「真実の愛」を選んだ結果ですので、後悔されても困ります
王城の白い回廊は、いつもよりも静かだった。
絨毯を踏む靴音がやけに大きく響いて聞こえ、すれ違う侍女や近衛の視線が一瞬だけこちらに向けられては、すぐに伏せられるのを、気づかないふりをして歩き続けていたのだけれど、その沈黙が偶然ではないことくらい、さすがに分からないほど鈍くはないつもりだった。
「エルヴィナ、そこに立ってくれ」
名前を呼ばれ、立ち止まり、言われた通りの位置に立った。
視線を上げると、正面には王太子アレクシス殿下がいて、そのすぐ隣には、淡い色のドレスに身を包んだ公爵令嬢マレッタ様が立っていた。
彼女は私と目が合うと、まるで困ったように小さく微笑んでから、すぐに視線を逸らした。
「突然呼び出して悪かったな」
殿下はそう言いながら、私を見ているようで、実際には私の向こう側を見ているような視線をしていて、その時点で、今日ここに呼ばれた理由が、私の中でほぼ形を成してしまったのを、今さら否定する気は起きなかった。
「いいえ、殿下のお呼びでしたら、いつでも」
いつも通りの声でそう答え、胸の奥に広がりかけたざらつきを、ゆっくりと息と一緒に押し戻した。こういう場で声を乱すことが、何を壊すのかを、嫌というほど見てきたからだ。
「本題に入ろう」
殿下は一拍置いてから、私をまっすぐ見た。ようやく焦点が合ったその目には、迷いのようなものがあるはずだと、どこかで期待していたのだと思う。けれど、そこにあったのは決意で、それも、すでに誰かに背中を押され終えた後の、引き返さない種類のものだった。
「君との婚約を解消したい」
その言葉が口にされた瞬間、周囲の空気が、目に見えない布のように張りつめるのを感じた。息を呑む音が、誰のものか分からないまま、あちこちで小さく重なり、マレッタ様が殿下の袖を、きゅっと掴むのが視界の端に映った。
「理由を、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
自分の声が思ったよりも落ち着いていることに、少しだけ安堵しながら問いかけた。問いかけずに済ませることもできたが、問いかけることで、ここにいる全員が納得できる形にする必要があると、そう判断しただけだ。
「……心が、動いたんだ」
殿下は、まるでそれが、誰にとっても十分な答えであるかのように、そう言った。
「真実の愛を知った。マレッタを前にして、これまでの自分が、どれほど形式に縛られていたかを思い知らされた。彼女の涙や笑顔を守りたいと思った時、はっきりと分かったんだ。自分が、誰を選ぶべきなのかを」
マレッタ様は、その言葉を聞くと、少しだけ目を潤ませ、殿下の腕に寄り添った。その仕草は可憐で、庇護したくなるものだったのだろう。実際、殿下の表情は、彼女のその動き一つで、さらに柔らいだ。
「エルヴィナ、君には感謝している。これまで、よく支えてくれた。だが、それは……そうだな、君が悪いわけではない。ただ、私の心が、彼女を選んだ。それだけの話だ」
それだけの話、という言葉が、私の中で静かに反響した。長い時間をかけて積み上げてきたものが、ひとつの言葉で、軽く片づけられていく感覚に、胸の奥が少しだけ痛んだが、その痛みを、顔には出さなかった。
「承知いたしました」
そう答えた瞬間、殿下がわずかに目を見開いたのが分かった。おそらく、もっと感情的な反応を予想していたのだろう。泣くか、責めるか、取り乱すか、そのどれかを。けれど、ただ、次に続くべき言葉を、順に並べただけだった。
「正式な手続きにつきましては、後日、家同士で整えさせていただければと存じます。本日は、皆さまがお集まりの場でもありますので、これ以上お時間を取らせるのは控えたく思います」
「……そうか」
殿下は、少しだけ気まずそうに視線を逸らしたが、すぐに気を取り直したように、周囲へ向き直った。
「本件については、私の決断である。誰にも、余計な詮索や干渉は不要だ」
その言葉に、何人かが頷き、何人かが、わずかに表情を曇らせた。その違いを、黙って見ていた。誰が、どの段階で、どんな顔をしたのか。それを記憶しておくことは、今後の自分の立ち位置を見誤らないために、必要なことだったからだ。
