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第3話 鉄鍋隻腕ダッシュ ーー中華飯店味覇の熱き一皿

 暗号の糸口を掴んだ夜から、私の頭の中は「みずりゅうやましろしめしや」の文字列で嵐のように渦巻いていた。ベッドに横たわりながら、地図アプリを起動する。八王子市近郊を拡大し、「水竜山」と入力。検索結果——何も出てこない。山の名前、地名、観光地、どれも虚空を指すだけだ。


「……水竜山なんてないじゃん」


 落胆が胸を鉛のように重くした。昨日の発見が、砂のように崩れていく。ステルヴィアの支部なんて、幻だったのか。スマホを放り投げ、枕に顔を埋める。疲労が波のように押し寄せ、涙がにじむ。姉の声が、耳に残る。「もうすぐよ、私たち本当の姉妹に……」


 いや、諦めない。もう少し、考えてみよう。暗号なんだから、ストレートじゃないはず。みずりゅうやま——水竜山。漢字で分解してみる? 水、竜、山。


 ふと、視線が自室のノートに落ちた。あの焦げ茶の本革の手帳。ページをめくる。そこに、懐かしいメモがあった。


【漢字の読み方がわからない時は、部首に分けてみて。意味を予測できるし、調べやすくなるよ。←お姉ちゃんのアドバイス】


 それは、数年前の出来事。難しい漢字の読み方がわからず、姉に相談した時。姉は答えを直接教えてくれず、笑いながら言った。「部首に分けてごらん。へんとかつくりとか。パズルみたいでしょ?」


 あの時の姉の優しい笑顔が、脳裏に浮かぶ。今の姉とは正反対の、温かな記憶。胸が少し痛むけど——それが、閃きを呼んだ。


「さんずい……水が、さんずい?」


 稲妻のように走った。


「さんずい + 竜 = 滝!

確か滝山公園ってあったよね?昔家族で行ったことがあるはず。 滝山! 水竜山じゃなくて、滝山! これだ、これだわ!」


 私はベッドから跳ね起きた。スマホを掴み、「滝山 八王子」と入力。ヒットした——都立滝山公園・滝山城址。八王子市近郊の史跡だ。地図を見ると、バスや自転車で行けそうな距離。


 興奮が爆発した。部屋の中で小さくジャンプし、拳を握りしめる。睡眠不足だけど、頰が熱い、目が輝いてる——鏡を見なくてもわかる。


「お姉ちゃんのアドバイスが、こんなところで役立つなんて……ふふ、ありがとう、お姉ちゃん!お姉ちゃんの体だってきっと取り戻せる!」


 爽快感が体中を駆け巡り、疲労を吹き飛ばした。痛快だ——謎解きの達成感が、こんなに気持ちいいなんて。でも、残りの「しろしめしや」が気になる。しろしめしや……言葉の響きが古文みたい。しろしめし+や、で区切ってみてはどうか。しろしめし…基本形はしろしめす、では?古語で「領ろし召す」は、偉い人が領地を治める、みたいな意味を持つ。や……哉かな?領ろし召し哉?


「領ろし召し哉——城を領ろし召す、領主が治める場所?今は領主なんていないはずだから、かつて治めていた場所。滝山城址は 城の跡地! ぴったり!」


 さらに興奮が加速した。古文読解みたいに攻めて、正解に辿り着いたわ! 滝山城址——これしかない、私天才!


