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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

忘れられた子たち

作者: 夢子

カーテンが、昼下がりの色に染まった心地よい風に、ふわりと揺れている。

その人の病室はいつもそうだった。日当たりの良いこのサナトリウムでも、西向きの部屋は特に、午後になるにつれ明るさを増す。夕方になると目も開けていられない光に満たされる。その、切り取られたような窓枠の向こうを、彼はいつも瞬きすら忘れてぼうと眺めていた。

俺は、外をじっと見つめる彼の細い首筋が陽の光に眩く光るのを見ながら、そっと足を踏み入れる。

「具合はいかがですか?」

驚かせないよう優しく声をかけると、その夏川という患者は、静かにこちらに顔を向けた。

「ああ…せんせい」

頼りない声。目にも力がない。

触れた瞬間消えてしまいそうな儚い佇まいが、常に彼にはあった。

「昼食を召し上がらなかったそうですね。」

「ええ…食欲が、なくて。すみません…せっかく…」

「いいえ、体のことですし、責めに来たわけじゃないんです。ただ、そろそろ少しお腹がすいてこないかと思って。」

俺が白衣のポケットから1つ、手のひら大の包みを取り出した。夏川はその包みを、優しい手つきでそっと開く。

「あぁ…金平糖…。」

にわかにほころんだ彼の表情に、俺はそっと安堵する。

「お好きでしょう?」

「ええ…とても。」

俺がどうぞと促すと、夏川は少し恥ずかしそうにしながら、金平糖を一粒口に含んだ。こうしている時の彼は、年齢以上に幼く見える。

「おいしい…」

「ええ。私も好物なんです。」

「ほんとうですか…?では、先生もおひとつ…。」

彼が差し出す金平糖を、俺もひとつだけ口にした。優しい香りと、独特の甘さが口内を満たす。それらはひと時、安らぎを与えてくれた。

「これ、頂いても…?」

「はい。是非召し上がってください。」

その言葉に彼は喜んで、包みの口を閉めた。そうしてそれを、傍らの机の引き出しに大事そうにしまう。

「弟たちにも、食べさせたくて…。あの子達も、これが大好きなんです…。」

柔らかな表情に浮かぶ、明らかな病の色。それは、何も体の病だけではなかった。

俺は、その独り言じみた一言に、小さく唇を噛む。

夏川の弟たちは、もうこの世にいない。

半年前に、火災で焼け死んだのだ。

「そうですね…。弟さんも、きっと喜ぶ。」

「ええ。喧嘩にならないといいのですけれど。」

夏川は、このサナトリウムにいる以上肺を病んでいるのは言うまでもない。しかし、それと同等の重さで心も病んでいた。

幼い弟たちのため、必死に働いていた夏川。もともと弱い体に鞭打って、慣れない力仕事も、心労の多い客商売もやって、どうにか家族を食わしていた。

だのに、ある日彼が明け方に仕事を終えて帰ってくると、彼が弟たちと暮らす長屋はすべて、激しい炎に包まれていた。

火元は隣の部屋で、深夜寝ていた弟たちは逃げ遅れたようだった。

夏川はその時、炎の中に飛び込もうとして、止める野次馬と揉み合い、暴れ、そうして、血を吐いて倒れたのだという。

結核が、その時彼の体をどうしようもない程まで蝕んでいた。

そして、夏川は壊れてしまった。心も、体も。

「先生、弟たちは…元気にしていますか…?」

