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第4話 狐の面と催眠おじさんーー光条の奔流と炎の扇刃

 学校へ行くなんて、馬鹿げていると思った。


 姉があの異形の姿を晒してから、もう五日が過ぎていた。首筋を指でなぞれば、薄い痣が鈍く疼く。灯莉の指がぬるりと這い、優しくも確実に私の首を締め上げた感触が、皮膚の下に染みついている。夢の中でも繰り返される。あの冷たい唇が耳をくすぐり、甘く囁く。「ずっと一緒にいようね、母衣炉」


 それでも、アルフィスは言った。「普通に生活しろ。逃げたら、向こうの思う壺だ」と。

 だから、今日からは学校へも普通に通う。制服の袖を通す指が震えるのを、歯を食いしばって隠した。電車に揺られながら、窓に映る自分の顔は他人だった。他の女子たちよりは短めに、ボーイッシュに刈った髪も、今日はただの寝癖のように乱れている。クラスメイトの視線が針のように刺さる。「風邪」とだけ答え、席に沈んだ。黒板の文字は、姉の神格化した瞳のように歪み、黄金の渦を巻いて私を嘲笑うように思えた。なんというか、その、私は重症だ。


 放課後、帰宅の足取りは重かった。だが、家に帰らなければ、灯莉に「逃げた」と悟られる。それだけが怖かった。玄関の鍵を回すとき、息を殺した。


 家の中は静かだった。静かすぎて、耳鳴りがするほどだ。


「……母衣炉、おかえり」


 リビングから、灯莉の声がした。いつもの優しい姉の声に、しかし粘つく蜜のような響きが混じる。ソファに腰かけた灯莉は、膝の上で両手を揃え、穏やかに微笑んでいた。だが目は違う。黄金に輝く二つの神格が、交互に瞬き、まるで深海の魚の鱗のように妖しく光を反射している。


「色々考えたんだけどさ」


 灯莉が立ち上がる。水を満たした瓶の中を泳ぐように、ゆっくりと近づいてくる。


「母衣炉をずっとそばに置いておきたいの。そのために……両足の骨を折っておこうかなって」


 言葉の意味を理解するまで少し時間がかかった。意味不明だったから。一応、理解した次の瞬間、背筋を氷の刃が走った。


「大丈夫、魔法で痛みは消せるから」


 私はポケットの中でスマホを握りしめた。親指だけで側面のボタンを素早く──七回、八回、九回。灯莉の視線が私の顔に注がれているのを確認しながら、連打する。これはアルフィスが用意したステルヴィアとの連絡手段。こうすることで無音のアプリが起動され、位置情報とSOSが即座に共有される。

灯莉は気づいていない。微笑みを崩さず、指を伸ばし続ける。

 アルフィスは「俺じゃないかもしれないけど、その時点で動けるメンバーが最速で助けに行く」って言ってたけど、よく考えたら一番近いと思われるアルフィスだって20分くらいはかかるんじゃないのか?意味ないのでは?


「早く終わらせようね、母衣炉」 


 ──指先が、肌に触れようとしたその刹那。


 部屋の空気が、雷鳴のごとく裂けた。


 灯莉は何かを察知したかのように、後ろへと大きく跳んだ。黄金の瞳が警戒に染まる。


 空間が歪み、闇が渦を巻く。


 そこから現れたのは、黒い着物の小柄な影。


 内側から赤い長襦袢が血のように妖しく覗き、白い狐面が冷たい月光を反射して不気味に輝く。長い黒髪が夜風を纏い、嵐のように靡いた。


 彼女は静かに、しかし圧倒的な存在感で私の前に立ち塞がった。


「遅くなってごめんね、母衣炉ちゃん」


 ゆっくりと右手を掲げ、閉じられた鉄扇を強く握る。


 灯莉の視線が、そのまだ閉じたままの赤い扇に釘付けになった。黄金の瞳がわずかに揺れ、眉間に深い皺が刻まれる。


「……その赤い扇、何か嫌な感じする」


 呟く声に、本能的な嫌悪と、遠い記憶の残滓のような動揺が混じる。神格化した姉が、初めて「脅威」を感じ取った瞬間だった。


 そして一閃──


 扇が開く音が、雷鳴を凌ぐ轟音となって部屋全体を震わせた。


 赤い扇面が紅蓮の業火のように爆ぜ、火柱をたてがみのように逆立たせる。彼女が再び扇を振るうと、鋭い金属の咆哮を上げた。


「紅蓮獅子──グレンジシ」


 低く、甘く、しかし絶対零度の冷気を孕んだ声で、彼女は武器の名を告げた。


──その威圧感は、神格化した灯莉でさえ一瞬息を呑んだ。


 扇を思い切り振り抜くと、無数の火柱が走る。それぞれ独立した命を得たかのように震え、紅い残光が尾を引いて閃いた。


 そして、静かに、しかし絶対の宣言のように──


「この炎の刃が神格を焼き尽くす」


「私はステルヴィアのマジェミノ。覚悟はいいね、お姉さん」


 灯莉の表情が、初めて凍りついた。


 灯莉の瞳が細くなる。明らかに動揺が走った。人間界の対神格組織の名を、初めて真正面から突きつけられたのだ。これまで、足元に這う蟻程度にしか思っていなかった存在が、突然彼女に牙を剥いた。


