蛹と抜け殻
彼のことは誰にも話したことがない。なぜならこの田舎で男と別れて帰ってきただなんて知られたなら、あっという間に話が広がるからだ。三日もたたずにあんた誰だよという人間まで知ってたりする。どこどこの娘が出戻りだって。いや、ただしく伝わるならましなほうで、そういう話は伝言ゲームになりやすい。尾鰭どころか背鰭胸鰭腹鰭尻鰭そのほかフルコースでつきまくってとんでもないことになりかねない。下手したらアジがリュウグウノツカイになるかもしれないし、シロナガスクジラになるかもしれない。後者魚じゃねえって言いたくなるけど、海の中に住んでたらやっぱりまだましだろうか。
いや、そんな話はどうでもいい。大事なのは、私がこの話を誰にも知られたくない、ということだ。もっと正確にいえば、私が彼と過ごし感じていたことを、誰にも話したくない、だろうか。だから話さない。田舎の暇な人間のいっときの余興になんぞなりたくない。あらなんとかちゃん、ひとつやふたつの失恋なんて誰でも経験していることよ、なんて台詞も聞きたくない。
男と別れたイコールつらい失恋。だなんて、笑ってしまう。知らないくせに。
私を振った彼は、泣いていた。こっちが笑っちゃうぐらいに。三十も間近の男が、そこまで泣くことあるんかいとつっこみたくなるぐらいに。
八月に入った早朝だった。朝焼けが眩しく、徹夜明けの目にはむだにきらきらした世界がうんざりするほどきれいに見えていた。今し方まで一緒にいた友人は、彼氏の愚痴をひたすら言い続け、ぎゃあぎゃあ吠えた後にけろっとした顔で「でも好きなんだよね」と言い放って眠った。彼氏からもらったというキャラクターのぬいぐるみを抱えていびきをかいていた友人をどつきたい気分をぐっと堪え、私は家路についていた。へとへとだった。
小さなアパートの横には川が流れていた。川と道の間には街路樹が並んでいて、青々とした葉の隙間から光が射し込んでくる。昼間には三十五度を越えるのだろう朝は、すでに蒸し暑さがあった。早く家に帰ってシャワーを浴びて、クーラーのきいた部屋で眠りたい。そう思いながら歩いていると、急に目の前にひとが現れた。
ぼけっと歩いていた私も私だが、ほんとうに突然ひとがぴょこっと出てきたのだ。
ぼろぼろのぐでぐで状態だった私の呼吸は一瞬止まった。対してあろうことか私の顔を見てその男はにっこり笑った。それが爽やかなイケメンならときめく余裕もあったかもしれないが、どう見てもおしゃれとはいえないナチュラルな頭に不健康なほど色の白い顔でおまけに造作もさほどな見た目だったもので、私の心臓が治まることはなかった。
「蝉が」
私の心境なんぞ関係なく、男はぼそりと呟いた。
「見逃しましたね」
そのうえ前後がつながらない。蝉が見逃しましたね。蝉がいったいなにを見逃したというのか。私はそれを報告されねばならないのか、そもそもこの男は蝉のなんなのか。
それだけ言って、男は口を閉じてしまった。かわりに下を見てから空を仰いでいた。
思わず私も同じ動作をして、なんとなく状況を理解した。男の足下の葉に、蝉の抜け殻がついている。おそらく羽化した蝉が飛んでいったばかりなのだろう。それを男はしゃがんで見ていたから、私の視界に急に現れたのだろう。
初対面の人間にどれだけの理解力を求めてんだ。と内心つっこんだが、関わるのはやめようと同時に思った。そこそこいい年の大人が夏の早朝に蝉の羽化を見ている。いや別に悪いことじゃないけれど、目の前の人間からはそれに感動している気配も、熱心に観察している様子も感じられなかった。
たまたま歩いていたら羽化しそうな蝉を見つけたから、なんとなく眺めていました。
そんな感じ。いやそう言うとそれもまた別に悪いことじゃない。行為自体に問題はない。雰囲気だ。全体的に負のオーラがただよっているのに、ぎょろりとした目だけが、朝焼けに負けないほどきらきらとしていた。そのギャップが怖かった。
