森の中より
──物語の始まりは、深緑の木々が立ち並ぶ森の奥、一つの小屋から始まる。
その小屋の一室、雑多な小物が無造作に置かれた部屋で、机に向かう一人の女性がいた。
彼女の名はアリーシャ。
頭脳明晰、容姿端麗。その妖艶なほどの美しさは、男女問わずを虜にしてしまう事だろう。
彼女の不自然なほどに黒い髪は、本人の美しさと相まって精巧に作られた人形を彷彿とさせる。
彼女は発明を趣とし、事実数多くの発明品を創り上げてきた。
「できたぞ!」
……どうやら、新しい発明品が出来たようだ。
「……今日は何をつくったの」
そんなアリーシャに問いかける少女。
彼女の名──フィーネ。
アリーシャと比べても、勝るとも劣らない美少女だ。
優美な長い黒髪に、星空のように輝く黒い瞳は大きく、彼女のあらゆる部分が未発達な体と相まって、とても可憐な印象を受ける。
彼女は常にアリーシャと共にあり、アリーシャのことを慕っている。
「おお、助手くん! 君は実に素晴らしい瞬間に訪れるな!」
「私は助手じゃありませんっ。……それで、何が素晴らしいの?」
「これさ!」
アリーシャの差し出すその手元には、懐中時計と言えば、大概の人間が思い浮かべるであろう物体が持たれている。
しかしその懐中時計、時間を指す指針は動かず、用途不明の釦がついており、一般的なそれとは大きく異なるようだ。
「それは確か……懐中時計……?」
「なるほど素晴らしい記憶力だ──そして、極めて望ましい回答と言える!」
フィーネの回答に感嘆し意味ありげに微笑む彼女の表情は、その艶やかな外見に反して、悪戯を企む子供のようにも見える。
そんな彼女の背後、過去の発明品をフィーネが確認した。
一部の生物に起因する音や臭いを察知し、方向を特定する探知機。
一定の周波数を出力し、人間であれば必ず起こしてしまう目覚まし時計。
振動を動力として動く、蓄電機能未搭載の発電機。
その他にも多々あり、そのどれもが性能は間違いない。
しかし、一癖も二癖もあるその発明品たちは、最初の試運転以降、使われた例が無い。
「……今度は何をやらかしたの」
「君は本当に面白いことを言う。今までの私の作品で、何も起きなかったことなどあっただろうか」
「無かったから聞いてるの」
「中々手厳しいじゃないか。しかし間違ってはいない。──当然、今回のこの時を止める時計についても、当てはまる事だろう」
アリーシャの口から発せられた予想外の言葉に、フィーネはその愛らしい顔を困惑に歪める。
時間を止める……本当にそんなことができるのであれば、世の理に背くような事象だ。
そんな言葉を聞かされて、素直に納得できるべくもない。
「時間を止める……てそんなことができるの?」
「ああ、世界を制している力を制してやればいいだけのことだ」
理解に苦しむ言葉が並んでいるが、アリーシャの表情は至って真剣に見える。
フィーネが呆けてしまうのも当然だろう。
「物体が時を経るというのは言わば、その物体が力を使うと言うことだと、私は考えている」
アリーシャが意味を説くように語り出す。フィーネもとりあえずは聞き耳を立てているようだ。
「つまり、物体が動く際に使われる力、存在するだけで物体に掛かる力、また物体から発せられる力──その全てを検知し計算する」
既に考える事を放棄したくなる話だろう。フィーネも頭を抱えだしてしまった。
「その上で、その全てに対し全く正反対の力を加えてやれば、その物体の時は止まると考えた。そして、分子や原子に対しても同じ事を行えば、その空間の時を止めるに至るのではないか、とな」
おそらく語り終えたであろうアリーシャの説明は、とても理解できたものではないだろう。仮に理解したとして、実行しようなどと考えることができるだろうか。
「それを可能にしたのがこの懐中時計、という訳だな」
満足気なアリーシャに、呆れ果てたフィーネがため息を漏らす。
「なんだか分からないけど凄いことをしてるのは分かった。でも、なんのためにそんなものを──」
「まったく、君という奴は!」
アリーシャはその問いを待っていた、と言わんばかりに高揚した声を放つ。
彼女が過去に創った、摩訶不思議な発明を見てきたフィーネにとって、その非現実的な事象そのものは疑う余地もない。
その用途の方が問題視されてしまうのは、あるいは仕方がない事なのだろう。
「私は最近考えていたんだ。世界について」
機械の用途について問われた回答として、なんと荒唐無稽な返答だろうか。
遠くを見つめる彼女の黒い瞳からは、いずれの意図も感じ取る事ができない。
「我々の住むこの世界は現に存在する訳だ。それならば、此処とは異なる世界は存在しないのだろうか、と」
「あるかもしれないね」
「そうだろう? そして私は思考し、試行した──当然結論に至る事は無かった訳だが」
並行世界について論されることは、度々あるだろう。しかし、現実的に辿り着けない以上、いくら可能性を挙げたとして、それは仮定でしかない。
「そこで、私は差詰め他世界が存在するものと仮定し、考察を続けた」
アリーシャの発言にフィーネは溜息を漏らす。彼女から目を逸らしたが、自分の話に夢中なのか気付いた様子はない。
「そして、世界が複数あるとするならば、その異なった世界に行く術は無いのだろうか、と考えた」
アリーシャの問いは尤もだろう。誰しも、並行世界があるのだとすれば、一度は行ってみたい、見てみたいと思うのは不自然ではないはずだ。
「そこからはまた、思考に試行を重ねる、長い追究の日々となった……」
その日々を想起しているのか、アリーシャはまた遠い目をする。
その時間が長い事に痺れを切らしたフィーネが、諦めたように深く息を吐き出した。
「……その結果が?」
「──そう! その結果こそが、この時計! 時間を止めるということさ!」
その結論に至る経緯がまるで不明だが、アリーシャという女性の思考を理解できる者がどれほど居るのか、それは定かなことではない。彼女にとってはそうあるべきだったのだろう。
「世界の構造を考えるんだ。我々の住むこの世界の次元は四であるとされている。所謂──」
「待ってアリー! 難しいお話は無しでお願い」
「ん……そうか、残念だ」
自分の考えを伝えることも、発明家にとっての矜恃と言えるのだろう。
残念がるアリーシャの姿には思わされるところもあるが、理解できないことを延々と語られる事もまた、不幸なことに違いない。
「まあ、簡潔にまとめるのであれば、時間を止め低次元に身を置いた上で、何かしらの行動を起こす事ができたのであれば、異なる世界へと移動できるのではないか、と考えた訳だ」
この言葉の意味やアリーシャの言いたいことが理解できる者は、はたして世の中にいるのだろうか。
フィーネもただただ困惑しているようだ。
「まあ、百聞は一見にしかず。助手くんにはこれを」
「これは……?」
「まあつけてくれればいい」
黒く塗られた腕輪のようなものをフィーネに渡す。彼女も言われた通りにその腕輪を右腕につけた。
「それでは異世界への扉よ、開くがいい!」
これが合言葉となるのか、はたまたアリーシャのただの掛け声なのか、しる由もないが、あまり格好の良い言葉でないことは確かだろう。
その言葉と共にアリーシャが懐中時計の釦を押すと、彼女たちの周囲の空間が先ほどまで以上の静寂に包まれる。
アリーシャの言う通り、時間が止まったかのような空気だ。
「あ、アリーこれ──」
状況に焦るフィーネが口を開き、アリーシャに近づこうとすると、彼女はそのまま意識を失った。