◇
その場を辞した後、廊下の突き当たりにある小さな控え室に通され、一人で椅子に腰を下ろした。扉が閉まる音を聞いた途端、張りつめていたものが、少しだけ緩むのを感じたが、それでも、涙が出てくることはなかった。
「……心が動いた、ですか」
誰もいない室内で、小さく呟いた。その言葉を否定する気はない。人の心が移ろうことを、責めるつもりもない。ただ、その結果を引き受ける覚悟が、どこまで含まれているのかだけが、私には分からなかった。
これまで、多くの場で、殿下の隣に立ってきた。言葉を選び、視線を読み、誰かの不満が表に出る前に、話題を変え、空気を繋ぎ、場が崩れないように、ただそれだけを考えてきた。そのことを、殿下が知らなかったとは思わない。けれど、それを「形式」と呼ばれた以上、私が言えることは、もう何もなかった。
控え室の窓から見える庭では、変わらず噴水が水を上げていた。その音を聞きながら、ゆっくりと背筋を伸ばし、立ち上がった。ここで立ち止まる理由はない。終わったものは、終わったのだ。
扉を開けて廊下に出ると、先ほどとは違う視線が、いくつもこちらに向けられるのを感じた。哀れみ、同情、評価、計算、そのすべてが混ざった視線の中で、一人、歩き続けた。誰かに縋るつもりはないし、誰かを責めるつもりもない。ただ、自分がどこに立つべきかを、これから選び直すだけだ。
その時点では、まだ知らなかった。今日のこの一言が、どれほど多くのものを、静かに削り落としていくのかを。けれど少なくとも、自分が失ったものよりも、これから手放さずに済むものの方に、目を向けて歩き出していた。
◇
夜会の招待状が届いたのは、婚約解消が公に知られてから、そう日を置かない頃だった。差出人の名を見た瞬間、一度だけ指を止め、それから何事もなかったように封を切った。招かれなくなると思っていたわけではない。ただ、誰が、どの距離感で、どの席に私を置くつもりなのかを想像してしまっただけだ。
「エルヴィナ様、本日のドレスはこちらでよろしいでしょうか」
「ええ、それでお願いします。あまり目立たない色合いで」
侍女の問いかけにそう答えながら、鏡の中の自分を見つめた。派手さはないが、場に馴染み、誰かの邪魔にならない装い。それを選ぶことに、今さら疑問は感じなかった。今日は主役ではないし、主役になりたいとも思っていない。ただ、場が無事に流れること、それだけを考えればよかった。
◇
王城の大広間は、すでに多くの人で満ちていた。音楽と談笑が折り重なり、きらびやかな照明の下で、いつも通りの夜会が始まっているはずだったのに、私が足を踏み入れた瞬間、どこか空気が噛み合っていないことを、肌で感じ取ってしまった。
「……あら」
視線の先、中央に近い位置で、アレクシス殿下とマレッタ様が並んで立っていた。殿下はいつもより柔らかな表情を浮かべ、マレッタ様は彼の腕に軽く手を添えながら、周囲に微笑みを振りまいている。その姿自体は、何もおかしくない。ただ、その周囲にできているはずの輪が、妙に薄いのだ。
「ご機嫌よう、エルヴィナ様」
声をかけられ、振り返ると、顔見知りの侯爵夫人が立っていた。その視線は一瞬だけ、殿下たちの方へ向けられ、それから私に戻ってくる。
「今夜は、少し賑やかになりそうですわね」
「そうですね」
曖昧に微笑み、夫人の言葉の裏にあるものを、そのまま受け取った。賑やか、という言葉が、必ずしも楽しいことだけを指していないことくらい、分からないほど幼くはない。
◇
しばらくして、音楽が一区切りついた頃だった。
「……どうして、あの方があんな席にいるのですか」
その声は、広間のざわめきの中でも、妙にはっきりと耳に届いた。視線を向けると、マレッタ様が、不満を隠そうともせず、殿下の袖を掴んでいるのが見えた。
「あの席では、よく見えませんわ。せっかくの夜会なのに」
「マレッタ、今日はその配置で問題ないと……」
「嫌です」
その一言は、短く、けれど強かった。マレッタ様の目には、すでに薄く涙が滲んでいて、周囲の数人が、どう反応すべきか迷ったように視線を泳がせている。
