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雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~  作者: 國樹田 樹


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彼の苦渋

「はい、今も下にいるようです……そうですか。いえ、インターホンの電源は切りましたので、外には出られませんが今のところ支障はありません。わかりました。よろしくお願いします」


 雨が硝子を叩いている。


 外は鈍色の雲に覆われ薄暗く、大粒の雨が強く振っていた。


 結局あれから天気は下り坂となり、外の景色は桜の季節から雨季へと移る予兆を私達に見せている。

 通話を終えた課長が、スマホのカバーをぱたんと閉じた。大きな窓硝子の前に立っている彼が、こちらに振り向く。


 それに合わせて私は口を開いた。


「……専務は何と?」


「今は荒井会長側でも対応に追われているらしい。まだ記事にはなっていないが交渉段階にあるそうだ。もう暫くしたら、会長の秘書から俺に連絡が来ると言っていた」


「秘書……」


 こんな時ですら、会長本人からの連絡ではないのかと一瞬落胆してしまった。課長もきっと思うところがあるだろうに、表面には出していない。


 面識もなく、言葉も交わしたことがない父親の存在とは、彼にとって一体どういう位置づけなのだろう。


 以前、親とは思っていないと言っていたけれど、完全に他人として割り切れるものなのだろうか。


 親子とは、良くも悪くも切れない関係だと、昔何かの記事で読んだ。今の課長こそ、それに当てはまる気がする。


 自分のせいではないのに、息子というだけで生活が巻き込まれている今の状況は、課長には理不尽以外の何物でもないはずだ。


 先程インターホンを鳴らした記者の人は、あの後しつこく何度も呼び出しボタンを押した。


 放置するにも室内に鳴り響く音が続くのは面倒だからと課長は電源を切ってしまったけれど、マンションに常駐しているコンシェルジュの方から何事かと連絡があり、現在は数人の記者がマンション下に居座っている事を聞かされた。


 近隣への迷惑のこともある。この事態が長く続けば、課長は引っ越しを余儀なくされるかもしれない。


 それにある程度食料品などのは買いだめしてあるもののやはり限界がある。いつかは外に出なければいけない日が来る。それがわかっているからか、課長は私にひどく申し訳なさそうな顔をした。


 ……彼のせいでは、無いのに。


「窮屈な思いをさせてすまないな」


「謝らないでください。私は一緒にいられて嬉しいです。不謹慎ですけど、ちょっと楽しいくらいですよ。好きな人と何日も部屋で過ごすのって、社会人になったら中々出来ない事ですし」


「……茜」


 笑顔で答えると、課長がほんの少し眉尻を下げながら歩いて来て、彼を見上げる私の顎を持ち上げ口付けを落とした。


 唇が離れた隙間に「ありがとう」と囁かれる。


 傍に居ることしできないのだから、少しでも彼の気持ちを和らげてあげたいと思う。もっと私に社会的な地位や、力があれば彼を守れたのにと、これまで一度も願ったことのないものを欲した。


「……荒井会長の秘書とは、昔何度かやりとりをしたことがあるんだ」


 言って、彼は窓の外に視線を向けた。手には黒い革のカバーに入ったスマホが握られている。


 立ったままなのはきっと落ち着かない心境の表れなのだろう。


「知っている方なんですね。……当時はどういったお話を?」


「大抵は母の入院費についてや生活費のことだったな。名前を聞いた限りでは同じ苗字だったから、恐らくあの人だ」


 課長の横顔に過去を懐かしむ気配が滲む。


 それを見て、秘書の人は彼にとって嫌な相手ではないのだと察した。


「良い方だったんですか?」


「そうだな。金なんていらないと頑なに言い張る俺を、あって困るものではないから今後のためにも取っておけ、と正論で諭してくれた。金銭の苦労を祖母に背負わせる気かとも言われたな。言い方は厳しかったが尤もだった。一度も会いに来ない父親より、この人が父なら良かったのにと思った程だ。祖母が亡くなった大学時代にこちらから連絡して、今後は必要ないと言ってからは連絡を取っていない。だが、そのおかげで金銭面では苦労せずここまでこれた。母や祖母をちゃんと見送ってやれたのはやはり有難かった」