話す義理はないので立ち去ろうと止まっていた足を動かす。男がちらりと私を見たことも気づかないふりをした。
やがて「お気をつけて」という声だけが私の背中に届く。先ほどとはうってかわってやけに澄んだ声だった。右のかかとにできた靴擦れがじわじわと痒かった。
次にその男と出くわしたのは、九月も終わりに近づいたころだった。友人は結局彼氏と別れ、新しい男探しに必死だった。誰かいい男紹介して、が口癖になっていたし、紹介された相手と初めて食事に行くときは決まって私を同伴させた。私はあんたのなんなのよ、とうんざりしてつめよると「だって男を見る目がありそうだから」とぽわんと答えられる。もう面倒だから全部却下していた。反対されたほうが盛り上がってくっつくかと思っていたのだが、友人にそういう小説じみた気概はなく、ほんとうに全部却下していた。自分で選ぶ気はさらさらない。私が選べば別れたときに私のせいにできるからだ。
その日も、私は食事に連れて行かれた。ついていく私も私だが、断るとまたしちめんどくさい。相手はいいひとそうだったものの、だからこそ友人とつきあってはいけないと思った。途中トイレに立つと、その男が遅れてついてきた。なんぞリサーチかと思ったら、あろうことか私を口説いてくる。しかも友人のことをけなして私を褒める。自分の見る目のなさにがっくりきながら、私は友人に「やめておけ」の合図を送った。
以降、味のしなくなったローストビーフをかみしめながら、ひたすら時間が過ぎるのを待った。デザートのシャーベットのフレーバーに至っては覚えてもいない。会計後、男はしきりに私に話しかけようとしていたが全部無視しておいた。たとえどれだけイケメンで金持ちでセンスの塊のような男でも、こういうときに隣の女を口説くようなやつは論外だった。
ふたりと別れ、夜道をとぼとぼと歩いて数歩、お気に入りのジミーチュウにこういうのは似合わないと気合いを入れ直す。夏はまだまだ終わらず、日中の熱気が冷めない夜だった。空には月がいたが、街中では星がいくつかしか確認できなかった。
電車に乗って数駅。週の真ん中の夜はひとはまばらだった。それなのに車両は安っぽい香水くさく、端では酔っぱらいのサラリーマンが同僚らしきひとに管を巻いていた。
駅を出れば住宅街。外灯や家からもれる明かりで世界はほのかに明るい。何げなしに自動販売機で缶コーヒーを買う。がたん、という音が響いた。どこかで犬も鳴いた。
缶コーヒー片手に、ヒールを鳴らす。面倒なことを面倒はやだからとやっている自分に辟易して、身体が重くなりそうだった。
そのときまた唐突に、男が現れた。細い路地の角を曲がってきた男は服装は暗いのに顔だけ白くてなんの妖怪かと思った。
「ああ、この間の」
その妖怪に見えた男は私を見てそう言った。とはいえ、こちらにはそう言われる筋合いがない。この間とはなんだ、と考えて数秒、蝉男だと思い出す。
この間、と言える範疇じゃないだろ、と内心つっこんだがそんなのはどうでもいい。異様だったから記憶から消せなかった、羽化を見逃しましたねと言った男だった。
こういう場合はなんと言うべきなのかがわからず、私はただ曖昧に「はあ」とだけ口にした。さすがに無視はできなかった。その余力が残ってなかったのかもしれない。
「お元気でしたか」
妖怪男改め蝉男は飄々としていた。まるで古くからの知り合いのような態度に、私のなかでは警戒心よりも不信感のほうが募っていく。
しかし男はそんなことは露も知らず、口角を上げ目尻を下げる。こんな犬どこかで見たことあるぞ、と私は突然考え出す。
「コーヒー」と男がぼそりと言う。
「は?」と私は返す。
すると突然男が破顔した。今までのにっこりとは違って、嬉しそうな顔をする。
ぜんぜん、ときめかなかった。