 意気揚々と準備を始める。財布、交通ICカード、ノート。外は晴れてるけど、念のためレインコート。姉の部屋から声が聞こえないか耳を澄ます——静か。よし、今のうち。心の中で「いってきます」無事を祈念し、外へ出る。


 家を飛び出し、バス停へ。程なくしてやってきたバスで丹木町方面へ。道中、地図アプリでルートを確認すると、丹木町3丁目で降りるのが良さそうだ。都立滝山公園、滝山城址——広大な公園で、城跡を散策できる観光地。ここにステルヴィアの支部が潜伏しているはずだ。


 到着した公園は、緑豊かで静か。ところどころに石が積まれている。かつては石垣として使われていたものの名残だろう。歴史の匂いがする。でも、目的は支部探し。丸一日、くまなく歩き回った。森の小道、展望台、石碑の周辺——怪しい場所を探すが、何も見つからない。看板、ベンチ、土産物屋——どれも普通。疲れが積もり、足が棒になる。


「ない……何もないわ。まさか、間違った?」


 意気消沈して帰路につく。元来た道を辿って。夕暮れの道、ぐーっとお腹が大きく鳴った。丸一日、何も食べてない。美味しそうな匂いが漂いつい引き寄せられる。目の前に、古びた中華料理店が現れた。軒先ののれんには中華飯店味覇八王子店[ちゅうかはんてんみ〜は〜はちおうじてん]とあった。


「いらっしゃい! 好きな席にどうぞ!」


 厨房の奥から、若い男が元気に挨拶してきた。店内は長年の油で床がべとつき、神棚の隣にブラウン管テレビを改造して無理やりデジタル対応させたものが置いてある。清掃や整頓は行き届いてないけど、どこか懐かしい、活気のある雰囲気。厨房からは、鉄鍋の音が響き、香ばしい煙が立ち上る。


「今テイクアウト用のチャーハン作ってんだ。少し待っててくれ。水はセルフで頼むぜー」


 20代後半の年嵩に見えるその男は隻腕だった。バンダナの下から覗く髪の毛は赤く、右頰には傷跡があった。Tシャツの袖が空っぽに揺れ、でも笑顔は明るく、鉄鍋を振るう姿は職人そのものだ。片腕でテキパキと具材を調理し、大きな鉄鍋を回す技は、まるでダンスのショーを見ているようだった。


 テーブルに置かれていたメニューを見る。

ラーメンチャーハンハルマキテンシンギョーザ、ギョーザ!数量限定ギョーザの文字が目に止まる。


「お待たせ。ご注文はお決まりですか?」


「あの、これ、1日10個限定ギョーザっていうのは?」


「お、ギョーザか! オススメだぜ。1皿5個入りで、本店でも人気のメニューだ」


「1日10個は少なすぎませんか? 10皿じゃなくて、10個なんですよね? 2皿分…?」


「ああ、まあな。……見ての通りオレは片腕しか無い。だから手作りのギョーザっていうのは、どうしても、な。でも、美味いぜ。自信ある!中華味覇の名にかけてな!」


「あっ、その…ごめんなさい。無神経でした。」


「気にすんな! 無いものは無いんだからな。まだ10個あるけど、食べてみるかい?」


「いただきます! じゃあ、10個全部ください!それとルースーチャーハンもお願いします」


「よっしゃ! ちょっと待ってな。鉄鍋で焼くから、熱々だぜ!」


 運ばれてきたギョーザとチャーハンは、母衣炉史上最高の中華だった。皮はパリッと黄金色に焼き目がつき、中はジューシーで肉汁が噴き出す。鉄鍋の熱気が、香ばしさを倍増させる。一口ごとに幸せが広がる。満足感で頰が緩む。


 ——まるで、冒険の途中で見つけた宝物みたい。最後の一個を口に入れようとした時、店の電話が鳴った。


 男が受話器を取る。


「こちら中華飯店味覇。あー、どうもいつもお世話になってます。あー、前にご予約いただいてた町内会の集まりですよね。え、今日なんですか?!来週って言ってましたよね?!伝え間違い?!チャーハン10人前とギョーザ50個を今から?!…… いや、そりゃ美味いのは知ってますけども。少し遅くなってもいいから?あー、えーと」