夏川は日に何度も、こう問いかける。

弟たちは、親戚の家にいることになっている。この病だから、彼も会いたいなどということはなかった。ただ何度も何度も、元気にしていますかと聞く。

「ええ。みんな早くあなたに元気になって欲しいと。」

そう言えば、夏川は満足してそれ以上聞いてこない。

なんとも単純過ぎて、それが悲しかった。二十六になる彼の心は、対してまるで子供ではないか。

夏川が、こんこんと枯れた咳を零す。たかだか数秒そうして咳き込んだだけで、彼は溺れるように喘がねばならない。肺がその働きをやめかけているのだ。

「ベッドを起こします。すこし休まれては?」

「っええ…そう、ですね…っゲホ、ゴホ…」

切れの悪い咳に眉を顰めながら、彼は素直に従った。そうしてベッドを呼吸がしやすいように少し起こしてやると、夏川は静かにそこに凭れる。

激しく起伏する胸をすこし寛げて聴診すると、壊れた肺が上げる痛々しい悲鳴が聞こえた。

「すこし疲れたせいもあるでしょうね。無理せず、ゆっくりお休みになってください。」

「はい…本当に、有り難うございます…。」

言いながらも、夏川は既に長い睫毛を伏せ、うとうととし始めていた。

「また来ます。具合が悪くなったら、呼んでくださいね。」

俺の言葉に、夏川はちいさく頷いて、そのまま目を閉じた。俺が部屋を後にするのも見届けることなく、彼はやがて細い寝息を立て始める。

寝顔はまるで、幼子のようだった。病に苛まれ、疲れきった悲しい顔。

俺はその頬を撫でようとして、やめた。

握り締めた己の手が、少しばかり震えているのが情けなかった。



夏川は、あのあと夕方からじわりじわりと熱が出始めた。結核特有の、黄昏時の微熱であったが、その日はそのまま夜になっても熱が下がらず、それどころか微熱の域を超え始めた。夏川はその熱に夕食も全て戻してしまい、咳を激しくしながらぐったりと床についた。

そうなると、俺も目を離すわけにはいかない。すべての仕事を終えると、夕食を軽く済ませ夏川の病室に向かった。

「先生、もうお帰りになったのでは?」

宿直の看護婦が、明かりを持ったまま俺に駆け寄る。

「いや、今日は泊まる。十二号室の患者は?」

俺の問いに、彼女は答えない。ただ不満げな目が、俺を見据えた。

「先生…ご心配なのは分かりますけれど、少しはお休みになってくださいまし。先生のお体だって大切なのですよ…?」

「大丈夫。無理はしない。」

「そう仰って、先日も徹夜のままお仕事なさっていたでしょう…?たしかにあの方は、」

「大丈夫、仕事に差し支えないようにするさ。俺を信じてくれ。」

そう言われると、彼女ももう何も言えなかった。何か言いたそうに唇を動かしながら、「本当に、おねがいしますよ…?」とそれだけを残し、彼女は仕事に戻っていった。

あの人を特別扱いしてしまうことに対しての負い目は確かにある。だから咎められてもあまり強く出られないのは痛い。だがその反面、俺がこのサナトリウムで数少ない医師であることが功を奏して、あのようにきつめにものを言ってくる部下もあまりいなかった。

夜のサナトリウムは、四方からの咳の音に満たされている。慣れてくれば、眠りながらの咳か、眠れぬ咳か、或いは目を覚ましてしまった咳か。大体は聞いただけでわかる。俺は見回りがてらそんな咳の中から苦しそうなものを聞き分け、様子を見に行ったりしながら夏川の病室に向かっていた。

