桜情話
私が私であった頃の最後の記憶は、あの人の泣き顔と、私の喉にかかるあの人の指の感触、そして意識が暗闇に吸い込まれる直前に聞こえたあの人の声。
「後から逝くから……。必ず逝くから」
その声を聞きながら私は泣いた。泣きながら、逝った……。
* * * *
駅前のバスのロータリーの真ん中に、桜の巨木が立っている。十年前に駅前の再開発が始まった時、伐採される予定だった。しかし、計画は途中で変更され、桜の木は伐採を免れた。噂では伐採しようと業者が来る度に、台風が来たり、事故が起きたりして、ことごとく失敗したとか……。地元住民は皆一様に「それ見た事か」と頷いたと言う。この手の古木には大概、怪談話が付きまとっているものだ。
僕はその桜を見上げた。一抱えもありそうな太いごつごつした幹から立派な枝が四方八方に伸び、その途中から下に向かって枝垂れていた。ソメイヨシノではなく、濃いピンクの八重桜で、今は盛りと咲き誇っている。風が吹く度に、ピンク色の吹雪が僕の周りをひらひらと舞い踊る。あまりにも迫力のある美しさに、なんだかめまいがしそうだ。
僕がこの街に引っ越してきたのはつい一月前だ。住いは駅の程近くのワンルームマンション。会社の借り上げのマンションで、いわば社宅のようなものだった。僕は東京の本社からこの片田舎の代理店に出向してきた。
妻と一人娘は東京に残してきた。妻もまた仕事をしていて、それなりに責任のあるポストについている。それに子供の事もあった。共働きで子供がいる我が家は、妻の実家の近くにある。義母の協力なしではやっていけない。妻が素直について来るとは最初から思わなかった。
「ついては行けないわよ。どうしても断れないなら、単身赴任ね。いいんじゃないの、別に」
予想通り、あっさりと突き放された。
かくして僕は一人寂しくこの片田舎にやって来たのだった。
デ・ジャ・ビュ、既視感。この駅に降り立ち、この桜を見た時、僕はふとそう思った。古い映画のような映像が頭の中を駆け抜け、二重写しのように現実の風景と重なったような気がした。もっとも何が見えたのかはわからない。とにかく寂寥感とも郷愁とも言えるような思いがこみ上げ、息苦しささえ覚えた。
知らず知らずのうちに桜に歩み寄っていた。まだ蕾は固くて小さかった。足元には太い蛇のような根がうねっている。木の半径三メートルほどは土が見えていたが、恐らく根はもっと広く延びているはずだ。アスファルトで固められた地面の下にもうねっているに違いない。
僕は不意に桜に触れたくなった。ウロコのような古びた幹にそっと手を押し当てると、心臓が締め付けられるような悲しみが込み上げる。一体、僕はどうしたのだろう。そう不思議に思いながら、僕はいつの間にか泣いていた……。
その晩、不思議な夢を見た。山の中だった。僕の目の前には昼間の桜が佇んでいた。桜はまだ若くて、幹は細く枝ぶりも小さかったが、昼間の桜だと一目でわかった。
辺りは夜だった。上も下もわからないような、密度の濃い闇。その中にぼんやりと桜だけが浮かび上がっている。僕はその桜の下にひざまずいて、泣いていた。
僕の歓迎会が開かれた。駅前の居酒屋で新しい職場の同僚とささやかな宴会を持った。僕の新しい職場は総勢十人の小さな営業所だ。直轄の営業所ではなく、本社にとっては代理店に過ぎない。所長のポストは本社の営業部から二年という期限付きの人材が勤めることになっているのだ。
「所長さん、単身赴任なんですって? 寂しいネ~」
営業所の一番の古株のオバチャンが早くもほろ酔い加減で僕に絡んでくる。
「大丈夫、大丈夫。すぐに終わっちゃうわよぉ、二年なんてあっという間。はい、飲んで飲んで」
僕のグラスに盛大にビールを注ぐので、僕は口からお出迎えをしなくてはならなかった。
「どうですか、ここは。田舎でしょう? 東京に比べたらぜ~んぜん田舎だもんね。つまんないでしょう?」