男が困った顔でこっちを見る。男の額には汗が浮かんでいる。


「私、手伝いましょうか?」


母衣炉が自分自身を指差して電話中の男に伝えると、男の目が輝いた。


「分かりました。中華味覇の名にかけて!」


 電話を終えた男が駆け寄ってくる。


「サンキュー!本当に助かるぜ!俺はアルフィス。アルフィス・サウスだ」


「アルフィス・サウスさん?外国の方だったんですか?日本語上手ですね。私は宵沢母衣炉といいます」


「母衣炉!よろしくな母衣炉!俺には日本人のじいさんがいるんだ。だから見た目ではあんまり分からないよな」


「急いで作りましょう、私は何をしたら?」


「 じゃあ、ダッシュで材料買いに行ってきてくれ! 俺はその間に、ギョーザの皮とチャーハンを作る。キャベツと豚挽肉、ニラ、ニンニク!野菜は 近くのスーパーでいい!走れば5分だ! 頼んだぜ!」


 私は店を飛び出し、全力疾走する。スーパーで材料を掻き集め、息を切らしながらも精肉店へ。肉屋にはあらかじめアルフィスが連絡をしてくれていたため、受け取るだけで済んだ。


「買ってきました」


「おかえり!思ったより早かったな」


 店に戻るとアルフィスが隻腕で長い棒状に伸ばされたギョーザの皮の生地を一個分ごとに切っていた。私は包丁を握り、言われた通りに野菜を刻み、餡を混ぜる、詰める——片腕の男の技がすごい。左手だけで皮を回し、素早くひだを寄せる。続けざまにチャーハンを炒め始める。鍋が鳴り、油が跳ね、厨房の中はまるで戦場だった。


「母衣炉も鉄鍋回してみろ!」


「え?私?!」


 鉄鍋を振る——重い! でも、アルフィスのアドバイスでコツを掴む。チャーハンが空中を舞い、火が噴き上がる。笑い声が飛び交い、汗が飛び散る。失敗して材料を落としたり、男が「熱っちぃ!」と叫んだり——時さえ忘れて熱中した。


 2人で協力し、何とか作りきった。町内会の人が受け取りに来て、大喜び。「お兄さん、日付間違えてごめんね!本当助かったよ!ところでそのお嬢ちゃんは?バイトさん雇ったのかい?」


アルフィスが息を吐き、笑う。


「俺の一番弟子です!」


 町内会の人が帰ると、アルフィスはジョッキから泡が溢れまくったビールで、私にはオレンジジュースで乾杯した。久しぶりに温かい気持ちになる。日中冒険の失敗を忘れさせてくれる、楽しい時間。鉄鍋の熱気が、まだ体に残っている。


「ところで、母衣炉はこの近くの子じゃないよな?今日はこんなところまで来て一人で何してたんだ?」


「滝山城址に行ってたんです。あ、そうだアルフィスさん、『みずりゅうやましろしめしや』って知ってますか?」


 アルフィスは口に含んでいたビールを噴き出した。口の周りにはサンタクロースの髭のように泡が付いていて、それを拭うと、真剣な表情で私の顔を見つめた。


「お前、それをどこで?というか、まさか…。お前、神格化について何か困っているのか?」


「神格化について何か知っているんですか?」


「ああ、知っている。だが、もしかすると母衣炉、お前の方が詳しいかもしれない。俺は神格棺を見たことがないからな。お前はどうだ?」


「見たことが、あります」


 アルフィスの表情は真剣を通り越して深刻になった。全身から気迫、殺気のようなものまで放っているように感じられた。二人の間に緊張が走る。


「お前がステルヴィアのホームページに神格化と打ち込んで送信したんだな?」


 私は慎重に頷いた。


「お前は……神格なのか?」


「違います。…といっても、証明できるものは何もありませんが」


「……いや、お前は神格じゃないな。今、確かめた」


「え?…えっ?!今のやりとりの中でどうやって?」


「簡単な暗示術を試した。お前が神格なら嘘をつけなくする、自白の暗示だ」


「アルフィス、あなたは一体何者なの?」


「お前が探してやまない、STELVIAの一員だよ。…しかし、非常に珍しいケースだ。察するに、お前の身近な人間が神格化されたんだよな?」


「…お姉ちゃんが、お姉ちゃんが」


 思いが溢れてきて、うまくアルフィスに伝えることが出来ない。それとともに、少し安堵す気持ちもあって、涙が止まらなかった。思えばこの数日間、誰ともまともな会話が出来ていなかった。


