能面課長の情熱
「……立てるか?」
「は、はい。なんとか……あっ」
立ち上がろうとしてよろめいたところをぐっと腰を掴まれ支えられた。ほっと安堵の息を吐いてから、課長の……尚人さんの顔を見て微笑む。
すると彼も同じように薄っすら笑みを浮かべてくれる。この淡い笑顔がとても好きだ。ぽっと咲いた桜のようで。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
「そうか。……会社でなければ、俺が運ぶんだが」
「はい?」
横に置いておいたファイルを手に取った私の横で、彼がぽつりとそんなことを呟く。一瞬どういう意味かと思案して、理解した途端にぼっと頬に熱が灯った。顔が紅潮していくのが止められない。
運ぶって……!?
それってもしかして、お姫様抱っこ的な? いや、でもまさか課長がそんなこと。
わ、私もそんな歳ってわけじゃないし……。ってそうじゃなくて。
若ければして欲しかったなんて流石に恥ずかしいわよっ。
ん? ちょっと待って。
どうして両手を差し出しているのかしら課長ってば。
色々と脳内で弁解していたら、課長が両手を広げて私の正面に立っていた。そのうえ彼は自分の手をじっと見てから、次に私の顔を見つめてくる。何やら言いたげな表情だった。しかも言わんとしていることがなんとなくわかってしまうから質が悪い。
大人の男性なのにまるで子供みたいな顔でじいっと凝視してくる。なんだか変な汗が噴き出そうだった。
ものすごくやってみたそうな顔をしている。無表情なのに。なぜか顔に書いてある。この矛盾はなんだろう。
私はたじろぎながら、羞恥心がぶわわっと疼くのを感じた。
「わ、私、重いですからっ」
一歩後ずさってそう言うと、課長がじーっと目を向けたまま私の頭の上から下までをまるっと眺めた。
そんな風にしても全く厭らしさを感じないのだからある意味すごい。先程のあの情熱的な口付けは一体何だったのだろうかとすら思う。淡々としている普段とスイッチが入った時とのギャップがあり過ぎるのだ。この人は。
だから私ばかり翻弄されてしまう。それが少し悔しい。
しかし当人はそんなこと全く知らない素振りで無言のまま瞬きもせず停止している。彼がゆっくり口を開いた。
「……先程も思ったが君は軽すぎる。なので気にしなくていい」
「私は気にしますっ!」
無表情で「お姫様抱っこポーズ」をしている課長にぶんぶん首を振って拒否を示す。
彼の言う先程とはきっと支えてもらった時のことを言っているんだろう。だけど支えるのと全体重をかけるのとでは大違いだ。
だから首を横に振ったのに、彼の凛々しい眉が少しだけハの字に下がってしまった。
なぜそこまでしたいのか。相手は私だというのに。
そんな顔をしても駄目なものは駄目である。二十七にもなってお姫様抱っこなんて、恥ずかし過ぎてこっちの身がもたない。
ただでさえ駆け付けてくれた課長が騎士のように見えたのに、そんなことまでされたら叫び出してしまいそうだ。
「俺は……君を抱きたい」
「腕痛めちゃうと大変ですからっ、駄目ですっ」
珍しく強引に会話を進める課長に慌てて言い重ねると、少し優しい瞳で首を緩く振られた。どうして今度は私がされているのだろうと思ったところで、怖いほど真剣な目になった課長の視線に全身をすっと貫かれる。
思わずびくりとした。
「……そっちじゃない」
え、と問い返す前に視界にふっと大きな影がかかって、けれどその怖くない影の主にファイルごと身体を抱きすくめられる。
背に回された腕が熱い。
「君を、抱きたいんだ」
「っ……」
耳朶に吹き込まれた声にお腹の底が震えた。ぞくりと肌が粟立って、官能的な気配に滲むような熱が広がる。
抱きたい、の意味を自分がはき違えていたことに気付いて、何を求められているかに気付いて、羞恥と歓喜に心が覆われた。
女として課長に求められていることが、素直に嬉しい。
「っん……!」
ちゅ、と耳たぶに口付けられて、吐息と声を漏らしながら目を瞑った。後頭部に課長の手が回って、逃がさないとばかりに顔を固定された。閉じた瞼の向こうから、課長の強い視線を感じる。
足元からぞくぞくした甘い痺れが駆け上ってきていた。
「今日、仕事が終わったら……俺の部屋に来てくれないか。君が……嫌で、なければ」
彼の低い声に導かれてゆっくり瞼を上げると、驚くほど真摯な表情の課長がいた。私はどきりと心臓が大きく跳ねるのを聞きながら、唇をきゅっと引き結んだ。嫌なわけがないと、むしろ嬉しいのだと口にするのが恥ずかしい。まるで十代の少女のように、恥じらいを感じた。
きっと今の私の顔は真っ赤だろう。それを自覚しつつ、そろりと課長を見上げて恐る恐る口を開く。
「……はい」
小さすぎる両省の返事はそれでも課長にはしっかりと届いたようで、彼はまたあのぱっと一輪桜が咲いたような微笑を見せてくれた。
そこに彼の大きな歓喜が滲むのが見えて、私はとても嬉しくなった。
「茜、行こう」
「はい」
地下倉庫を並んで歩きながら、課長と、尚人さんとしっかり手を繋ぐ。
心はむず痒いくらい恥ずかしくて、照れくさい。けれど求められていることが心の底から嬉しくて、人に恋をするというのはこんなにもふわふわと浮いたような心地だったかと、私は懐かしさのような、初めての経験のような不思議な感覚を味わっていた。
ぎゅうとしっかり私の手を握ってくれる課長の手から、彼の情熱が伝わってくる。
普段は無表情なのに、実はとても熱く激しい人だというのを知って、それを知っているのが自分だけという事実に私は酔いしれていた。
今夜、私はこの人に抱かれるのだと。
期待と喜びと、ほんの少しの心配を感じながら、私は繋いだ手を持ち上げ甲に口づけてくれる彼に微笑んだ。
―――翌日起こる出来事を、予想だにせず。