むしろちょっと気持ち悪いと思ってさえいた。
「僕も、コーヒーを買いに行こうと思いまして」
男が見ているのが私の手にある缶コーヒーだと気づいて、ああとため息ににた声が漏れた。別にものすごく飲みたくて買ったわけじゃない、なんならいつもなら買わないブランドのやつだ。
「……よかったら、どうぞ」
どうしてそこでそんなことをしたのか、わからない。深く考えなかったんだと思う。むしろさっさと追い払おうとしたのかもしれない。たぶんそうだ。
差し出した缶コーヒーを、男はすぐに受け取らなかった。いやでも、悪いよ、とかなんとかぼそぼそ繰り返していたと思う。めんどくさくなって私はいいからと強引に押しつけた。
「ありがとう」
男は澄んだ声でそう言ったものの、笑顔はなかった。どこかひきつった表情をしていたと思う。よく知らない人間から物をもらって、恐怖心でも覚えてくれたなら、それはそれで良かったと満足した気持ちを私は抱いていた。
じゃあ、と去ろうとして歩き出す。男はまだ強ばった顔で立ち止まっていた。闇夜に浮かぶその白い顔が夢に出てきそうで、私はスピードを上げる。
「あの、よかったら」
ところが男の横を通り過ぎてすぐに、引き留められた。無視しても良かったのに、なぜか私は足を止めてしまう。
振り返ると、男の白い顔がやっぱり不自然な表情を作っていた。
「コーヒー、一緒に、飲みませんか」
ものすごくたどたどしく、噛まずに言えたのがむしろすごいという感じで。
そのうえ生まれたてのロボットで、まだこれから感情や表情を学びます、とりあえず真似をしてみました、というレベルの顔つきで。
暗闇のなか、ゆらりと消えそうな姿で、男は精一杯そう言った。
私はなんと答えただろう。曖昧で覚えていない。いっそ馬鹿じゃないのとか、結構ですとか、ばっさり言ってしまえばよかったのかもしれない。そうすれば、私は彼を知らずに済んだし、彼も私を知らずに済んだだろう。
そのとき私はようやく思い出していた。実家の近所にいた犬だ。男はあの間抜けな犬に似ていた。私を見るたびに嬉しそうな顔をして吠えて、でも私は大きな犬が怖かったので相手にしなくて、それでも喜ぶ姿に根負けして撫でてみたら、きょとんとして動かなくなった犬。お世辞にもかっこよくもかわいくもなかった、土と埃まみれの犬。
妖怪から蝉、そして犬。そんな男は、深夜までやっているファミレスでコーヒーを飲みながら、いっさいなにも、しゃべらなかった。
それからどこがどうなってか、しばらくして私は彼とよく会うようになっていた。場所はだいたい河原かファミレスで、理由は彼にお金がなかったからだ。身なりはそこまでひどくなかったけれど、彼にはほんとうにお金がなかった。最後になにかを食べたのは三日前だと聞いたときは、コンビニでおにぎりを買って無理にでも口に詰め込ませた。彼は遠慮していたし、食べた後もお金は返すとしきりに繰り返したけれど、私は返して欲しいとは微塵も思っていなかった。
だからファミレスに行けるときはいいほうで、ほとんどが近所の河原だった。河原といっても、ベンチや芝がきれいに整えられた場所だったし、散歩やピクニックの家族連れも多いようなところで、晴れた日は清々しかった。缶コーヒーとおにぎりを持って、ベンチに並んで黙々と食べるのが常だった。黙々と、なのは別におにぎりがおいしくて、じゃなく、ほんとうに彼が無口だったからだ。食べてるときも、食べ終わっても、彼はほとんどしゃべらない。たまに口を開いても、秋が遠いですねとか、今年は雪が降りますかねとか、そんなことばかりだった。気がつくと、彼は持ってきていたぼろぼろの文庫本を開いていた。
