離縁を告げられた夜、宰相閣下が「ならば私が伴侶にしよう」と言った
第1話 離縁の夜に
夜の王都は、まだ冷えていた。
石畳に映る灯がゆらめき、街灯の光が雨上がりの路面に細い線を描く。
その道を、セシリア・ランベールは一人歩いていた。
手にした封筒には、ただ一枚の紙。
そこには夫の名でこう書かれている。
――「君との婚姻を解消する。理由は情の欠如。」
情の欠如。
その言葉を見たとき、胸の奥は驚くほど静かだった。
涙よりも先に浮かんだのは、「やはり」という納得。
仕事のように夫を支え、家計を整え、領民の帳簿を付け、税収を均した。
だが夫が求めていたのは、数字ではなく「甘さ」だったのだろう。
馬車の車輪が遠くで鳴る。
夜風が封筒の端をめくり上げた。
セシリアはそれを押さえ、顔を上げた。
「……終わり、か」
その言葉を誰に向けたわけでもない。
だが、返事のように鐘の音が響いた。
王都中央議会館の塔から、正午ではなく、離縁報告の鐘――“別の始まり”を告げる鐘だった。
◇
翌朝。
宮廷の離縁手続きの場は、想像よりも静かだった。
文官が事務的に書類を読み上げ、王族の代理人が印章を押す。
セシリアは貴族の規律に従い、姿勢を崩さず、名を呼ばれるのを待った。
「セシリア・ランベール。離縁届けの受理を確認します」
「承知しました」
声に揺れはない。
彼女の視線は前だけを向いていた。
その目に一瞬の迷いが見えたとしたら、それを見抜けたのは――壇上の一人だけだ。
宰相ロウウェン・グレイス。
黒衣に銀の紋章。鋭い眼差し。
年齢は四十を過ぎたばかり、だが、若い議員たちは誰も彼を軽んじない。
政治を数字で動かし、感情ではなく制度で治める。
冷徹宰相。そんな異名があった。
離縁証が読み上げられる間、彼の灰青の瞳はずっとセシリアに向いていた。
まるで何かを計測するように、静かに、正確に。
「……以上で手続きは完了です」
文官の声が終わると同時に、ざわめきが広がった。
セシリアは一礼し、その場を去ろうとした。
その瞬間、椅子の軋む音が響いた。
宰相が立ち上がったのだ。
「待ちなさい」
場の空気が一瞬で固まった。
誰も、宰相が離縁の場に介入するなど想定していなかった。
「セシリア・ランベール。君は今、婚姻から解かれた。間違いないか」
「はい。今、正式に……」
「ならば、次の手続きをしよう」
ロウウェンの声は、議場の石壁に反響した。
言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。
「――私が、君を伴侶とする」
ざわめきが爆発した。
議員たちが顔を見合わせ、文官が書類を取り落とす。
宰相が“離縁女”を妻に迎えるなど、聞いたことがない。
「理由をお聞かせ願えますか」
セシリアの声は落ち着いていた。驚きよりも、確認が先に立つ。
ロウウェンは短く息を吐き、言った。
「理由は三つある。まず一つ。君の提出した財政報告書は、王国の現行制度を凌駕していた」
「……ありがとうございます」
「二つ目。離縁の理由が“冷たさ”なら、私はその冷たさに救われる。感情よりも理で動く人間は、国の根だ」
ざわつきが止まらない。
ロウウェンは、周囲を一瞥して言葉を続けた。
「そして三つ目。――私は君に興味がある」
その一言が、議場の空気を変えた。
政務の場に似つかわしくない、しかし確かな宣言。
「興味、ですか」
「感情ではなく、構造としての“君”に、だ」
セシリアは短く息を吸った。
彼の目に、侮蔑も憐れみもなかった。
ただ純粋に、分析のような光。
けれど、その奥にかすかな温度があるのを、彼女は感じ取った。
「……宰相閣下。軽々に承諾することはできません」
「当然だ。だからこれは求婚ではなく、提案だ。
契約婚として、宰相府の顧問として働け。婚姻の形を取り、法的な保護を得た上で」
契約婚――その言葉がまた波紋を広げた。
だがセシリアの目に宿った光は、わずかに変わった。
拒絶ではなく、計算だった。
「……考慮いたします。閣下」
「良い返事だ」
宰相はわずかに笑った。
それが“氷の宰相”の顔に見せた、初めての微笑だと、後に誰もが語ることになる。
◇
宰相府。
その日、セシリアは新たな生活を始めた。
