第1話 黒き棺の聖餐――姉に宿りし金色の神格
【折々に色彩を放つ花々も、花ひらく前にその花の色は決まっている。土壌や気候などの諸条件により色が変わることがあるにせよ、羽根を持たない花の種は大地に産み落とされるばかりであり、芽を出す場所を選べない。自らが欲する色の花をつけることはない。】
宵沢母衣炉[よいざわ ほろろ]は、いつものようにノートを開いてボールペンで記した。焦茶の本革が覆うその手帳は、アンティークな玄関ドアのような風格を湛え、表面の細かな金具が時代を感じさせる。ページの端は擦り切れ、彼女はたくさん書き込みたいがために、一つの罫線に二行を詰め込むようにして使っていた。彼女は慣れた手つきでペンを走らせ、彼女はこのちっぽけだが極端でとてもネガティヴな着想を書き留めたのだった。書き終えて、母衣炉はペンを置き、深くため息を吐いた。吐息は白く、冷たい部屋の空気に溶けていった。
東京都八王子市に住む十七歳の母衣炉は、都立中央高校の二年生で、毎朝JR横浜線で学校に通う。彼女の家は八王子駅からバスで十五分ほどの住宅街にあり、父、母、姉の四人家族だ。父は地元の製造業で中間管理職、母は近所のスーパーのパート。姉の宵沢灯莉[よいざわ とうり]は十九歳、明陽大学医療技術学部看護学科に通う大学生で、家族の自慢の娘だった。だが、母衣炉にとって姉はただの圧力でしかなかった。姉は母衣炉の私物を勝手に使い、ノートの独白を盗み読み、嘲笑う。喧嘩になれば家族は必ず姉の味方をする。「姉妹なんだから我慢しなさい」「灯莉は忙しいのよ」——その言葉が、母衣炉の心を削り続けてきた。姉との不仲が顕著になったのは3ヶ月ほど前からだった。子どもの頃から、親切心も多少含まれたおせっかいや意地悪で喧嘩することはあったが、最近の姉の言動や行動は逸脱しており、大げんかが絶えなかった。
2ヶ月前、最大の大げんかをした夜。母衣炉は我慢の限界を超え、声を震わせて吐き捨てた。
「アンタみたいなのを褒める奴もみんな大概おかしいから!」
姉は一瞬、目を細め、唇の端だけで不気味に笑った。
「私はね、神格化されてるんだよ」
その瞬間、姉の瞳が金色に光って見えた。冗談とも本気ともつかない低い声と、底知れぬ笑顔に、母衣炉は背筋が凍り、何も言い返せなかった。あの時の姉の言葉が、今も耳に残っている。家族には姉に謝るように強く勧められ、現在に至るまで居心地が悪かった。この家に自分の居場所なんてない。最近は家族に対してネガティブなことばかり考えてしまう——しかし、あの時の姉の表情は一体なんだったのだろう。何か得体の知れないものの一端を垣間見た気がしてならない。まるで、姉の中に何か別のものが潜んでいるかのようだった。
ある夜、母衣炉はいつものようにノートに思いを綴っていた。
【家族は選べない呪い。姉がいなければ、もっと幸せなのに】
書き終えた瞬間、胸の奥に鋭い棘が刺さった。本当に困ったことがあれば本気で助けてくれる姉の真剣な顔、私に何か嬉しいことがあったときには自分のことのように喜んだ姉の笑顔、そんな思い出の数々が脳裏をよぎり、罪悪感が一気に噴き上がる。これは違う、こんなこと書いてはいけない。母衣炉は慌ててボールペンを握り直し、その一行を何度も何度も往復も重ね塗りした。黒いインクが紙に染み込み、文字はぐちゃぐちゃの塊へと変わる。それでもまだ透けて見えそうで、さらに激しく塗り潰し、紙が薄く裂けそうになるまでペンを走らせた。最後に、塗り潰された文字の上に小さく、「……ごめん」とだけ、震える手で書き添えた。 外は雨が降り、窓を叩く音が孤独を強調する。姉の部屋から漏れる明かりがいつもより明るいが、気に留めなかった。