ただだからこそ、私は横にいても苦にならなかった。お互いの共通点を見つけようとあれこれさぐった会話をするのは元々苦手だったし、おしゃべりなのは友人だけで充分だった。おにぎりを食べて、コーヒーを飲んで、あとは景色を見てぼーっとする。たまに話しかけられて、頷く。一度仕事の愚痴を口にしかけて、やめたことがあった。どうしてか、彼にそういう世界は似合わない気がしたのだ。
でもきっと、不平や不満を口にしても、彼は私の話を聞いていてくれただろう。読んでいた本に栞をはさんでそっと閉じて、私の顔を見てくれただろう。アドバイスも余計なお節介もなく、そうでしたかとか、大変ですね、と答えていただろう。
そういう相手じゃなかった。それにそういうのを期待もしていなかった。いつからか、私も本を持ってくるようになって、並んで読書をするようになっていた。
やがて冬が近づいてくると河原はさすがに寒くなってやめようということになった。そこでようやく私は彼の部屋に足を踏み入れた。ある程度のことは覚悟していたが、予想とは反対に、こぎれいで小さなワンルームだった。建物はそれなりに古かったものの、掃除はきちんとされていたし、物はほとんどなかったし、狭くても心地よかった。
しかし物がないというのは文字通りで、生活必需品すらそろっていなかった。寒くてここに来たのに、暖房器具はちいさなハロゲンヒーターひとつ。部屋の空気があたたまるわけもなく、毛布や布団をかぶって寒さをしのいだ。
反して本だけはやたらにあった。どれも古本だったのか、色あせたものばかりだったけれど、本棚のない部屋にそれらは無造作に積まれていた。たまに崩れていた。
もうちょっと生活に必要なものを買ったら、と思わず言った私に彼は笑った。
「僕は文字を食べて生きているんですよ」
馬鹿じゃないのかな、と思って私は彼に毛布を被せた。その上から抱きしめると、冬のお日様の匂いがした。
そうやってなんとなく一緒に過ごして半年経った頃だろうか。私はようやく彼が何者かを知った。作家だった。
あながち、文字を食べていないわけじゃないのか、などと思ったものの、話を聞けば世に出た本は一冊。しかも数年は前だった。それって作家なのか、継続的に本を出すものじゃないのか、と疑問は抱いた。夢を追って現実が見えてないんだろうか、とも心配した。ただ彼は、現状はきちんと見えているらしく、情けなさそうにはにかむ。二冊目を出しましょうと話はもらっているものの、書けないそうだ。
「そのうちきっと僕は、忘れられると思うんです」
そう言った彼の頭を私は素直に叩いた。ことばは出なかった。彼はきょとんとしていたけれど、やがて悲しそうな目をして「すみません」とだけ言った。
その日の帰り、私は本屋に寄って彼の本を探した。棚にはなく店員さんに聞いたところ取り寄せで二週間ぐらいかかるかもとのこと。それでいいです、と伝票に名前と連絡先を書いて、頼んできた。
書けない、と言った彼に、そもそも飯も満足に食えない状態じゃ頭も働かないでしょう、と私ははっきり伝えた。まずは食え、と。私と会うときはなにかしら口にしていたけれど、部屋の状況を見れば普段ほとんど食べてないことは用意に想像できた。彼はお金がないので、と恥ずかしがるそぶりも見せず言ったので、私は目の前に三万円置いた。来月には返してもらうから、まずはしっかり食べてアルバイトをするなりなんなりして、基盤を作りなさいと。
「それがいやなら、私のヒモになりなさい」
そう言った私に、彼はきょとんとしてから笑った。
「そういうこと、堂々と言う君が好きです」と。
次の日、彼は小さな古書店の仕事を見つけてきて、一ヶ月後にはきっちり三万円を返してきた。彼には似合う仕事だったけれど、顔の白さは全く改善されなかった。
その一ヶ月の間に、私は彼の本を手に入れ、一晩かけて読んだ。わけがわかんなかった。わけがわかんないのに泣けてきてしょうがなくて、明け方私はその本を胸に抱いたまま眠りについた。そして仕事に遅刻した。