しかし、夏川の部屋まであと数室というときに、それは聞こえた。

喉を裂くような、悲痛な叫びが、深夜の廊下に響きわたる。

間違えるはずもない。あの人の声だ。

他の患者の聴診を終えたところだった俺は、その声にはっとしてすぐに十二号室へ向かった。

扉越しからも分かる、嗚咽混じりの声。それは扉をあけた瞬間想像以上の激しさで俺の耳を貫く。

「いや、いやぁぁぁぁぁーーーーー…っ!」

ベッドから落ちたらしき夏川が、頭を掻き毟って暴れていた。昼間の弱々しい佇まいからは想像もつかないほどの、激しすぎる混乱。

「夏川さん」

俺はつとめて冷静に、やさしく声をかける。けれど彼の耳には届かない。恐怖と悲しみと怒りと苦しみと、そのどれもがない混ぜになった目は、俺の方など見向きもしない。

俺は床に倒れた夏川の肩に静かに触れて、呼びかける。

「夏川さん大丈夫。大丈夫ですよ。夢です。全部夢ですから。」

「いや、離して離して離してーーーーー…!ッゴホ、ゴほゴホ…っ、おとうと、ゼホッ、ごほンごほンゴッ…っは、おとうとがいる、もえてしまう、いや、いや…ぁぁ…!!」

「夏川さん。それは怖い夢です。熱で恐ろしい夢を見たんです。さあ、落ち着いて。」

興奮したせいで咳が激しくなってきている。見ると、床には既に数滴、血を吐いた跡があった。このままでは発作になりかねない。

「ゆめじゃない、ゆめじゃない…!!っゴふ、ゴフゴフゴフゴホ…っあの子たちの、声が…!!いや、おねがいします離して…!っうぅーーーーー…っゴホッゴホッゴッゴッゴッゴッゴッーーーーー…!!」

痙攣するような立て続けの咳に、夏川の身体が仰け反る。

まずい。そう思った瞬間には、酸欠にはくはくと震えた唇から、がぼりと血が溢れ出していた。

「駄目だ落ち着け…!ここには誰もいない…!」

「ゴボ、ゲブっ、、!っ離してぇぇ…ッガボっ、グぶ…っっ!き、聞こえ、ゴホ、きこえないのですかあの子達が、あのこたちが泣いて…ッ!!ゴッホごほごほゴぼゴボゴボガボぉっ!は、やく、たすけなくては、」

血の量が多い。このままではいずれ命に関わる。だが熱で混乱しているせいか、いつもなら落ち着くはずの夏川は尚も錯乱したまま叫びつづけていた。

「ここは病院だ…!弟たちはいない!だから、」

「はなして…ッ!!」

その時、咄嗟に肩を掴んだ俺を、どこにそんな力があったのか、彼は思い切り突き飛ばした。

運悪くそこには、ベッドの端がある。俺はその硬い鉄パイプのベッドに、頭を打ち付けてしまった。

「うっ…ぁ」

後頭部から、ぬるりとした感触がした。一瞬気が遠くなって、けれど気力で繋ぎとめた俺の視界に、窓枠に手を掛ける夏川の姿が飛び込む。

「やめろ…!!」

「ごめ、んね…」

俺ではない、遠くの空に向かって、彼はそうつぶやく。かは、と咳き込み、虚空に血が舞った。

「いま、いくから」

からりと言う音を立て、窓があく。冷たい夜風が部屋を吹き抜ける。

夏川の横顔に、悲しい笑みと、安らぎが浮かんだ気がした。

「やめろ兄さん!!」

俺は無我夢中で、彼に飛びかかり床に押し倒した。軽い体が、全く無抵抗に俺ごと倒れ込んだ。

「先生っ!!」

扉から、あの看護婦の声がする。覆いかぶさった彼の胸から、ごぽりとなにかが爆ぜる音がする。そうして俺の頬を濡らしたあたたかな紅が、俺の頭から流れたものか、彼の喉をせり上がってきたものなのかは、もうなにも、分からなかった。

俺は目の前が一気に眩しくなるのを感じながら、ただ彼の心臓が動いていることだけに安堵して、気を失っていた。



俺が脳震盪で失神していたのは、精々十五分足らずだったという。

目を覚ますと、看護婦が手を真っ赤にしながら、同じく意識を失った夏川綾一の処置を行っていた。それから程なくして、寮にいた同僚の医者が呼ばれ、俺はほかの病院に搬送された。