「ステル……ヴィア?」


 唇がわずかに震える。しかし、それは恐怖ではなく、計画の外に現れた異物に対する、静かな苛立ちであった。


 戦闘は、音もなく始まった。


 灯莉が先手を取る。黄金の光条が二筋、交差しながらマジェミノを貫こうと襲う。上位世界の理を歪めた純粋な破壊の奔流。


 マジェミノは動かない。ただ鉄扇を軽く掲げただけ。扇の骨がそれぞれ独立し、小刀のように分離して飛翔する。七本の刃が優美な弧を描き、光条を迎撃。衝突の火花が散り、屈折した光が壁に深い傷を刻んだ。


 灯莉は次弾を放つ。空間そのものを折り畳み、神格の力が黒い渦を巻く。部屋の空気が鉛のように重くなり、家具が悲鳴を上げる。マジェミノは扇を閉じ、地面を蹴った。小柄な身体が残像を残して横滑りし、渦の縁を紙一重で掠め、灯莉の懐に潜り込む。


 鉄扇の骨が再び分離する。近距離での連続刺突。七本の小刀が、それぞれ異なる律動で灯莉を襲う。灯莉は指先を軽く振るだけで、光の膜を展開して防ぐが、一本がかすめて袖を裂き、黄金の糸のような布片が舞った。


 灯莉の反撃。神格の瞳が輝き、無数の黄金の鎖が虚空から生まれ、マジェミノを絡め取ろうとする。鎖は生き物のようにうねり、逃げ道を塞ぐ。


 マジェミノは扇の小刀を連続投擲。鎖の輪の中を通し、壁や天井に括り付ける。括り付けられた鎖はそれ以上伸びず、動きを封じられる。マジェミノはずっと舞い続けているのに、息は乱れない。むしろ、動きに鋭い艶が増す一方だ。


「この神格、めっちゃ強くない?」


 マジェミノの声は、戦いの最中でも楽しげだ。私を庇いながらでも、余裕がある。


 私は壁際に退きながら、思わず口走った。


「姉には……2つの神格が入ってるんです」


 マジェミノの動きが、一瞬だけ止まる。


「2つ?!」


 驚きの声が漏れる。狐面の下で、明らかに目を見開いた気配。だが、すぐに甘い笑いに変わる。


「うんうん、それはなんとも辛辣だね。アルフ、報告漏れ多すぎ!あとで説教だ」


「ねえ、何の話? 私にも分かるように話してくれない?」


 拮抗。二人の力は、まるで鏡に映ったように均衡を保っていた。


 そんな中、マジェミノが突然、私の方を振り返った。


「ちょっと失礼するね、母衣炉ちゃん」


 次の瞬間、腕を掴まれ、背後から抱きすくめられる形に。頬に鉄扇の冷たい感触。


 灯莉の顔が、初めて明確に揺らぐ。穏やかな微笑が崩れ、瞳に焦りが宿る。


「母衣炉を……放しなさい」


 声は穏やかだが、底に震えが走る。妹を神格化し、永遠に愛でたい灯莉にとって、これは唯一の急所。


「お姉さん、そんなに妹さんが大事なら、この子の顔に傷一つでもつけたら、どうなるかなあ」


 灯莉が動けない。神格の力が暴走しそうになりながら、それを必死で抑えている。


「人間ごときが……愛らしい母衣炉の顔に何を、ですって…」


 その隙に、マジェミノは私を抱えたまま後退した。


「母衣炉ちゃん、目を閉じてて」


「なんで?!」


「ネタバレしたくないから」


 言われた通りに目を閉じた。世界が歪む。足元が消え、風が肌を撫でるような感覚に包まれる。


 次に目を開けたとき、そこは見慣れない和室だった。


 畳の匂いが優しく立ち上り、障子越しに月明かりが淡く差し込む。布団が一組、丁寧に畳まれている。


「……ここ、どこ?」


 マジェミノは狐面を外さず、座卓に腰を下ろしていた。


「安全なところ。とりあえず今夜はここで寝て。明日の昼にでも、アルフィスを迎えに寄越すから」


 マジェミノの声は若く、私と同世代か、少し上程度に思える。面の下の顔は見えないが、艶やかな黒髪は息を呑むほどの美しさだ。姉とは違う、妖しく深い魅力。でも、腹黒そうだ、いや、絶対に腹黒い。私を人質にするなんて。それでも、妙に惹きつけられてしまうほどの魔性があった。