名目上は「顧問官補佐」。だが実質は、宰相の補佐官として働くことになった。
書類の山が机を覆う。
印章の押された公文書、地方からの請願書、歳出の報告書。
彼女はペンを取り、次々に数字を整理していった。
ふと、ロウウェンが背後に立っていた。
「初日から随分と手際が良いな」
「数字には順序があります。感情のように崩れません」
「なるほど。君は“崩れぬ理”を持っている」
「閣下は“揺れぬ理”をお持ちでしょう」
「……皮肉か?」
「敬意です」
ロウウェンの唇がわずかに動いた。
「敬意とは、礼ではなく認識か」
「認識です。認めること。評価と違って、消えませんから」
「いい答えだ」
その夜、二人は宰相府の灯をともして働いた。
窓の外には雨。
灯の下、静かにペンの音だけが響く。
それは恋ではなく、理の始まりだった。
◇
翌日、議会はざわついていた。
宰相が「離縁女」を側に置いたことで、他の貴族たちが不満を漏らしていたのだ。
「宰相閣下は正気か」「あの女は情がない」「冷たい石のようだ」
そんな噂が飛び交う中、セシリアは資料室で静かに書類を読み込んでいた。
背筋を伸ばし、筆記の手を止めない。
そこへ若い議員が現れた。
「君、まさか閣下に取り入ったわけじゃないだろうね?」
セシリアは顔を上げずに答えた。
「“取り入る”とは、何を差しますか」
「え、えっと……そういうことだよ。女の武器で……」
「その武器、私は持ち合わせていません」
議員は言葉を失い、逃げるように出ていった。
その様子を廊下の陰で見ていたロウウェンが、小さく笑った。
「見事な撃退だ」
「仕事に集中していただけです」
「君のような人間が、もっと議会にいればいい」
セシリアはわずかに首を傾げた。
「閣下は、人を褒めるのが下手ですね」
「慣れていない」
「では、今練習しました」
そのやり取りに、ふたりの間に小さな空気の変化が生まれた。
理と理の隙間に、まだ名もない温度。
◇
数日後。
王立議会に緊急通達が届いた。
「歳入不明分、十万シリング」。
どこかで巨額の金が消えている。
宰相府に報告が集まり、ロウウェンは即座に命令を出した。
「セシリア、予算報告の写しを確認しろ。王都支部の三期分だ」
「はい」
セシリアは走り、帳簿を開く。
記録の中に、不自然な数字のずれを見つけた。
“補助金支出:ヴィルソン商会”
その商会は――彼女の前夫の実家が経営している会社だった。
胸の奥に、微かな痛みが走る。
ロウウェンが机に手を置いた。
「……やはり、か」
「閣下」
「復讐を考えるな。感情で動けば、君の理が濁る」
「復讐は望みません。修正を望みます」
その言葉に、宰相は静かに微笑んだ。
「ならば、共に正そう」
その夜、ふたりは再び机を挟んで並んだ。
蝋燭の灯が揺れ、書類の影が二人を包む。
ロウウェンの灰青の瞳が、わずかに柔らかく光った。
「……セシリア。君の理は、美しい」
「理は、美ではありません」
「そうか。だが、美しいと思った。――それで十分だ」
彼女は答えなかった。
ただ、胸の奥で小さく、何かが動いた。
外では雨が雪に変わり、夜更けの鐘が遠くで鳴った。
離縁の鐘ではなく、新しい“始まり”の鐘。
氷の宰相と、理の女の物語は、今、静かに動き出していた。
第2話 氷の宰相と帳簿の女
朝の鐘が三度鳴った。
王都の空気は薄く冷え、路地の影はまだ眠そうに伸びている。
セシリアは宰相府の裏口から入り、手袋を外した。指先が冷たい。だが頭は澄んでいた。
机の上には昨夜からの帳簿の束。
王都支部の歳入報告、三期分。
彼女は首の後ろで髪を結い直し、ページの端に薄い紙片を挟んでいく。色分けされた紙片は、ずれた数字の箇所にだけ差し込まれた。見れば一目でわかる、静かな旗だ。
扉が軽くノックされた。
ロウウェンが入ってくる。黒い外套の肩に、外気の冷たさが残っている。
「早いな」
「起きてしまったので。数字が呼ぶので」
「数字が呼ぶ、か。君らしい」
彼は机の端に腰を預け、開きかけの帳簿を覗き込んだ。
灰青の瞳が、斜めに走る細い鉛筆の印を追う。
「二期目の“補助金支出:ヴィルソン商会”。ここが不自然です」
「数値の桁か」
