濡れた桜が泣き止めば
「今後一切、尚人君やお嬢さんに迷惑はかけないと約束しよう。君が望むなら、二度と目の前に姿も見せない。元々隠居した身だからね。だが……もしも許されるのなら、今日一度だけでいい。尚人君、君を……抱きしめさせてくれないか」
「っ……」
荒井会長の申し出に、課長が声を詰まらせる。思ってもいなかったようだ。
けれど生涯一度だけ愛した女性との子供を抱きしめたいと願うのは、私には尤もなことに思えた。
「君が私の元を離れてから、姿が見たくて何度も君の学校にこっそり見に行ったよ。どれだけ声をかけたいと思ったか……身勝手だとわかっていても、君と手を繋いで彼女の元に、晶子の元に帰りたかった……発表会や運動会にどれだけ行きたかったか。君が私の事を父親だと思えないのは理解できる。だが人生最後の思い出として、たった一度でいい。私と彼女の息子である君を、この手で噛み締めたいんだ。……どうか、頼む」
「か、会長っ!?」
荒井会長がゆっくりその場に立ち上がったと思ったら、そのままソファの前の床に膝を付いた。それから両手を合わせるのを見て、彼が今何をしようとしているのか咄嗟に気付く。
清隆社長がそれをしようとした時、彼は言葉で切り捨てていた。そんな行為に価値は無いと。
しかしそれをわかっていて、会長はなお床に膝を付き頭を垂れようとしていた。
ただの謝罪でなく、それは懇願だった。荒井会長は今父親として、息子である課長に希っている。
こんな、こんな事って……っ。
見開いた私の目にじわりと涙が滲む。だってこんなの悲し過ぎる。課長も晶子さんも、そして荒井会長も、本当は誰も悪くないのだ。
ただ、愛する人を愛しただけ。
なのに。
どうしようもない事情があった。誰も悪くない理由があった。ただそれだけのことなのに、彼はたった一度息子を抱きしめたいという願いを叶えるために、こうまでしなければいけないのかと、こちらまで胸が痛みで苦しくなる。
私は課長の気持ちを考える前に、思わず身体が動いていた。しかし手を差し伸べようとした私の前に、大きな影が立つ。
「やめてください。俺は貴方にそんな真似をして欲しくはない」
課長だった。彼は下がりかけた荒井会長の上半身を押しとどめるように、肩に手を置いている。
ともに膝を付き並ぶ二人の姿はまさに親子そのものだった。課長は荒井会長にもとてもよく似ていた。
私は意を決して二人に一歩近づいた。荒井会長の言葉が気になっていたからだ。あまりにも切ない願いに、どこか切羽詰まったような気配を感じて。
「足が……お悪いと仰っていましたね。それは……もしかして」
尋ねると、荒井会長は一瞬柔らかく目を眇めそれからふんわりと微笑んだ。課長そっくりの、小さな花が咲いたような笑顔だ。
「ああ。聡いお嬢さんだね……尚人君は本当に良い女性に巡り会えたようだ。嬉しいよ……そうだね。今言うのは卑怯かもしれないが、私はもう長くない。四十代の頃に癌をやってね。それが足に転移したんだ。他の所にもそれはある。そのことは別にかまわないんだ。早く晶子に会いたいからね……だがその前に、成長した彼女の息子のことを、伝えてあげられるようにしたいんだ」
そうか、だから———
息子を抱きしめたい、という彼の願いは確かに会長自身のものでもあるのだろう。
だけど本当は、いつか会う愛する人に成長した息子の感触を伝えたいという思いがあったのだ。本当に……どこまで、優しい人達なのだろうか。
「そう、でしたか」
人はそれを、願いと言うのだろう。
人生の終末へと向かう一人の男性の、最後の願いだ。つい先程まで『カイズ・エリアル会長』であった荒井会長の姿が、一人の優しい壮年の男性に見えた。
「尚人さん……」
呼びかけると、彼の肩がびくりと反応した。荒井会長から距離を取るように後ずさっている。彼は迷っているのだろう。背中に葛藤が覗いていた。
課長は決めかねているのだ。父である荒井会長の願いを聞き届けるか否か。叶えてよいものかどうか、逡巡している。
荒井会長はそんな息子の姿を静かに見上げていた。
私は窓辺で咲く一才桜に視線を移した。小さな鉢植えは緑の葉に涙に似た雫をのせて、ただ静かにこちらを見守っている。私は、そこに写真に写っている女性が佇んでいるのが見えた。
たおやかで美しい女性だ。切れ長で、けれど優しさを感じさせる瞳が課長とよく似ている。まるで桜の精のような女性は、涙に頬を濡らしていた。
その人が私に向かって頷いた。私の身体が突き動かされる。
彼の背中を押してと、誰かに頼まれたかのように私の身体が動く。
「……尚人さん、どうか荒井会長の、お父様の願いを叶えてください。そうしなければ、貴方はきっと生涯後悔することになる。尚人さんは優しいから、自分で自分が許せなくなるでしょう。私はそんな貴方は見たくない。……動けないと言うのなら、私がお二人の手を引きます。さあ、会長」
私は二人の間に腰を下ろし、笑顔で手を差し出した。尚人さんと荒井会長の視線が私に向いている。
「尚人さんは、私の奥底にあった傷に気付いてくれた優しい人です。そんな貴方が苦しむことを、ここにいる『誰も』望んでいません……きっと、あの桜の樹も」
「茜……?」
私は差し出した手をそのままに、桜の鉢植えの方へ視線を向けた。課長達も同じ桜を見ている。
その時、風もない室内で桜が一輪、ふるりと揺れた。
「晶子」
荒井会長が、切なげに、愛おしむように、愛した人の名を呼ぶ。
「ね? お母様もそう思っているみたいですよ」
「っ……」
視線を尚人さんに戻してそう言えば、彼の眼鏡の奥の瞳がくしゃりと歪んだ。
綺麗な、透明な瞳に涙が浮かぶのを見ない振りしながら、私は尚人さんの大きな手を取り、彼を荒井会長の元へ、父親のもとへと促す。
尚人さんは素直に導きに応じてくれた。やがて、荒井会長の目の前に尚人さんが立つ。ゆっくりと、彼が膝を折る。
「貴方を、父、と……まだ呼ぶことはかないませんが、それでも……良ければ」
「あ、ああ、っ……ありがとう、ありがとう、尚人君……っ!」
荒井会長の深い皺の刻まれた目尻から、雫が落ちてゆく。
きっと亡き妻である晶子さんにしか見せた事の無かっただろうそれは、限りなく澄み切って、綺麗なもので。
絨毯の上に膝を付いた課長を荒井会長が両腕で優しく包み込む。
会長の表情はまさに『父親』そのものだった。まるでずっと探し続けていた我が子をやっと見つけたような、満願成就の顔をしていた。
課長はどうしたらいいのかわからない、といった感じで最初は困っていたけれど、会長の嗚咽を聞いてただ静かにじっと抱擁を受け止めていた。
それは本当に微笑ましいほどぎこちなく、それでいて喜びに溢れた親子の触れ合いだった。
彼が泣き止むころには―――濡れた桜から一粒、涙の雫が落ちていた。