「殿下の隣で、ちゃんと皆さまに見ていただきたいのです」
殿下は一瞬、周囲を見渡した。視線が交差した何人かが、何か言おうとして口を開きかけ、そして閉じる。その間に、マレッタ様の頬を、一筋の涙が伝った。
「……分かった、こちらへ来よう」
殿下はそう言って、用意されていた席を離れ、配置を変えるよう指示を出した。その動きに、楽団が一瞬、演奏を迷うほどの間が生まれ、場の流れが、目に見えて乱れた。
「殿下」
少し離れた位置から、年配の貴族が声をかけた。
「本日の席次は、あらかじめ……」
「彼女が嫌だと言っている」
殿下は、その言葉を遮るように言った。
「愛する者を、不快な思いにさせる必要はないだろう」
その瞬間、はっきりと、空気が冷えたのを感じた。言葉そのものではない。その言葉が放たれた向きと、切り捨てられたものの重さに、周囲が一斉に理解したからだ。
◇
少し距離を置いた位置から、その一連のやり取りを見ていた。胸の奥に、何かが引っかかるような感覚はあったが、それが怒りなのか、失望なのか、自分でも判断がつかなかった。ただ、確かなのは、今ここで声を上げるべき立場に、もういないということだった。
「……泣けば、通るのですね」
隣で、若い令嬢が小さく呟いた。その声には、羨望とも、呆れともつかない響きが混じっていた。
「さあ、どうでしょう」
そう答えながら、視線を逸らした。誰かがそう感じてしまう場を作ってしまった時点で、取り返しのつかないものが、すでに生まれている。
その後も、マレッタ様は些細なことで眉をひそめ、殿下はその度に足を止め、声をかけ、周囲の流れを止めた。贈答の話が出れば、彼女は首を傾げ、もっと華やかなものがいいと言い、話題が彼女の興味から外れれば、途端に表情を曇らせる。
「殿下、少しだけ……」
再び声をかけたのは、別の貴族だった。穏やかな口調だったが、その目は真剣だった。
「今は、多くの方が……」
「今は、彼女が大切だ」
殿下は、そう言い切った。
その瞬間、周囲の人々が、静かに一歩ずつ距離を取っていくのを、はっきりと見た。誰も声を荒らげない。誰も責めない。ただ、近づかなくなる。それだけだ。
◇
夜会が終盤に差しかかった頃、いくつかの挨拶を済ませ、出口へ向かって歩いていた。その途中で、ふと視線を感じ、振り返ると、殿下と目が合った。
一瞬だけ、彼の目に、戸惑いのようなものが浮かんだ気がした。けれど、それはすぐに消え、代わりに、彼はマレッタ様の方へ視線を戻した。彼女は、少し疲れた様子で、殿下の腕に寄りかかっている。
その光景を見て、ようやく、胸の奥にあった引っかかりの正体を理解した。選ぶこと自体は、悪いことではない。ただ、その選択が、どんな波紋を生むのかを見ようとしないまま、進んでしまったこと。それが、ここまでの空気を作っている。
そのまま、何も言わずに大広間を後にした。背中に向けられる視線の数が、以前よりも少し増えていることに、気づかないふりをしながら。
◇
その後しばらくの間、意識的に、王太子殿下の周囲から距離を取っていた。近づかないようにしていた、というより、気づけば近づく理由が見当たらなくなっていた、と言った方が正確かもしれない。以前であれば、自然と視線が合い、軽い会釈を交わし、そこから会話が始まるような場でも、今はその流れ自体が生まれない。
「最近、殿下のお姿をお見かけになる?」
昼の集まりで、隣に座った伯爵夫人が、声を潜めてそう尋ねてきた。問いかけの形はしているが、答えを求めているわけではないのだろうと、感じ取った。
「いいえ、あまり」
短く答えると、夫人は小さく息を吐き、視線を伏せた。
「そう……やはり、そうですのね」
それ以上、言葉は続かなかった。その沈黙の中に、どれほど多くの出来事が積み重なっているのかを、聞かずとも理解できてしまった。
◇
数日後、別の集まりで、久しぶりに殿下の姿を見かけた。以前なら人の輪の中心にいたはずのその位置には、今は少し空白があり、殿下はマレッタ様と二人きりで、どこか落ち着かない様子で立っていた。
