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第2話 水竜山領ろし召し哉ーーみずりゅうやましろしめしや

 姉の神格化という恐ろしい出来事から一夜が明け、朝が来た。


「なんてことだ。一睡も出来ずにもう朝か……」


 全く眠れなかった母衣炉は、布団の中で何度も昨夜の光景を反芻していた。金色の触手が姉の肢体を這い回り、姉が嬌声を上げながら自我を溶かされていく様子。あの黒い棺が閉じる轟音は、断末魔のように耳の奥で反響し続け、眠りを許さなかった。


 階段を下りる足取りは重く、まるで体に鉛を流し込まれたようだった。リビングに入ると、そこには超然とした佇まいの姉が座っていた。金環の瞳は朝の柔らかな光を浴びて妖しく輝き、唇には穏やかだが底知れぬ微笑みが浮かんでいる。両親はそんな姉を恭しく眺め、朝食を運び、茶を注ぎ、まるで古の王に仕える臣下のように振る舞っていた。この家に、自分の居場所はもうないのかもしれない。


 姉はゆっくりと顔を上げ、母衣炉を見た。


「おはよう、母衣炉。昨晩は楽しかったね」


 母衣炉は返事をせず、姉から最も遠い対角線の席に座った。心臓が早鐘のように鳴る。


 姉は穏やかに、しかし荘厳な響きを帯びた声で語り始めた。


「あのね、母衣炉。私たち——上位世界の神々が、ようやくこの下賤な人間の住まう次元に降臨する時が来たの。この人間界は、歪んだ位相に閉じ込められた牢獄に過ぎない。わかる? 私たちはそれを解き放ち、上位世界と人間界を同一の次元に重ねるの。神々が直接足を踏み入れ、人間どもを統べる、真の秩序の世を築くのよ。人間は神の足下に跪き、神の意志に身を委ねる。これこそが、人間にとっての永遠の安寧であり、至上の喜びというもの。そうは思わない?」


 言葉は優しく包み込むようだったが、その内容は世界の終わりを告げる冷たい預言だった。両親は目を輝かせ、深く頷く。母は「灯莉の言う通りね」と呟き、父は「素晴らしい世界が来るんだ」と感嘆の息を漏らした。


「……どうして、それを私に話すの?」


 母衣炉の声は震えていた。


 姉は微笑みを深くした。


「母衣炉にはその資格があるからだよ」


「資格?」


「適応力とも言えるかな。神格をその身に宿すことの出来る器量の大きさ。例えばこいつらには、その資格がない」


 姉は両親を顎で指し示し、見下すように言った。かつての親孝行で優しい姉からは想像もつかない、冷徹な仕草だった。


「私にはそんな資格なんてないよ。もしあったとしても、要らない」


「資格という言い方が悪かったね。あのね、母衣炉。これは力ある者の義務だよ。手伝ってほしいこともあるしね」


「手伝わない。私は」


 姉の瞳がわずかに細められた。


「邪魔者を探してほしいの。小賢しい人間の秘密結社があってね。そいつらが何度か、神格棺の召喚と神格化の儀式を妨げてきたの」


「シンカクカンって、昨日の黒いやつのこと? 神格化したお姉ちゃんは、もう宵沢灯莉じゃなくなってしまったの?」


 姉はくすりと笑った。


「興味を持ってくれるのは嬉しいけど、少しお喋りが過ぎたみたいね。あなたはまだ私と対等ではないわ。神格化したこの宵沢灯莉に質問する権利なんてないのよ。私と同じになったら、その時には存分に語らいましょ?」


 母衣炉は耳慣れない言葉を、心の中で何度も反復した。上位世界、シンカクカン、ショーカン、神格化——今はどんな些細な情報も、聞き逃せない。


 朝食をそそくさと口に運び、リビングから逃げるように部屋に戻るふりをして、母衣炉は階段の影に身を潜めた。両親は姉の言葉を繰り返し、まるで暗示にかかったように頷き続けている。


 胸の内で呟く。


「これは……暗示状態とでもいうのかな。姉の言うことを少しも疑わない。でも、姉ほど深く染まってはいない。暗示状態、今思いついたけどぴったりね。姉の周りは、いや、私の周り全体が、もうおかしくなってるのかもしれない。」


