能面課長と兼崎さん
―――え?
見えたその光景に、足と同時に呼吸が止まったような気がした。
久しぶりにひいた風邪も全快し、律子と話をした翌日。
普段通り出社した私は、昨日出来なかった本庄課長からの追仕事を今日は自分から引き受けに行くことにした。
理由はやっぱり、わざわざ家に来てもらったお礼というか……お粥のお礼というか、そのつもり、だったのだけど。
お昼のチャイムが鳴り、他の社員がバタバタとフロアを出ていく中、椅子から立ち上がってほんの少し緊張しながら課長のデスクへと目をやると、そこには一人の女性社員がいた。
「じゃあこれ、やっておきますね♪」
見慣れた書類の束を手に、満面の笑みを課長に向けていたのは今年の春入社した新入社員、兼崎結衣さんだった。
新人研修が終わり、今月からうちの課に配属になった女性だ。
けれど本庄課長と彼女が一緒にいるのを今初めて目にして驚いた。
特に彼女が口にした「やっておきます」という言葉にだ。
もしかして……。
なんとなく嫌な予感がしながら、どう声をかけるべきかと迷っていると、先に兼崎さんが私に気がつく。
「あ、白沢先輩っ。これからは午後の会議資料、あたしがやりますから! 新人ですし!」
「え? あ、ああ……そう、なの」
そう元気一杯に応える彼女は、新入社員らしくとても初々しい。
そして、大きな瞳で微笑む姿がとても、可愛らしかった。
兼崎さんは……すごく、可愛いのだ。女性らしい可愛らしさ、というか。
二重の瞳は大きくて、地毛らしい色素の薄い髪は肩口でふわふわと巻き毛になっていて。
若くて可愛いをそのまま形にしたような、そんな人で。
対面すると、自分がもう若くないという事実を突きつけられるほどには、彼女はとても輝いている。
少し前に、彼女と同じく配属された新入社員との顔合わせがあったけれど、兼崎さんはその甘い外見と溌溂さで、課の男性社員ほとんどの心を掴んでしまっていた。
そんな彼女がこれから、私に代わってあの仕事を―――?
どうして、と思いながら本庄課長に目を向けると、そこにはやはりいつもと同じ無表情な能面があった。
いや、よく見たら感情が乗っていたのかもしれない。
けれど今の私に、それを感じる余裕は無くて。
見えるのは、ほんのり頬を染めた兼崎さんが本庄課長に満面の笑顔を向けている光景だけだった。
「じゃあ、地下倉庫に行ってきます!」
肩でカールした髪をふわふわ揺らし、兼崎さんは勢いよくフロアを出て行く。
フロア内は既に昼休憩のためほとんどの社員が出払ってしまっていて、パタンと音を立て扉が閉まった後はしんとした部屋に私と本庄課長だけが残った。
―――かけるべき声を、失くしてしまった。
彼女がいるならもう、私は用済み?
そんな言葉が頭を過ぎる。
なぜ、ずっと嫌がっていたはずの仕事なのに、奪われたような気持ちになっているんだろう。
わかってる。こんなのはたんなる我儘だ。
仕事なんて誰がやったっていいのに。やれる人がやればいい。
私の代わりなんていくらでもいるんだから。
なのにどうして、裏切られたような気がしてしまうのか。
なんで私、ショックなんて受けてるのかしら。
普通、ラッキーだって思うところでしょう。ここは。
「……では、休憩に行ってきます」
「? ああ」
眉尻が下がっているだろう私の顔を見た本庄課長が、少しだけ驚いたような顔をした。
気のせいかもしれないけれど。
だけど私はそんな彼の表情をよく見ることなく、足早にフロアを後にした。
『貴女ねえ、余裕ぶって悩んでる暇なんて無いわよ。本庄課長がモテるの知ってるでしょ。無表情だろうが無愛想だろうが、あの容姿と肩書きよ? それに、忘れてるかもしれないけど、あの人は本社からの叩き上げ要員。そのうちあっちに帰っちゃうのよ? そしたら、すーぐ向こうの女ヒョウどもに取って食われちゃうんだから』
―――脳内で、律子の言葉がぐるぐると回っていた。




