能面課長の嫉妬Ⅱ
人の中にはいくつもの顔があると言われている。
それはもちろん仕事の顔であったり、帰宅してから家族に見せる顔であったり、恋人だけに見せる特別な顔であったりと様々で。
だからきっと、私は今そういうものを見ているのだろうと、そんな風に思ったのだ。
「あー……っ、明日はすごい事になってそうだわ……」
車の中でがくりと項垂れる。深く溜息を吐き出せているのは、今ここに車の持ち主がいないからだ。
所有者が不在の車内は落ち着かないけれど、待っているよう言われたので仕方ない。
……課長、なんだか様子が変だった。
つい先ほど見た厳しい表情を思い浮かべる。職場ではずっと能面状態だった彼だけに、あの急激な変化には驚いてしまった。
松田さんを鋭く睨みつけていた彼の手が僅かに震えていたのにも驚いた。まるで、獣が己のテリトリーを侵す者を目にした時のような、過剰反応にも近い様子を見せていた。怒りに震える、とはまさにああいう状態を言うのだろう。
……でも、一体どうして。
明らかに、変だったわよね。
課長の反応……それに、あんな風にあからさまな態度を取る人じゃないと思ってたし……って、あ。
彼の事を思い浮かべながら顔を上げたら、フロントガラス越しに夕暮れの駐車場を真っ直ぐ歩いてくる人影が見えた。課長だ。
背の高い彼の身体は夕日に照らされて元のスーツの色がわからないほど赤く染まっている。足元に伸びる真っ黒な影が、なぜか私の心を落ち着かなくさせた。眼鏡が光を反射しているせいで瞳は見えなかったけれど、課長の口元がどこか強張っているように感じた。
「待たせて、すまない」
がちゃりと運転席のドアが開いて、課長が車に乗り込んでくる。
「い、いえ、お疲れ様でした」
私が会釈して微笑みながらそう言うと、課長は眼鏡の奥の瞳を少しだけ和らげた。笑顔には届かないぎこちない表情だった。
彼は運転席に座ると、エンジンをかけずにじっと私を見つめた。普段通りの能面顔になっているのに、夕方でなおかつ車の中だからか影が濃くかかり、そのせいでいつにも増して表情がわかりにくい。彼の感情が、窺えなかった。
「あの……っ」
話しかけようとした私の言葉を遮るように、課長がすっと片手を伸ばし私の髪に触れた。そして、頬の横に垂れているひと房を指先でするりと撫でていく。
え、あの、な、なにっ?
焦る私の前で、課長の形良い薄い唇が開く。
「君は、」
「は、い……っ?」
髪を撫でていた手が今度は頬を撫でた。目の下から顎の先までをゆっくり指先で撫でる仕草に、くすぐったさと甘さを感じて身体がびくりとする。思ってもいなかった色のある気配に背筋が震えた。彼の指が、まるで私を愛おしむように肌の上で滑る。
「君は俺とのことを伏せておきたかっただろうに……すまない」
「え?」
けれど予想だにしていなかった事を言われて面食らう。
一瞬何を言われたのか思案して、謝罪されているのだと理解する。彼は先程あの衆目の場で、交際をほのめかす態度を取ったことを詫びているのだ。
「あ、いえっ、私も困っていたのでむしろ助かったというか……っ、私の方こそ、いいのかなって思ったくらいなのでっ」
女性社員からはなんだかんだ人気のある人だし、課長という役職にもついている人だしで、どちらかといえば課長の方がデメリットが多いのではないかと思った私は逆に畏まってしまった。しかし課長は私の言葉にどこか切なそうに目を細めると、そっと掌で私の左頬を包んだ。
「あ、の?」
ほわりとした彼の温もりが、私の顔半分を覆っている。
真っ直ぐ下りてくる課長の視線がひどく悲し気で、その目の強さに私の視線が縫い留められた。
「……外に出ていて、社へ戻った時に君が誰かに呼び止められているのが見えた。最初は様子を見ていたが……話の内容に、居ても立ってもいられなくなったんだ」
「え……」
そこまで言って、課長は続きを躊躇うように言葉を切った。そして、くしゃりと顔を歪めた。
まるで泣きそうな表情だった。
「君を他の男に取られるかもしれないと思うと、自制がきかなかった。……すまない」
課長は続きを告げた後、そっと掌を私の頬から離した。私は思わず、離れた彼の手をつかみ取りそうになってしまった。
けれど課長が視線を逸らしたために、動きを止める。
「あれは……君には見せたくない姿だった。本当は、君に俺以外の男と話して欲しくない。仕事中でもそんな事ばかり考えている……俺はそんな情けない、嫉妬深い男なんだ」
視線を私に戻した課長が痛みに耐えるような表情で独白するみたいに続けた。そしてぐっと眉根を寄せたまま、膝の上で拳を握り締める。
嫉妬……あれは、あの行動は、嫉妬、したからだったの?
私を、あの人に取られるかもしれないと思ったって……。
それで思わず、あんな風に。
彼自身に行動の理由を聞かされて、呆然とすると同時に胸の奥底、身体の奥底から湧き上がる感情があった。
それは羞恥にも似ていて、だけどくすぐったくて、面映ゆさに顔を覆ってしまいたくなる。
ぶわり、と熱気にも似た熱さがこみ上げてくるのを私は感じていた。
え、えええええっ。
うれしい、んだけど、私、すごく。どうしよう。
嬉しい。この人が、嫉妬してくれたんだと思ったら、すごく……っ。
「こういう男は、嫌いだろうか?」
課長が不安そうな顔で口にする。普段はあれほど無感情な表情しか浮かべないこの人が、私にだけ感情を露わに心の不安をさらけ出しているのだと思うと、脚元がぐらぐらと揺らいだ気がした。
静かで熱烈な告白に、私の中でなんとなく集まっていた好意が、ころり、と転がり全く別のものに変わっていく感覚がした。
じわりとした熱を含んだその気持ちは、ころころと転がり、やがて―――ことん、と深い場所に落ちていく。
「い、え……嫌いじゃ、ない、です……」
むしろ、好き。
「そうか。……よかった」
私の心の声を知らずに、課長がふわりと小さな桜が一輪花開いたような、そんなささやかで温かい微笑を浮かべた。
車内を照らす夕暮れの色に染まった彼の頬は赤く、口元はよく見ないとわからないほど少しだけ口端が上がっていて。
普段のこの人の表情からは想像のつかない、淡く滲むような喜色を含んだその表情に、私の心臓はこれ以上ないほど高鳴った。
ああ、どうしよう。
私、この人を。
好きに、なってしまった———
その瞬間、私は自分が、本当の意味で恋に落ちたことを自覚した。