「いえ、伝票の回し方です。王都本庁からの支出なのに、領事館経由の押印になっている。手数が多い。意図的に増やしたか、手順を知らないかのどちらかです」
「知らない者に、十万シリングは動かせない」
「はい。だから――知っている者が、わざと隠した」
ふたりは目を合わせた。短い沈黙が落ちる。
「現地に行こう」とロウウェンが言った。「書類は嘘をつく時がある。倉庫と足を見よう」
◇
王都南区の倉庫街。風が強い。
石畳の上を、空になった荷車がきしりと鳴る。
ヴィルソン商会の倉庫は、通りの角にあった。人の出入りは少なく、扉は固く閉ざされている。
番頭が出てきた。帽子を脱ぎ、芝居がかった笑顔を浮かべる。
「これはこれは宰相閣下。お寒い中、ようこそ。今日はどのような――」
「検分だ」とロウウェン。「突然すまないが、帳尻の合わぬ匂いがする」
番頭の笑顔が硬くなる。奥で誰かが合図をした気配がした。
セシリアは何も言わず、倉庫の床を見た。運搬車の車輪の跡、粉の落ち方、掃き掃除の雑さ。古い埃の上に、最近付いた細い線がいくつも走っている。
「ここ、昨日動かしましたね」
番頭が肩をすくめる。「在庫の入れ替えをね」
「入れ替えの帳簿は?」
「もちろん、ございますとも」
差し出された帳面を受け取り、セシリアはページをめくる。
紙の匂いが違う。古い帳と新しい帳。日付は過去のものに合わせてあるが、紙は今年の製紙所の印だ。
彼女は開いたまま、ほんの少しだけ距離を取って倉の奥を見た。棚の上段に積まれた麻袋。袋の口紐が、同じ人間の手つきで結ばれている。
「封を切ってもいいですか」
「ちょ、ちょっと、それは困る」
「困る理由は?」
番頭の喉が動いた。
ロウウェンが一歩進む。目は笑っていない。
「困る理由は、君自身が一番よく知っているはずだ」
静かな声だった。だが、逃げ道を塞ぐ重さがある。
番頭は観念したように肩を落とし、麻袋の封を切った。
中から出てきたのは、小麦ではなく、染料用の草だ。市場で高値で売れる。穀物の名目で補助金を受け取り、実際には別の品を扱っている。
「補助金を取り付けたのは誰だ」と宰相。
「……知らない、では済みませんな。旦那様のご親族が……」
言いにくそうに、番頭は名前を出した。
セシリアの胸の奥で、冷たい何かが小さく鳴った。前夫の実家の名。やはり、そこにつながる。
彼女は深く息を吸い、吐いた。
ロウウェンが横目でそれを見た。問いはない。信頼だけがある。
「搬出の記録、全て写し取ります。手順に従って」
セシリアは筆記板を取り出し、日付、数量、押印、搬出時刻を正確に記していく。
番頭は汗を拭きながら、言われるままに奥から伝票を運んだ。
外に出ると、風がさらに冷たくなっていた。
ロウウェンは外套の襟を立て、セシリアに手袋を渡す。
「冷える。手を守れ」
「ありがとうございます。……大丈夫です。数字のほうが冷たいですから」
「そうでもない」
「え?」
「君の数字は、温度を持っている」
セシリアは言葉に詰まった。
からかいではない。評価でもない。認識だ。胸の奥に、それが静かに落ちていく。
◇
宰相府に戻ると、先触れが待っていた。
王立議会からの召喚状。緊急審問。
内容は短いが重い。「顧問官補佐セシリア・ランベール、裏帳簿の流用及び補助金横領の疑いについて弁明せよ」
廊下の空気がひやりとした。書記たちの視線がそっと揺れる。
ロウウェンは召喚状を受け取り、封蝋を親指で弾いた。
文面を一読し、目を細める。
「早いな。手が打たれる前に、こちらを封じるつもりか」
「……私を使って、ですか」
「君を使えば、私に傷がつく。誰かはそれを望んでいる」
セシリアは頷いた。
怖さは、不思議と薄かった。数字が道筋を示している。やるべき順序は見えている。
ロウウェンが彼女に視線を向ける。
「弁明の言葉を用意するか」
「事実を並べます。怒らず、責めず、手順で」
「いい。私も同席する」
「宰相が?」
「私の顧問官補佐だ。放っておけない」
その言葉が、暖炉の火のように胸に残った。
セシリアは軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。……ただ、ひとつ」
「何だ」
「審問の場で、私個人の感情について問われたら、黙ります。数字と事実だけを話します」