「…こわかっただろう。心中を察するのにも余りあるが、俺たちステルヴィアは神格の敵で、お前の味方だ。確認だが、母衣炉の家はもう安全では無いんだな?」


「両親も姉に暗示をかけられています」


「お前には暗示は効かなかったんだな」


「多分私、あまのじゃくなんです。命令とかされるのが嫌いで。神格棺が姉を洗脳するときの言葉も私は嫌でイヤで。気持ち悪いというか反骨というか」


「なるほどな…。…………?!……いやいやいやいやまてまてまてまってくれ!お前、神格の儀式の言葉なんてどうやって聞いたんだ!?」


「あー、なんか片足踏み入れちゃってたみたいで」


「おかしい。お前は絶対おかしい」


「そんな急に突き放さないでください。私どうしたらいいんですか?」


「そうだな、お前は…」


「私は?」


「今日は家に帰れ」


「は?……いや、それはおかしくないですか?話聞いてました?ニホンゴワカリマスカー?」


「母衣炉、お前には洗脳も暗示も効かない。そんなメンタル最強の奴が神格のすぐそばにいてその動向を探れる。これはステルヴィアにとっても千載一遇のチャンスなんだ。神格棺の出現場所やそのタイミングは誰にも分からない。今も世界中で被害者が増え続けている。そんな中、お前は自分の力だけでステルヴィアの存在に気付き、滝山 城 址 飯屋(たきやま しろ し めしや)の暗号も解読してここまで来た。お前は世界最高のスパイだ。エージェントだ。やってくれるな?」


アルフィスは最高にいい笑顔に白い歯を輝かせ、サムズアップまで決めてこちらの返事を伺う。


「…いや、そんなイケイケな感じに言われても無理ですよ?」


「ダメか…」


先ほどのアルフィスが言い放った暗号の答えに何か違和感を覚えた。文節が違うし、読み方も違うような。


「…ん?たきやま しろし めしや?

滝山 城 址 飯屋ってこと?」


「しかし、よく解読できたよな。あの暗号を解読できたのはお前が初めてだ。しろしなんて難しい言葉も知ってて、母衣炉は頭がいいぜ」


「あの、滝山城址の読み方はたきやまじょうしですよ?」


「何ぃ?!じょーし?しろしじゃないのか?」


「想定していた解答が間違ってたから、誰も解けなかったのでは?」


「ニホンゴ…カンジ…ムズカーシ」


言葉が通じないフリをして誤魔化し通そうとするのは外国人の専売特許だ。


「まあ、わかりました。家には帰りますけど、あなたとの連絡手段が欲しいです。あと定期的にここに来ます」


「おう!いつでも来いよ」


 アルフィスの連絡先を入手して、ここに来るまでよりは少し軽い足取りで家に帰る母衣炉。


 家に着くと、玄関先には姉と、家の角を曲がってすぐに住む姉の幼馴染の安場美沙[やすば みさ]が待ち構えていた。


「おかえり、母衣炉。どこに行ってたの? ずっと外で待ってたんだよ……ふふ、寂しかったわ」


 姉の声は甘く、ねっとりと耳に絡みつく。


「何……やってるの?」


 私は息を飲んだ。ミサちゃんが姉の膝に頭を載せ、仰向けに横たわっている。息が荒く、頰が紅潮し、目は虚ろに潤んでいる。姉の細い指がミサちゃんの唇を優しく割り、長く伸ばした舌を摘み、ゆっくりと引き出す。舌は姉の指に絡みつき、糸を引くように濡れ光り、ミサちゃんの喉から甘い吐息が漏れる。姉の指が舌を転がし、撫で、弄ぶ——それは、禁断の果実を味わうような、残酷で淫らな仕草だった。