「どうして、皆さん、あまりお話ししてくださらないのかしら」
マレッタ様の声が、私のいる位置まで届いてきた。彼女は不満を隠す様子もなく、首を傾げて殿下を見上げている。
「今日は、私、ちゃんと笑っているのに」
「気にすることはない」
殿下はそう答え、彼女の肩に手を置いた。
「彼らが遠慮しているだけだ。いずれ、慣れる」
その言葉に、思わず、目を伏せた。慣れるのは、人ではなく、距離の方だ。そう理解している者は、もう殿下のそばには残っていない。
◇
しばらくして、場の端で、殿下に声をかけようとしている人物が目に入った。かつて殿下の相談役のような立ち位置にいた年配の貴族で、その人は一度、深く息を吸い込んでから、ゆっくりと近づいていった。
「殿下、少しよろしいでしょうか」
「何だ」
殿下の返答は、短く、やや硬かった。
「最近の集まりで、少々、行き違いが増えているように見受けられます。皆、殿下を思ってのことですので……」
「また、その話か」
殿下は、はっきりと眉を寄せた。
「彼女が傷つくような言い方を、好まない。忠告のつもりかもしれないが、結果として誰かを不快にしているのなら、それは必要ない」
「しかし……」
「この話は終わりだ」
殿下はそう言って背を向け、マレッタ様の方へ歩いていった。残されたその貴族は、一瞬、言葉を失ったように立ち尽くし、それから、静かに頭を下げてその場を離れた。
その後、彼が殿下のそばに立つことは、二度となかった。
◇
その光景を、少し離れた場所から見ていた。胸の奥に、鈍い痛みのようなものが走ったが、それは未練ではない。かつて隣に立っていた者として、行く末が見えてしまったことへの、静かな諦めに近かった。
「……あの方も、もう近づかれませんわね」
隣にいた令嬢が、小さな声でそう言った。
「ええ」
短く答え、それ以上の言葉を足さなかった。誰かが去るたびに、殿下の周囲の空気は、少しずつ軽くなっていく。軽くなる、というより、何も引っかからなくなる、と言った方がいいのかもしれない。
その日の集まりが終わる頃には、殿下の周囲には、最初から最後まで残っていた者が、ほとんどいなくなっていた。挨拶だけを済ませて去る者、視線を合わせないまま距離を取る者、そのすべてが、声を荒らげることなく、同じ選択をしていた。
◇
帰りの馬車の中で、窓の外を眺めながら、ゆっくりと息を整えていた。かつて、自分が殿下の隣に立っていた時には、こうした場面の多くが、表に出る前に収まっていた。誰かが言葉を選び、誰かが間に入り、誰かが一歩引くことで、波立たずに済んでいた。
それが、今はない。
それだけの違いが、ここまでの変化を生むのだと、改めて実感していた。
馬車が屋敷の門をくぐる頃、ようやく視線を前に戻した。過去を振り返り続ける必要はない。けれど、見えてしまった流れから、目を逸らす理由もなかった。
殿下の周囲から、人がいなくなる。その過程は、誰かの悪意ではなく、ただ、聞かないという選択が積み重なった結果なのだと、静かに理解していた。
◇
それに気づいたのは、ある朝、執事が差し出した銀の盆の上が、いつもよりも軽かった時だった。封蝋の色も、紙の質も、見慣れたものばかりではあるのに、その数が、明らかに少ない。
「今日は、これだけですか」
思わずそう口にすると、執事は一瞬だけ言葉を選ぶように視線を落とし、それから静かに頷いた。
「はい。今週分としては、以上でございます」
「……分かりました」
それ以上は聞かなかった。聞かなくても、理由が想像できてしまうことを、わざわざ言葉にする必要はない。封筒の山を受け取り、机に並べながら、差がどこにあるのかを確かめるように、宛名を一つずつ目で追った。
以前なら、必ず届いていた名が、いくつも抜け落ちている。代わりに、控えめで、しかし堅実な家からの招待が、目立つようになっていた。
◇
数日後、久しぶりに開かれる大きな集まりに出席することになった。形式も規模も、誰もが知る場だ。そこに招かれるという事実自体が、立場を示すものでもある。
「エルヴィナ様、お久しぶりです」