「感情は私が受ける」
「そんなことが、できますか」
「できる。私は宰相だ」
ためらいのない声。
彼の肩にのる重さが、瞬間だけ、目に見える気がした。
◇
審問の午後。
王立議会の円形の議場は満席だった。
高い天井、集う視線、石の段にこだまする靴音。
中央の席にセシリアが立ち、左右の席に議員たちが並ぶ。ロウウェンはその少し後ろ、補佐の位置に座る。
首席審問官が開会を告げた。
読み上げられる疑いは簡潔で、しかし容赦がない。
「裏帳簿を作成し、補助金を横領した疑い」
証拠として示されたのは、セシリアが記した写しの一部だった。渡した覚えのない紙片。書式、筆記、印。間違いなく彼女の手だ。だがそれは「検分記録」であり、「横領の証拠」ではない。
議場のざわめきが増す。
首席審問官が問う。
「セシリア・ランベール。弁明は?」
「はい」
セシリアは一歩前に出て、落ち着いた声で言った。
「まず、示された紙は私の筆記です。ただしこれは“検分の写し”であり、“横領の証拠”ではありません。倉庫での搬出記録を写したもので、補助金横領の可能性を示すための一次資料です。宰相の命で持ち帰り、正式な報告に編纂する前の段階のものです」
「つまり、君は横領を知りながら、黙っていた?」
「違います。黙っていません。正式な手順に従って、報告書を作成しています」
「だが、その報告書はまだ提出されていない」
「本日中に提出予定でした。召喚状が先でしたので」
短い沈黙。
審問官は、次の書類を掲げる。
「では、これは何だ」
別の紙片。セシリアの筆跡に似せた文字で、補助金の流れを“訂正”する命令書。そこに記されたのは、セシリアの署名。
議場がざわついた。
セシリアは眉を寄せ、紙を受け取った。署名の最後の跳ねが、わずかに違う。彼女は自分の癖を知っている。
「偽造です」
審問官の眉が上がる。「言い切れる根拠は?」
「私の署名の最後の“ループ”は、右上に向かって細く消えます。これは、下に向かって太くなっている。筆圧が違う人の手です。日付の数字も、私は七に一本の横線を入れますが、この紙では入っていない」
議場のざわめきが一段階下がった。
セシリアは、もう一枚の資料束を掲げる。宰相府で作成中の正式報告書の下書きだ。
ロウウェンが無言でそれを渡してくれていた。彼女はそれを広げ、項目ごとに示す。
「これが正式報告の構成案です。“発覚経路”“確認手順”“関係者”“暫定対策”。偽造文書の指示系統には、私が通常使う語順が一切ありません。私の書類は、名詞を先に置きます。偽造文書は動詞で始まる。私の癖を知っていれば真似られたでしょうが、偽造者は“見た目”だけを似せた。構造は真似できていません」
首席審問官が、資料に目を落とす。
周囲の議員たちがひそひそとささやき合う。
ロウウェンは腕を組み、静かにその背中を見守っていた。
「つまり、偽造だと」
「はい。そして偽造する動機があるのは、補助金の流れに関与した側です。私を先に告発し、口を塞ぐために」
審問官がもう一度、議場を見渡す。
そこへ、別の議員が立ち上がった。年配の男だ。
前夫の伯父。ヴィルソン商会の背後で、政治の橋渡しをしていると噂される人物である。
「若い娘の弁は雄弁だが、詭弁だ。偽造だというなら、誰がした。証拠はあるのか」
「今はありません。ですが、出せます」
セシリアは迷わなかった。
議場の空気が変わる。
ロウウェンが初めて口を開いた。
「その証拠は、私が用意した。――正確に言えば、用意しておいた」
視線が宰相に集まる。
ロウウェンは鞄から封筒を二つ取り出し、机の上に置いた。封蝋には王国印と宰相印。
封筒の一つは、昨日ヴィルソン倉庫で押収した搬出記録の写し。
もう一つは、宰相府が独自に設置している公文書用紙の真贋識別票。紙の繊維に混ぜてある微細な色素の配合が、年ごとに違う。
「偽造指示書の紙は、去年の配合と一致する。だが日付は今年だ。用紙調達権限のある者でなければ、去年の束は手に入らない。権限者は限られている。名簿もある」
年配議員の口角が引きつった。
ロウウェンは続ける。
「さらに、偽造署名の筆圧と軌跡は、某議員の秘書の癖と一致する。宰相府は議会側の書記局に観察許可を得て、定例会議のメモ書きを複写してある。比べれば一目だ」