それからしばらくは、実は彼と会っていない。私の仕事が忙しかったのもある。くわえて友人が彼氏を作るのを諦め、自分磨きをするとか言い出して休日ごとに買い物だ日帰り旅行だなどと私を連れ回した。仕事と友人で手一杯で疲れ切って、私自身は一ミリたりとも磨かれなかった。久しぶりに体重計に乗って五キロ痩せてるのを見たときは、さすがにやばいと思って友人の誘いをすべて断った。そこまでこなきゃ友人の言うがままだった私も馬鹿だ。男ばかりの人生もなと友人を見て思っていた私は、彼ばかりになるのが怖かった。だから適度に離れたほうがいいとか考えていたのかもしれない。
なんにせよ、何事もバランスよくを学んだ私は、久しぶりに彼に会いに行った。休日の昼過ぎに彼が勤めている古書店を訪ねてみた。古本の並ぶ背の高い本棚の奥で座っている彼は、もう何年もここにいますという雰囲気を醸し出していて、ものすごく似合っていた。
それになにより、すこし太っていた。痩けていた頬にすこし肉がつき、目元が柔らかくなっていた。蝉を見ていたころの、目だけが異様に目立つ顔はすこし消えていた。
私の五キロぶん、あなたに移ったみたいね、と笑うと彼は眉を下げて心底困ったような声でうなった。
「それはいますぐお返ししないといけないです」
と至極まじめに言うものだから、私は吹きだしてしまって、彼を余計に困らせてしまった。
私が痩せたぶん、彼が太るなら、いくらでも痩せられる気がしていた。
実際それ以降、私の食事量は減っていった。一緒にファミレスに行くと、彼は食事の習慣がついたのか、コーヒーのほかに何かしら食べていた。量は少なくても、しっかり食べていることがうれしかったし、料理をほおばる彼を見るのはなんだかしあわせだった。
対して私は、どうにも食欲がわかず、コーヒーを飲んで一口食べるのが精一杯だった。
「きちんと食べないとだめですよ」
と彼が言ったときは、言うようになったねえと笑った。頭ではわかっていても、食事をすると気持ちが悪くなることがほとんどで、だめだった。
だから、私は痩せて、彼は太った。太ったといっても、ようやく健康体になったという感じだ。それならいいや、と私はコーヒーばかり飲んでいた。
彼からさよならを告げられるまで、そう遠くはなかったと思う。私の体重は十三キロ減り、大好きなジミーチュウは靴箱で眠っていた。仕事は続けていたけれど、友人とは疎遠になった。
彼は古書店の仕事を続け、部屋には本が増えていっていた。相変わらず色は白かったけれど、不健康には見えなくなった。私に会うと、ファミレスではなくごはんがおいしいと噂のレストランに連れて行ってくれるようになった。話を聞くと、小説のほうもなんとか書けそうらしい。味のしない食事を咀嚼して飲み込みながら、私はそれを一緒によろこんでいた。
そう、うれしかった。心の底から。
帰宅して吐いて、泣きながらシャワーを浴びて、彼の本を胸に抱いて眠る。会うたびにそうだった。人生でいちばん肉のなくなった身体は軽すぎて、自分のものじゃないみたいだった。服もすべて着ることができなくなって、きっとまたすぐに太るからと、ファストファッションで買い揃えた服を脱ぐと、肋骨の浮いた身体が見える。肌も髪も乾燥して、どんなに保湿しても追いつかない。
ああ、やばいんだな、とわかっていた。
同時に、人生を交換したんだな、と考えていた。
でも、ぜんぜん、後悔はなかった。
そんなんだから、彼から別れを告げられた。
彼のやさしさは骨身にしみて、同時に号泣させたことを申し訳なく思っていた。
仕事も辞めて実家に帰るとき、久しぶりに友人が連絡をくれた。会うとものすごく怒られた。こうなる前に相談してよとものすごい剣幕で言われたけれど、笑うしかなかった。
でも好きなんだよ、と言うと、友人は泣いた。あんたが泣くことじゃないだろうに、と笑うと抱きしめられた。大馬鹿じゃん、と言われて、だよね、とまた笑った。