会場に入って間もなく、声をかけられ、振り返ると、かつてよく顔を合わせていた方々が、自然な距離感で集まってきた。その様子に、内心で、少しだけ安堵していた。完全に切り離されたわけではない。ただ、流れが変わっただけだ。
やがて、会場の中央に視線が集まる瞬間が来た。アレクシス殿下とマレッタ様が入場したのだ。衣装も整い、並んで立つ姿は、確かに見映えがする。
けれど。
拍手は、短かった。音が揃わない。すぐにざわめきへと溶けていく。
「……あれ?」
誰かが、小さくそう呟いた。
殿下の前に、自然と人が集まらない。以前なら、言葉を交わすために列ができていたはずの位置に、今は、目に見える空白があった。視線は向けられるが、足は向かない。その距離が、何よりも雄弁だった。
◇
自分に割り当てられた席へ向かいながら、会場全体を見渡していた。人の流れは正直だ。誰がどこで立ち止まり、誰を避け、誰の元へ向かうのか、そのすべてが、言葉よりもはっきりと示している。
「エルヴィナ様、こちらへ」
声をかけられ、席に着くと、自然と会話が始まった。近況、天候、最近の出来事。どれも表向きは穏やかな話題だが、その合間合間に、視線が一度、殿下たちの方へ向けられる。
「……今日は、少し静かですわね」
「そうですね」
そう答え、杯に口をつけた。静か、という言葉が指しているのは、音の少なさではない。空白の多さだ。
◇
しばらくして、マレッタ様の声が、会場の端から響いた。
「どうして、皆さん、こちらにいらしてくださらないの?」
不安と苛立ちが混じったその声に、周囲の会話が、一瞬だけ途切れた。
「殿下、私、何か失礼なことをしましたか」
「そんなことはない」
殿下は即座に答えた。
「皆、遠慮しているだけだ。気にする必要はない」
「でも……」
マレッタ様は唇を噛み、目を潤ませた。
「こんなに人がいるのに、誰もお話ししてくれないなんて、私……」
その様子に、殿下は彼女の肩を抱き寄せ、優しく声をかけた。
「大丈夫だ。君は何も悪くない」
◇
祝宴のざわめきが落ち着き、次の祝辞を待つ静かな間が生まれた瞬間、マレッタ様は殿下の袖にそっと指を掛け、甘えるように身を寄せながら不安を訴えようと身を傾け、その視線の先に王家との通商交渉を一手に担い、今夜も正式な招待を受け祝辞を控えていたハルディン侯がいることを私が認識した、その刹那に、場の空気が張り詰めるのを感じた。
「殿下、少し怖いです、あの方がこちらを見ていらして、理由は分からないのですが胸がざわついてしまって」
その囁きは甘えた調子で、誰かを糾弾する意図など微塵も感じさせないものだったが、殿下は一拍の躊躇も見せずに背筋を伸ばし、楽団の音も給仕の足も止まるほどにはっきりとした声量で、祝宴の主賓の一人である侯の名を呼び、集まった全員の視線を一点に集めた。
「ハルディン侯、前へ出よ」
名を呼ばれた侯は一瞬、状況を測りかねた表情で周囲を見渡し、それでも正式な招待を受けた貴族として礼を執りながら進み出て、「殿下、いかがなさいましたか」と慎重に言葉を選び、祝宴の場に相応しい応答を崩さぬよう努めていたが、その姿勢自体がすでに、この場が本来想定されていない局面へ踏み込んだことを如実に示していた。
「貴殿は今宵、我が婚約者に不安を与えた、その理由を問う必要はない、彼女が恐怖を覚えたという事実だけで十分だ」
殿下の声は断定的で、確認も弁明も許さぬ響きを帯びており、侯が「そのような覚えはございません、祝宴の席で殿下のお姿を拝することが不敬に当たるのであれば謝罪いたしますが」と必死に秩序の中で説明しようとした言葉は途中で遮られ、その瞬間に、この場にいる誰もが理解した、これは注意でも誤解でもなく、公の叱責なのだと。
「言い逃れは不要だ、王太子の婚約者が不安を覚えた以上、その原因を作った者は咎を負う、それが理解できぬのであれば、貴殿が王家の場に立つ資格はない」
その言葉を受けた侯の顔から血の気が引き、怒りでも屈辱でもなく、取り返しのつかない何かを失ったと悟った表情に変わったのを、はっきりと見てしまい、同時に、この祝宴が、王太子への信頼を失う決定的な瞬間になったことを、否応なく理解させられた。