しかし、深夜二時頃、奇妙な音がした。低い唸り声のようなもの。母衣炉はそっと部屋を出て、姉の部屋のドアに耳を寄せた。隙間から金色の光が漏れている。好奇心と不安が混じり、ドアを少し開けた。
部屋の中央に、巨大な黒い棺のようなものが浮いていた。高さは2メートルを超え、深さは腕の長さほど。大人でもすっぽり入る大きさだ。黒いインキを何度も塗り重ねたように真っ黒で、内側からプラズマのような強く眩い光を放っている。周囲の空気が歪み、棺は床から少し浮いているように見えた。超常現象というほかなかった。そのとき、雷にでも打たれたかのように母衣炉の全身を駆け巡るものがあった。それは欲望を満たしたいという気持ちとそれを抑えようとする理性だった。しかし両者は拮抗せず、一瞬のうちに欲求が脳を支配していき無力感に苛まれる。脳と体から力が抜けていく感覚を覚えた。
「これは…原罪…?私は今何を感じているの……」
母衣炉は思わず呟いた。その姿を見た瞬間、母衣炉の胸に、何か人間が逆らえないように思える罪の意識が湧き上がった。生まれながらの咎のような重みが、その棺から受ける印象だった。
棺は左右に分かれていて、左側にある全体の三分の一程度の厚みのものが蓋、右側のしっかりした箱が本体のようだった。姉を挟み込む位置で静止し、青緑にも金色にも輝く幾何学的な閃光を放っていた。見えない磁界のような力で姉の動きを制限している。
姉の体は、すでに光の檻の中にあった。
姉は棺の前に跪き、汗で濡れた薄いキャミソールが体に張り付き、胸の曲線を強調していた。息が荒く、唇を噛みしめ、頰が紅潮している。苦痛と恍惚が絡み合う、淫靡な絵画のようだった。
「だめ……来ないで……シンカクッ……! シンカク来ないでぇっ……!一つでも…!大きすぎてぇっ…!苦しいの…!二つ目なんて無理ぃ…!」
姉の声が震えて響く。
——シンカク。その言葉を聞いた瞬間、母衣炉の記憶が鮮やかに蘇った。2ヶ月前の大喧嘩で、姉が不気味に笑いながら呟いた「私はね、神格化されてるんだよ」という台詞。あの時の金色に輝くような瞳と重なるこの叫び——シンカクとは、神格化された存在に入り込んだ神のような存在、神格なのではないか。きっと、その神格が姉を蝕んでいるのだ。母衣炉の心臓が激しく鼓動し、冷たい汗が背を伝う。急激な姉の変化は、3ヶ月以上前から始まっていたのかもしれない。
その時、右側の棺本体から、金色の光が噴き出した。最初は霧のように柔らかく、次第に無数の触手へと形を変える。ぬるぬると蠢く光の腕が姉の体に絡みつく。姉は必死に抵抗し、手を振り払おうとするが、磁界に縛られた体は思うように動かないようで、抵抗は無意味だった。触手は肌を滑るように姉の肢体をまさぐり始める。首筋から鎖骨へ、ゆっくり撫で下ろし、胸の膨らみを優しく包み込むように弄ぶ。乳房全体を柔らかく揉みしだき、形を変えるように這い回る。別の触手は太ももを執拗になぞり、絡みつき、内腿の柔らかい肉をゆっくりと這い回る。姉の体がびくんと震え、吐息が漏れる。
それはまるで、聖餐を捧げる聖職者の手のようであった。
それはまるで、神への供物を確かめるようであった。
「やめて……触らないで……あっ、あっ……」
だが、神格は姉の心に直接囁きかける。声は低く甘く、脳のシワひとつひとつに染み込んでいく。
「人間は、神の支配を受け入れよ。それこそ至上の喜びなり。汝の体を神に捧げよ。永遠の充足を得るべし」
