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雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~  作者: 國樹田 樹


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能面課長とデニムエプロン

「ソファに座って、休んでてくれ」


「何か手伝います」


「いや、いいんだ。俺が君に何かしたいだけだから」


「は……い」


 言われて、私はリビングの入口で思わず立ち尽くしてしまった。


 だって柔らかく笑ってそんな風に言われては、手が出しようがない。課長の笑顔の圧力は威力が強すぎる、と思いながら熱くなる頬を抑えた。


 キッチンに歩いていく課長の背中を見送り、言われた通りにリビングのソファまでふらふら歩きぽすんと座る。ソファは四人くらいは余裕で座れそうなほど大きかった。課長の身長も大きいから、それに合わせたのだろう。身体が沈み込むほど柔らかいソファは、布張りの生地もしっとりして肌触りが良かった。


 ベランダ側、大きな窓硝子からは綺麗な夜景が見えている。十二階建てのマンションの一番上だからか、眺望は良すぎるくらいだ。


 あれから、私達は課長が住むマンションそばにあるスーパーに立ち寄ってから部屋に来た。


 課長の住んでいるマンションは落ち着いた雰囲気のデザイナーズマンションだった。間接照明に照らされたモダンなガラス張りのエントランスや、デザインタイルが敷き詰められた高級感ある佇まいは、まるでホテルのように非日常感に溢れていて、入る時は少し緊張してしまったくらいだ。


 確実に、私の手が出せるレベルのマンションではないとわかる。


 こ、ここって分譲マンションよね……? しかも、かなりお高い部類の。


 これが、私が最初に抱いた感想だった。ついでに言えば、室内の広さも言わずもがなで。


 今私が座っているリビングは、私が住んでいるアパートの部屋を四つ分足したくらいある。まだ奥に部屋があるようだし、一体㎡あるのか聞くのも恐ろしい。って聞かないけど。


 き、緊張する……。


 だってこんなところに住んでると思わなかったんだものっ。


 キャリアで他社から引き抜かれる程の人だから、相応の生活はしているのだろうと思っていたけれど、それでも同じ会社にいるという意識のせいか、課長と自分の生活にそこまでグレードの違いは無いと思っていた。だけど、ここまでとは。


 なんだか次元が違うって感じだわ……あれ?


 部屋の豪華さに驚いていると、窓の片隅、室内を鏡のように映しだしている大きな窓硝子のすぐ前に、小さな青い鉢があるのに気付いた。しかも、淡く白い桜らしき花をつけている。数は五輪ほどで小さいが、見た目は立派な桜の樹に見える。あれは、盆栽だろうか。


 桜の盆栽? 初めて見たかも。


 ソファから立ち上がって近づいてみる。鉢は日中ならよく日が当たりそうな場所に置かれていた。青い鉢の大きさはちょうど私が両手で持てるくらいで、黒い土の中心にぽつんと小さな桜の樹が生えている。


 花の数は少ないものの、八重の花弁は綺麗に開いていた。確か桜は夜になっても花びらを閉じないのだと昔聞いたのを思い出す。


 課長が育ててるってことよね。この桜の盆栽を……。


 大きな体でこんなに小さな桜を愛でているのかと思うと、普段は怖くさえ見える彼の事がなんだか可愛らしく思えた。


 だけどどうして、桜なのだろうか。桜は庭に植えると家が栄えないとか、開花が一瞬のわりにすぐ散ってしまう事から、昔は縁起の悪いイメージがあったと聞いている。私も詳しくは知らないので、地に植えない鉢の盆栽なら大丈夫なのかもしれない。まあ、どちらにしろ桜には良い迷惑だろう。


 しかしどうにも課長と桜が結びつかなくて、私はその場で首を傾げながら小さな鉢を眺めていた。五輪だけ咲いた小さな桜の樹はとても可愛らしく、それでいてどこか妖しい美しさもある。私はなぜかそれに既視感を感じた。この桜と同じ空気感を、何度も感じた事があるような、そんな気がする。


 桜の白い花びらはすぐ横の窓硝子に薄く姿を映していた。まるで、水鏡で増えた二つの桜が並んでいるみたいだ。


 それを見ていて気付く。


 時折見せてくれる課長のささやかな笑顔が、この桜にどこか似ているような気がすることに。


 ああそうだわ。この桜の繊細で綺麗な佇まいは、課長が笑った時の雰囲気に似ているんだわ。


 ぽつぽつと五輪だけ花開いた、小さな桜の存在と、課長が時折見せてくれる淡い笑顔が記憶の内で重なる。


「―――白沢さん?」


「はいっ」


 そんな風に思った時、突然後ろから声をかけられた。


 咄嗟に返事をして振り向くと、課長がキッチンからひょいと顔を出していた。どうやら先程から呼ばれていたらしい。


 彼はスーツの上着を脱いだ姿で、白いシャツの袖を上腕部まで捲り、逞しい腕を晒していた。手にはお玉を持っていて、手首の内側の筋から太い腕に繋がる筋肉の形がありありと見えている。私はそれを見て思わずどきっとしてしまった。……と、いうか。


 待って。ちょっと待って。


 課長が……! エプロンしてるっ……!


 咄嗟に自分の口元を隠した。なんだか変な笑いとか声とかが出てしまいそうな気がしたからだ。


 課長は上着を脱いだだけの姿の上に、青いデニム生地のエプロンをしていた。一見すればスタイリッシュで格好良いのだけど、いかんせん相手が課長だ。表情は能面だし、眼鏡はインテリそのものだしで、アンバランスな事この上ない。まるで、大人の男性が高校生の頃の家庭科のエプロンを身に着けたような、そんな微笑ましい可愛らしさがあった。


「白沢さん……? その、もう出来るからこっちに来てくれないか」


「か、課長」


「どうした?」


 課長はお玉を手にしたまま首を傾げている。表情にほとんど感情が無いからそれがなんとも言えない感じになっていて、私はそんな姿にも胸が熱くなる思いがした。だから、つい、口を突いて出てしまったのだ。


 まあつまりその―――感想が。


「課長……エプロン姿、可愛いですっ」


「え」


 あ。と思った時にはもう、口にしてしまっていた。


 またやってしまった。という既視感を感じながら、私は小さな桜の樹の傍ではっと我に返り、そして顔から血の気が引いていくのを実感していた。


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