プロローグ
少年はこの場所が好きだった。
自宅とは違い、夏でも比較的涼しい場所。ここが避暑地だと気づくにはまだ幼い少年は、無邪気に喜んでいた。
「母さん。一人で遊びに行ってきていい?」
「デュエル。いつも言っているけれど、川の近くはいいけれど、それ以上奥に入ってはいけないわよ」
「うん! 行ってくる」
少年は五歳。自分でなにかとやりたがる年齢だ。息子の気性を知る両親は、息子にばれないように護衛をつけ、好きにさせていた。
少年の母が、この判断を後悔するのは後のことである。
少年はひたすらに川まで走っていた。
川を越えて奥に入っていけないというのは、いわゆる”ヒトノイエ”だから、らしい。
川の周りが大丈夫なのは、半分、少年の家だからだそうだ。
実際は、その川の周りは緩衝地帯だったのだが、少年がそれを理解するのはまだ先だ。
少年は川まで走り切って、川べりで息を整える。川は浅いけれど怖いものだというのはうんざりするぐらいに言い聞かされていたので、無茶はしないつもりだった。
「誰?」
しかし、一人でいるはずの場所で、突如声をかけられ、足を踏み外す。
「あ」
落ちる、と思ったら、腕をつかまれ、川と反対側にひっぱられる。
「危ない。って、私のせいか」
声をかけたのは少女だった。
黒髪と黒い瞳が印象的な、ずいぶんと大人びた少女。
背丈は自分より低い。
「ごめん。ありがとう」
そうやって笑うと、少女は目を見開く。
何にそんなに驚くことがあるというのだろうか。
「どうしたの?」
「ここ、あんまり入らないほうがいいよ。どっちに入っても疑われるから」
少女は少年の質問には答えず、さらりと言った。
少年は意味を考えた。わからない。
「でも、ここ、半分は俺の家だよ」
とりあえず大人たちに言われたことを主張する。
すると少女は、もっと驚いたような顔をして、しばし考え込み、そして言う。
「オブスキトのヒト?」
少女の発音が微妙に違ったので、一瞬わからなかったが、どうやら自分の名前のことを聞かれているのだろうと思った。
「オブスキィト。デュエル・ロイ・オブスキィト」
「そっか。オブスキィト、ね。わたし……ルフレ。ルフレ・レンティシア・ルミエハ」
名乗られ、少し反応に困る。ルミエハの名は知らないが、見た感じ、あきらかに彼女は自分と同じキゾクであることがわかる。知らないことは失礼、らしい。
「ルフレ、か。ルフレもキゾクだよね?」
「ええ。デュエルは……知らないのね。ルミエハとオブスキィトのこと」
「どういうこと?」
「ルミエハとオブスキィトが、仲が悪いってこと」
「仲良くできないの?」
疑問を口にしたら、また驚かれた。この少女はどうしてこんなに驚くのだろう。
「どうして、仲良くしてほしいの?」
やっぱりこの少女の言うことはわからない。
「だって、ルフレはいい人だよ。助けてくれた。友達になれるよ」
そうして、笑いかけると、少女は、初めて笑った。声をあげて。
とても、きれいだった。
「そうね。デュエルの親が許せばだけどね」
「許されないとダメなの? それなら、言わなきゃいいさ」
「……意外と頭いいんだ」
ぽつりとつぶやいた少女のことばにむっとして、言い返す。
「いっぱい勉強してるから当たり前だ」
「そんなに?」
「ああ、そりゃ一日……」
何時間も、と言おうとしたのを手で遮られる。
「違うわ、そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
そうして、少女をじっと見つめ、気づく。
少女の瞳は、黒じゃない。深い、深い緑色だ。
「そんなに友達になりたいの?私と?」
試すように、こちらの目をみつめてくる。
「なりたい。なってよ友達に」
言葉は、自然と出てきた。
少年はまだ知らない。この一言が、少女の心をつかんだのだと。
少年はまだ知らない。ルミエハ家とオブスキィト家の対立は二百年にわたる悪習だと。
少年はまだ知らない。両親が自分に気づかれないように護衛をつけていたと。
少年はまだ知らない。のちにこのやりとりを思い出して、恥ずかしさにさいなまれること
少年はまだ知らない。この出会いが一生を変えることになると。