楽士棟
案内された先は、宮廷楽士達の居住エリア『楽士棟』の共有スペースだった。
解放された空間にテーブルや椅子が並び、端にある棚には果実水の入ったデカンタが置かれている。王宮内には詳しい方だと思っていたが、さすがの私もここに来るのは初めてだ……。
「わざわざご足労いただき申し訳ありません」
デカンタから汲んだ果実水を差し出しながら青年が眉を下げる。
「りんごの果実水です、よかったらどうぞ」
「いえ、お気遣いなく……」といいつつ、ためらいなく果実水に口をつける。
清涼感のある林檎の香りが鼻から抜け、さっぱりとした甘味が口の中に広がった。
ん~、美味しいっ! これだけでも来てよかったぁ……!
しかし、一介の侍女である私を楽士棟に連れ出すなんて……よっぽどの理由がなければ説明がつかない。
もしかして、本当に誰かが私を見初めて……?
目の前に座る青年の顔を眺めながら、まあ、アリっちゃアリかも……などと度しがたい妄想にふけっていると青年の声で我に返った。
「――あの、大丈夫ですか?」
「ひぁっ⁉ は、はいっ! すみません、ぼーっとしちゃって……。えっと、私に何かご用でしょうか?」
「申し遅れました、私は楽士のミカエルといいます」
「あ、ご丁寧にどうも、マイカです」
改めて二人で頭を下げる。
「実は……来週、ミシェル王子主催の演奏会があるのですが、なぜか楽器の調律が上手くいかず困り果てていまして……」
いや、それなら私よりも専門家に聞くのが早いだろう。
「調律師には相談されたのですか?」
「それが、運悪く里帰りを……」
「なるほど……。でも調律って、楽士の皆さんもやられてるのでは?」
「ええ、メンテナンスは調律師に任せていますが、普段は自分たちで行っています」
「それなら……」
「それが、いつも通りやっているのですが、どうしても上手くいかず……」と、ため息をつきながら頭を振る。
うーん、演奏会前に調律ができないのは確かに問題だよねぇ……と思っていると、ミカエルさんが突然顔を上げた。
「しかしっ! マイカさんは、とても器用だと伺いました!」
テーブルに両手をつき、身を乗り出す。
「しかも、ホワット陛下から恩賞まで賜ったとなれば……」
ミカエルさんは、さらに前のめりになり、私は押され気味に上体を逸らした。
「ちょ……」
「その実力は折り紙付きっ!」
拳を握り、言葉にも熱がこもる。
「ならばっ! 楽器の扱いにも精通されているのではないかと……!」
キラキラと瞳を輝かせながら、期待に満ちた視線を向けてくる。
なんだか、申し訳ない気持ちになるが、ここで嘘を言うわけにもいかない。
「……あ、いや、ごめんなさい、私、楽器のことはあまり……」
――――突然、ミカエルさんが視界から消える。
効果音が聞こえそうなほど盛大に、その場に転がっていた。
大人しそうな見た目と違って、リアクションの大きい人だなぁ……。
ミカエルさんは、よろよろと席に戻る。
うーん、困った。
楽器なんて前世で少しギターを触ったことがあるくらいだし……。
悩んでいると、落ち着きを取り戻したミカエルさんが、懇願するような目で私を見て言った。
「無理なお願いだとはわかっています……でも、私以外にも困っている者が多く……一度、一度でいいんです! 見るだけでもお願いできませんか?」
まあ、こんなにも切羽詰まった感じだし、見るだけでいいのなら断る理由もないか……。
「わかりました、でも、お力になれるかどうかはわかりませんよ?」
「は、はい、もちろんです! ありがとうございます!」
ミカエルさんは嬉しそうに顔を綻ばせて、頭を下げた。
* * *
共有スペースを出てミカエルさんに着いていくと、大きな扉が見えた。
「あちらが楽器の保管室です」
「へぇ……」
やはり楽器は高価なだけあって、厳重に保管されているようだ。
扉には大ぶりの鍵が掛けられている。
「扉はロックウッド製の一枚板ですか……すごいですね」
「さすがお詳しいですね、ささ、どうぞ中へ」と、ミカエルさんが鍵を開ける。
中に入ると、三十畳くらいの大部屋に、所狭しと多種多様な楽器が並んでいた。
ケースに入っているものや、そのままの状態で並べられている物、壁に掛けられている物がある。
「楽器って、こんなにあるんですね」
「まあ、予備の楽器もありますし、楽士それぞれに貸与されていますから」
「なるほど……じゃあ、普段は各自が保管しているのですか?」
「いえ、原則保管室での保管になりますが、バイオリンなどの小ぶりのものは、数日であれば自室で保管する方もいらっしゃいますね。上級楽士の宿舎には警備兵が常駐していますので」
「へぇ……」
さすが楽士様だ。名家のご子息も多いと聞くし、待遇もよさそう。
ははーん、エミリーのやつ、エリート狙いか……。
とりあえず、保管室の中を見て回ることに。
チェロ、コントラバス、チューバやファゴットなんかもある。
壁にはヴァイオリンやヴィオラが飾るように吊られていた。
私は前世で行った楽器屋さんを思い出す。
ギターもこうやって並んでたり、ネックのところを引っかけて壁に吊られてたっけ……。
ん? これはなんだろう?
四角い箱のようなものが部屋の隅に置かれている。
中は空洞で、箱の角には穴が開いていた。
魔導技適マークがあるので、何かしらの魔道具だとは思うんだけど……。
「こほっ、こほっ……」
ミカエルさんがせき込む。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ、すみません、ちょっと喉が……んんっ……」
「演奏会も控えていることですし、風邪には注意された方がいいですよ」
「そうですね、ありがとうございます」
喉を押さえながら、ミカエルさんは眉間に皺を寄せている。
あ、そういや蜂蜜酒があったっけ……。
「あの、よかったら、後で蜂蜜酒でもお持ちしましょうか?」
「い、いえ、そんなご迷惑は……こほっ、こほっ……」
「ほらほら、侍女に遠慮は無用ですよ。私たちも風邪の引き始めによく飲むんです」と、私は微笑んで見せる。
「じゃあ、お言葉に甘えて……もし、いただけるのでしたら……」
「かしこまりました」と、お辞儀をして「あ、保管室はもう結構ですので、ミカエル様のお部屋を拝見することってできますか?」と尋ねた。
「え、ええ、こほっ……もちろんです」
ミカエルさんが咳をしながらコクンコクンと頷く。
「ありがとうございます。では、ミカエルさんは先にお戻りになってください。私は蜂蜜酒を持ってお伺いしますので」
「わかりました。では、お世話になります」
保管室の扉の前でお互いにお辞儀をして別れる。
私はミカエルさんの後ろ姿に、もう一度軽くお辞儀をした。
個人部屋の保管方法を見て、それで何もわからなければ……申し訳ないけど私には手が余るってことかな。
まあ、せめて蜂蜜酒くらいは差し入れてあげたい。
侍女の私にできることなんて、それくらいのものだ……。
ぼんやりとりんごの果実水の味を思い出しながら、私は厨房へ向かった。