「ああ、これ? しなびかけた花の蜜を吸ってるみたいでしょ? 美味しいのよ」


 姉は舌をさらに引き伸ばし、ミサちゃんの体がびくんと震える。ミサちゃんの唇から、抑えきれないような喘ぎが零れ落ちる。


「何やってるの……って、聞いてるんだけど?」


 恐怖と、奇妙な熱が混ざり、体が震える。怒りと嫌悪が胸を焼くのに、視線が離せない。姉の指が舌を優しく捏ねる様子が、妖しく魅惑的だ。


「魂を、少しだけ頂いてるの。ふふ、温かくて、甘いわ」


 姉の瞳が金色に妖しく輝き、ミサちゃんの体がくねるように反応する。


「魂? ミサちゃんは……無事なの?」


「んー、どうかしら。人間の体って、肉体に精神、魂に活力……ほかにも色々あるけど……その全部が絡み合って、美味しいスープみたいに混ざってるの。だから、魂を吸うと、他のものも少しずつ零れ落ちちゃうかも。このまま続けていたら、ミサはもうミサじゃなくなっちゃうわね。でも、魂と一緒にカロリーも吸えるから、ちょっとダイエットになるかしら? なんちゃって」


 姉の指が舌を深く押し込み、ミサちゃんの喉がごくりと動き、甘い声が漏れる。エロティックで残酷な光景が、私の心を蝕み、吐き気と熱いざわめきを同時に呼び起こす。


「まともじゃないよ……お姉ちゃん」


「ふふ、我が妹にそんなこと言われるなんて、ちょっと傷つくわね。でも、母衣炉も帰ってきたし、今日はここまで。ね?」


 言い終えると同時に、姉はミサちゃんの腕を、ゆっくりと、しかし確実に本来曲がらない方向へ捻った。ガクッという鈍い音が響き、家の壁に反響する。ミサちゃんの体が弓なりに反り、胸が強調され、息が乱れる。一瞬の痛みが、快楽の余韻のように体を震わせ、甘い喘ぎが零れる。痛みで意識がはっきりしたようで、ミサちゃんは立ち上がる。


「お、折ったの?なんで?!」


「んーん、脱臼させただけよ。一瞬、熱い痛みが走ったかもだけど、すぐに優しい魔法で消してあげたわ。ほら、大丈夫でしょ?」


 姉の指が、ミサちゃんの唇を優しくなぞる。ミサちゃんの目が、恍惚に潤む。


「魔法? もう、訳がわからない……」


「戸惑う母衣炉も、可愛いわ。大丈夫よ、私とずっと、ずっと一緒だから」


 姉の言葉が、なんだか頼もしく、魅惑的に感じてしまうのは、神格の影響だろうか。体が熱くなり、姉の視線が肌を這うように感じる。


「……あ、ミサ。もう帰っていいわ。また私が呼んだら、どこにいても、何をしてても、すぐに来てね?」


「うん……わかった。またね、トーリちゃん……」


 半分夢心地、恍惚とした表情で姉を見つめていたミサちゃんは、カバンを持って帰ろうとする。体がふらつき、唇がまだ濡れ、頰が紅潮したまま。


「私、送っていくよ」


 私が一歩踏み出そうとすると、後ろから姉が抱きついてきた。姉の胸が背中に密着し、熱い息が首筋にかかる。甘い匂いが鼻をくすぐり、体が震える。


「だーめ。暗いし、家に入りましょう? ね?」


「すぐそこだけど、ミサちゃんが心配だよ」


 ミサちゃんはその間にフラフラな足取りで去ってしまう。姉を振りほどこうとするが、少しも動かない。姉の腕が腰を締めつけ、柔らかな感触が伝わる。


「抵抗するなら……歩けなくなるように、足の骨、折っちゃうかもよ?」


 甘く、耳元で囁く。息が熱く、唇が触れそう。恐怖で体が勝手に大人しくなってしまった。素直に家に入ると、姉はそれ以上干渉してこなかった。


 自室に籠り、鍵をかける。机に向かい、ノートを開いた。この数日間に起きたことを時系列で書き出す。姉の変化、神格棺、暗示状態、ステルヴィアの情報、暗号の解読——すべてを記す。疲れがドッと押し寄せてきて、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。