それから半年。体重は半分戻った。彼が痩せてないか心配することはあるけれど、連絡はしていない。
田舎にいると近所の視線は痛いしうるさい。ついでに近所に嫁にいった姉も凄まじくうるさい。暇なのかなんなのか、近所なのをいいことにしょっちゅう家に来て、私の顔を見ればやれみっともないだの恥ずかしいだの口にする。私からすれば子どもを義両親に任せっきりで、実家の菓子を食い尽くしていく姉も姉だと思うけれど、言ったところでなにも生まないので無視している。
ただまあ、両親こそなにも言わず実家においていてくれているけれど、そろそろ潮時だなあとも思う。いっそどこか知らない土地にふらっと行って、住んでみるのもいいかもしれない。でもそれをするにも、まずはきちんと飯を食って金を稼がねばなんだろう。
最後になにか食べたのは三日前で、を私がやってたら意味がない。
そういや近所の犬はさすがにもう死んでいなくなっていたけれど、代わりに二代目の子がいた。先代に全くにていなくて、きりっとしたイケメンだった。前を通っても私に反応することなく、いつだってどこか遠くを見ている。
あれから一度だけ、蝉の羽化を見た。七月のはじまり、もう蝉が鳴き始めたと思った日。偶然だった。だってそれまで私は、蝉は明け方に羽化するんだと思っていたから。日が落ちれば田舎の人はほとんど外に出ない。だからこそ私は外に出た。なにがしたいわけでもない。ただ息をしに、足を動かしに。
まだ昼間の熱気をはらむアスファルトの横に街路樹として植えられた銀杏の木に、それはいた。
気づいたのは、目がいったのは、それが文字通りぐるんと蛹の中から飛び出てきた瞬間だったからだ。なにかと思ってまじまじと見てしまった。街灯は遠く、それは月明かりだけをその身に受けていた。知っている蝉の姿とは全然違う。その身体は全体的に白く、薄緑色がかっていて、開いた羽は繊細な針金細工のように透けていた。その側にある抜け殻とは大きさが釣り合わない。しかもつい先ほどまで、それはその茶色い身体で生きていたはずだ。蝉は、この身体をあの殻にしまって歩いてきたのか。いつからあの中身はこれだったのだろう。いつから身体の外側は、いずれ脱ぐ殻として自分の身体から離れていったのだろう。
蝉が外の世界へ羽ばたく姿となって生まれてくる。それは朝ではなく夜だった。調べてみたら、そうしてあの状態で朝を待って、飛び立っていくのだという。白く柔らかい身体は夜の間に硬く黒くなり、夏の空へと羽ばたいていく。
彼は、その瞬間を見たのだろうか。思えば私が勝手に羽化を見ていたんだろうと判断しただけで、彼に聞いたことはなかった。朝、飛び立つ蝉を、彼はどんな気持ちで見送ったのだろうか。
わからない。だって、そんな人だったから。私の記憶のなかの彼は、彼とは別人かもしれない。もしかしたら既にもう私の記憶は自分に都合良く改変されていて、本当はすごくくだらないことだらけだったかもしれない。
そう、私の手元には本しかもう彼の面影は残っていない。
その本を、私は毎夜胸に抱いて寝る。できることならば、胸を開いて心臓の横にそっとしまって欲しいけれど、そこまでいくとさすがに変態なので、棺桶に入れてもらえればいいと思っている。繰り返し読んだわけでもないのにもうぼろぼろで、もしかしたら死ぬ頃には崩壊しているかもしれない。そうなったら食べてしまってもいい。やっぱり変態だなあと思いつつ、新しい本が出たらどうしようかとも考える。二冊抱いて寝るのが無理なら、枕の下でもいいだろうか。そういうくだらないことを考えながら、彼の名前を本屋で見る日を待っている。
次の夏までに彼の新しい物語に出会えるだろうか。期待はしない。ほんとうに書いていたのかも知らない。
だけどきっと、毎年夏を迎えるたびに私は探すのだろう。あのとき見逃した、飛び立つ蝉の姿と、その抜け殻を。