その一連のやり取りを見て、静かに目を伏せた。悪い、悪くない、という話ではない。ただ、そこに立つ人間が、どんな空気を生んでいるのか、それを受け取る側が、どう動くのか。その結果が、今、ここにある。
◇
会場の後半、何人かと挨拶を交わし、席を立った。廊下に出ると、少しだけ空気が軽くなる。
「……招待が減ったと、聞いていましたが」
並んで歩いていた令嬢が、ためらいがちに言った。
「減った、というより、選ばれる基準が変わったのだと思います」
そう答えた。誰かを避けるために招かないのではない。巻き込まれないために、距離を取る。それは、とても静かな判断だ。
ふと、背後から視線を感じ、振り返ると、殿下がこちらを見ていた。目が合ったのは、一瞬だけだ。その目には、戸惑いと、焦りと、まだ言葉にならない何かが浮かんでいた。
けれど、足を止めなかった。立ち止まって、何かを言う理由が、もう見当たらなかったからだ。
◇
夜が更け、屋敷へ戻る馬車の中で、今日一日の光景を、静かに思い返していた。招待状が来なくなる。人が集まらなくなる。声がかからなくなる。それらはすべて、突然起きるわけではない。小さな選択が積み重なり、ある日、はっきりと形になる。
今日のあの空白は、きっと、これからさらに広がっていく。
窓の外を流れる灯りを見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。そこに、安堵と寂しさが混じっていることを、否定するつもりはない。けれど、少なくとも、自分の足で立っている。
招待状が減ったのは、誰かのせいではない。ただ、場が、正直に反応しているだけだ。その事実を、もう、受け入れていた。
◇
その訪問があるだろうことを、どこかで予期していた。予期していたからといって、心の準備が整っていたわけではないし、来なければいいと願っていたわけでもない。ただ、いずれ向き合う場面だと理解していた、というだけの話だった。
「エルヴィナ様、王太子殿下がお見えです」
執事の声は、いつも通り落ち着いていたが、その一言が含む意味の重さは、屋敷の空気をわずかに変えるには十分だった。
「通してください」
そう答え、背筋を伸ばした。断る選択肢もなかったわけではないが、ここで避ける方が、余計な波紋を生むことは分かっていた。
◇
応接室に入ってきたアレクシス殿下は、以前よりも少しだけ疲れて見えた。衣服に乱れはなく、立ち居振る舞いも変わっていないはずなのに、どこか、中心が定まっていないような印象があった。
「久しぶりだな、エルヴィナ」
「お久しぶりでございます、殿下」
礼をし、向かいの席に腰を下ろした。距離は、形式としては近いが、以前のように自然に埋まるものではない。
「突然訪ねて、迷惑だっただろう」
「いいえ。ご用件をお聞かせください」
余計な前置きを省いた私の言葉に、殿下は一瞬、言葉を詰まらせたようだった。それから、小さく息を吐き、視線を落とす。
「……正直に話そう」
その声は、低く、どこか切迫していた。
「間違っていた」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、わずかにざわついた。謝罪の形としては、遅すぎるとも、違うとも言えない。ただ、続く言葉次第だと、思った。
「君がそばにいた頃、多くのことを当然だと思っていた。誰かが整えてくれる場、誰かが繋いでくれる関係、そのすべてが、君の存在によって保たれていたことに、今になって気づいた」
殿下は、私を見ていた。その視線は、縋るようでもあり、確認するようでもあった。
「最近になって……分かったんだ。君がどれほど、私を支えていたのかを」
その言葉を聞きながら、自分の中に生まれた感情を、慎重に見つめていた。嬉しさではない。怒りでもない。ただ、過去形で語られることへの、静かな違和感だった。
「それで」
私がそう促すと、殿下は、はっきりと口を開いた。
「戻ってきてほしい」
その一言は、真っ直ぐだった。迷いを振り払うように、殿下は続ける。
「君が必要だ。私には、君がいなければならない。今なら、以前とは違う形で、君を尊重できる。だから……」
