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雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~  作者: 國樹田 樹


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能面の理由

 人生は、過去の積み重ねで出来ている。


 そう私が感じるようになったのは、二十七歳を迎えた最近だ。


 けれど彼の話を聞いた今となっては———とみにそう思う。



「……少し、昔の話を聞いてくれないか」


 そう告げた課長は瞳に少しの陰りを滲ませながら、私の身体を強く抱きしめていた腕を解いた。


 けれど横抱きのまま、そっと片手で私の手を掴む。その目は私ではなく、どこか遠くの景色を眺めているようだった。


 今、私の視界には、陰影が深くなった課長の寂し気な表情と帳の下りた濃紺の夜空が映っている。


 春霞でぼやける月と星の上を、雲がせわしなく流れていた。


「荒井会長の妾だった母は……身体が弱くて、俺が中学に入った頃にはもう長いこと入院していた。母方の祖母の家で暮らしていた俺は、片道二時間かけて母のところまで会いに行っていたんだ」


 静かに語る彼の瞳に、過去を懐かしむ色が浮かんでいる。


 課長が十五歳の時に亡くなったというお母様の名は本庄晶子ほんじょうあきこさんというそうだ。写真立てにあった線の細い美しい人に似合いの、綺麗で透明感のある名前だと思った。


 課長はそれから、物心ついてからの自分の過去をゆっくりと話してくれた。


 課長のお母さん、本庄晶子さんは生まれつき身体が弱く、一人息子である課長を産んでからはずっと入院生活を送っていたそうだ。


 彼の実父にあたる荒井会長は、課長が産まれて以降は晶子さんに会いに来なくなったらしい。そう育ての親である祖母に言われたのだと課長は語った。


 課長は小学生の頃はお祖母さんに連れられて病院に通い、やがて中学に上がると毎日のように自分で電車で行くようになったのだと言った。


 片道二時間、往復四時間の距離を、たった一人きりで。


 それを聞いた私の脳裏に、友達と遊ぶわけでなく、部活を楽しむわけでなく入院する母の元へ向かうため一人電車に揺られる学生服姿の課長が思い浮かんだ。長い時間、当時中学生だった彼は何を思いながら通っていたのだろう。


 私が地下倉庫を怖がっていたのに気付いてくれた課長だ。きっと、お母さんに一刻も早く良くなってほしいと願いながら長い道のりを過ごしていたのだろう。それを思うと、胸がつきりと痛んだ。


 そして課長が中学三年になった頃、お母さんの容体が急変し、静かにこの世を去ったのだと言った。


 とても穏やかな表情をしていた、とそう告げた課長は少しだけぎゅっと眉を顰めて痛まし気な顔をした。


「……俺は母に、ずっと嘘を吐いていた。母から、父から連絡はあったかと聞かれる度に、あったと答えていたんだ。本当は一切連絡など無かったのに……それどころか、声を聞いたことすらなかったのに」


 課長の柔らかだった表情が苦し気に歪む。私はただ彼の手を強く握り締めた。


 彼は今にも泣き出しそうな表情をしていた。


「俺は母に最後まで嘘を吐き続けた。荒井は金銭の援助だけはしてくれたが、一度たりとも顔を見せにこようとはしなかった。けれどそれを母に言うのは忍びなくて、俺はずっと母に笑顔で嘘を吐いた。……あの頃は、俺も普通に笑えていたんだ」


 顔を歪め、唇を噛み締める課長の姿に、私の胸が締め付けられる。


 今度は私が課長の手の甲に口付けを落とした。少しでも彼の心を癒したかった。たとえ、力不足だとわかっていても。


 課長が喉の奥で小さな呻きを上げた。それから互いの指先を互い違いに交差して固く手を繋げた。それは恋人繋ぎというよりも、離れないでいて欲しいと縋られているみたいだった。


「……母の死後、俺はほとんど笑えなくなった。感情を表に出すこと自体が、苦手になったんだ」


 言いながら、課長は真っ直ぐ私を見つめていた。彼の顔に表情は無い。あるのは眼鏡の奥に浮かぶ哀しみだけで。


 彼が能面と呼ばれるようになった理由のあまりの切なさに、私は声が喉に詰まったように言葉が発せなかった。


 瞳を見れば、課長には多くの表情があるのだとわかる。だけどそれを彼が出せなくなったのは、恐らくお母さんに嘘を吐き続けてしまったという罪悪感からなのだろう。優し過ぎるがゆえに、自分で自分を縛ってしまったのではないだろうか。


「思いを表情に出すのが苦手でも、生きるのには支障がなかったから、別に構わないと思っていた。けれど、君の言葉を聞いて、忘れた振りをしていた痛みが和らいで、とても……楽になれた」


「『たとえ嘘の笑顔でも、誰かのためならそれは優しさ』……」


 かつて私が言った言葉を自分で口にした。すると課長が頷いて「ああ、そうだ」と優しく微笑む。彼が覚えていてくれたこの言葉を、私も覚えている。だってこれは私が私自身に向けて言った言葉だったからだ。だけどまさかその言葉が、彼の心の琴線に触れていただなんて、思いもしなかった。


「課長、私……幼い頃、少し嫌な経験をした事があるんです。それが理由で、狭い所や暗い所が苦手になってしまいました。だけど、それを母や家族には言えなくて。共働きでしたし、迷惑もかけたくなくて……だから隠して、忘れた振りをしながら、笑顔で何もなかったみたいに過ごしました」


 私は、家族に優しくありたかった。


 お兄さんに悪戯された事を話せば、母も父もきっと悲しんでしまうとわかっていたから、何も言わずにひた隠した。今はそれではいけなかったとわかるけれど、あの時の自分はそうする事を選んでしまった。


 だからあの言葉は『優しい私でいたかったあの頃の私』に向けた言葉だったのだ。


 それを繰り返し心で思ううち、ふと他人と話した時も口にしてしまった。


 こんな事をされたと、怖かったと泣きたかった幼い頃の私が浮かべていた嘘の笑顔を、優しさだと誰かに認めてほしくて。


 なのにその言葉が、まさか課長の苦しみを和らげていただなんて。


 課長と繋がった手にゆっくりと、やんわりと心を伝えるように力を込めると、彼もそれに応えてくれた。


 二人、静かにじっと見つめ合う。


 きっと私達は、互いに知らない振りをしていた傷に気付いたからこそ、惹かれ合ったのだろう。


 消しきれずに心の奥深く沈めていた傷が、知らぬ間に感応していたのかもしれない。

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