能面課長と待ち合わせ
どうしよう。
どうしよう私。
後悔なんて、完全に後の祭りなんだけど、今更ながら緊張と不安で一杯だった。
私が今居るのは会社の更衣室。
だけど他の女子社員は皆退社してしまっていて、私はしんと静まり返る部屋の中で、一人ごそごそと退社の準備をしている。
今日は一時間ほど残業していたけれど、大体いつもこんな感じだ。
「は~~~~っ……」
大きな溜め息が部屋に響く。
休憩の時、本庄課長に今日の予定を聞かれ「時間をもらいたい」と言われた事を思い返す。
「これってやっぱり……二人きりだよね……どうしろと……」
思わず本音が口をついて出た。
だってそうじゃない。
あの「能面」の本庄課長よ?
そりゃ倉庫ではちょっとばかしドキっとしたわよ?
でもそれとこれとは……というか、あの人と和やかに話してるところが想像つかないわ。
イメージしようにも出来ない。
にしても……どうしてあの人、私なんて誘ったんだろう。
無表情な人だけど、見た目は有無を言わさず格好良いんだから、別に私じゃなくても、もっと華やかな子達を誘い放題だと思うけど。
実際課長の事、狙ってる子達居るって話だし……。
身支度を済ませ、とりあえず深呼吸をした。
今手に持っているのは、先ほど課長から渡されたメモ(やっぱり課長の番号が書いてあった)と私の携帯。
終わったら連絡するように言われていた。
やっぱり緊張するけど、まさか逃げるわけにもいかないし……。
後が恐いのもあるし……。
ふうっと一息ついたところで、私は覚悟を決めた。
OKしちゃったものは、仕方がない。
よし!
かけよう!
少し震える指先で課長の番号を押す。
メモに書かれた几帳面な字。
書類で見慣れているはずなのに、ちょっと特別な気がする。
二回コール音が鳴った後、「本庄です」と課長の声。
か、固い……。
これがデフォルトの人なんだけど、やっぱり声まで無表情っていうか……。
「白沢です。今更衣室にいるんですが……課長はどちらですか?」
そういえば。
退社時間は過ぎてるけど、さすがに一緒に会社を出るのはまずい気がするし、どこかで待ち合わせしなきゃいけないんじゃないかな……。
「向いにある紅苑の駐車場にいるから、悪いがそこまで来てくれないか」
やっぱり。
人目につくと困るものね。
課長がっていうより私がだけど。
課長ファンの子達に見つかったらほんとただじゃ済まないもの。
紅苑とは、うちの会社の真向かいにある喫茶店だ。
かなり古くからあり、上品な老夫婦が二人きりでやっていて私も何度か行ったことがあった。
今日は定休日だけど駐車場はいつも開放されていて、うちの会社の社員であれば自由に利用して良いことになっている。
社員が毎日のようにお店を利用しているので、お礼の意味もあるのだろう。
駐車場はお店の建物を回り込んだ奥側にあるから、あそこなら確かに見られにくい。
「あ、はい。わかりました。じゃあ今から行きます」
「わかった」
再びお堅い返事を聞いて、私は急いで紅苑に向かった。
向いにあるアンティーク感漂うお店は閉まっていて、木製ドアにはくすんだゴールドの「CLOSE」プレートがかけられている。
駐車場はお店の東側奥。六台分のスペースがあって、その一つに一台の黒い車が停まっていた。
あれ、一台だけってことは……。
これ、もしかして課長かしら?
……車ですか。
さっぱり気づかなかった。
そうよね。
二人で歩きながらっていうわけにもいかないし。
いきなり車内で二人きり?
いえいえ。
ああでも、普通は車か。
そうよね。
私どうして考え付かなかったんだろう。
でも、ちょっと待って。ほんと待ってってば。
心の準備が!
一人焦っていたら、黒い車のウィンドウが開き、課長の顔が覗いてどきりとする。
「白沢さん、乗って」
そう言って、助手席側のドアを中から開けてくれた。
言葉は淡々としているけれど、いつもより少し声が明るく感じるのは、私の気のせいだろうか。
ん?
でも待って隣?
助手席なの?
ち、近いよ!
ああでも、お客さんじゃあるまいし、後部座席に座る方がおかしいか。
内心とても焦っていたけれど、私は言われるままに助手席に乗り込んだ。
「お、お邪魔します……」
とりあえず、シートベルトを締める。
ゆったりとしたシートは座り心地が良いけれど、身体は緊張で固まっていた。
中をじろじろ見るのも失礼かなと思って、目線をやや下に落とす。
「……来てくれてありがとう」
少し優しいトーンの課長の声に、私は思わず顔を上げた。
穏やかに笑う本庄課長。
普段のお堅い印象が、一気にふわりと柔らかくなる。
膝の上できゅっと握り締めた手の平に熱がこもる。
これよ。
この笑顔が駄目なのよ。
普段笑わない人の笑顔なんて反則だわ。
今まで一緒に仕事をしてきた。
でも、こんな表情見たことなかった。
もしかして、自分にだけ見せてくれているんじゃないかなんて、自惚れてしまう。
「い、いえ……っ」
隣の席で、こちらを見つめながら笑顔を浮かべる人を前に、私はそう答えるのが精一杯だった。
頬に灯った熱が、どうかこの人に気づかれませんようにと、願った。