「……宰相。君は最初から疑っていたのか」
「疑っていたのではない。準備していた。いつか誰かが制度を歪める。その時のために、仕組みを整えるのが私の仕事だ」
静かな言葉。だが、議場に重く届く。
首席審問官が小さく頷いた。
「宰相。封筒を預かる」
「どうぞ」
審問官は補佐に命じ、識別票と紙片を照合させた。
短い間。
結果が出る。
補佐官が耳打ちし、審問官が宣言した。
「偽造の可能性が極めて高い。審問は続行するが、セシリア・ランベールの即時拘束は行わない」
重かった空気が、少しだけ軽くなった。
セシリアは胸の奥で、そっと息を吐いた。
ロウウェンが視線だけで告げる。よくやった――と。
しかし、審問は終わらない。
年配議員が最後の抵抗を試みた。
「だが、君は冷たい。国に温かさは必要だ。君のような女が政に関われば、民は冷える」
その時だった。
セシリアが一歩、前に出た。
議場の中心に立ち、真っ直ぐに言った。
「冷たさは、温かさの反対ではありません」
「何だと」
「熱で壊れるものがあります。数字も、手順も、法も。私は熱を持ちません。壊さないためにです。民の腹を温めるのはスープですが、そのスープを配る仕組みは“冷えている”ほうがいい。私は、仕組みを冷やします。だから、民は温かくいられる」
ざわめきが、今度は違う質で広がった。
ロウウェンの口元が、はっきりと緩んだ。
声を重ねる。
「私が保証する。彼女の冷たさは、国を温める。――それを理と呼ぶ」
首席審問官は槌を打った。
審問の第一幕は終わった。
決着は次回。偽造の主を誰とするか、補助金の流れをどう正すか。
議場には、次の戦いの気配が満ちていた。
◇
宰相府に戻る道すがら、雪が舞い始めた。
セシリアは手袋を外し、白い息に手をかざす。
ロウウェンが歩調を合わせた。
「今日はよくやった」
「私は事実を言っただけです」
「事実を恐れずに言うのは、簡単ではない」
「閣下が隣にいたからです」
言ってから、少し頬が熱くなった。
ロウウェンは何も言わず、屋根の滴を避けるように千鳥に歩いて、彼女の前に出た。
外套の裾が雪を払う。
「君に頼みがある」
「何でしょう」
「今夜、宰相府の応接で、書簡を一通、書いてくれ。王に提出する。“緊急対策案”。審問より先に動く」
「わかりました。項目は?」
「三つに絞る。補助金の精査ラインの再設計。用紙識別の常時照合。審議録の開示範囲の拡大」
「三つに?」
「理由は三つ、と言うと人は聞く。今日、私はそれを学んだ」
セシリアは笑った。
彼はさらりと言うが、ちゃんと見ている。人の耳と心の動き。
彼が冷徹だと言われる理由と、同時に信頼される理由が、少しずつわかってきた。
◇
宰相府応接。
灯を落とし、机に二人分の影が伸びる。
セシリアはペンを走らせ、時折、言葉を削った。回りくどい言い回しは排除。中学生でも読める文章で、王に届く案を三項目にまとめる。
一項目目は、補助金の申請から支出までを一筆書きにする「モノ線」。各部署の判子を横串にせず、一本の線上の順番に並べる。途中で戻れない仕組み。戻る必要があれば、戻った履歴が必ず残る。
二項目目は、用紙の識別を誰でも照合できる簡易キット化。色素配合を公表するのではなく、照合カードを各部署に配る。カードは年一で更新。古い用紙は自動的に「過去年版」と判別される。
三項目目は、審議録の開示範囲を広げる代わりに、開示までの時間を短縮。民の目を入れる。見られて困る運用を減らす。見られるから正す、という逆算。
紙が一枚、また一枚と積み重なっていく。
セシリアは最後の句点を打ち、顔を上げた。
「できました」
「見せてくれ」
ロウウェンは受け取り、黙って読み込む。
指先が時折止まり、また進む。
読み終えると、彼は紙を裏返し、短く頷いた。
「よくできている。――いや、よく、じゃ足りない。必要だ」
「必要、ですか」
「うむ。君が必要だ。国に」
言葉が静かに落ちる。
セシリアは目を伏せた。心臓が、いつもより鮮明に音を立てた気がした。
「……宰相閣下。今朝、私は離縁の紙を受け取りました。紙は、冷たいと思っていました。けれど、紙で人は救えるのですね」