僕は苦笑いした。東京と比べる方が間違っている。
「緑がいっぱい残ってて、いいところですよ。のんびりしてそうだし」
「それだけがとりえだって」
オバチャンはガハガハと笑った。
「あの駅前の大木、あれ凄いですね。よく切らずに残してるんですね」
僕は何気なくそう言った。
「あの桜、あれは切りたくても切れないのよ」
オバチャンはにやりと笑う。
「あの桜を切ろうとすると祟りがあるのよ~。だって、あんだけ綺麗な桜の老木、神さんか妖怪かわからないけど、なんかあるって」
オバチャンの話を聞きながら、僕は闇の中に浮かんでいる桜の姿を思い浮かべていた。
その晩、また夢を見た。前と同じシチュエーション。暗い森の中、暗闇にほうっと浮かび上がる桜の姿。僕はやっぱり泣きながら桜の木の下にひざまずいていた。幹を抱きしめながら、肩を震わせ、声を上げながら……。
ふと目が覚めた。しばらく自分の居場所がわからなかった。枕元に置いた時計の音がやけに耳に響く。ふと、僕は自分が本当に涙を流していることに気がついた。
身体を起こし、パジャマの袖で顔を拭った。枕を触ると、涙で濡れている。こんなになるまで泣いたのは何年ぶりだろうか。
僕はすっかり目が冴えてしまい、困惑して頭をぼりぼりとかきむしった。
ソメイヨシノと入れ替わるように、駅前の桜に花が咲き始めた。僕は桜を見るのが苦痛になっていた。これほどまでに美しいというのに。花の数が増すにつれ、寂しさと虚しさと、何故か罪悪感が込み上げてくるのだ。
夢も毎晩のように見るようになっていた。その度に息切れがするほど、泣いている。どう考えても普通ではない。ホームシックからうつ病になったのではないかとさえ思えるほどだった。
いつもなら金曜の晩に帰るところを、僕は金曜日全休で家に帰った。さすがに不安になったのだ。それほど家族にべったりと接する事はない、どちらかというと淡白な関わりだと自分では思っていたが、やはり一人は心もとないと感じているのかもしれない。何と言っても家族なのだから。
久しぶりに妻と小学生の娘と過ごす時間は最初のうちは楽しかった。しかし、土曜の昼を過ぎるとなんだかうるさく感じられた。すっかり、気楽できままな一人暮らしの味をしめてしまったようだ。
例の夢は見なかった。ほっとする反面、どことなくもの足りなさを感じているのが自分でも不可解だった。やはりホームシックだったのだろうか。自分は案外寂しがり屋なのか? 今までそんな風に思ったことはないのだが。実際、月曜日の早朝家を出た時、開放感を感じていたくらいだった。
そして、駅前で桜を見た。相変わらず見事に咲き誇っている。本当に美しい姿だ。思わず僕は呟いていた。
「ただいま……」
僕はいつの間にか桜に心を奪われていた。
桜の季節が終わると、心のざわめきは静かに納まって行った。桜の夢はあまり見なくなった。いや、少し変わってきていた。
夢の中の桜の花は散り、緑の葉が萌え始めていた。その頃から夢の中に人影が出てくるようになったのだ。
艶やかな着物をまとったその姿は女だった。大きく抜いた襟から見えるうなじは、白くて細い。僕はその滑らかなうなじをドキドキしながら見つめている。そう、夢の中で僕はその女に恋をしていた。
「あなた、最近痩せたんじゃない?」
一ヶ月ぶりに帰省したある日、ふと妻がそう言った。
「そうか?」
僕はグラスのビールをぐっと開けた。しばらく体重を計っていないが確かにベルトの穴は一つずれていた。
「ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ」
言っておくが料理の腕は君より上がったよと、心の中で呟く。もっとも、それを口にするほど命知らずではない。
「ストレス?」
「さあ……。それほど困った事もないんだけどねぇ」
首をかしげる。僕に対してかなり無頓着な妻が指摘する位なのだから、相当痩せたのだろう。しかし当の本人にはさっぱり心当たりがなかった。
