炎の一夜の真実②
ゆっくりと目を開く。
剣は確かに体を貫いていた。
しかし、ディーナの体ではなく、レン・ヴェントスの体を。
「レン様っ!」
ディーナの悲痛な叫び声と、レンから流れ落ちる赤い血が、アンナを茫然とさせた。
深い藍色の瞳が、こちらを向く。
その瞳には、何故か、囚われてしまった。
「お前の、恨み、じゃないな?」
息が上がっているのに、その瞳は力を失わない。
「……ええ」
確認するような問いに、アンナは素直にうなずいた。
「レンティシア……ミオに、その、名を」
どこからか差し出した短剣を、アンナに押し付けるようにして渡す。
「これは?」
「刃を、見ろ」
どうしてレンの言葉に従っているのかは分からない。
しかしその言葉には力がある。
さやから短剣を引き抜いて、そして、目をこらす。
ミオ・レンティシア・ヴェントスと彫られている。
「ミオ……の、身分証明、になる」
わからなかった。
どうして、これから誘拐される娘に、渡すのが、ミドルネームなのか。
アンナは知らなかった。
ヴェントス領で、ミドルネームがいかなる意味を持つか。
そして、気づいていなかった。
自分の頬に伝っているものに。
「殺す、な」
「え?」
「ティナを……、レンティ、シアの弟を……」
深い藍色の瞳が、アンナを見て、そして、ゆっくりと力を失っていく。
一瞬、誰のことを言われたのか分からなかったが、それがシェリアとそのおなかの子供のことを指すのだと遅れて理解する。
「レン様っ!」
ディーナが叫ぶ。
レンは一度、目を開けて、どこか遠くを見る。
「悪い、ティナ……やく、そく、守れないみたいだ」
そして、今度は、しっかりとアンナを見た。
「……伝え、ろ……愛してる、って」
それはとても優しい表情だった。
誰かを守るために、自らを差しだし、最愛の者を想って、男は力尽きた。
「ユン、ナ……。お願い、お願いよ……」
ディーナがこちらをまっすぐに見て、真剣に頼んでいる。
それが自分への命乞いでないことは、アンナにもすぐに分かった。
「ええ」
うなずいて、そして、アンナはその部屋を飛び出した。
負けてしまったのだ。
強い瞳に。
本当なら、全員を殺さなければならなかったのに。
「どこにいるのよ」
とりあえず、一階のミオを遊ばせる時に使われていた部屋を覗く。
そこにいたのは、黒髪と銀髪の女性二人、それに、目的の赤ん坊。
アンナの姿を見た瞬間、黒髪の女性が、動けないはずなのに、立ち上がろうと、壁に手をかけて、その体を立ち上がらせた。
「あなたの、仕業ね」
深い緑色の瞳が、また強い光を持って、アンナを見る。
「その短剣……! レン!」
「……ティナを愛していると。約束、守れなくて悪いと」
アンナの手は、血に塗れている。
聡い彼女は、一瞬でその意味を理解したらしい。
ふわりとその体が崩れを落ちる。
それと同時に、アンナは一気に間合いを詰めて、銀髪の女性が気づいて動き出すより前に、ミオ・ヴェントスを抱え上げて、後ろに下がる。
「ミオっ!」
「ミオ様っ!」
二人の女性が声を上げる。
「この子は人質。あなたの子供は、一人じゃないはずよ」
アンナは極めて冷静さを装って言う。
これは賭けでもある。
それでも、アンナにはできなかった。
何より、シェリアを殺すことは、そのお腹の中の子供もともに殺すことになる。
「何を……?」
「あなたたちが口外しない限り、この子は生き続ける。レンティシアの名を持って」
これがアンナにできるギリギリだ。
彼女たちが生き延びても、アンナの犯行が明るみにさえでなければ、アンナの家族は助かる。
「……何故?」
「家族のため、よ」
「違う。どうして私を逃がそうと?」
シェリアはおなかに手を当てる。
「……頼まれたわ。あなたの夫に」
「レンは……どうして?」
冷静な彼女の瞳が、恐怖の色を帯びる。
「ディーナを、かばって、私の剣に貫かれたわ」
「そんな……」
クロエが悲痛な声を出す。
しかし、シェリアは、静かに目を閉じ、そして、開いた。
視線が絡む。
深い緑色の瞳が、こちらを見据える。
耐えきれない。
これ以上、その強い瞳に囚われれば、アンナは大切なものを失ってしまう。
「脱出は、窓から」
「ミオっ!」
叫んだその声を後ろで聞きながら、アンナは赤ん坊を抱いて部屋の外に出る。
「……レンティシア、か」
自分の腕の中にいるミオ・レンティシア・ヴェントスは、とても、とても暖かかった。
しばらく待って、再び部屋に入れば、窓は全開になっていた。
常人以上の身体能力を持っているだろうという見立ては、間違っていなかったらしい。
