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雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~  作者: 國樹田 樹


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能面課長と思いがけない提案

「弁解させてくれ」


 五階にある会議室の一つに入った課長は、壁の両側に手をついて腕の中に私を閉じ込めそう言った。


 扉には入ったと同時に鍵がかけられた。元々昼休みの会議室など誰もやって来ないけれど、念の為にだろう。使われていない室内のブラインドは降りていて、空気もやや冷たく薄暗い。だけど課長と一緒だからか怖いとは思わなかった。


 無機質なブラインドの隙間から差す白く細い太陽光が、課長のスーツの肩にくっきりと線状の模様を浮かべていた。


 距離が近いせいで、彼の匂いを鼻腔に感じた。


「……はい」


 私が返事をすると、課長はほっと安堵して肩の力を抜いた。そして少しだけ眼鏡の奥の瞳を緩めて、壁についていた手を離すと私の腕を取る。彼の視線は会議室に備え付けられた椅子に向いていた。


「少し長くなる。座ろう」


「わかりました」


 課長に導かれるままに椅子に座った。よくある布張りのオフィスチェアだ。中身はウレタン素材で、脚にはキャスターが付いている。


 キィと小さくそれが音を出した。課長は私の正面に腰を下ろし、それから私の左右の手を握り締めてくる。


 特に怖さは感じないけれど、まるで逃げないでくれと言われているような気がした。


「どう話したらいいものか……」


 課長は逡巡するように一度口ごもると、私の指先を握る手にほんの少し力を込めた。彼の手や身体が強張っているように思える。


 緊張、しているんだろうか。


 大丈夫だという気持ちを込めて彼の手を握り返すと、気づいた課長がはっとした表情をして、そして柔らかく微笑んでくれた。


 どこか切ない笑顔に、なぜか心がきゅうと締め付けられる。


「……まず、俺はカイズ・エリアル社の会長、荒井徹あらいとおるの息子ではあるが、その……正規の、というわけじゃない。俺の母は、荒井の妾、という立場だったから」


 妾という一般的には聞きなれない言葉に目を瞠る。そんな私に、課長がどこか苦し気に頷いた。それで直感する。


 今から聞く話は恐らく彼の人生の根底に関わるものだと。


「そう、なんですか」


「ああ……」


 課長が静かに微笑んだ。咲き終わりの桜が散るような儚い笑みだった。


 その表情と課長の部屋にあった小さな桜の鉢が、私の中で重なった。


 確か彼は十五歳の頃にお母さんを亡くしたと言っていた。


 今から彼が話してくれることはきっと、付き合い始めの恋人同士には早すぎるものかもしれない。本来ならもっと時間をかけて、お互いを知ったうえで聞く話なのかもしれない。けれどこういう事態になってしまった以上、話さざるを得なくなってしまったのだろう。


 私は背筋を伸ばして、少し強めに彼の手を握りながら視線をしっかり合わせた。すると彼が嬉しそうに親指で私の手の甲を優しく撫でてくれた。


「なので今のカイズ・エリアル社長とは異母兄弟ということになる」


「異母兄弟……」


「俺は父親……荒井会長とは全く会ったことが無いんだ。小さい頃に会ったとか、そういう記憶もない。俺自身も父親だとは思っていないし、ほとんど他人と変わらない。だから君に話さなかった。今回どこからこの話が漏れたのか、俺にもわからないんだ」


 課長が深い溜息を吐きながら緩く首を振った。確かに一度も会ったことが無いのなら、それは他人と同じだ。内容が内容なだけに、口にするのも憚られただろう。けれど話が漏れたとはどういう事なんだろうか。


「話が漏れたって……」


「ああ。俺が荒井会長の息子という事を知っているのは会長と、その息子である現社長くらいなんだ。昔、大学を卒業して就職する時に、秘書の人からカイズ・エリアルに入らないかという打診は来たが、断って以来連絡はない。なのに今更どうしてこんな話が会社に漏れたのか、不思議で仕方がない。二十年前ならまだしも、今ではこんな話は醜聞にしかならないからな」


 それはそうだ。今の時代、隠し子なんていたら大きな企業の会長であれば大スキャンダルになる。

 だからこそ荒井会長側もあえて課長を自社に強く引き込もうとはしなかったのだろう。一度声をかけたのは恐らく、ささやかな親心だったのではないだろうか。


 もしかしたらある意味、課長に深く関わらない事こそが、荒井会長側からの思いやりだったのかもしれない。


 課長にとっては嬉しくないことだとしても。


 けれどそれが現社長との跡目争いに発展させないための手法だったとすればつじつまが合う。なら、きっと課長と異母兄弟である現社長も今更課長に表舞台へ出てきて欲しくはないはずだ。


 ならば一体だれが、この話を持ち出したのだろうか。


「じゃあ一体誰が……」


「悪いが俺にもわからない。ただ、君には暫く注意しておいてもらいたい」


「私、ですか?」


「ああ。俺が言うのもなんだが、カイズ・エリアルは元は三百年以上続いた荒井財閥の流れを汲んだ企業だ。古い会社なだけに恨みも多く買っている。今回の事は荒井会長のスキャンダル目当てにどこかが俺のことを調べてリークした可能性が高い……もしかすると、君にも影響があるかもしれない。……すまない」


 少し口早に続けた課長が私の前で頭を下げた。なんだかとてつもない話だ。だけどそれだけ大変な事態になったという事なんだろう。


 カイズ・エリアル社が大企業であるということは理解していても、一般庶民である私にはいまいち理解が追いきれないが。


「そ、そんな、頭を上げてください。私は別に、大丈夫ですから。私なんて完全に一般人ですし」


 それよりも普通に暮らしていた課長がそんな事態に巻き込まれていることの方が心配だった。


 彼は明日からも今まで通り過ごせるのだろうか。……難しい気がする。


 慌てる私に、課長はゆっくり顔を上げて、真剣な表情のまま口を開いた。


「専務から暫く休むように言われた。良ければ君も有休を取って、俺と一緒に過ごしてくれないか」


「え?」


 あの時呼び出されたのはその話だったのかと納得しながら、続いた課長の言葉に思わず聞き返してしまった。すると握られた手にぎゅっと力が込められたのを感じて、その手の熱さに心臓の鼓動が大きく跳ねる。


 課長はどこか必死ささえ感じる表情で、ぐっと前のめりになりながら私の目をじっと覗き込んだ。彼の瞳の中に、視線が吸い寄せられる。


「暫くの間、一緒に暮らさないか。君が……嫌でなければ」


「え、あの―――っきゃ」


 思いがけない申し出に、私の目が点になる。だけどぎゅっと握られたままの手が引っ張られたと思ったら、今度は両腕に強く抱き締められた。


「既に会社には許可を取ってある。後は君の返事だけなんだ。……頼む。こうなった以上、君と離れていたくない」


 私の休みをなぜ課長が、とか、専務にも私達の交際が伝わっているのかとか、許可取るの早い、とか色々と聞きたい事はあったけれど、私は耳元で囁かれる悲痛ともいえる必死な声に、ただ無言で頷いていた。だって課長の身体が僅かに震えていたのだ。まるで何かをひどく恐れているように。


 だから私は厚く広い背中に手を回しながら、ただ静かに了承の返事を返した。


 ブラインドから差す白い昼の光が、彼の肩口にくっきりと線を刻んでいた。

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