「体調は悪くないよ。むしろ、メタボ腹になるよりはマシだろ」
「そりゃまあ、ね」
妻は肩をすくめた。
「それはそうと、次の週末、うちの近くで祭りがあるんだよ。地元では結構力いれてるらしくってさ、由緒正しい祭りなんだって。縁日も出るし、あ、そうそうだんじりが出るんだってよ。愛美、だんじりなんて見た事ないだろ? 見にこいよ」
ついこの間、同僚から聞いたところだった。この一ヶ月は仕事が忙しく休日出勤が続いていたため、なかなか家族サービスが出来なかった。たまには一家揃ってのイベントも必要だろう。まあ、手近なところではあるが……。
しかし妻の反応はそっけないものだった。
「来週? あ~、ダメよ。仕事が入っているから」
「そんな週末に仕事いれなくても……」
僕は眉をしかめた。
「愛美も可哀想じゃないか、週末までおばあちゃんと過ごすのか?」
「先週、皆でディズニーに行ったのよ」
妻は少し棘を含んだ口調で僕を遮った。ああ、もう、これ以上は言うまい。僕は黙り込んで自分のグラスにビールを注いだ。自分だけ置いていかれたのかと思うと、少し腹が立つ。自分勝手な憤りだとわかってはいるのだが、疎外感を感じるというのは否めない。
その夜、布団に入ってから隣に寝ている妻の腕をそっと撫でた。
「なあ」
低い声で囁きながら首筋に顔を埋めようとすると、妻はもそもそと寝返りを打ち、僕に背を向けた。
「……眠いの」
くぐもった無愛想な声には、どうしようもない拒絶が満ち溢れていた。
僕は大きな溜息をつき、暗い天井を見上げた。僕の居場所はだんだん無くなってきているようだ……。
次の週末、結局娘も妻も来なかった。しょうがないので、一人でぷらぷらと祭りを見て回った。
地元の古い氏神さんの祭りで、なかなか立派なだんじりが町ごとに出る。茶色や金髪の若者がさらしに地下足袋という昔ながらの勇壮ないでたちで派手に飾り付けられただんじりを勢いよく引き回して歩く。濃い化粧をしたけばけばしい娘達がさらしにハッピという姿で街を練り歩いていた。
「……なんかちょっと違うような」
僕は思わず苦笑いをした。
神社の参道に並ぶ縁日を眺めながら、ぷらぷらと歩く。子供の頃はよく近くの祭りに遊びに行った。ヨーヨーを買ったり、射的をしたり、ワタアメを買ったり。あの頃は楽しかった。
ベビーカステラとヨーヨーをぶら下げて家路につく。駅前に辿りついた頃はもう日が落ちかかっていた。
薄蒼い夕闇の中に、あの桜が立っていた。緑の葉を茂らせて、静かに佇む姿に僕の心が波立っていく。
夢の中ではいつもこの幹にもたれかかりながら、彼女が立っているのだ。まるで一枚の絵のように。
僕は桜に歩み寄り、いつも彼女が立っている場所に立った。そして彼女がそうするように、幹に身体を預けた。ふんわりと甘い香りが漂っているように感じた。
夏が来ると僕は本格的に体調を崩した。四六時中、ふわふわと心もとない目眩がし、食欲もなく、体重が減っていく。何度か医者に行ったが、診断はいつも「自律神経失調症」という当たり障りのないものだった。今年の夏が異常なまでに暑いという理由もあるだろうが、元々僕は夏に強いはずだったのだ。何かがおかしかった。
休日となると東京に帰る元気もなく、部屋で一人寝ているだけだ。クーラーをかけ、カーテンを閉め切り、だらだらと惰眠をむさぼる。何をする気にもならなかった。現実とも夢とも区別のつかないような夢を見るだけ……。
けだるい暑さは夢の中まで侵入してくる。絡みつくような湿気を含んだ暑い夢の中で僕は彼女との逢瀬を重ねていた。
彼女は濃い緑の葉を茂らせた桜の木の下で僕を待っている。僕は息を切らせながら彼女の元へと走っていくのだ。
白い浴衣に身を包んだ彼女は艶やかな微笑を浮かべながら、団扇でゆるゆると僕を扇いでくれる。
僕はたまらない欲望に駆り立てられ、彼女の身体を強く抱きしめる。