彼の言葉が途切れる前に、静かに首を横に振った。
「殿下」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「そのお言葉は、今の私に向けられたものではありません」
「何だと?」
殿下の目が、わずかに見開かれた。
「殿下が必要としているのは、私個人ではなく、私が担っていた役割です。失われたものを取り戻したいというお気持ちは、理解できます。けれど、それは、私が戻る理由にはなりません」
言葉を選びながら、続けた。感情に任せれば、もっと強い言い方もできただろう。だが、それでは、この場の意味が変わってしまう。
「すでに、新しい縁談を受けております」
殿下の視線が鋭くなったのを感じながら、言葉を続けた。
「お相手は、アルノー公爵家の嫡男、セドリック様です」
その名を出した瞬間、殿下の表情が、わずかに固まった。知らない名ではない。知らないはずがない。王城に頻繁に姿を見せる方ではないが、軽く扱ってよい家でも、人でもない。
「家格についてご心配なさるのでしたら、不要です。私が不利になるような縁ではありません」
淡々とそう告げた。強調するつもりはなかった。ただ、事実を並べただけだ。
「最初に言葉を交わしたのは、婚約解消が公になった直後の夜会でした。皆が私を腫れ物のように扱う中で、あの方だけは、立場にも事情にも触れず、必要以上に近づくこともありませんでした」
あの夜の光景は、今でもはっきり覚えている。慰めの言葉も、探るような質問もなかった。ただ、こちらが話し出すまで、静かに待たれていた。
「困っているなら話してもいいが、無理に話す必要はない、と。そう言われただけです」
殿下は何も言わない。
「その後も、急かされることはありませんでした。助けるとも、支えるとも言われませんでした。ただ、私がどうしたいのかを、何度も確かめられただけです」
それが、どれほど久しぶりだったか。
「選ばれたのではありません。自分で選びました。あの方は、私に役割を求めず、代わりになろうともしなかった。その距離が、私には必要だったのです」
少しだけ間を置いて、はっきりと言った。
「王太子の婚約者であった私が選び直す縁として、家同士の条件に不足はありませんでしたし、周囲から異を唱えられることもありませんでした」
それが、答えだった。
その瞬間、殿下の表情が、はっきりと変わった。
「……何?」
「正式に、家同士の話も進んでおります。相手は、私を一人の人間として扱い、約束を重ねてくださる方です」
沈黙が落ちた。殿下は、しばらく私を見つめ、それから、苦いものを噛みしめるように、唇を歪めた。
「それは……私への当てつけか」
「いいえ」
即座に否定した。
「選択です」
その言葉を、はっきりと口にした瞬間、胸の奥で、何かが定まった気がした。
「殿下が選ばれた時、その結果を受け入れました。殿下もまた、ご自身の選択の結果を、受け入れるべきだと、思います」
殿下は、何か言い返そうとしたが、言葉が見つからない様子だった。やがて、力なく椅子に背を預ける。
「……真実の愛を選んだはずだった」
「ええ」
頷いた。
「『真実の愛』を選んだ結果ですので、後悔されても困ります」
その言葉は、強くも、冷たくもなかった。ただ、事実として、そこに置かれただけだった。
◇
殿下が去った後、応接室には、静けさが残った。深く息を吐き、背もたれに体を預けた。胸が苦しくないわけではない。けれど、揺らいではいなかった。
選ばれなかった過去と、選び直した現在、そのどちらにも、責任を持っている。それで十分だ。
窓の外では、庭の木々が、穏やかに揺れていた。その景色を見ながら、ようやく、前を向いて歩き出せる場所に立ったのだと、静かに実感していた。
◇
その知らせは、噂という形で広がるよりも先に、静かに確定したものとして届いた。誰かが大声で触れ回ったわけではない。けれど、朝の空気が、昨日までとは明らかに違っていたことで、その事実を察していた。
「エルヴィナ様」
執事が控えめに声をかけてくる。
「王城より、正式な通達がございました」
「……そう」