「紙で人は死ぬ。だから紙で救う」
「はい」
ふたりの間に、短い沈黙が流れた。
暖炉の火が小さく爆ぜる。外の雪が、窓辺で音もなく溶ける。
「一つだけ、確認してもいいですか」とセシリア。
「何でも」
「宰相閣下。これは“契約婚”でしたよね」
「そうだ」
「もし、私が“情”を持ってしまったら、契約は壊れますか」
ロウウェンは少しだけ目を丸くし、それから、ほんのわずかに笑った。
「契約は壊れない。条文は増える」
「条文?」
「条文に“情文”が増える」
「……くだらない」
「私にしてはうまいほうだ」
セシリアは堪えきれず、短く笑った。
自分が笑う声は、思ったより軽かった。
◇
翌朝。
王への提出が済む前に、もうひとつの出来事が起きた。
宰相府の門前で、群衆が集まり始めたのだ。
誰かが煽っている。板に書いた文字が掲げられる。
「冷たい女を追放しろ」
「民に愛を」
「宰相は女に操られている」
雑な文句。だが、声は大きい。
セシリアは窓からそれを見下ろし、目を細めた。
ロウウェンが背後で言う。
「行くか」
「私が?」
「お前の名を叫ぶ者の前で、黙っていても勝てる時はある。だが今日は、違う」
セシリアは頷き、外套を羽織った。
門前に立つと、群衆の声がこちらに向いた。
雪がちらつく。握りしめられた拳、濡れた靴、赤い鼻。
彼女は大きく息を吸い、吐いた。
「私は冷たい女です」
ざわめきが一拍止まった。
セシリアは続ける。
「あなたたちの鍋の火加減を、私は遠くから見ます。近づくと、火傷をするからです。代わりに、薪が尽きないように、道の雪をどけます。遠くから、冷たく」
群衆の中の年配の女が、腕を組んだ。
「難しいことはわからないよ」
「難しくしません。あなたのお椀が空にならないように、倉から小麦が出る道を一本にします。それだけです」
若い男が叫ぶ。「宰相は女に操られてる!」
セシリアは小さく首を傾げた。
「操るとは、紐を握ることです。私には紐はありません。私が持っているのは、鉛筆だけです」
笑いが少しだけ生まれた。
その笑いが、怒りの尖りを一つ、二つ削る。
セシリアはそこで言葉を切り、深く頭を下げた。
「寒い中、ありがとうございます。どうか、風邪を引かないで」
彼女が戻る時、群衆の声は小さくなっていた。
ロウウェンが扉の陰で待っていて、短く言う。
「見事だった」
「何もしていません。火に近づかなかっただけです」
「それを“している”と言うんだ」
彼の視線はやわらかかった。
セシリアはほんの少しだけ、視線を避けた。心が、慣れない色に染まるのを感じたからだ。
◇
昼。
王宮から使いが来た。
王は宰相案の三項目に目を通し、即日施行の内示を出すという。
審問は継続だが、制度は先に動く。
「速い」とセシリア。
「王は速い」
「陛下が“速い”のは、宰相が“遅くない”からです」
「なるほど。いい言葉だ」
ロウウェンは机の引き出しから小箱を出した。
中には細い金属のしおり。片側に小さな刻印がある。
「贈り物だ。文官の誕生祝いに渡すものだが、習わしを破ってもいいだろう」
「誕生祝い?」
「新しい役目の誕生だ」
セシリアはそっと受け取った。
指先で冷たい金属の感触を確かめ、刻印を見た。
小さな扉の印。蝶番が精巧に刻まれている。
「扉、ですか」
「扉を見つける女に、扉を」
「……ありがとう、ございます」
声が少し震えた。
ロウウェンは聞こえないふりをした。
◇
夕刻。
審問の続きの通達が届く。明朝、再開。
偽造の主の名が、ほぼ固まったらしい。王立記録局の副長、そして彼に紐付く数名の名が挙げられている。背後に、あの年配議員の影があることも、もう隠しきれない。
セシリアは資料をまとめ、机の上に置いた。
窓の外はもう暗い。
灯を落とす前に、ふと、机の角に置かれた小箱が目に入る。扉のしおり。
彼女はそれを本の間に挟み、そっと閉じた。
扉は、開けるだけが能ではない。
開けるべき時まで、閉じておくこともまた、手順の一つだ。
廊下の向こうから、ロウウェンの足音が近づく。
静かな靴音。規則正しい歩幅。
彼は扉の前で立ち止まり、軽くノックした。
「準備はいいか」
「はい」
「明日は、私が前に立つ。君は、言うべきことだけを言え」