蝉時雨、ざわざわと歌う桜の木の枝、彼女の髪の香り、扇情的な紅い唇、凶暴なまでにたぎる欲情、甘く蕩ける身体……。連続ストロボのように次々と強烈な光景が甦っていく。
熱い、熱い、熱い、熱い。
誰か、僕を、止めてくれ。
ふと目を覚ます。部屋の温度が少し上がったのだろうか、クーラーがゴオォォンと鈍い音を立てて冷たい空気を吐き出し始めた。
鈍い頭痛を感じて僕は額を押さえた。額は冷たい汗でひどく濡れている。腕でその汗を拭い、僕はゆっくりと身体を起こした。体中が汗まみれだ。着替えなくてはならない。そう思い、立ち上がろうとして僕は下着の中の不快な、でも少し懐かしい感触に気がついた。
「……うぅぅ。勘弁してくれよ。情けない」
欲求不満の中学生のように僕は夢で果ててしまったらしい。
シャワーを浴びながら僕の頭の中をとりとめのない思いがぐるぐると巡る。
あの夢の中の女は誰なのだろう。何故、あんな夢を見るのだろう。妻と交わりがないから、欲求不満なのだろうか? いや、妻と一緒に暮らしていても、それほど頻繁に愛し合った事もない。子供が出来てからはどちらかというとセックスレスに近い生活だった。それでもこんな事はなかったのだ。第一、妻に対して、いやそれまでに付き合っていた彼女に対してもあんなに激しい欲望を抱いた事はない。
夢と言うにはあまりにも生々しい。女の身体の熱さや、肌に食い込む爪の鋭い痛み、何もかもが夢とは思えないほどリアルで鮮烈だった。まるで自分の脳に焼き付けられた強烈な記憶のようだ。
自分を侵食していく、得体の知れない甘い夢にいつの間にか僕は酔っていた。
秋になり、大きな商談が一つまとまった。分室上げてのささやかな祝いに皆でいつもの居酒屋に繰り出した。
無礼講のアットホームな宴会で、僕の隣にはまだ新人臭さの抜けない若い女子社員と、例のオバチャンが陣取っていた。僕を挟んで、女の子とオバチャンはテレビの話題で盛り上がっている。どうやら最近ブームのスピリチュアルとかなんとか言う話題らしい。
「前世ったって、アンタ、美人のオネエチャンだったとかならいいけどさ」
オバチャンはげらげら笑う。
「どっかの山奥のでぶでぶの禿げたオッサンでした! なんて言われたらショックだよ?」
「いやあ! それはいや!!」
女の子もケタケタ笑った。
「前世の記憶とか残ってたら面白いのにね。『前は確かこの城の、あの床下に埋蔵金を埋めたんじゃあ!』とか覚えてたらさ、掘り返して大金持ち!」
「ありえない、ありえないって」
二人は机をバンバン叩きながら大笑いしている。相当酔いが回っているらしい。ひとしきり笑った後、女の子が聞いてきた。
「所長は信じます? 前世って」
僕は苦笑いしながらビールを飲んだ。
「信じないよ。そんなもん、あるはずないと思うな。仮にあったとしてだよ、記憶に残る訳がない。人間の記憶のメカニズムは脳神経のネットワークなんだから。神経細胞の回路の中に電気信号として蓄積されるんだ。この世に存在しない脳の情報が、今の自分の脳に転送されるはずがない」
「わああああ、止めてぇ。難しい話を聞くと脳みそが溶けるぅ!」
オバチャンが笑いながら僕のグラスにビールを注いだ。グラスの中に踊る白い泡を見つめる僕の心に何かが、微かに引っかかっている。まるで指先のさかむけのよな、心の中の妙な違和感。自分の言葉にどこか納得していない自分がいるような気がした。一体この居心地の悪い思いはなんなのだろう……。
僕は全てを洗い流すために一気にビールを喉に流し込んだ。
夢の中で僕は彼女と何度も愛し合った。桜の木の下の時もあれば、どこかの寂れた宿の時もあった。彼女は抱かれながらいつも泣いていた。快楽の頂で我を失いながら流す涙はいつの間にか悲しい涙に変わっていた。
逢エナイ時ハ 切ナクテ 死ンデシマイソウダ
逢エバ ドウシヨウモナク オ前ガ 欲シクナル
逢エバ 逢ウホド オ前ガ モットモット 欲シクナル
苦シイ 苦シイ 苦シイ