書簡を受け取り、ゆっくりと封を切った。文字を追う前から、何が書かれているのかは、ほぼ分かっていた。それでも、目を通さずに済ませるほど、無関心にはなれなかった。
そこに記されていたのは、簡潔な文面だった。長い説明や、誰かを糾弾する言葉は一切なく、ただ事実だけが整えられていたが、その行間には、これまで積み重ねられてきた判断の履歴が、切り捨てられた言葉として残っていた。
夜会や祝宴の場において、婚約者の感情を理由に、正式に招かれた者を名指しで叱責し、進行を止め、場の判断を覆す行為が繰り返され、その都度、是正も説明も行われなかったこと、それが周囲にとって予測不能な権限行使として受け取られ、王太子の判断そのものが信頼の前提を失ったと、簡潔に、しかし否定の余地なく示されていた。
ゆえに、王の名において、アレクシス殿下は王太子の位を解かれ、その責を負う形で、継承の列から外れる――そう、結論だけが記されていた。
書簡を閉じ、机の上に置いた。
「……そうですか」
それだけを呟き、深く息を吸った。胸の内に浮かんだのは、安堵でも、喜びでもない。静かな終わりを見届けた、という感覚に近かった。
◇
数日後、久しぶりに王城へ足を運んだ。私自身の用件ではなく、新たな婚約に関する形式的な報告のためだったが、その場に流れる空気は、以前とははっきり違っていた。
「エルヴィナ様、ご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
声をかけてくる人々の表情には、取り繕いの色がない。祝福は控えめだが、確かなものだった。
廊下を進む途中、かつて人の集まっていた場所が、妙に広く感じられる瞬間があった。誰も立ち止まらない。視線も、そこには留まらない。そこにあったはずの中心が、消えてしまったからだ。
◇
庭園で、セドリック様と合流した。彼は以前と変わらぬ穏やかな表情で、私に一礼する。
「お疲れではありませんか」
「いいえ。思ったより、静かでした」
私の言葉に、彼は小さく笑った。
「騒がしい場ほど、終わりは静かなものですから」
その言葉に、思わず、視線を上げた。
「……あの方があの地位を失ったことを、喜ぶべきなのでしょうか」
自分でも意外な問いだった。けれど、口にした瞬間、胸の内が少しだけ軽くなった。
「いいえ」
彼は即座に首を振った。
「喜ぶ必要はありませんし、背負う必要もありません。あれは、あなたの選択の結果ではなく、あの方自身の選択が積み重なった末の結論です」
その言葉を、ゆっくりと受け取った。
◇
帰路の馬車の中、窓の外を眺めながら、これまでの出来事を思い返していた。婚約を解かれた日、夜会で感じた違和感、人が離れていく様子、そして、戻ろうとする手を、静かに振り払ったあの時。
どれも、怒りや復讐で結ばれてはいない。ただ、選択と結果が、順に並んでいただけだ。
「……あなたは、何も言わないのですね」
ふと口にすると、セドリック様は、少し考えるようにしてから答えた。
「あなたが話したいことがある時は、聞きます。ただ、それ以外の時に、無理に言葉を差し出すつもりはありません」
その距離感が、私には心地よかった。
◇
後日、小さな祝宴が開かれた。派手ではないが、互いを知る者だけが集まる、穏やかな場だった。そこでは、誰も泣かなかったし、誰も声を荒らげなかった。ただ、笑顔と祝福が、自然に行き交っていた。
「エルヴィナ」
名前を呼ばれ、振り返る。
「これからは、望みを口にしてほしい。遠慮ではなく、あなた自身の言葉として」
一瞬、言葉に詰まったが、やがて、小さく頷いた。
「……努力します」
「努力で十分です」
その返事に、思わず微笑んだ。
◇
席を失った者がいて、祝福を得た者がいる。それは、誰かが奪ったからではない。選び続けた結果として、そこに残っただけだ。
夜が更け、静かに灯りが落ちていく中で、確信していた。もう、誰かの選択に耐える立場ではない。自分で選び、自分で歩く。
それでいい。
それだけで、十分だった。
完。
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