「はい。……閣下」
「何だ」
「私が冷たいのは、あなたのためです」
「どういう意味だ」
「熱を持つと、あなたの判断が歪むから。私は、あなたの隣で冷たくいます」
ロウウェンは短く息を吐き、目を細めた。
その目は冷たくも、温かくもなかった。
ただ、まっすぐだった。
「なら、私は君のために温かくいよう」
「温かい宰相、ですか」
「たまには」
セシリアは笑い、頷いた。
「明日、勝ちましょう」
「勝つのではない。正す」
「はい。正しましょう」
灯が落ちる。
夜は静かに深くなり、雪はまだ、音もなく降り続いていた。
――翌朝。
王立議会の扉が開く。
宰相は中央へ歩み出て、最初の言葉を放つ準備をした。
「定義から始めよう」
その一言が、第三話の幕を上げる合図になった。
第3話 凍てつく誓い
朝の空は、凍りついた硝子のように白かった。
議会広場を囲む建物の屋根に、夜の雪が薄く残っている。
王立議会の扉がゆっくりと開かれ、人々のざわめきが押し寄せた。
セシリアは宰相府の階段を上がる途中、深く息を吸った。
今日の審問で、すべてが決まる。
偽造の主を暴き、補助金の流れを正せなければ、国の制度そのものが凍りつく。
ロウウェンは隣を歩きながら、手袋を外していた。
白い息が立ちのぼり、指先の傷跡が光を反射する。
彼の顔はいつものように無表情だったが、その歩幅には迷いがなかった。
「宰相閣下」
「うむ」
「勝ち負けではなく、“正す”ために行くのですよね」
「そうだ。……だが、正しさは冷たい。冷たすぎると人は凍える。だから、お前の言葉がいる」
「私の、ですか」
「数字だけでは届かぬ場所がある。理の先には、誰かの心がある」
その言葉に、セシリアはわずかに視線を落とした。
自分が選んできた“冷たさ”を、誰かが“必要”と言ったのは、これが初めてだった。
◇
議場の天井は高く、光を受けて冷たい輝きを放っていた。
傍聴席には記者や商人、王立大学の学生までが集まっている。
今日の審問は王国全土の注目を集めていた。
首席審問官が開会を告げると、空気が一気に張り詰めた。
円形の壇の中央に、セシリアとロウウェンが立つ。
その対面に、偽造に関与したとされる副長オルドと、背後に並ぶ数名の議員。
審問官が淡々と告げた。
「本日の議題は、偽造書類の作成および補助金の不正流用。――オルド副長、弁明を」
年老いた副長は、口の端を吊り上げた。
「弁明することなどありません。書類は宰相府からの命令です。署名も宰相印もある」
「宰相印?」
議場の視線がロウウェンに集まる。
彼は一歩前に出た。
「それを“見せろ”。」
審問官の合図で、文書が持ち込まれる。
封蝋は確かに宰相印に見えた。
だがロウウェンは手に取ると、蝋の縁を指でなぞり、淡い光を反射させた。
「宰相印に見える。だが、これは“宰相府旧印”だ。廃止から二年経っている。使えるのは、旧文書管理局の関係者のみ」
ざわめきが起こる。
副長の額に汗が滲んだ。
「さらに、この蝋。温度管理が甘い。宰相府の封蝋は常に二百度で溶かす。これは百五十だ。印面の輪郭がわずかに歪んでいる。――偽造だ」
ロウウェンの声は低く、しかしよく通った。
その冷たさが、逆に議場を静かに温めていくようだった。
セシリアは一歩前に出て、補足する。
「不正の流れを示す帳簿はここにあります。補助金の半分が“匿名寄付”として再分配され、三分の一が議員私邸の改修費に回っている。署名は副長オルドの直筆です」
「証拠があるのか」
「もちろん。筆跡鑑定の結果も添付しています」
書記官が慌ただしく資料を回す。
議員たちの顔色が変わり、会場のざわめきが再び高まる。
首席審問官が椅子を叩いた。
「静粛に!」
静まり返った空気の中、ロウウェンがゆっくりと歩を進めた。
「副長。君は制度を利用した。だが、制度は人が支えている。人を欺いた時点で、それはもう理ではない。理を離れた理は、ただの計算だ」
オルドは唇を震わせた。
「理、理とうるさい。理だけで国が動くと思うか! 民は数字ではない!」
「だからこそ、数字がいる」
ロウウェンの声が一段低くなった。
「数字は嘘をつかない。感情は嘘をつく。私は数字を信じる。だが、君は数字を装って嘘をついた。――君こそが、民を数字に変えた張本人だ」