 姉の影響は、少なくとも三ヶ月前から及んでいたはずだ。神格化された姉の言葉は、容易く人心を掌握する。生活圏全体が、安全とは言えなくなっている。


 母衣炉は自室に鍵をかけ、パソコンに向かった。無駄な抵抗かもしれないが、対抗策を探すしかない。姉を元に戻す方法を、インターネットに縋るしかなかった。


 丸一日、食事も取らずに検索を続けた。オカルトサイト、裏SNS、陰謀論のフォーラム、ディープウェブの片隅まで。「神格化」「上位世界」「神格棺」——どんなキーワードでも、核心に触れる情報は出てこない。目がしょぼつき、肩が凝り、胃が痛む。それでも手を止められない。


 夜が更け、画面の青白い光だけが部屋を照らす頃、ようやく辿り着いたのは、何の変哲もない——いや、何もないホームページだった。インターネット黎明期を思わせる、HTMLだけのシングルページ。リンクもなく、スクロールさえできない。背景は灰色一色、古いserif体のフォントで時代遅れの静けさを湛えている。中央にテキストボックスと送信ボタン。上部に、ただ一文。「あなたのお困りごとは?」


何の装飾もなく、白い箱と青いボタンだけ。まるで、忘れられた井戸の底から響く水音のように、静かに待ち構えていた。


「私が知りたいのは神格化のこと。だから、この三文字を入力してみるしかない。それは頭では分かってる。でも、もし反応がなかったら? このサイトがどう動くかなんて、わからないのに」


 少し間を置いて、母衣炉は震える指でキーボードを叩いた。


神格化


 クリック。画面が一瞬暗転し、別の画面に遷移しようとしていた。一体どのような画面が映し出されるのか、期待と不安が入れ交じり心臓の鼓動が跳ね上がる。禁断の扉を押し開くような緊張が、体を駆け巡った。


「これだ……」


 ページが現れた瞬間、霧が晴れるような解放感が胸に広がった。静かなカタルシスが、体を優しく満たす。


 次のページは、予想外に詳細だった。神格化のメカニズムが淡々と綴られる。神格棺のイメージ図——そして、説明だ。棺のような形状で、歪んだ次元から唐突に現れる物体。発生場所は予測困難。上位世界にある非常に硬い物質で造られており、破壊は困難。位相外錯誤異物の一つ。位相外錯誤異物は上位世界の神々が人間界を征服するために送り込んでくる兵器。神格棺は人間を挟み込み、神格を憑依させる。宿主は神の器となり、世界を支配する為の道具に変わる。


「神格棺……あれはやっぱり棺で、……お姉ちゃんは、神格化されたんだ。二つ目の神格まで宿して、上位世界と人間界を重ねるための道具に? そんなの、絶対に許さない。」


 一番下までスクロールすると、気になる文字列があった。STELVIA。


 さらに調べると、姉が言っていた秘密結社の存在を知る。


「ステルヴィア——上位世界の脅威から人間界を守る国際組織。昨日までの私なら笑い飛ばしてたけど、今は信じるしかない。」


 信憑性はわからないが、日本支部が八王子近郊にあるという情報も。明確な住所はないが、謎めいた投稿が目に入った。「困ったときには"みずりゅうやましろしめしや"まで」


 母衣炉は独り言を漏らす。


「みずりゅうやましろしめしや……何よ、これ。暗号? 八王子近郊の支部を示すヒントだって思っていいのかな。みずりゅう……水龍? やま……山? しろしめし……白示し? や……哉?…古文的な感じ?水竜山なんて聞いたことないけど」


 頭を抱え、言葉を分解し、組み合わせる。 疲労が積もり、目が痛むのに、思考は止まらない。この暗号が、唯一の頼みの綱だ。


 夜の闇が深まる中、母衣炉は画面を睨み続けた。隣の部屋から、姉の声が聞こえてくる気がした。


「もうすぐよ、私たち本当の姉妹になれるわ。ね、母衣炉?」


 母衣炉は息を潜め、決意を新たにした。


「水竜山……領ろし召し哉、かも。どんなに信憑性が低くても、追うしかない。お姉ちゃんを、家族を救うために」


 混沌の渦は、ますます深く彼女を飲み込もうとしていた。


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