イッソ コノママ 死ンデシマエタラ ドンナニ幸セダロウ
そんな言葉が頭の中を繰り返し巡る。それは僕の言葉なのか、それとも彼女の言葉なのか区別はつかない。彼女の想いと僕の想いが交じり合い、絡み合い、溶け合って、もう判別がつかなくなっているかのように……。快楽と苦悶、愉悦と悲哀、相反するものが一体となり、混沌とした底の見えない闇が僕たちを包み込む。
僕はどんどん壊れていく。それがわかっていながら、僕はそれを止められない。いや、どこかで自分が壊れていくことを望んでいる。そんな気がした。
雪が舞い始める頃、久しぶりに家に帰った。娘の姿はなく、妻だけが僕を待っていた。
「愛美はおばあちゃんのところよ」
妻は何かしら感情のこもらない声で僕にそう言った。
「大事な話があるの。座って」
僕は促されるまま食卓につく。夕食時だと言うのに、食卓の上には一枚の皿も並んでいない。
妻は僕の前に一枚の紙を静かに差し出した。離婚届だった。既に妻の判もついてある。僕は呆然と離婚届を見つめた。
「貴方の仕事にあわせられない私が悪いのかもしれない。でも、私も自分の仕事を大切に思っているし、それなりに責任のある地位にもいる。愛美は大きくなってきて、だいぶ手もかからなくなってきた。私一人、いえ、私の実家の協力もあるし、やっていけるわ。」
「いや、しかし! 俺達の都合だけで、そんな性急に離婚だなんて。愛美が、愛美が可哀想じゃないか! 俺は父親だよ?!」
思わず大声になる。あまりにも一方的だった。こんな理不尽な話はない。しかし、僕の言葉を聞いた妻の表情がいきなりキツくなる。
「何言ってるのよ! 貴方、愛美にどれだけの事をした? 同じように働いているのに、愛美が病気になって仕事休むのは私。毎日のお迎えだって、結局は私。残業で遅くなるからって、そんな理由、私だって同じなのよ! それでも途中で仕事を抜けて愛美を迎えに行ったのは私! 学校の用意だって、面倒臭い事は全部私!」
激しい口調でまくし立てられ、僕は言葉を失った。
「そ、そんな事、今さら」
「今さら? これからもそうなんでしょ?! この際だからはっきり言うけど、貴方は貴方が思っているほど、家庭に貢献してない。自己満足で愛美に関わってるだけ! あなたの中の家族は所詮ままごとレベルだわ」
僕は妻の言葉に愕然とした。彼女の言葉に僕は脳天をかち割られたような気がした。自己満足……。ままごとレベル……。そんな風に思われていたのか。
妻は大きな長い息を吐いた。怒りをなんとかして制御しようとしているようだった。
「ごめんなさい。言い過ぎた。でも、本音よ」
「……それはつまり、俺は居ても居なくても一緒って事、なのか?」
情けないまでに言葉が震える。泣き出しそうだった。妻はしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。
「ええ。つまりは、そう言う事」
僕の中で何かが完全に壊れた……。
「なあ、俺は一人になっちまったよ」
僕は桜の木を見上げた。桜は枯れ木のように寒々しい姿だった。駅前の商店街と外灯に照らされて、痛々しいまでに骨ばった枝が夜空に伸びている。
僕はごつごつした幹に背中を預けた。身体も心も寒い。暗い夜空を見上げる。星が見えるかと思ったが、分厚い重い雲に覆われている。
僕は身体の向きを変えると、桜の幹を抱きしめた。僕に残されたのはこの桜だけだ。冷たい幹に頬ずりをした。
「お前は、お前だけは俺の傍に居てくれるよな……」
僕の冷え切った頬を桜の幹がほんのりと温めてくれるような気がした。
「何もかも捨てて、お前と一緒になりたい」
夢の中で僕は女にそう言った。女の白い肩がぴくりと跳ね上がる。怯えたような顔で僕を見つめる。しばらくしてから、大きな溜息をついた。
「……そんな事、言うもんじゃないよ。出来やしない事は口にするモンじゃありません」
悲しそうな瞳だった。