副長が崩れ落ちる。
証拠が突きつけられ、議場は完全に彼の敗北を悟った。
審問官は短く判決を言い渡した。
「副長オルドおよび関係議員数名、告発に基づき拘束。補助金の全額を没収し、再発防止策の立案を宰相府に一任する」
槌が鳴り響いた瞬間、場内のざわめきが歓声に変わった。
勝敗ではない。正しさが通った瞬間の、息をのむような静けさと熱。
◇
審問が終わると、外は夕暮れだった。
陽が傾き、雪解けの水が道を濡らしている。
王都の鐘が鳴り、群衆が広場に集まった。
ロウウェンとセシリアが議会の階段を降りると、人々の拍手が起こった。
「宰相閣下!」「セシリア様!」――そんな声が混じり、街に響いた。
セシリアは軽く会釈し、ロウウェンの隣に並ぶ。
彼の横顔には疲労が見えたが、どこか満たされた色もあった。
「……終わりましたね」
「ああ。だが、“終わり”ではなく“始まり”だ」
「はい」
「補助金制度の改革は、すぐに始める。君の案をもとに、全土に展開する」
「承知しました」
風が吹き、セシリアの髪が頬をかすめた。
ロウウェンは一瞬だけ手を伸ばし、迷ったように、そして静かにその一房を指先で払った。
「冷たさが、今日ほど頼もしいと思った日はない」
「私も、温かさを必要だと思いました」
二人の間に、短い沈黙。
遠くで鐘がもう一度鳴る。
◇
その夜。
宰相府の執務室。
ロウウェンは報告書に署名し、ペンを置いた。
セシリアは地図を広げ、各地の再分配経路に印をつけていく。
「……忙しくなりますね」
「退屈よりはいい」
「宰相閣下は、退屈を嫌いますか」
「退屈は、心を鈍らせる。理を鈍らせる」
セシリアは微笑んだ。
「では、私が退屈させません」
「どうやって?」
「手順で」
ロウウェンが吹き出した。
珍しく、笑い声を漏らした。
「君といると、理屈が息をする」
「理屈に息をさせるのは、閣下の役目です」
彼女の手が紙の上を動き、インクの匂いが部屋を満たした。
暖炉の火が柔らかく揺れ、窓の外には静かな雪。
「セシリア」
「はい」
「これから、国がどう変わると思う?」
「仕組みは変わります。でも、人の欲は変わりません」
「だろうな」
「だから、私は手順を作り続けます。欲が暴れないように。閣下が、それを守ってください」
「約束する」
ロウウェンは、机の上の紙を片付け、ふと視線を上げた。
「……契約婚の期限を、延長したい」
セシリアのペンが止まる。
「延長?」
「そうだ。――終わりを、定めたくない」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
彼女は短く頷いた。
「期限を延ばすのではなく、項目を増やしましょう」
「項目?」
「“契約の目的:国の安定と幸福”に、“互いの幸福”を追加します」
ロウウェンの口元が笑みに変わった。
「また条文か」
「理屈の世界しか知りませんので」
「それでいい。――それが、君だ」
暖炉の火が一際強く燃えた。
窓の外、雪がやみ、月が顔を出す。
セシリアは机に肘をつき、ペン先で紙に小さく線を引いた。
“幸福”。たった二文字。だが、そこには温度があった。
「宰相閣下」
「なんだ」
「私、冷たいままでいてもいいですか」
「もちろんだ。その冷たさが、私の温かさを保つ」
セシリアは目を閉じ、深く息を吸った。
ゆっくりと吐き出すと、胸の奥がほんの少し軽くなる。
「……この国は、良い方向に動きますね」
「ああ。君がいれば、必ず」
ロウウェンの指が、机の上のしおりを撫でた。
金属の扉が、月明かりを受けて光る。
その輝きは、まるで未来の予告のようだった。
◇
数日後。
王都広場で行われた改革布告の式典。
宰相ロウウェンと顧問官セシリアが並んで壇上に立ち、新しい制度を発表した。
その姿を見た人々は、こう呼ぶようになった。
――氷の宰相と帳簿の女王。
だが、彼ら自身は違う言葉を胸に秘めていた。
「理と情を、並べて置く」
それが、ふたりの誓い。
恋という名の温度を、理という名の手順で包みながら。
雪解けの風が吹き抜け、王都の鐘が春を告げた。
凍てついた冬は終わり、新しい季節が始まる。
――冷たさは、愛の形をしていた。
終。