 課長が自嘲するように言つつテーブルにスマホを置いた。横から覗く彼の目に雨空が映っている。


 本当は拒否したかったろうに、中学生の彼は母と祖母のために苦渋を飲んだのだろう。未成年であった課長にとって、逃げられない問題を目の前に突き付けられるのはどれほど辛かったろうか。今の私には想像することしかできない。それが歯痒かった。


 気付けば私はソファから立ち上がり、当時よりはるかに成長した彼の身体を抱きしめていた。


「中学生の尚人さんは、とても頑張ったんですね。そして今も……頑張ってるんですね」


 そう告げれば、こわごわした両手が抱きしめ返してくれる。とても頑張って生きてきた事に気付いていない彼のことが、私は胸が痛くなるほど愛しかった。


「俺は———」


 背中にある彼の手が、きゅっと私を引き寄せる。途切れた声は続きを口にして良いかどうか、躊躇っているようだった。


 言っていいのに。私だけに、その心の内を吐き出して欲しい。


 そう思いながらただひたすら課長の身体を抱きしめる。


 彼は、今に至るまで文句ひとつ口にしていないのだ。ずっとずっと、耐えている。


 恐らく子供のころからそれは続いていて。


 本来ならどうして自分がこんな目にと憤っても仕方がないのに、父親になぜ会いに来なかったのかと叫んでいいのに、ただ私に申し訳ないと謝るだけで、彼は自分の苦悩を口にしていない。


 きっと彼は優し過ぎるのだ。


 彼ほどではないにしろ、なぜ課長がそんな風にしてしまうのか、理由がわかってしまうだけに、より悲しいと思った。


 私がかつて家族に話せなかったように、彼も自分が耐えればそれで良いと思っているのだろう。


 入院中のお母さんに真実を話せず、我慢し続けてきた経験が彼をそうさせてしまうのだろう。


「私、尚人さんがいてくれたら狭くて暗い場所も怖くありません。貴方がそう思わせてくれた。だから私も尚人さんに出来ることがあったらさせてください。心の深くに沈めたものを、私にぶつけてください。何を言ってもいいんです。私、ずっとこうして、傍にいますから。離れませんから」


「っ……」


 手に強く、けれど痛くない程度に力が込められた。感情が高ぶってさえ、彼は自分を押さえつけてしまう。


 気持ちを表に出すのが苦手になってしまった彼の悲しい習慣に、私は大きな身体を抱きしめながら泣きたくなった。


 ちょうどその時、テーブルにあるスマホから着信音が鳴り出した。


 そっと抱擁を解かれる。すると次の瞬間、頭頂に唇が落ちてきた。彼はもう一度ぎゅっと私を抱きしめてから、スマホを取った。


「本庄です。……はい、お久しぶりです。ええ、伺っております」


 課長が一度目を瞑り、開く。私を見る彼の視線が、着信が先程話した秘書の方からだと物語っていた。

 けれど彼の表情が突然渋みを帯びたのを見て、胸に不安が過ぎる。


「……兼崎、とは弊社の兼崎結衣のことでしょうか」


 えっ? と。


 課長の口からその名が聞こえた瞬間、私は思わず小さな声を上げていた。


 スマホを耳に当てている課長が、ちらりと私の方に視線を寄越す。深く刻まれた眉間の皺が、事態の深刻さを伝えている。


「荒井社長と、彼女が……? それは一体、どういう———成程。わかりました。お待ちしております」


 課長が通話を終えた。


 黒い本革のスマホカバーを閉じ、考え込むように腕を組む。 


「……これから、荒井会長と息子の清隆社長がここに来るらしい。あと、兼崎君もだ。記者達は彼ら荒井会長側が追い払ってくれると」


「どうして、兼崎さんが」


「俺が会長の息子であるという話が漏れたのは、清隆社長が彼女に教えたからだと、そう言っていた。今から説明と謝罪に来るのだと」


「荒井会長も、来られるんですか」


「そうだ。……始めて、会うことになるな」


 課長が窓の外に視線を投げた。


 外は大雨だ。強く振り続ける雨はきっと、残り咲きの桜も全て散らして流してしまうだろう。


 ただ一つだけ、彼の部屋で凛と咲く桜の鉢を見ながら、そう思った。

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