 朝が来て、昼近くになった頃、建物を出た。そこは滝山公園倉庫だった。前の道は見覚えがある。ということは、少し歩けば味覇の看板が見えてくるはずだ。店に近づくほどに、中華の匂いが漂ってくる。だが、店内から漏れる声に足が止まった。


 壁に身体をぴったりと寄せ、空いた窓から覗く。


 カウンターにアルフィス。向かいにマジェミノ。店内には二人だけ。マジェミノは狐面を外しているようだったが、ほとんど後頭部しか見えない。


「……中華屋の営業が終わったら送信ボタンを押したIPアドレスを辿って助けにいくつもりだったんだよ。そしたら向こうから訪ねてきたんだ、同じこと何回言わせんだよ」


アルフィスの声は疲れを滲ませている。


「それじゃ手遅れかもしれないよね?ってことを何回も私は言ってるの。もう一度聞くね? 母衣炉ちゃんがテキストボックスから私たちステルヴィアにメッセージを送信してからアルフが動くまでに何時間かかりましたか」


 マジェミノの喋り方は、昨日の印象通り、どことなく姉に似ていた。時々横顔が垣間見えると、その美貌にドキッとした。


「みんながみんな、お前みたいに一瞬で移動できるわけじゃないだろ。……昨日はマジでありがとな」


「大切なのは初動なの。私を見習いなさい。ノーナ、すっごい怒ってたよ」


「それはマズいな……何か懲罰もあったりするかな?」


私は息を潜めた。


「さあね。……でもさ、あの子、本当に運がいいよね」


「アイツはすごいぜ。肝が据わってる。この店にも暗号を解読してたどり着いたわけだしな」


「ああ、あの頭の悪そうな」


「それに運だけじゃない。……母衣炉は心機愛擁を会得してる」


アルフィスが声を低くして告げる。心機愛擁? それは何だ?


「……! 心機愛擁って精神防御系で最高峰のはずでしょ? 会得してるのはステルヴィアでもノーナくらいのはず。隠し持ってる人はいるかもしれないけど」


「お前はどうなんだ?」


「さあね」


会話が続く。心臓が早鐘のように鳴る。


「精神防御を逆手に取ればどんな洗脳術や催眠にも応用できるから、『扱うものは心に於いて中つを保ち、え~と……云々………』とにかく秘中の秘とされてきたはずだよね。どうやってそれを」


「それは分からない」


「しかもどうやって確かめたの」


「本当に暗示や洗脳、催眠の類が効かないのか試してみた。そしたら瞳に紋様が浮かび上がったんだ。俺はノーナが心機愛擁を発動させるのを見たことがあるんだが、それと同じだった。俺は詳しいんだ」


「……女子高生相手に催眠術を?」


「う、うん。……やっぱまずかったかな」


「催眠おじさんじゃん。普通にキモいから案件として上にあげときまーす。これこそ懲罰案件待ったなし」


「待て待て!」


 思わず吹き出しそうになった。アルフィスが慌てふためく。赤毛がツンツン跳ねている。


「なーんて冗談。まじでキモいと思ってるけど、これは秘匿されるべき案件だよ。心機愛擁が使えるならそれは間違いなく神格棺に対する切り札になる」


「そうだ」


「でも切り札は手元にあるだけじゃ意味がない。『そのとき』に使えるようにしておかないとね」


「……ノーナにだけは報告しておくか」


「そうだね。神格棺は放っておけない。……それと神格棺の破壊について相談なんだけど」


「破壊についての相談?」


「破壊するときは綺麗に真っ二つにして欲しいの。復元可能な程度に」


「復元? なんのフラグだ? そりゃ」


「綺麗に、真っ二つに、できるよね? サ・イ・ミ・ン・お・じ・さ・ん」


 マジェミノの声が、甘く圧をかける。


「お、おう。みんなに言いふらさないでくれよ?」


「かつてMr.ファーレンハイトと呼ばれた男も形無しだねー。元・英雄さん」


「よせよ」


「私もう帰るね。ご飯代は催眠おじさんにでもツケておいて。母衣炉ちゃんにもまた遊びにくるって伝えておいて」


「おい!……ってもう居ねぇ」


 カウンターにあったマジェミノの姿は、もうどこにもなかった。


 私は壁から離れ、深呼吸した。


 味覇の扉を、そっと開ける。


 アルフィスが振り返る。赤毛が、いつものようにツンツンしていた。


「……よお、これから迎えに行こうと思ってたところだ。よく店の場所が分かったな。って、この前近辺を探索してたんだっけ。腹減っただろ?なんか食えよ」


「朝食にオススメのメニューもあるんですか?」

 

 私は、なんとか笑った。


 姉の影は、まだ背後に濃く潜んでいる。眩い閃光を放ちながら戦う姉の狂気じみた顔を思い出すと身震いする。あんなものをまともに受けたらひとたまりもないだろう。だが、ステルヴィアのマジェミノは神格とも互角以上に戦ってみせた。神格に対抗できる力が欲しい、母衣炉は心の中でそう強く願いはじめていた。

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