「お内儀さんを捨てるなんて、出来る訳がないじゃあありませんか。それに……あたしだって、自分でどうこうできるような身分じゃないんですから」
女はゆっくりと身体を起こすと、腰の辺りまでずり落ちていた襦袢をゆっくりと引き上げた。胸元を整え、ほつれた髪を撫で付ける。
「……右を向いても、左を向いても、しがらみだらけ。どうしようもありませんよ。まとわりつくしがらみを断ち切ろうと思ったら……」
その先を言い澱み、女は黙り込む。
「断ち切ろうと思ったら? どうすればいい?」
「……言わぬが華ですよ、旦那」
投げやりな口調だった。寂しい、どうしようもなく寂しい。そんな思いが滲み出ているようだ。
僕は女の腕を掴むと荒々しく抱き寄せた。女は僅かに抵抗したが、すぐに自分から唇を寄せてきた。僕の唇を食い散らかすような勢いで、擦りつけ、噛み付き、吸い上げる。
「言わさないで下さいな。これ以上、あたしに言わさないで」
泣きじゃくる女の身体を僕はもう一度抱きしめた。
目が覚めると、見た事のない天井が視界に飛び込んできた。枕元のお洒落なスタンドからは柔らかいオレンジ色の灯り。僕の横には見た事のない若い女がネグリジェ姿で寝息を立てている。
僕は慌てて身体を起こした。ずきずきする頭で僕は自分の置かれている状況をなんとか理解しようと努力した。
じわじわと記憶が甦ってくる。
そうだ、会社の新年会の二次会でクラブに行ったのだ。この田舎町の中で一番高級と言われている店。もっとも東京に比べれば、足元にも及ばないのだが。週末で明日は休み、そしてれっきとしたバツイチの独り者である。少々羽目を外したところで、誰も文句は言わない。
店で人気ナンバーワンのホステスはまだ若くて可愛らしかったが、田舎のホステスらしくどこか垢抜けない娘だった。それでも一生懸命接客する姿が可愛らしくて、僕はついつい飲みすぎた。そして酔いにまかせて、生まれて初めて「お持ち帰り」をしてしまった。いや、お持ち帰りされてしまったというべきか。
ベロベロに酔っ払ってしまい、気がつけば娘のマンションに転がり込んでいた。娘とふざけあいながらベッドに入ったものの、彼女がシャワーを浴びている間に寝込んでしまったらしい。
僕は隣で眠る彼女を起こさないようにゆっくりと慎重に身体を捻ると、ベッドから出た。だらしなく乱れていた服装を静かに整える。
娘が小さく唸りながら目を開けた。
「……帰っちゃうの?」
「ごめん、起こしちゃったね。……すっかり飲みすぎた。本当にごめん」
「何もしないうちに帰っちゃうの~?」
鼻にかかった甘い声。僕は苦笑いを浮かべた。
「次は飲みすぎない状態で……」
「乞うご期待ってとこね」
彼女はくすっと笑った。
外に出ると、雪が降っていた。風もなく、ゆっくりと静かに、大きな雪の結晶が舞い降りてくる。真っ暗な深夜の街は静まり返り、全てが止まっていた。動いているのは音もなく降り続く雪だけ。
僕はぶるっと身震いをすると歩き始めた。
白い街灯が暗闇の中にポツリポツリと続いている。全く人通りはなく、僕の微かな足音が聞こえるだけ。その音も降り続く雪に吸い込まれてしまい、遠くへは響いて行かない。完全な静寂と孤独だけが僕の傍にいる。
どのくらい歩いたのか。気がつくといつもの桜の木の下に立っていた。闇の中でいつも僕を待っていてくれる。愛しい桜。花が咲いていようがいまいが、そんな事は関係なかった。
「結局ここに戻ってくるんだよ、いつも」
僕は桜に話しかけながら木の幹に触れる。冷え切った幹を手で温めてやりたかった。
雪が静かに降り続く。そろそろ道が白くなり始めていた。一向に止む気配はない。
「……積もるかな、今夜は」
なんだか今日は帰る気がしない。このままここで桜と一緒に過ごしたい。僕は桜の木の下に腰を下ろした。
上を見上げると僕を包み込むような桜の枝。そしてその向こうには重い雪雲が垂れ込めている。闇の奥から白い雪が僕に向かって迫ってくるようだ。ふわりと目眩がする。