それとも、あれも、子をもつ母親の強さだろうか。
窓の外を見やれば、二人の人影が見えた。
危険な賭け。
それでも、あらがえなかった。
深い藍色の瞳に。
そして、なにより、優しくしてくれた、ディーナの最期の願いに。
アンナはそのまま窓から外に出て、火を放つ。
ぐるりと屋敷を回って、四か所から、火を放った。
赤い、赤い炎が、屋敷を包んでゆく。
鮮やかな炎は、闇の中で、永遠と、輝き続けた。
その炎は、最後まで抗った、彼らの魂だろうか。
淡々と、話していたつもりだった。
何の感情もこめず。
それなのに、今なら気づけた。
頬を伝う涙の存在に。
「これが、私の犯した罪。そして、ルミエハの、犯した最大の、罪です」
何が悲しいのだ。
アンナは泣いてはいけないはずだったのだ。
意識が一気に現在へと戻り、騒然とする会場を見回す。
そして、隣にいる、深い緑色の瞳を持った女性が、あの時の、シェリアととてもよく似た女性の姿がそこに立っている。
強い瞳は、あの時のシェリアと同じ。
しかし、アンナの心を揺さぶるのは、その瞳が、間違いなくアンナを思いやっているからだ。
「どうして……? アンナだって、被害者なのに……」
アンナがすべてを奪ったというのに、そして、彼女はそれを知っているのに、一度だってアンナを憎もうとはしなかった。
あの時の小さな赤ん坊が、ここで、アンナを守ろうとしたことに、深い感慨を覚える。
それと同時に、炎の一夜について、一度も後悔したことのなかったというのに、今、初めて、後悔していることに気づいた。
―――もう、あの子より、レンティシアのほうが、長いんだわ。
「あれほどまでして守った息子と、夫は、今は、病気で亡くなりました。もう、私に守るものは何もない」
もう一度、アンナは、自分が育ててきた第二の子供と向かい合う。
「ルフレ……いえ、レンティシア様。あなたは間違っています。たとえ誰であっても、罪は正しく追及せねばならない。私は、ひきとったあの子に、ディーナと名付けたのは、あくまでも忘れないためです。私はいつだって、罪を引きずって生きてきました」
「でも、でも……! 私にとっての母親は、あなただったわ! 私を育てたのはアンナなのよ! あなたは私を守ってくれたじゃない!」
美しいと思った。
そういって、涙を流す彼女を。
アンナの記憶の中で、彼女が人前で涙を流すのは、初めてだ。
鎖が外れたのだ。
ルミエハという、重い鎖が。
彼女の隣に立つ、赤銅色の髪の青年は、泣き崩れる彼女をそっと抱きしめた。
かれもまた、オブスキィトとルミエハという鎖から、懸命に逃れようとしていたのだろう。
「立ちなさい。あなたは、何を恐れることもない。そして、あなたが背負う罪なんて、存在しないわ」
彼女がルミエハでないならば、アンナは最期に、親としての言葉を残そう。
レンティシアは、涙をぬぐって、こちらを見た。
「レイラのことは……、レイラは、私がミオ・レンティシア・ヴェントスだって、分かってたのよ。だからこそ、それを調べて、感づかれたんだわ。彼女がどうやってだか、送ってくれたの。……炎の一夜の動機は、ただ、ダンテ・ルミエハが、シェリア・リエーソンに振られたからってだけなのよ!」
レンティシアの叫びに、ダンテがさっと青ざめた顔をして、そちらを見やる。
「何故、君がそれを知っている?」
「そんな理由でっ!」
ダンテと同時に叫んだクロッカスが、一歩前に出る。
それを隣にいたジオが手で制して止めた。
「手紙があるわ。レイラが、くれた」
深い緑色の瞳が、ダンテの黒い瞳を射抜く。
「やめろ! そんな目で私を見るな! そんな、そんな―――」
「―――シェリアと同じ目で? あなたのバカげた私怨のせいで、ルミエハの、つまらない意地のせいで、炎の一夜は起こったのよ」
毅然と立つその姿は、本当に、シェリアに生き写しだ。
「そして、私のせいなのよ」
「レンティっ!」
赤銅色の青年が、咎めるような声を出す。
アンナも思わず一歩そちらに足を踏み出した。
「オブスキィトとヴェントスの結びつきを強くしたくはなく、そして自らの後継者として子供が欲しかったルイス。シェリアに、母さんに振られて、母さん自身か、それとも父さんを憎んだダンテ。二人の醜い想いが、こんなことを引き起こした! 引いては、ルミエハとオブスキィトの対立が、こんなバカげた悲劇を生んだのよ」
レンティシアは、誰にではなく、ただ、その場で叫んでいた。
その声が、会場中に響き渡る。
「私が生まれたから……私が、私が……!」
「違う!」
叫んだのは、アンナだけではなかった。




