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17.「マスター、まだいるかな」




 (つつが)なく執り行われた即位の儀を皮切りに、ローランでは国中で祝賀の宴が始まった。


 異世界から現れた新しい聖女を歓迎する、というのが便宜上の建前ではあるのだが、半端者の聖女の代替わりを喜ぶ国民の姿が街のあちこちで見られるようになった。そのせいでミーシャは人前に出ることを敬遠し、外を出歩く時もローブを目元まで被り素性を隠して影のように歩いている。


 まるで犯罪者のようだったが、新たな聖女の即位を喜ぶ国民からすれば大罪人に変わりないのかもしれない。以前なら絶対にへこたれなかった雑草魂はすっかり焼野原と化し、自尊心が粉々に砕け散ったミーシャはそんな酷い自虐に苛まれる日々を送っている。一日でも早く故郷に帰りたい、ただそれだけだった。


 即位の儀の後、正式に宮殿に居を構えたノアと顔を合わせるのが気まずくなった彼女は、離宮から逃げるように退去して根無し草になり、冬に突入したラボの研究室に毛布を敷いて寝泊まりをしている。泊りがけの研究員のためにシャワーやキッチンが完備されているのは幸いだった。田舎娘に戻った女が外で凍え死んでしまったら永遠に笑い者にされてしまう。


 見かねたハルが家に招こうとしたが、旦那に気を遣うからとやんわりと遠慮した。本音を言えば、幸せそうな二人を見てどうしようもなく苦しくなる狭量で醜い自分が嫌だった。


 帰郷に向けラボの仕事が予想外に積み重なったことも、ミーシャにとっては幸いした。今まで過剰に任されていた仕事を後任に振り分け、粗が出ないように細かいマニュアルを作って担当者に渡す。納品先への事情説明と挨拶回りで日中は潰れた。


 そして最後の大仕事として、セドリック王子と大臣たちから改めて大量のポーション作りを命じられた。ノアはやはり細かい力加減が必要なポーション作りの才能がなかったらしく、毎度爆破されるラボの被害を考慮し、その任を免除されたのだ。そのためミーシャが在任中にできる限り在庫を作っておけという命令が下された。


 最後の最後まで人使いが荒い王子と狸たちに反抗する気概ももはや持ち合わせていないミーシャは、ラボに泊まりがけなのを良いことに毎日徹夜で作業をしている。最近目眩と耳鳴りが酷いが、忙しい方が何も考えなくて済むので、却って楽だった。




 その日の夕方、連日の過労のせいで試験台に突っ伏して意識を飛ばしていたミーシャの鼻を、芳醇な珈琲の香りが擽る。薄目を開けると、運河沿いにある行きつけのカフェのロゴが表記された、持ち帰り用の紙カップが置かれていた。触るとまだ暖かい。そして毛布が肩に掛けられていることに気がついた。ハルが気遣ってくれたのだろうか。明日お礼を言わないと。


 冬の冷気で氷のように冷え切った指先を温めるカップのじんわりとした熱に浮かされたせいか、シャルルもよくこれを買ってきてくれたな、と余計なことを思い出してしまった。


 あの店のカプチーノが好きだと言ったら、火事の現場に居合わせた次の日から何かと気を利かせて買ってきてくれた。クリームたっぷり、シナモンを乗せて。ミーシャの好みのトッピングもばっちりだ。蓋がされたこのカップからもほんのりスパイスの香りがする。


 一度思い出してしまうと、堰を切ったように彼への気持ちが溢れてきた。即位の儀を終えて正式に聖女の名を冠したノアは有権者や他国への挨拶回りに忙しく、それに合わせてシャルルも多忙を極めていると聞く。王座の間で別れてからほとんど顔を合わせることができなくなったシャルルの姿を見たのは、即位の儀の当日だけだった。




 可憐な聖女の右後ろにぴったりと寄りそう黒髪の騎士。


 国民の祝福の中心にいた二人を、光の当たらない貴賓席から静かに眺めていた。


 美しい男女が手を取り合う姿に城の前へ集まった民衆は喜び、新たな時代を祝うために降らせたフラワーシャワーが舞う。


 湧き上がる歓声が人形のようにぎこちなく微笑むミーシャの鼓膜を揺らしたが、不思議なことにどこか遠くの光景のように感じた。


 ノアがすぐ後ろを振り返り、護衛騎士に何かを耳打ちして(たお)やかに微笑む。まるで物語の一ページのような美しい情景を望んでいた当初の自分があまりに愚かに思えて、その辺りからミーシャの記憶は曖昧だ。


 気がついたら離宮を引き払ってラボの研究室に身一つで佇んでいた。


 心の防衛本能とでも言うのだろうか。いっそのこと心など粉々に壊れてしまえばいいのにと自棄にもなったが、幸か不幸か、ミーシャはまだ辛うじて正気を保っている。こんな状況でさえ二人の仲が進展したのなら良かったと思えるのだから。




 恐る恐るカップに口を付ける。ぼうっと眺めている間に少し冷めてしまったカプチーノの泡が唇に触れて、不意に酒に呑まれた夜のことを思い出した。


 シャルルの言う通りなら、どうやらキスをしたらしい。内容はさっぱり覚えていないのだが、こんなことになるのなら最後の思い出として髪の毛一本の流れまで全部記憶できたらよかったのに、なんて後悔が生まれる。人生は本当にままならないことばかりだ。


「……マスター、まだいるかな」


 日没が早い冬の夕方はすっかり暗くなっている。街明かりが灯る窓の外の王都を眺めて、シナモンの香りに誘われるようにミーシャは席を立った。




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