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雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~  作者: 國樹田 樹


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能面課長と結婚を前提に

「……すまない」


「え」


 謝罪の言葉に、思考が一瞬停止する。


 私を見下ろす課長の眼鏡には、夜の景色と私の顔が映っている。目を凝らせば見える奥の瞳はやっぱり無表情だった。


 今の「すまない」は、一体何に対して言われたのだろう?


 私はたった今課長に好意を持っていると伝えて(勢いだったけど)年齢的にも先の事を考えてしまうと口にしたばかりだ。


 遠距離恋愛の可能性への不安だってはっきりではなくとも言ったし、伝わったと思う……なのに。


 それへの返事が「すまない」ってことはつまり、課長はそこまで考えて無かったってこと、よね?


 何それ私恥ずかし過ぎない? 


 交際=結婚なんて痛すぎるとか思われた?


 自分が口走った事への恥ずかしさに、一気に熱が上昇するのを感じて、私は思わず身体を引いた。だけど、まるで許さないとばかりになぜか逆にぐっと引き寄せられてしまう。


 おかげでまた私の身体が課長の胸にすっぽり納まってしまった。彼のスーツの襟に、私の唇が当たっている。


 なんで?

 に、逃げられないんですけどっ。それに口紅っ。

 今絶対ついちゃったわっ。


「あのっ、課長、離し……」


「最初に言うのを忘れていた。元々俺はそのつもりで、君に告白したんだ。言葉足らずで、すまない」

「はい?」


 心底申し訳無さそうな声に続く言葉を飲み込んだ。けれど抱き締められているせいで課長の顔が見えない。


 それどころか、身体に回る腕の力が強くてちょっと苦しいくらいだ。まるで必死になって縋り付かれているみたいな、そんな感覚だった。


 あれ……? なんだか課長、ちょっと震えてない?


 気のせい、じゃない。


「か、課長……?」


 密着しているせいか、私の身体にも課長の震えが伝わっている。


 今日ってそんなに寒くないわよね……?


 それにさっきまでは課長、普通にしてたのに。一体、どうしたの?


 心配になって課長の腕を手で軽く叩くと、彼の肩がびくりと揺れた。それから、ふわりと解き放つみたいに両腕を離す。


 課長は二歩ほど後ろに下がると、まるで何かに耐えるような苦し気な顔で私を見つめた。そして私の右手をそっと取ると、腰を屈めて指先に口付けてくる。


 私はその動きをまるでスローモーションのようにぼうっと眺めていた。


 指先に、彼の唇の柔らかい感触と体温が触れている。


 頭がぱんって割れそうだ。そのくらい、顔が熱い。


「え? え、え?」


「改めて言わせてくれ。白沢茜さん、結婚を前提に俺と付き合って欲しい。こういう言い方は卑怯かもしれないが、君の中に僅かでも俺への好意があるのなら、試しにでもかまわない。傍にいてくれないか」


 私の手を取ったまま、課長が恐いくらい真剣な表情で言う。心臓の音が五月蝿い。早まった脈に気付かれそうだ。


 彼の言葉の意味は理解出来ているのに、混乱しているせいか中々飲み込めなかった。


 何、今の。指先に、キスされたんだけどっ。


 課長ってこういう事する人だったの!?

 あと「試しに」って何!?


「た、試しにって……」


「俺が本社に戻る時の話は、その時の君の気持ち次第で決めてくれていい。出来れば俺は君を連れて行きたいし、君がここに残りたいというなら、俺の方が正式にこちらへ異動すればいい話だ」


「へ? いえ、あの」


 なんだかもの凄い早さで話が進んでいっている気がする。


 彼の「すまない」の理由もわかったし、二度目の告白も正直嬉しいけれど、あまりにも性急で頭がついていかない。


 それに、珍しく喋り続ける課長の表情が……なんていうか、苦しそう、というか、何かを我慢しているように見えるというか。


 今の彼を能面だなんて到底言えない。何しろ眉間に皺は寄っているし、顔は強張っているし、何より圧が凄い。


 さっきは震えていたようだったし……。

 一体課長はどうしたっていうの?


 こんな風に畳みかけるみたいに迫る人ではないと思っていたのだけど。


 それも自分が異動してくるって。いくらなんでも気が早すぎるわよ。いや、私も年齢がとか先の事が、とか言ったけど。


「あの、課長、」


「頼む。頷いてくれないか。君がさっき俺に「好き」なんて言ったから、もう色々と限界なんだ」


「は、い?」


 くん、と掴んだ指先を軽く引かれた。まるで乞うような仕草に、どくん、と大きく鼓動が跳ねる。


 いや、確かに『割と好き』とは言ったけど『割と』の部分が無かったことにされている気が……っ!


「頼む」


 内心大慌ての私の前で課長の頭が下がる。その懇願にも似た響きに、私の心がきゅうと引き絞られたようになった。


 おかげで迷っていた思考が、風船がぱんと破裂するみたいに割れて、後にはごくシンプルな思いだけが残った。


 ああ……うん。これは、駄目だ。もう降参だ。


 私の中の女の部分が、今のこの人にはかなわない、と白旗をあげていた。 


「わ、わかり、ました……!」


 そして気がつけば、了承の言葉を口にしていた。


 瞬間、右手をぱっと離されて、腰に腕を回されぐいと強く引き寄せられる。そして太い指で顎先をつかまれ、顔を上向かせられた。


 え、ちょ、キス!?


 驚く私の前に、すっと課長の顔が近づいくる。けれど唇が触れる寸前、課長の伏し目がちになっていた目がぱっと開いた。


 それは眼鏡越しにでもわかるくらいの急激な変化だった。

 彼はまるでフリーズしたみたいに動きを止めていた。


 何、今度はどうしたの。


「……すまない。しても……いいだろうか」


「え、こんな寸前で聞きます?」


 呆気に取られる私に、課長は目線をふいと逸らして言いにくそうに口を開いた。至近距離なせいか、恐る恐る開いた唇の動きがよく見える。


 今私が返事した瞬間にばっと襲いかかるみたいにキスしようとしましたよね? でも寸前でOKかどうか聞くって……何この人、天然なの?


 ええええ、と吃驚している私の本当に目と鼻の先で、課長はぼそぼそと話し出した。


「何というか……君を前にすると、俺はどうも、本能のままに行動してしまうらしい……」


「は、え、あ……」


 言葉を言い切った課長が視線を私に戻した。彼の目尻は心なしか赤くなっていて、瞳もいつもよりちょっと濡れている気がする。


 か、課長が照れてる……!!


 これのどこが能面なのよっ?


 何て顔してるのこの人……!!


 じっと強請るような視線が、言葉にしなくとも彼の望みを伝えてくる。私にキスを、したいのだと。

 ああもうほんと、どうしよう。


 この人、もしかしなくてもすごく可愛いかもしれない……!


 じわじわとお腹の底から湧き出すような、むず痒い恥ずかしさが全身を包んでくる。男性にここまでの愛おしさを感じるなんて初めてで、私は頭がくらくらした。


「しても、いいか?」


 もうほとんど唇が触れるような距離で吐息混じりに聞かれて、私はかろうじて声を絞り出した。


「は、い……っ!?」


 次の瞬間、食らいつくようなキスに、息の根を止められた。


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