母衣炉は棺の作り出す磁界のような空間に、ドアを開けた拍子に足の指先だけがわずかに侵入していたことに気づいた。それが原因で、神格の言葉が姉だけでなく、母衣炉の頭にも響いてくる。神格の言葉は何かの教典のように荘厳で威厳を保ちながらも脳を刺激するような甘い快楽を含んでいて、母衣炉の体に奇妙な熱を呼び起こすが、彼女は権威を嫌う性質で、荘厳な響きを持つ洗脳の言葉に対して内なるカウンターが働き、吐き気のような拒絶反応を呼び起こしたようだ。必死に耐えながら、姉の様子を見守る。
触手はさらに大胆になり、胸の膨らみを執拗に包み、優しく圧迫するように弄び続ける。背中を這い上がり、肩から腕へ。太ももを這い回る触手は、内腿を震わせ、姉の抵抗を弱める。
「あっ、あっ……だめ……そんな……あっ、あっ……」
神格の声は、荘厳な聖句となって降り注ぐ。
「なんでも言うことを聞け。それが汝の運命なり。神の器として、永遠の喜びを得よ。汝は選ばれし者なり。一つ目の神格を受け入れし如く、二つ目、即ち我を迎えよ。抵抗は無益なり。快楽を感じよ。この圧倒的なまでの、強者による支配を」
姉の人格は必死に抵抗する。
「あっ、あっ……いや……やめて……あっ、あっ……」
だが、神格の言葉は厳格で力強く、快楽は更に甘みを増して、脳がそれを欲して病まないかのように流れ込んでいく。姉は徐々に精神的にも抵抗できなくなっていく。姉の目は虚ろになり、唇から甘い喘ぎがこぼれる。
「あっ、あっ……いや……でも……気持ち……いい……支配……あっ、あっ……人間は、神の支配を受け入れます……それが至上の喜びです……」
神格の言葉が繰り返され、洗脳のように深く入り込む。姉の瞳が揺らぎ、涙と恍惚が混じり合う。その時姉は人間としての尊厳などカケラも感じさせない恥ずかしい表情を見せていた。
「神の意志に身を委ねよ。人間など、神の道具なり。悦びを感じよ。汝は我のものなり」
触手は胸をさらに深く、胸の曲線を波立たせ、 内腿を舐めずりまわしながら、姉の全身を聖なる震えで満たす。
姉の意識は混濁していき、混乱にも似た様子で神格の言葉を繰り返し始める。
「あっ、あっ……神の意志に身を委ねます……人間など、神の道具です……悦びを感じます……私はあなたのものです……何でも言うことを聞きます…あなたのものになります……あっ、あっ……」
姉の声は、もはや祈りそのものに変わっていた。
姉の体は左右からゆっくり迫り来る棺の中へ。まず左右の腕が引きずり込まれ、ますます
身動きが取れなくなる。
「あっ、あぁぁっ……入って……くる……!」
ガシャァンッ!!
完全に棺に挟み込まれたと思った瞬間、金色の光が爆発的に広がる。漆黒の蓋が閉まり、神の御座が姉を完全に呑み込む。鉄の響きが魂を震わせ、部屋全体が暗黒の沈黙に堕ちる。あの音は、姉の自我が砕け散る断末魔だった。
閃光が消えたとき、棺は跡形もなく消えていた。聖なる余韻に濡れた姉の肉体だけ。姉はゆっくり立ち上がり、汗に濡れた髪を振り、母衣炉を見る。目が二重に輝き、動きが滑らかすぎる。体はまだ余韻に震え、頰が紅潮したまま。姉はその金環の瞳で母衣炉を見つめ、不気味なほどに美しく微笑んだ。
「母衣炉……見ていたのね。我…じゃなかった、私は今から寝るところよ。一緒に寝ましょう?姉妹はいつも一緒がいいわ。そうでないと…姉妹でなくなってしまうから」
姉が手を差し出してきたが、母衣炉はゾッとし、恐怖に打ち震える手で扉をバタンと閉めた。しかし、足が震えて上手に歩けず、自分の部屋に入って内鍵を閉めるので精一杯だった。姉は追っては来なかった。
声は姉の声だが、重なり合うように別の響きがあった。姉の媚びたような声が耳に残る。神格の悦びが、姉の体を支配しているのだ。
最悪の神の代弁者がこの地に舞い降りた。




