蜂蜜酒
厨房に戻り、蜂蜜酒の用意をしていると、背後から何やら不穏な気配が……。
「……ん?」
思わず振り返ると、エミリーとヴァイオレットが、棚の隙間から獲物を狙う猫のような目で私を見つめていた。
「うっ⁉」
「ちょっと聞いたわよ~? 楽士棟に行くんですって?」
ヴァイオレットは薄紫色の長い髪をかきあげ、片眉をあげながら私に肩を寄せてくる。彼女はエミリーと同じく私の侍女仲間だ。
「あ、うん……ちょっと頼まれごとで……」
「えー! いいなー! 知ってる? 楽士様ってイケメン揃いなのよ?」
「ねーっ、しかも、もれなくエリートで実家は太いしさぁ~!」と、エミリー。
「きゃぁーっ、見初められたらどうするぅ~⁉」
「もち、即婚でしょ! いゃ~ん!」
「あ、あの……」
だめだ、こうなってはもはや私の声は届かない……。
ふたりの興奮は収まらず、しまいには寸劇まで始めた。
「おぉ、ヴァイオレット……その白く美しい手を見せておくれ……」
「いけませんわ、楽士さま……わたし、ただの侍女、ただの侍女でございますぅ」
よよよ、と逃げるそぶりをするヴァイオレットをエミリーが抱きかかえた。
薄紫色の髪がはらりと流れ落ちる。
「何を言う! ヴァイオレット……おぉ、聞かせておくれ、その美しい声を……」
「おやめになって! 私は平民……楽士様とは結ばれぬ運命……」
「ならばその運命、私が変えて見せよう……この夜想曲と共に!」
ターンッとふたりが決めポーズを取る。
「――あなたたちっ!」
「「「ひぃゅっ⁉」」」
恐る恐る振り返ると、両手を腰に当て、鬼のような形相でこちらを見ているロゼッタさんの姿があった。
「ヴァイオレット! エミリー! マイカ!」
「「「はいぃっ!!」」
「いったい、何をやっているの!」
「いやぁ、そのぉ……」
「なんといいますかぁ……」
ヴァイオレットとエミリーがさりげなく私を前に押し出す。
「ちょ、ちょっと……!」
「マイカさん、あなた、せっかく国王様からお褒めいただいたというのに、そのお気持ちを無下にするおつもりですか!」
「い、いえ、決してそのようなことは……」
「あら? この蜂蜜酒は? あなたたち、まさか職務中に酒盛りを……」
「ちっ、ちがいますっ!!」
「そうです、こ、これは……」
「これは?」
「ええと、そのぉ……」
私が言い淀むと、ロゼッタさんはどんどん圧をかけてくる。
「マイカさん……?」
気のせいだろうか、ロゼッタさんから地鳴りのような効果音が……。
「あ、あの! 実はマイカが楽士様から蜂蜜酒を頼まれたんです!」
私の後ろに隠れながら言ったエミリーの言葉に、ロゼッタさんがピクリと反応を示した。
「……楽士様が?」
楽士はそのほとんどが身分の高い家の出身だ。
頭ごなしに怒るわけにもいかず、ロゼッタさんが少し困惑したような顔になる。
「本当に頼まれたのですか?」
「あ、はいっ! 例の国王様からお褒めいただいた件で、私のことを知ってくださったようでして……」
ロゼッタさんは顎に指の背を当てながら、何やら考えているようだった。
しかし、すぐに考えがまとまったのか顔を上げた。
「……ならば仕方がありませんね。マイカ、あなたはすぐにその蜂蜜酒を届けなさい。くれぐれも失礼のないように」
「はいっ、かしこまりました!」
私は蜂蜜酒セットを手にペコっと頭を下げる。
ヴァイオレットとエイミーも一緒に厨房を出ようとすると、後ろから鋭い声が響いた。
「ヴァイオレット! エイミー! あなたたちは残りなさい!」
「「は、はいぃ……」」
許せ友よ……。
私はふたりの無事を祈りながら、楽士棟へと向かった。
* * *
広い廊下の端を歩いていると、向こうからミシェル王子が歩いてきた。
中庭から吹き付ける風が、美しい金髪をなびかせている。
フォトプリントで売れそうな光景だ……。
私は壁を背にして頭を下げた。
殿下とすれ違うなんて珍しいなと思っていると、その足が私の前で止まる――。
「たしか、君は……クッションの君?」
ク、クッションの君て……。
思わず突っ込みそうになったがぐっとこらえる。
「ミシェル殿下、クッションを作ったマイカと申します。その節は多大な恩賞をいただき身に余るやら美味しかったやらで……」
「ははは、変なやつだな。マイカか……ん? それは何だ?」
殿下が私の持つ蜂蜜酒をのぞき込む。
うぉっ! 間近で見るとまるで映画俳優みたいだ……!
モブといっても、さすがチョイ役でも本編に登場しただけあってレベルが違う。
「あ、これは蜂蜜酒です」
「蜂蜜酒? 少しもらっても?」
「い、いえ! 殿下が口にされるようなものでは……」
「……ひと口でいいのだが」
「あー、のちほど、とびっきりの名酒をお届けするよう手配しますので」
「いや、それが飲んでみたいのだ、いいだろう?」
くっ……殿下は一歩も引かない。
どうする? 私としてはいくらでもくれてやりたいところだが、勝手に蜂蜜酒を殿下に飲ませたことが知られたら……だめだ、万が一お腹でも壊された日には、この宮廷を追放されてしまう……!
「どうか、お許しを……」
「たかが蜂蜜酒ではないか、なぜそこまで拒否する必要がある……?」
「どうかされましたか、ミシェル殿下?」
「おぉ、スチュワートか。いや、マイカに蜂蜜酒をくれと言っているのだが、うんと言ってくれなくてな……お前からも頼んでくれないか?」
スチュワートさんはチラッと私を一瞥して、
「殿下、すぐにお部屋に持たせます。さ、まいりましょう」と、うまく殿下を誘導してくれた。
この一瞬での状況把握! さっすがスチュワートさんだよね~!
私はふたりに頭を下げ、そそくさと楽士棟へ向かおうとした、その時――。
「どこへ行くつもりかな?」
「んぎゅ?」
気づくと私は、まるで野良猫のようにスチュワートさんに襟を掴まれていた。