俺は本当に単なる脳震盪だったから、そのまま翌朝には帰されたわけだが、こんな包帯でぐるぐる巻きの医者が出勤していたら患者が驚く、と3日間の休みを申し付けられた。

あのとき、咄嗟に出てしまった言葉。もう絶対に言わないと心に決めながらも、口をついて出た言葉。


夏川綾一は、俺の実の兄だ。


あの火事のあった日、仕事を終えてようやく帰宅しようとした俺の元に、あの連絡が来たのだ。

弟たちが全員焼け死んで、兄が血を吐いて倒れ、末期の結核であったということ。

全てに打ちのめされた俺だが、一番こたえたのは、兄さんが壊れてしまったことだった。

俺は、兄さん一人だけでも生きていてくれたことが嬉しかった。可愛かった弟たちの死は俺に大きな悲しみを齎したが、それでも家族が一人でも生きていてくれたことに、誰ともなく感謝した。

なのに。

兄は、弟の死を受け入れられずに心を病んだばかりか、俺が弟であることを、忘れてしまっていた。


これは、罰だろうか。

貧乏な家でありながら、医者になりたいなどとわがままを言った罰。家族を顧みず兄にすべてを任せ切りにした罰。身体の弱い兄を働かせ、そうして、結核を彼の元に持ち込んでしまった罰。

兄の病に気づけなかった俺への、罰。


後悔は、毎夜毎夜俺を苛んだ。


三日たってようやく仕事に復帰した俺は、すぐに同僚に呼ばれた。

そうして、兄があともってふた月程度の命だろうと告げられた。

あのあと、錯乱状態になることこそなかったものの、熱が上がって一気に病状を悪化させた兄は、もはや余命幾ばくかという状態に陥っているという。

俺は、兄の病室に向かった。

兄は、ベッドを起こしたまま、酸素吸入や点滴のチューブ、そして心電図のコードに絡まるようにして、溺れるように咳入り眠っていた。たった三日しか離れていなかったのに、その体は一気に窶れたように思われた。


いっそ、あのとき死んでいればよかったのだ。

あの火事の日、三日前のあの日、俺はこの人と一緒に死んでいればよかった。

弟たちと一緒に、あの炎に包まれて死ねていたら、どんなに幸せだったであろう。

青く疲れきった顔でひっきりなしに咳き込む兄の顔を見ていると、そんな後悔ばかりが浮かぶ。

いっそ、あとふた月も苦しめるよりは、ここで、この手で逝かせてやったほうがいいのではないか。

ふとそんな考えが頭に浮かんだ。

これ以上苦しめるなど、酷でしかない。

なら、一刻も早く弟たちの元に送ってやるべきではないか。そうして、俺もその後すぐ追っていくべきではないか。

俺は、そっと兄の細い頸に、両手を這わせた。咳に仰け反る細い体に跨り、じっと愛しい兄の顔を見る。

この両手に力を込めればあっという間だ。弱った兄は、すぐに弟の元に旅立って行ける。

なのに。

「っう…うう…っ」

俺は、嗚咽と共にその手を離した。

俺にとってこの人は、たった一人残された肉親。そうして、両親亡き後俺を育ててくれた愛しい兄。

殺せなかった。

生きていて欲しいと、思ってしまった。

俺はただ我儘に、兄の生を望んでしまう。本当に兄を思うなら、死なせてやるのが一番だとわかっているのに。

俺は子供のように泣きじゃくるしかなかった。ベッドにしがみついて、兄の細い指を握り締めながら、涙するほかない。

「…せ、んせ…」

か細い、吐息のような声が、頭上から聞こえる。

目を覚ました兄が、ぼんやりと俺を見遣っていた。

ごほ、

一際強い咳に、兄が仰け反る。心電図の音が乱れ、酸素マスクの中の薄い唇から、がっと血が溢れた。

俺は、その胸をそっと摩りながら、みっともなく流れた涙を拭く。

「夏川さん。」

愛しさを込め、俺は彼をそう呼んだ。

兄とは呼ばない。

家族の資格もない俺は、もう、二度と呼んではいけないのだ。

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