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雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~  作者: 國樹田 樹


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能面課長にはかなわない

「明日からもし何か言われることがあったら、必ず俺に言ってくれ」


 滑るように走る車の中で、本庄課長は前を見つめながらそう言った。彼の眼鏡に夜が迫る赤紫の景色と伸びゆく道路が映り込んでいる。


 車内にはジャズのBGMが小さく流れていて、私は音楽に混じる彼の声を端正な横顔を見ながら聞いていた。


 あれから、課長は私を家まで送ってくれると申し出てくれた。


 なので簡単にアパートの場所を伝え、今は向かっている最中だ。他愛ない会話の途中、言葉を切った彼が告げたのがこの台詞だ。


 彼はまだ私の了承なく交際を公にしてしまった事を気にしていたらしい。


「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。ちょっと揶揄われたりはするかもしれないですけど」


 軽い気持ちで返答すると、課長の眉尻が少しだけ下がった。思っていた反応と違い、あれ? と戸惑う。


 すると課長は口元を僅かに苦笑するように変えて、言いにくそうに口を開く。


「いや……俺は一応、君の上司でもあるからな。そういう意味でも、何かあるかもしれない」


「た、確かに」


 課長の言葉で、さっぱり失念していた事を思い出した。確かにそうだ。


 うちの会社は特に社内恋愛禁止などではないけれど、一般的に考えて、上司と部下に交際関係があると知れるのは色々とまずい気がする。これが結婚間近とかならまだ周囲の理解もあるだろうけど、私達は付き合い始めたばかりだ。今後どうなるかもわからない。


 そんな中で交際をオープンにしたまま同じ課で働くというのは……精神的にも結構きつい気がする。


 私は企画課の中でも事務仕事担当になっているから、企画を通してもらったりなんて事はないけれど、それでも周りの印象は違ってくるだろう。


 うちの課にいるのはわりかし良い人ばかりなので単なる懸念で終わるかもしれないが、女子社員……特に課長を狙っていた子達についてはそうもいかない気がした。


 兼崎さんとか、ある意味筆頭よね……。


 ああなんだか、明日会社に行くのがちょっと怖くなってきちゃったわ。


 社会人になり二十七歳まで働いてわかったのは、社内で最も恐ろしいのは人間の嫉妬だということ。


 女性だと恋愛面で顕著になりがちだ。勿論そんな人ばかりではないと知っているけれど、社内恋愛で恋敵同士が織りなす視線のバトルなども何度か目にしたし、修羅場的な場面に遭遇した事もある。


 端から見ている分には大変そうだな、程度の感想だったが当事者になるとあれば大問題だ。


 ああうん、なんだか今更になって実感が沸いてきた。

 明日から一体、どうなるんだろう……。


 女子トイレでの兼崎さんの言葉を思い出すと、心がずんと重たくなった。彼女がどう出てくるのか、少し不安だ。相手がいるならとさっさと次にいってくれるようなタイプなら良いけれど、そうじゃなければ……。


 自分で言うのもなんだけど、容姿も平凡で平社員な私程度なら他にも沢山いるわけだし。

 そんな私と、若い彼女なら……うーん、考えただけで沈む。


 内心の不安でつい俯く。視線を落とした膝の上で、窓から差し込む対向車のライトが過ぎていった。


「大丈夫か?」


「あ、はい。大丈夫です。もし何かあれば相談しますね」


 本当はかなり不安があったけれど、心配させないように笑顔を作って応えると、車がちょうど赤信号で停止した。


 同時に、課長が私の方に顔を向けて、互いの視線が合う。


 彼は何かを見透かしたようにふっと目元を和らげると、左手を伸ばし私の頭を優しく撫でた。頭頂部から耳元あたりまで、まるで子供にするみたいに、何度もよしよしと撫でてくる。


 唐突な彼の行動と、頭を撫でられているということに私の頬が熱くなった。なんだか恥ずかしい。


 い、今のって、褒められるようなことだった?


 二十七歳にもなって幼子のように扱われて、くすぐったいやら恥ずかしいやらで目が泳いでしまう。


「俺はやはり……君のその笑顔が好きだ。心遣いが伝わって、優しい気持ちになれる……」


 え?


 課長はそう言うと、頭を撫でていた手を降ろし、そのまま膝の上に置いていた私の手をぎゅっと握った。


それからぎこちなく、けれど穏やかにふんわりと笑う。眼鏡の奥の瞳がゆるい弧を描いて、日に浮かび上がる一輪の花のように淡く美しい微笑が現れる。


 すでに日の落ちきった夜の車内で、窓から差し込むライトに照らされた課長のその表情は、たとえようがないほど綺麗だった。


「っ……」


 彼に掴まれている手が熱くて、私の心臓がどくん、と大きく跳ねた。

 恥ずかしさに思わず目を逸らすと、くすりと小さな笑い声が聞こえた。


 ああ、この人にはかなわない、かも。


 そんな気持ちになる。


 『心遣いが伝わって』という言葉の意味は、私が彼を心配させないように浮かべた作り笑顔のことを言っているのだろう。


 私が不安に思っているのをお見通しだったらしい。


 やがて信号が青に変わると、課長は私の手を離し再び視線を前に向けてハンドルを握った。離れた大きな手につい私の目が吸い寄せられる。


「……嫌なら、断ってくれていいんだが」


 そうしたら、課長が少し真剣な口調で話し始めた。彼の手から視線を移す。


 課長は続きを躊躇うように一瞬口ごもると、何かを決断したように口を開いた。


「今日はこのまま、俺の部屋に来てくれないか」


「っえ?」


 言われて、私は思わず声を漏らしていた。そんな私を課長は横目で一瞬だけ見ると、また視線を前に戻す。


 車内に、どこか緊張した空気が漂っていた。


 部屋に? 今、部屋にって言った? 言ったわよね?


 え? これってつまり……そういう事?


 先程の課長の笑顔で高鳴っていた鼓動が激しさを増していく。こんな風に焦るような気持ちになるのは、学生以来だと思った。


「大丈夫。……今日は何もしない」


 混乱しつつ、頬にひどい熱を感じながら彼を見ていると、ちょっとだけ困ったような表情で課長が続けた。端正な彼の横顔が過ぎていく車のライトに照らされる。


 今日は、という言葉にぶわりと熱さが増した。けれど、ひとまず今回は何もするつもりは無いらしいことを声音から感じて、恥ずかしいやら少し残念に思うやらで心が混乱した。だけど課長の次の言葉に、現実に戻される。


「食事は俺が作るから、軽い気持ちで来てくれていい」


「……そういえば、前にお粥作ってくれましたよね」


 以前私が風邪をひいた時、彼が自宅にやってきてお粥を作ってくれたのを思い出した。


 それを告げると課長がどこか嬉しそうに口元を緩める。


「一人暮らしが長いからな。一通りは出来るんだ。そういった事も、君と話したい」


 いつもより少し真剣に、どこか緊張した様子の課長は念を押すように言った。先程より硬くなった口調から、彼が本心からそう言ってくれているのだとわかる。そして、私も彼のことをもっと知りたいと思った。


 課長が毎日帰る部屋だって見てみたい。そう思って、私は決心を固めてこくりと頷いた。


「わかりました。じゃあお言葉に甘えて、お邪魔します」


「……ありがとう」


 言葉の響きで課長が喜んでくれているのが伝わって、私も一緒に嬉しくなった。


 課長の事だから言葉通り今日は何もしないで私を帰してくれるのだろう。


 それはちょっと寂しい気がしないでもなかったけれど、今は彼のプライベートな部分にもっと触れられるのだと思うと、楽しみでしかなかった。


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