能面課長の理由
「っ……ふ、ぁ、む」
深く、息苦しささえ感じる濃密なキスを何度も繰り返し与えられて、次第に思考が溶けてくる。
熱くなった頬は今や真っ赤になっているだろう。
なのに心はもっと欲しいと願っていた。腰に課長の腕が回っていて、逃げる隙間も無いほど私達の身体は密着している。
「可愛い……君は、可愛くて、綺麗で……っ俺の、」
「ふっ、ん、ぁ」
俺の……何?
息つく隙間なく唇を食まれ問うこともできない私の顎先を、課長が指先で掴んだ。
まるで「逃げないで」と言われているようだった。胸の昂ぶりは、もはや耳に大きく響くほどで。お腹の奥底が、きゅうと震えるように反応してしまう。甘味が熱でとろりと溶け落ちるように、身体の中心が唇から受ける熱に侵されていた。
「……っ、まずい、な。このままじゃ、君を帰せなくなる……そろそろ、送ろうか」
は、と唇を離した課長が眼鏡の奥の瞳に情欲を宿らせたまま告げた。私の中にある女の部分が、彼の提案にいやいやと首を振る。
けれど彼はそっと私を捕えていた腕を離すと、ふんわりとまた花が綻ぶような微笑を浮かべた。
ふと今日は彼の笑顔をよく見るなと思った。
外では滅多に見せてもらえないのに、やはり自分の暮らすプライベートな空間では気が緩むのだろうか。
そこに立ち入ることを許されているのがとても嬉しい。けれどその分、もう帰されるのかと思うと心がしゅんと寂しかった。
「課長、私」
勢いにまかせて口にしようとした私を、課長が人差し指で止めた。上下の唇に彼の指が触れている。身体の末端だというのに、少し熱く感じた。
光の加減だろうか。彼の眼鏡の硝子が透き通って透明になっている。そこから、課長の優しい瞳が見えた。
「……駄目だ。君にそれを言われたら、俺が止まれなくなってしまう。明日、動けなくなるのは嫌だろう……?」
「え」
急に課長の瞳の色が変わった。濃く深い夜の気配を滲ませた妖しい視線に、私の背筋がぞくりと戦慄く。
これは、今目の前にいるこの人は誰だろう? そう思わせるほど別人のような壮絶な色気を放つ彼を前に、言葉に詰まる。
駄目だわ。本当に、私こそ駄目だわ。
課長のこんな顔、見せられて。心臓が潰れそうになってるだなんて……っ!
二十七歳にもなって、視線だけで腰が砕けそうになるなどと、初心な少女でもあるまいに。
そう自分の心を叱咤するけれど、どうしてか私の視線は課長から離れてくれないし、彼の存在が目前にあるだけで心臓は騒いだまま落ち着いてくれない。
「そうだな、今日は少し遠回りをして帰ろうか。ドライブがてら」
言って課長がソファから立ち上がった。私はそれをぼうっと見つめていた。けれどはっとあることに気が付く。
「あ、あのっ」
「ん?」
振り返った課長が私を見下ろしている。室内灯を背にしているせいで、課長の顔に少し影がかかっていた。
聞くなら今だ。そう急く気持ちが後押ししてくる。それに今は自分の気持ちを落ち着けたいというのもあった。
だからずっと聞きたかった事を、この場で聞いてしまってもいいだろうか。
「どうして、私じゃないんですか」
「……何がだ?」
私の問いかけに、課長はいつも通りの能面顔で首を傾げた。これがいつもの彼の姿だとわかっていても、先程まで見せてくれた表情を恋しく感じた。私は一呼吸おいて、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めながら続けた。
「ずっと、突発の仕事は私がやっていたじゃないですか。でも、最近は兼崎さんにお願いしていますよね?」
「ああ、それは―――」
「課長の判断をとやかく言うつもりはないですが、どうして突然彼女にお願いするようになったのか、気になってたんです」
途中の課長の言葉を遮って一気に言い切った私に、彼はどこか不思議そうな顔でじっとこちらを見つめていた。
口出しをし過ぎただろうかと後悔する。しかも二人でいる時に仕事の話を持ち出すだなんて、社会人としても恋人としてもあるまじき事だったとも思う。幻滅されただろうか。だけど、どうしても聞いておきたかった。
「……カイズ・エリアル社との契約締結については?」
「知っています」
課長の言葉に頷く。
カイズ・エリアルとは今月になって取引先として繋がりが出来た大手上場企業だ。大口契約が取れたことで営業課ではその日お祭り騒ぎ状態だったのを覚えている。今現在は契約内容の詳細決定が進められており、うちの企画課では課長ともう一人主任の男性が対応に当たっていた。
「部長と先方とで今、契約内容の最終的な詰め合わせに入っている。互いの要望を都度纏めて次回に資料として準備しているが、そのついでに過去のデータも全て揃えて先方に渡している」
「はい」
返事をすると、課長がその場で足を曲げて、絨毯の上に片膝をついた。今度は私が課長を見下ろす形になる。
まるで騎士に傅かれているような感覚に、どきりと鼓動が波打つ。
課長が膝に置いている私の手の上に自分の手を重ねた。あたたかい温もりに手の甲が包まれる。
「白沢さんは地下倉庫、苦手だろう。……君に頼むのは悪いと思ったんだ。それに」
「それに?」
課長は少しだけ言い淀むと、なぜか一瞬目を逸らし瞬きを数回してから私に視線を戻した。
これはもしかして……照れている、のだろうか。
「あそこは、その、あまり良い場所とは言えないからな。他の男性社員と一緒になったりされても、困る」
「え? あ、それは……」
やや躊躇いがちに言われた台詞の意味を理解して、下からじわじわ新たな熱がこみ上げてくるのを感じながら私は焦った。
だから彼女に頼んだの?
私が心配だったから?
私が地下倉庫を苦手だから?
それと、ええともしかして、嫉妬……?
「君に、俺の目の届くところに居て欲しかったんだ」
私の手を包む課長の手にぎゅっと力が込められた。お互いの掌が熱い気がするのは、きっと気のせいじゃない。
ぶわわ、と。先程とは違う羞恥に全身が包まれる。もうなんだか叫び出したい気分だった。
な、な。何、それ……っ。
可愛すぎない……!? この人、可愛すぎるのよっ!
「公私混同だと、怒るか?」
「お、怒れるはず、ありません……っ」
気遣ってもらって、心配までしてもらって、怒れるわけがない。それどころかこんなに大きな男の人なのにとてつもなく可愛いとすら思えてしまう。本当にこの人はわかっているんだろうかとこっちが拗ねたくなるくらいだ。普段、会社じゃ何にも動じないみたいな顔をしている癖に、いちいち私をどきどきさせてくるのだから。
「そうか。ならよかった」
「は、い……」
好き。私、この人が好き。
課長、あなたが、好き。
何度も何度も心で唱えながら、私は課長の手の上に自分の手を重ねた。
けれどその瞬間、ふっと脳裏に先程見た課長とお母様の写真が浮かぶ。 あの写真について、課長は多くを語らなかったけれど、私はなんとなく、あの写真の中にこそ、課長が笑えなくなった理由が秘められている気がしていた。
そして―――きっと、私を好きになったきっかけも、そこにあるのだろうと。




