能面課長の手
その日一日、フロア内は本庄課長の話題でもちきりだった。
「本庄課長、カイズ・エリアル社の御曹司って本当ですか!?」
「……その質問には後で答える。始業時間だ。仕事を始めてくれ」
朝一番にその台詞が誰かから飛び出し、それを課長がさらりと流した。
質問した当人は不服げな顔をしていたけれど、元々能面と名高い課長が相手だからかぶつぶつ言いながらも指示に従っていた。
一瞬だけ、課長が私の方に視線を寄越したけれど、私は今の顔を見られたくなくてさっと視線を避けてデスクにあるパソコンに顔を向けた。
頬に刺さる視線の強さには、知らない振りをした。
だってどう反応したらいいのかわからなかったから。
課長のことだから、言わなかったのには理由があるはずだ。
だけど今はそれを聞ける状況ではない。
それに私自身、恋人についてのことを他人から聞かされてまだ混乱していた。
午前の業務中、課長は呼び出しを受けたようだった。内線を取った社員が専務からだと告げて、課長は「少し席を外す」と言ってからフロアを出た。
その時私の横を通り過ぎる瞬間にも彼の視線を感じた気がした。
課長がフロアにいなかった半時間程度の間、勿論私にも質問の雨が降った。
けれど知っているはずもないから適当に曖昧に笑って誤魔化してしまった。
途中で律子から内線が入った時は心の底から安堵した。それと兼崎さんが他の男性社員に掴まっていたのも大きな助けになった。
フロアに戻った時の課長はいつも通りの表情をしていたけれど、心なしか疲れているように見えた。
―――そしてお昼休憩になった頃、課長は何人もの社員に囲まれていた。
課長席の前に人だかりができて、垣根のような壁になっている。
「本庄課長、噂は本当ですか? カイズ・エリアルの会長のご子息というのは」
「……そうだ」
「ってことは現社長はご兄弟ってことですか! すっげえ!」
人垣にいる中の一人が歓声をあげるように口にする。それに課長は溜め息を吐きながら少し苦い顔を浮かべていた。
どうやら彼自身はその事実を快く思っていないようだった。
私は食堂に向かう準備をしながら横目でそれを見ている。早くフロアから立ち去った方がいいのはわかっていても、どうにも足が動かない。
カイズ・エリアル社はここ最近では最も大きな契約が取れた自社最大の取引相手だ。この頃ずっと会議が続いていた理由でもある。私が本庄課長に任された資料でも何度も名前を目にしていた。
カイズ・エリアル社は時代を遡れば元は三百年以上続いた大財閥の流れを汲んでいるとかで、戦後の解体で姿形は変えても、影響力企業力共に他からは群を抜いている。
その経営筋、しかも会長子息ともなれば皆が騒然とするのも仕方がないと言えた。
実際、私だって心底驚いた。
人垣に囲まれながら普段通りの無表情で言葉少なに答えている課長の姿が、なぜか私には今までとは違いずっと遠くにいるように見える。まるで周囲を取り囲む人垣が私達の間を隔てたようだった。
「やっぱり〜♪ なんか本庄課長って育ちが良さそうっていうか、他とは違う感じですもんねぇ♪」
兼崎さんの弾むような声がした。それに一瞬びくりとする。
嫌な予感がした。
「でも、いくら取引先相手のご子息だっていっても、隠さなくて良かったのに。課長も白沢さんも、人が悪いですねえ」
兼崎さんの言葉を合図に、皆の視線が一斉に私に向いた。
ざっと突き刺すような針みたいな視線が、一気に私を見る。
皆私が知っていたと思っている。一人を除いて。それがありありとわかった。
課長の様子を窺うような事なんてせずに、さっさとフロアを出ていれば良かったと思っても後の祭りだ。
「……彼女は関係ないだろう」
課長の低い声に視線を向けると、申し訳なさそうな瞳と目があった。それに私は曖昧な笑みを浮かべた。
なぜ教えてくれなかったのかという気持ちがないわけではない。だけど課長なら言わない、そういう人だという認識もあった。彼が口にしなかった理由はまだ私にそこまで信頼を置いていないからなのかもしれない。大企業の御曹司ともなれば、その位の警戒心はあってしかるべきだ。
だから、今の状況を眺めつつ思うのはああそうだったのかという衝撃を過ぎた寂しさだけだった。
足下が覚束ない感じがするのは、きっと私の心の足場が消えてしまったからだろう。
「関係あるじゃないですかぁ。だってお二人って結婚前提の交際ですよねぇ? きゃー♪ じゃあ白沢さんは未来の……」
「いい加減にしないか」
しん、とフロアが静まりかえる。
廊下から聞こえている休憩時間独特の騒がしさが、空々しく空間に響いていた。
課長は兼崎さんの声を遮ってから、そのまま席を立ち真っ直ぐ私の方に歩いてきた。
「……話がしたい。行こう」
「っえ、あの」
そう言って、課長はやや強引に私の手を取り扉の方に歩いて行く。
皆が唖然とした顔で私達を見ていた。兼崎さんは笑顔を消して、じっとこちらを見つめている。
私は咄嗟に取ったバッグを手に、課長に引き摺られるようになりながら付いていった。というより、課長が私の手を離してくれなかったからそうするしかなかった。
エレベーターに乗り込む寸前まで幾つもの人目に晒されて、とても恥ずかしかったけれど、手を掴む課長の力が強くて、何も言うことが出来なかった。




