造船技術を有していた。海を渡るなど造作もないはず。だと言うのにさっきのバルトルードの台詞はおかしい。
よく海を渡れたわね。聞きようによっては海を渡れるような船を造れるのか、とも取れる。続く言葉が向こうは造船技術が優れている、だ。
バルトルードの表情は見下すような嘲笑は浮かんでいない。純粋な疑問一色。俺は何か思い違いをしているのか? けれどここまでの地名や施設名は全てアリフェレット海戦記に登場する固有名詞そのままだ。これは、もう少し詳しく探る必要がありそうだ。
「まぁいいわ。東方の話も聞きたいしね。いくらかしら?」
バルトルードが聞くと商人は二万だと答えた。特に優れた知識も無く、礼儀作法も教えてないので奴隷としてはかなり安い。
普通であればここから値段交渉に入るのだが、向こうの言い値でもいいかと半ば諦めている。
少なくとも悪い娘じゃなさそうだし、下手に怒らせて帰ってしまえば自身の悪評につながりかねないと判断する。
まぁ、値段に文句を言えるだけの実績を持っていないので何を言っても無駄なだけだが。
「ふうん。それじゃあ少し色を付けましょうか」
そう言って机の上に出したのは金貨五枚。つまり五万だ。おいおい、と俺の口が思わず引き攣る。それだけ期待しているんだ、という無言のプレッシャーを感じる。
それだけの働きをしなくてはならない。期待を裏切ってしまえばすぐに売られるだろう。
「いいのか?」
念のため、何かの間違いだろう、そんな思いを描きながら聞く。驚きすぎて口調が素になっているがバルトルードは気にもしていない。
「いいのよ。どうせ私が稼いだお金だし。優秀な人材に出し惜しみは無しよ。これでも人を見る目はあるつもりだから」
随分と買われたものだ。俺は諦めて別の事を口にする。
「名前を聞かせてもらっていいかな? ご主人様」
冗談めかした言葉に、バルトルードはよくぞ聞いてくれましたとばかりに堂々と告げる。
「私はシュトラウス・フェン・バルトルード。いずれこのレミニス海の頂点に立つ者よ!」
その名前を聞いて、俺は口をあんぐりとあけたまま固まった。さぞバカ面に見えただろうが、そんなことに気を割いてはいられなかった。
俺は、その名前を知っている。そして、これでさっきの違和感が氷解した。辛うじて呟いた言葉が全てを物語っている。
「……海姫の、時代ってか……」
アリフェレット王国が誇る大艦隊。その初代提督である海姫シュトラウス。アリフェレット海戦記のフレーバーで登場する伝説の英雄その人だった。
◆
バルトルード商会。それがシュトラウスが自身の力で築いた組織の名前だった。
シュトラウスの父、レオンハルトはアリフェレット王国の公爵の地位に就いており、最初は反対だったと言う。
しかしアリフェレット王国では他国との貿易を主とする商人が居なかったため、王国直属の商会として始まった。
「今は陸路だけしか手を付けてないけれど、いつかは海路も始めるつもりよ!」
握り拳を掲げ、今後の目標を語るシュトラウス。だが、アリフェレット王国の造船技術を考えると無謀だと言える。
さすがに漁船がイカダと大差ないレベルと知った時は、逃げ出そうかと考えたくらいだし。
しかし、この世界には魔法がある。たとえ造船技術が無くとも、と考えるだけ空しくなるのでやめる。
そして魔法を軽視されがちだというこの時代に、魔法の法程式を刻む技術があるかと言えば……まぁ、その、無いよなぁ。
「南の方ではアズリア帝国とレストール群国がドンパチやってるらしいですけど……」
「あぁ、奴隷だからって変に敬語を使わなくてもいいわ。聞いてるこっちが疲れるから」
随分と緩いご主人様だな。まぁ、そっちの方がこちらとしてもありがたい。
「で、さっきの言葉だけど。問題ないわよ。海路で貿易するのは東のアズリア神州くらいだもの。陸路は西のインパニス独立国だけね」
「イーギス属国はどうするんだ?」
「そっちは特に考えてないわ。まぁ、色々あるのよ」
アリフェレット王国から南に位置するアズリア帝国とレストール群国は長年戦争を繰り広げる大国だ。あまりにも戦争大好き国家なので正直、脳筋しかいないんじゃないかと疑っている。
西のインパニス独立国は、数百年前のアリフェレット王国の公爵テオドール・ヴォー・インパニスがクーデターを起こして独立を認めさせた国である。
東のアズリア神州はアズリア帝国の植民地……なのだが、帝国は東に興味が無いらしく、一種の独立国と化している。なので、別に敵対国であろうと何だろうとアズリア神州と貿易は可能である。
北のイーギス属国は大昔の戦争でアリフェレット王国に降った旧イーギス王国だと言う。しかし、造船技術の無いアリフェレット王国がどうやってイーギス王国に勝ったのかは記されていない。どうにも怪しいが、記されていない以上つっこんだところで答えは無い。
ゲームでの設定を思い出していると、ふとシュトラウスの歩みが止まる。
「それで、あなたには海路の開拓をお願いしたいの」
「おいおい、素人にそれを頼むのか?」
「最初は誰でも素人よ。それに肉体労働より頭脳労働に向いてそうだしね」
簡単に言ってくれるなこのお嬢様は。まぁ、確かにこの程度の筋肉じゃ肉体労働が得意な様には見えないか。
一体俺のどこに、そんな大仕事を任せられる根拠を見出したのやら。聞いてみたい気もするが、その返答が容易く予想できるのであえて聞かない。見る目がある。その一点張りだろう。
「まぁ、確かにどちらかと言えば身体より頭を使う方が得意だけど……。そんな大仕事ができるような能力は無いぞ」
「何も一人でやれだなんて言わないわ。優秀な人材を雇いなさい。給料なら私が出すわ!」
何が何でもやらせる気か。まぁ、奴隷商人に自分を売った時からこの世界に染まる事を決めたんだ。
今更文句垂れても仕方がないか。
「五万で買ってくれたんだ。それ相応の働きをしてみるさ」
「よろしくね。さ、まずは造船からよ!」
「了解、ご主人様」
異世界の奴隷生活。その一番目の仕事が決まった瞬間である。