「ああ、そうだ……」
この感覚は覚えがあった。春に桜が咲き乱れていた頃、下から見上げた感覚と一緒だった。際限なく降りかかる桃色の桜の花びら。切なくなるほど美しい零れ桜。
僕は目を閉じた。時々冷たい花びらが顔にゆっくりと触れては溶けていく。溶けた雪と涙が混じりあいながら頬を伝う……。
しんしんと降り積もる雪の中、僕は彼女と手に手を取って彷徨っていた。真っ暗な人気のない山道を、二人で黙って歩き続ける。時々つまづいてよろめく彼女の身体を支えながら、ひたすら歩く。腕の中の彼女の温もりと、白い息。もう随分長い間歩いていたので足の指には血が滲んでいた。しかし痛みを感じない。二人の足はもう感覚がないくらい冷え切っていた。
これと言って行く当てはない。しかしこれだけは判っていた。もう帰る場所はないのだ。それぞれの安住の地を捨てた今、この世に自分たちの居場所はない。
翠帳紅閨に
枕並べし閨の内
馴れし衾の夜すがらも
四つ門の跡夢もなし
さるにても我が夫の
秋より先に必ずと
あだし情の世を頼み
人を頼みの綱切れて
夜半の中戸も引き替へて
人目の関にせかれ行く
(近松門左衛門「冥途の飛脚」より)
そう、まるで梅川と忠兵衛の逃避行のように、僕たちは闇の中を歩き続けた。歩き続ける事だけが、二人で生きている証のようなものだった。
どれだけ歩いたのか、どのくらい歩いたのか。いつの間にか、桜の木の下に二人は座り込んでいた。何度も逢瀬を楽しんだこの桜。二人の思いを見つめ続けてくれたこの桜。結局ここしかないのだ。
もう歩けなかった。何も考えられないほど疲れていた。僕はぼんやりと暗闇を眺めていた。歩みを止めた以上、僕たちの道行もここまでだ。
彼女はぐったりと僕の胸に頭を預け、まどろんでいるようだ。血の気の引いた白い頬に僕はそっと触れてみた。冷たい頬だった。
彼女はゆっくりと目を開けた。
「夜が明ける……」
かすれた声。僕は彼女の髪に頬を摺り寄せた。
彼女の冷たい手が僕の手を握る。ゆっくりと手繰り寄せ、何度か自分の息を吹きかけてくれる。そして、そのまま自分の喉下へと導いた。
僕は身体の向きを変え、彼女と向かい合った。彼女の瞳は深く静かだった。瞳の中に降り続く雪が見える。いや、雪ではない。零れ桜だ……。
僕はゆっくりと白い首に両手をかけた。
「二人で桜になろう……」
彼女の頬に淡い微笑が浮かぶ。それを合図に僕は……。
僕は静かに目を開けた。夜は静かに明けようとしている。街はうっすらと白く染まっていた。僕の頭や肩にも白い雪が積もっていた。
手には女の首の感触が生々しく残っていた。そう、間違いなくこの手で彼女の命の灯火を消した。
「ああ……。そうだったのか」
僕は身をよじり桜の幹に頬を摺り寄せた。
僕はお前を手にかけた
すぐに逝くと約束したのに
僕はその約束を守れなかった
でも
お前はずっと待っていたのだね
僕がお前と一緒になる事を
二人して桜の花になる事を
ずっとずっと一人で待っていたのだね
穏やかで満たされた気分だった。身体は冷え切っていたが、少しも寒くはなかった。暖かな眠気が満ち潮のようにひたひたと足元から訪れる。
僕の意識はゆったりと夢と現の狭間をたゆたいながら、次第に水底へと沈もうとしていた。小さな波に揺すられる浮きのように、時々水面に顔を出しながら。
ああ、あの時と一緒だ。降り積む雪はいつしか桃色の花びらに変わっていた。零れ桜が雪のように僕に降りかかる。
僕の腕の中には彼女がいた。長い間ずっと僕を待っていたというのに、怒りもせず菩薩のような微笑を浮かべながら僕を見つめている。僕はゆっくりと彼女の膝の上に頭を預け、目を閉じた。女の指がそっと僕の髪を梳くのを感じながら、僕は穏やかな眠りに落ちた。
二人の上に桜の花が降りかかる……。
了
女の情念は恐ろしくも美しい……。桜の季節の怪談話を楽しんでいただけたでしょうか。