「ギャアアアア!」


 鳥の鳴き声のような大きな音で目を覚ます。まだ夜中の1時半だった。電気をつけっぱなしで寝ていたことに気づく。


「痛い! 腕、折れてる!」


 続いて聞こえたのは人間の声。女性の声。聞き覚えのある、しかも最近聞いたばかりのような——


「ミサちゃんの声!」


 部屋を飛び出そうとするが、ドアの外には姉がいた。今度は正面から抱きつかれる。思いっきり体当たりしたつもりだったが、やはりビクともしない。姉の体が密着し、柔らかな曲線と熱い体温が伝わる。


「こんな時間にどこに行くの? 絶対ダメよ、母衣炉」


「ミサちゃんが! ミサちゃんが!」


「魔法が切れちゃったみたいね。でも大丈夫、悲鳴が聞こえてすぐに救急車呼んだわ。救急車最速RTA、なんちゃって」


 姉の唇が耳に触れそうなくらい近く、甘い息が混じる。体が熱くなる。


「そういう問題じゃない! 離して! ミサちゃん!」


「もう、困った妹ね。そんなに言うことを聞かないなら、無理矢理にでも聞かせるしかないわ。今ここに神格棺を呼び出して、あなたを金縛りにして動けなくしちゃおうか?」


姉は右手を空にかざす。手のひらから眩く輝く光の輪のようなものが宙に浮かび、姉の肌を妖しく照らす。


「嘘?! やめて」


「言うことを聞かない母衣炉が悪いんだよ? ふふ、こんなに震えて、可愛いわ」


 姉の指が、私の頰を優しく撫でる。触れられた部分が熱く、甘く疼く。


「やだ! それだけは! こ、怖い……怖いよ」


 思わず涙がこぼれてしまった。弱いところは見せたくないが、恐怖が勝る。体が震え、姉の腕の中で力が抜ける。


「なーんてね、うそよ。怖かった? ごめんね〜。泣いて怯えてる母衣炉、可哀想で……でも、ちょっと興奮しちゃうわ」


 急に大声で笑い出す姉。笑いながら、私の涙を指で拭い、唇に近づける——その仕草が、優しくて残酷で、淫靡だ。


「何? 怒ったり笑ったり、意味不明だよ…」


「だってさ、ちょっと考えれば分かりそうなものじゃない? そんな簡単に呼び出せるなら、母衣炉もとっくに私のものになってるでしょう?」


 腰が抜けて立てない。姉の腕が支えるように抱きしめ、熱い体温が伝わる。


「次の神格棺の召喚が、本当に楽しみだわ。母衣炉を神格化して、私の本当の妹に出来るのだから。それに、私、気になってることあるのっ」


 今度は無邪気な少女のように微笑み、唇が耳に触れる。


「な、何?」


「なぜあなたには暗示が効かないのか、だよっ。気づいてないかもだけど、私、何百、何千ってあなたに暗示をかけてるの。でもどれも効かないわ。神格化したら……あ、いや、神格化する前の洗脳の段からでも、あなたが身動きできなくなった瞬間から、頭も体の中も全部、優しくめちゃくちゃにして、確かめてあげるね」


 姉の言葉が、甘い毒のように体に染み込む。恐怖と、禁断の魅惑が混ざり、心を蝕む。


 救急車のサイレンの音が遠くから近づいてくるのが分かった。


 私は拳を強く握りしめたが、ただそれだけだった。秘密結社のステルヴィアに、アルフィス・サウス。かすかな希望はあるにせよ、対抗手段は、今のところない。

 


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